長編31
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ミステリ怪談「タオル」

翳りつつある黄昏の空は機嫌が悪いのか、今日という一日を台無しにする突然の大雨を降らせた。

私は久しぶりの小旅行に満足し意気揚々と駅までの道を歩いていたのだが、田舎の何もない畦道の途中で雨に降られて、楽しかった旅行は別の意味で終わりを告げた。

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なんとかして最寄りのバス停の屋根に飛び込むが、その時には頭からつま先までずぶ濡れになっていた。

投げやりな気持ちでベンチに腰掛けて、今にも泣きそうになるのを堪えて手持ちの鞄を確認する。わかりきっていたことだが、折り畳み傘はいつものビジネスバッグに入れっぱなしにしてきたようだ。

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旅行鞄はもちろん、中身までも水浸しで、先程温泉で温めた体も芯から冷え切ってしまっている。天気の変わりやすい田舎の旅館を選んだ私の決断は半分は成功であり、しかしもう半分の失敗があまりにも心身に堪えたために、今回の旅行自体が散々なものであるように感じた。

海や山の幸を堪能した昨日の夕食がひどく懐かしかった。できることならあの晩に戻りたかったが、そんな都合のいいことがあるはずもない。

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それよりも、私はこれからのことを考えなければならない。はて、どうやって駅までの道を行こうか。

雨はもうしばらくは止みそうもない。駅まではまだ随分と距離があるので走っていくのは気が滅入る。しかしバスの時刻表を確認するも、今日の便はすべて出てしまっている。

それならいっそタクシーでも呼ぼうか。

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そう思ってズボンのポケットからスマホを取り出すが、防水加工をしていないそれはいくらボタンを押しても電源がついてくれない。八方塞がりとはこのことか。私は濡れた髪をぐしゃぐしゃにして、ひとり途方に暮れていた。

すると、私が歩いてきた方の道から、雨の景色の中をひとつの影がこちらに向かってくるのを発見した。

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私はその影に後光が差しているのを見た。

もちろんそれは私の気持ちを表す例えに過ぎないが、影がだんだんと近づいてきて顔立ちがはっきりと見えた時、"彼女"の後ろから本当に光が差し込んだように見えてしまった。

なんという美人。こんな田舎の薄暗い畦道にふさわしくない絶世の美女が、降り荒む雨の中を傘をさして歩いてきたのだ。

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まるで天女のような彼女は私の姿に気づくと、優しい笑みを浮かべて話しかけてきた。

「あら、びしょ濡れじゃないですか」

白のTシャツにジーパンというクールな見た目とは裏腹に可愛らしい猫撫で声で、私は背中を垢擦りタオルか何かで撫でられるような感覚を味わった。

気持ちよくもぞわっとするような感覚を与える彼女の声は、やはりこの世のものではないように思えた。

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「あいにく雨に降られてしまって」

「とりあえず、これで拭いてください」

彼女は傘を閉じて屋根の下に入ってくると、持っていたバッグからバスタオルを取り出して私に差し出した。

私はそれを受け取るのを躊躇した。

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というのもそのバスタオルは、自分が宿泊した旅館で使用されているのと同じものであった。

つまり、彼女はそれを盗んできたのだと思った。

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しかし私は、それが旅館から盗まれたものであることを危惧したわけではない。むしろそんなことはどうだってよかった。旅先の記念として何か一つでも物品を持ち帰りたくなるのは、人間の心理として当然とさえ思えた。

問題は、そのタオルが使用済みかどうかの一点である。私とて男だ。女性が「バスタオル」なんかを差し出せば、ある程度勘違いしても仕方のないように思う。

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なによりも、肩まである彼女の黒髪はしっとりと濡れているように見える。もしかしたら雨で濡れたのかもしれないが、それにしては顔の化粧は少しも乱れていない。

自分がさっきまで湯に浸かっていたように彼女もまた温泉を満喫していた可能性は十分にある。第一彼女は傘をさしているのだから、どうにも濡れ髪が雨によるものだとは思えない。

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私が最後の一手を伸ばせずにいると、彼女は例の猫撫で声で、

「風邪ひいちゃいますよ」

と無理やりにタオルを押しつけてきた。

私はそのひと言に、これまでの葛藤が消し飛ぶのを感じた。

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素直にタオルを受け取ると、それがすでに濡れているかどうかを確かめることも忘れ、まずは頭髪、続いて首や腕などの露出している肌を拭いた。

