中編4
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「軍手」

僕は"二つあるもの"が嫌いだ。二つでひとつのペアになっているものは片方を無くすと使い物にならないし、二つ揃っていても色や形が不揃いならどうしても気になってしまう。

割り箸なんかがその最たる例で、片方を落としてしまえば何も食べられないし、割り方が均等にならなかったらそれだけで食欲が失せてしまう。

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しかし最近気になっているのは割り箸ではなく、護岸壁に張り付いている汚い軍手だ。僕は日課として近くの河川敷をよく散歩するのだが、公園の横にある散歩道に入ると30度くらい傾斜する苔むした壁が100メートルほど続く。

その壁にはよく、軍手が張り付いている。たいていは指や手のひらの部分が折れ曲がって張り付いていて、意識して数え始めてからではあるが、左手よりも右手用のが多い気がする。

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軍手の左右がわかるのは、手のひらの側に滑り止めのゴムがついているからだ。河川敷の向かい、川を挟んだ反対側の岸には工場があり、おそらくそこの作業員のものだろう。風で飛んできたのか、それとも作業員が捨てたのか。

僕は散歩中にその軍手を発見すると、無性に嬉しい気持ちになった。壁に張り付いている軍手は決まって左右のどちらかひとつだけで、片方しかないのにも関わらずその光景は妙にしっくりときた。

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一度腑に落ちると、軍手が張り付いていない壁を物足りなく感じるようになった。もし自分が軍手の持ち主であれば、使い物にならない片方だけの軍手に苛立っているに違いない。しかし自分が持ち主でなければ、二つのものの一方が欠けているというのはなんだか趣のあるような気さえしてくる。

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自分は二つあるものが嫌いなのではなく、二つあるものの片方が欠けることで被らなければならない、不便性を嫌悪していることに気づいた。不便とはつまり非対称を意味するのだと、これまた妙に納得した。

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ある日、いつものように河川敷を散歩していると、例の壁にはやはり軍手が張り付いていた。しかしいつもと違うのは、僕以外に先客がいたことだ。60歳近くの白髪の男で、作業服姿から見るに例の工場で働いているのだろう。彼は壁に対して正面を向いて立っていて、散歩道を歩く自分から見える彼の右手には、見慣れた滑り止め付きの軍手がはめられていた。

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この時の僕は惜しい気持ちもあったが、彼の後ろを素通りすることにした。いつもなら1、2分ほどまるで美術品を鑑賞するように軍手を眺めているのだが、先客があってはそれも楽しめないように思えた。

しかし決して彼を邪険に感じたわけではない。むしろ同志に出会った気分で、快く壁の前を譲る気になった。

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ところが、彼の後ろを通り過ぎる時、僕は一瞬にして不快な気持ちに襲われた。不快、というのは目の前の男に対して極めて失礼な表現だが、それでもこの時の僕の気持ちはそれ以外で言い表せなかった。

というのも、彼は左腕を失っていた。軍手のはめられた右腕は布越しにもたくましかったが、左の袖はだらりと力なく垂れていて、僕はその非対称に違和感を覚えた。

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僕の表情は少しも繕うことなく、きっと内心を全面に見せていただろう。そして、壁に張り付いた軍手を見ていたはずの顔が突然にこちらを向いた時、僕はなぜか犯罪を犯してしまったような気持ちになって走り出した。

言いようのない罪悪感と焦燥感で胸が苦しかった。そんな僕を、彼は何も言わずに追いかけてきた。

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彼がなぜ追いかけてくるのか、この時の僕にはわからなかった。彼の走り方は左肩より下を失っているために不自然なもので、しかし驚くほどに速く僕を捕まえようとしていた。いや、彼が速いのではなく僕が遅いのかもしれない。僕の二本の足は、互いの邪魔をするようにもたついて全然前に進んでくれなかった。

彼が何も言わないことが余計に恐怖を煽った。そして彼の右手が僕の肩に触れようとした時、背後でどさりと地面を打つ音が聞こえた。

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どうやら彼は転んだようだったが、その手はすでに僕を捕まえていた。右足首をがっちりと掴む彼の腕を足蹴にして解くと、一刻も早くその場を離れようと再び走り出した。その時には片方の靴を失っていることを気に留める余裕もなかった。

自分は何から逃げているのか、どうして逃げているのか。ただ転んだ人を蹴飛ばしてまで走り続ける自分の足を、止めてしまえる勇気が僕にはなかった。

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それからというもの、僕は散歩に行くのをぴたりとやめた。あの男に会うことを恐れているというよりも、足を使う行為自体を意識的に避けていた。あの日以来、自分の足がまるで自分のものではないような気がして夜も眠れなかった。布団から出る足を誰かに掴まれそうで、僕は体を丸めてひたすらに夜が明けるまで耐えていた。

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時々、右足首を掴む軍手の感触が蘇った。滑り止めのゴムの柔らかさと冷たさを力強い握力で押し付けられるその感触は、見えない手形となっていつまでも消えなかった。

ただそれ以上に僕を苦しめたのは、男の右腕を蹴った爪先の痛みであった。怪我をしたわけではない。人を蹴ったという罪悪感が空想上の痛みとなって、僕の右足を縛り付けていた。

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僕はやっぱり、"二つあるもの"が嫌いだ。

左足はいつも通りの自分の足で、右足だけが罪悪感のために鎖で巻かれたように感じるという非対称が僕には耐え難かった。しかしその心配は1ヶ月後には別の、さらに重大な問題に上塗りされた。

僕は交通事故に遭い、右足の膝から下を失ったのだ。

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完全な左右非対称の足になって、初めて軍手の男の気持ちがわかった気がした。また、不便とは非対称なのだという以前得た自分の発見を、不幸にも身をもって体感した。

手術を終えて退院したその日、なくなったはずの右足の靴が自宅の前に転がっていた。もう履くことのないその靴を見て、あの男が見つめていたのは左手用の軍手だったことを思い出した。

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