そのタオルはバスタオルというにはとても大きかったが、それはあの旅館ならではの目を見張る特徴のひとつでもあった。

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やはり彼女は盗んできたのだ。私は自分も窃盗の一端を担っている気がして自然と罪悪感が募った。また、顔を拭く時には意識せずとも布地の匂いを嗅いでしまい、別の罪悪感が襲いかかった。

しかし鼻腔をくすぐるのは微かな硫黄の匂いのほか、夏の雨の日特有の、青草のような爽やかで濃い匂いだけであった。そのタオルからは決して石鹸やシャンプーの類の香りはしなかったので、私はなぜか安心して胸を撫で下ろした。

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私があらゆる感情に揺さぶられながらタオルを濡らしている間、彼女は傍らでじっとしていた。もしかしたら自分を見ているのかもしれないと思ったが、そうではなく、彼女は屋根の向こうの雨を見ているらしかった。

雨は、一向に止む気配がなかった。

それどころか、ますます雨脚を強くしている。

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私はこれ以上の借り物をするのは申し訳ないと思いつつ、寒さとも緊張とも言えぬ震える手でタオルを畳みながら口を開いた。

「あの、もしよろしければ、スマホを貸していただけませんか」

それまで雨を見ていた彼女は、どうして?と言わんばかりに首を傾げてこちらを見てきた。

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そこで私は、駅まで行き着く手段がなく、また頼みの綱であるスマホも雨で壊れたために、タクシーを呼べないことを説明した。

「そういうことでしたら、私が直接ここに来てもらうよう依頼しますよ」

そう言って彼女はバッグから、今度はスマホを取り出し、再び傘を開くと屋根の外へと歩いていった。

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この時の私は、なぜか雨の中にひとり取り残されたような孤独感を味わっていた。それは拒絶感といってもいいかもしれない。

私は彼女がタオルを躊躇いなく差し出したように、スマホもきっと快く貸してくれるのだろうと当然のように思っていた。しかし現実の彼女はスマホを貸すどころか、誰かとの電話口を聞かれるのすら拒絶するようにわざわざ雨の中を自分から離れていった。

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彼女の中で、タオルは貸せてもスマホは貸せない明確な線引きはあるのだろうか。

いや、そもそもこのタオルは盗み物だから、初めから貸すのではなく私に与えるつもりだったのかもしれない。

そして私の懸念は的中した。

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電話を終えて再び屋根の下に戻ってきた彼女は、もうすぐタクシーが来ますから、とやはり猫撫で声でそう言った。彼女の電話での声を聞いてみたかったと思いながら、私はお礼を言って深々と頭を下げた。

それから私が言い出す間もなく、そのタオルは差し上げますからと彼女の方から答えを出した。私はそれを断る理由もなく、もう一度、今度は軽く頭を下げた。

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「タクシーが来るまで、ここにいることにします」

もし来なかったら困るでしょう、そう言って笑う彼女を、私はやはり天女だと思った。

そして私はとんでもないことに、一瞬ではあるが、天の羽衣を纏うような彼女の浴衣姿を想像した。

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この期に及んで恩人のそんな姿を思い浮かべるなんて、私はどうしようもない男だ。

下衆な妄想はせめて別れてからにしろと自分を叱りつける一方で、もうこれで彼女とお別れなのかと純粋に悲しむ気持ちもあった。

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彼女は私の隣で、先程と同じように雨を見ていた。彼女は晴れ間を待っているのではないかと思った。

雨が突然に降り出したように、雲の裂け目から突如として光の筋が降り立ち、彼女はそれに連れられて天へと昇っていく。

まるでかぐや姫のような彼女は、この地での最後の施しとして私にタオルを与えてくれたのではなかろうか。

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そんなことを考えながら、私はじっと彼女を見つめていた。ふと彼女は振り向いて、私の視線とぴったり目が合った。

その言い訳を思いつかずにあたふたしている私に、「タクシー来ましたよ」と、この時だけ猫撫で声を忘れたのか低くも高くもない声でそう言った。

私はついに彼女は、自分に愛想を尽かしたのではないかと落胆した。

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私は濡れた衣服をそのままに、未練がましくタクシーに乗り込んだ。

降り頻る雨の中で自分を見送る彼女は、心なしか嬉しそうな笑顔で、こちらに向かって手を振っていた。

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窓の外で刻々と移り変わる景色を見て、私は大きなため息をついた。

今頃になって雨は弱まり、うっすらと差し始めた陽光を見てバス停に置いてきた彼女のことを思い出す。

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駅まで一緒にどうですか、どうして彼女をそう誘えなかったのかと後悔した。幸い財布の中身までは濡れておらず、二人分の乗車代くらい払える金はあったのだ。

断られるのが怖かったことも否めない。しかしいちばんの理由としては、あの下衆な妄想が邪魔をしたといえる。

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私の下心はもしかしたら彼女にバレているかもしれない。そう思うととても、駅まで、なんて口にできなかった。

私はあの天女と違って、なんて汚い人間だろう。いくら温泉で身を清めようと、心の部分までは洗えないことがなんだかもどかしかった。

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運転手の五十代くらいの男は、びしょ濡れの私に気を留める様子もなく黙々と車を走らせた。おそらくこの辺りでは雨に降られた中年男なんて、珍しくも何ともないのだろう。

「珍しいですね」

しかし運転手の彼がそう言うので、私は自分の思考が読まれているのかと心臓が跳ねるような思いをした。

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バックミラー越しに彼の目は、自分の持っているバスタオルを見ていた。そこでやっと、どうやら彼はびしょ濡れの私ではなく、このタオルについて珍しいと言っていることに気づいた。

「雨に降られまして」

勘違いによる恥ずかしさから笑いながらそう言うと、彼は「それはあなたのタオルですか」と刺すような視線で問いかけてきた。

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…私は笑顔を揉み消して、しかし二秒ほど間を置いてから返事をした。

私はその二秒で次のようなことを瞬間的に考え、即座に「そうですよ」という返事にたどり着いたのだ。

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まず、私の第一の懸念は、そのバスタオルが紛れもなくあの旅館のものであり、運転手もおそらくそのことに気づいているだろうということであった。

そうであれば、「それはあなたのタオルですか」の意図は、私を窃盗犯として疑っているに違いない。

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それに比べて第二の懸念は単純なものである。

タクシーが到着した時の屋根の下には、私の他に彼女もいた。なのでそのタオルが私のものではなく、彼女のものかどうかを訊いているに過ぎない。

しかし、所詮それらは「懸念」なんて大それたものではなく、私の答えは「そうですよ」の一言で十分だった。

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私はタオルを彼女から確かに"もらった"のであり、そうであればたとえそのタオルが盗み物であろうと、今は私のものであることに違いないと思えた。

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ただひとつ、それ以上に気になることがあった。それは、彼女の電話口での声である。

彼女は、電話の相手に対してもあの猫撫で声なのだろうか。そして目の前の男は私の知らない彼女の一面を知っているのであろうか。

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それはもはや自分の興味本位な疑問であったが、その疑問は何一つ恩返しできずに別れることになった彼女への、情けない未練の表れでもあった。

「ラジオを聞いていたんですよ」

彼女との訣別の余韻に浸っていたい私を、運転手の彼は決して一人にはしてくれなかった。

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「ラジオ、ですか」

「はい。休憩中によく聞いているんです」

「今はつけないんですか」

沈黙が気になるなら代わりにラジオでも聞いててくれと冷たいことを考えていたが、「お客様が乗車された時にはラジオはつけないことにしてるんです」と見事に一蹴された。

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「ところで、お客様は旅行の帰りですか」

彼は不貞腐れ気味の私をよそにそう続けた。

「ええ。せっかくの旅行を雨に台無しにされたから、少し気が立っていて」

だから話しかけてくれるな。そうほのめかしたつもりだが、バックミラーに映る運転手の目は私とは対照的に朗らかに笑っていた。

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「それはお疲れのところ申し訳ございません。ここはひとつ、私にご馳走させていただけませんか」

そう言って彼は私の許可なくコンビニの駐車場へ滑り込むと、唖然とする私を置いて車外へと出ていった。

五分ほどして戻ってきた彼の手には、缶コーヒーが二本握られていた。

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「まったく勘弁してくださいよ。田舎のタクシーってのはこうも自分勝手で無責任なんですか?」

「すみません。ただお客様を元気づけたくて」

少しも悪びれる様子のない彼を見て、私は怒る気すら失せてしまった。ちゃっかり自分の分まで買いやがってと内心悪態をつきながら、差し出された缶コーヒーを引ったくるように受け取った。

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再び走り出した車内の空気は最悪であった。運転手の彼も私の態度を察してさすがに反省したのか、二言三言喋ったきり口を閉ざしてしまった。

そうなると途端に沈黙が気まずく感じて、かえって以前のように喋りかけて欲しいとさえ思った。

彼はせっかく買ったコーヒーに手をつけておらず、私だけいただくのも躊躇われ、プルタブを引く音すら立ててはいけないような気がしてそっと鞄の奥に仕舞い込んだ。

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手持ち無沙汰な私は、ふと自宅のベランダに干したままにしてきた洗濯物のことを思い出した。一泊二日の小旅行に浮かれて、干したはいいものの取り込むのを忘れて一晩が経った。

せっかく乾いたとしてもきっと雨でびしょ濡れに違いない。たとえ家に帰っても風呂に入れないと思うと、私はまるでどこにも居場所がないような孤独な気持ちになった。

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走った距離的にそろそろ駅に着くだろう、やっとこの空気から解放されると思った矢先、今頃になって運転手は、何を思ったのか再び話し始めた。

「実は、先程聞いていたラジオで、こんなことを言っていたんです。なんでも、お客様が宿泊されていたという旅館で、とある殺人事件が起きたらしいのです」

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私は目を丸くしてバックミラー越しに彼の目を見た。彼もまた、真剣な眼差しでこちらを見ていた。

「どのような事件だったんですか」

「もちろんラジオだから詳しくはわからないのですが、殺されたのは若い女性で、彼女は絞首されたらしい」

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「コウシュ、というと、首を絞められたということですか?」

「そうです。被害者は公衆浴場の湯船に浮いていて、しかし死因は溺死ではなく、首には何かで絞められた跡がついていたという」

事件について詳しくないとは、まるで嘘ではないか。私は内心でツッコミを入れつつ、引き込まれるように彼の話に耳を傾けていた。

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「それはいつ頃の話なんですか」

「驚かないでください。それが、ほんのついさっき、時間にして二時間くらい前でしょうか」

私はそれを聞いてあやうく叫びそうになった。二時間前といえば私はまだ旅館にいて、ゆっくりと温泉を楽しんでいたはずだ。

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殺されたのは女性で、男湯にはそもそも私がいたから(もっとも昼間の中途半端な時間帯だったので、浴場には私一人だった)、事件が起きたのは女湯に違いなかった。

いくら仕切りで区切られているとはいえ私の浸かっていた湯は死体の浮いていたものと同じだったのかもしれない。そう思うと、雨に降られたことで逆にさっぱりした気分になった。

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「二時間前といえば私はまだ旅館の、それも浴場にいました。しかし、事件についてはまったく知りませんでした」

「死体が発見されたのはその一時間後、つまり今から一時間前になるので、無理もないでしょう。被害者のことを思えば、早く発見されたことがせめてもの救いのように思えてなりません」

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運転手の声に悲壮感が漂う。バックミラーの目はもう私を見てはおらず、真っ直ぐに前を見据えていた。

ふと、窓外に視線を向ける。私は今回の旅行で初めてこの地を訪れ、ここの土地勘は皆無に等しいが、それでも目的地として指定したはずの駅は、とうに通り過ぎているような気がした。

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「あの、」「ところで」

私は現在地を問おうとしたが、運転手の鋭い声に制されて口を閉じた。

「もうすぐ目的地に着きますが、先程の話で何か気になったことはありませんか」

「気になったこと、といえば、犯人の動機でしょうか」

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私はその話を適当に切り上げようと即座に答えた。しかし彼は何かのスイッチが入ったように、熱を帯びた声ですらすらと話し始めた。

「たしかに、犯人はどうして被害者を殺したのか、それは誰もが気になることでしょう。私は推理小説を好んで読んでいるのですが、ミステリの醍醐味はやはり名探偵の推理と、何よりも犯人の動機にあると思います

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「しかし」

そこで彼は一息ついた。勿体ぶるような彼の話し方に、これまで忘れていた苛立ちが蘇るように感じた。

何よりも現在地が気がかりで仕方なかった。彼にはコンビニという前科があるから、どこか知らない場所に連れて行かれるのではないかと不安に駆られて落ち着かなかった。

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「私が思うに、ミステリの真の面白さは細部に隠されていると思うんです。つまり私は、犯行に使った凶器というものに心惹かれてなりません。犯人の動機というものを主人公とするならば、その動機を実現させる手段である凶器は脇役に過ぎません。しかし、優れた名探偵には優れた脇役が必要なように、いくら犯人の動機が魅力的でも殺しに使われた凶器がありきたりであれば、血みどろも密室も台無しです。

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少なくとも私は、巧妙なトリックと同じくらいに、「小道具」である凶器そのものに興味を惹かれ魅力を感じます。その点でいえば、今回の殺人事件は、動機も概ね予想がつく、種も仕掛けもあったもんじゃない、しかし凶器だけは、ああこんなものでと少しばかり感心してしまいました。

身近なもの、普段からよく使っているものでも、少し使い方を変えるだけで簡単に人を死なせてしまう。私たちは意外にも、常に死と隣り合わせの危ない世界で生きているようです」

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そこで目の前の信号は赤になり、彼はまるで一仕事終えたように缶コーヒーを開けてゆっくりと飲んだ。彼はこの瞬間のために、これまで缶コーヒーに手をつけなかったのではないかと思った。

もうとっくに駅は通り過ぎているに違いなかった。少しでも早く駅に着きたいという以前の願望は、時間はかかってもいいから無事に駅に着きたいという控えめなものに変わっていた。

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私は目の前の運転手に、何か危険な雰囲気を感じとっていた。彼はまるで事件について、すべて知っているように話すではないか。

犯人。ふとその二文字が脳裏をよぎった。もしかして彼が犯人なのか?ここまで事件について詳しいのも、それについて嬉しそうに喋ってしまうのも、彼が事件についていちばんよく知る犯人だからなのではないか。

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そしてすべてを知った私は、山奥にでも連れられて、殺されるのだろうか…。窓外の景色は移ろいでいるといえども相変わらず田園風景を抜け出せておらず、おまけに助けを呼ぼうにもスマホは壊れてしまっている。

私の体はガタガタと震え始め、少しずつ乾き始めた衣服が今度は冷や汗で濡れ始めた。

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「ところで」

彼の声に私は飛び上がる気持ちで前を見た。バックミラーの目はこちらを見て笑っている。

「お客様は、今回の事件に使われた凶器は何だと思いますか」

答えなければ、殺される。しかし、もし凶器を言い当てでもしてしまったら、それこそ逆上した彼に滅多打ちにされる…。

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この時の私は、完全に運転手の彼が事件の犯人であると決めつけていた。しかし、彼が犯人であるという決めつけは、彼のもう一つの姿を忘れさせていた。

つまり、この場において、彼は事件の推理を披露する名探偵でもあるのだ。そして後に彼は私にとって思いもよらぬ人物を、犯人として指名することになる。

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「すみません。急にこんな話をされても戸惑いますよね」

「…はい」

私が口籠もっていると、彼は陽気に笑いかけてきた。しかし今ではその笑顔は、サイコパス特有の無邪気なものに見えてますます私の恐怖を煽った。

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「…そろそろですね」

「えっ」

そろそろって、何がですか?私はいよいよ口から心臓が飛び出そうになって、いっそのことドアを開けて車外へ逃げ出してしまおうか本気で考えた。

しかし車外に出られたところで、私は全身打ち身の重傷を負うだけだ。そんな状態ではとてもじゃないが、彼から逃げることなんてできないだろう。

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「もともと信号の少ない田舎の田園地域。おまけに先程の赤信号以外で止められることもなく、予定よりも早く着いてしまいました」

私は彼の言葉を聞いて辺りをきょろきょろと見渡した。相変わらず窓外には田んぼや畑しかないように見える。

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「さて、フィナーレといたしましょうか。私はこの事件の凶器を、他でもないタオルだと考えているのです。

それも、お客様が持っているような、丈夫で分厚いバスタオル。そして私の考える犯人は、お客様、あなたなのです!」

彼は勇ましくそう言うと、後はもう車を走らせることに専念した。

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え、えー!私が犯人?そんなわけあるか!私は自分が犯人でないことを、誰よりもよく知っている。

しかし、私が彼を犯人だと決めつけていたように、彼もまた私を犯人だと信じて疑っていないようだ。

「一度しっかりと話をしてもらおうか」

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そしてようやく彼が車を止めたのは、私が依頼した最寄りの駅前ではなく、田舎の小さな交番、でもない。

田園風景の中にぽつんと建つ、ある程度厳粛な建物を構えた、町の警察署の前であった。

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私は取り調べ室の椅子に座って、放心状態で天井を見つめていた。

署内は事件の進展に狂乱するかの如く大いに忙しそうに見え、この部屋には私の他に誰もいない。

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今なら脱走できるのかもしれないが、今の私にはそんな気力も体力もなかった。

刑事たちもそれをわかっているのか、それとも私という人間を舐め切っているのか、かれこれ三十分ほど、私はひとりぼっちであった。

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ふと、バス停の屋根の下で電話のために、彼女が遠ざかった時の疎外感を思い出した。これからの私は彼女だけでなく、友人にも、家族にも、社会からも疎外される人生を送らなければならない。

たとえ冤罪でも、私は前科持ちということになるのだろうか。あるいはこのまま真実が暴かなれなければ、犯罪者として刑務所送りになるのだろうか。

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私の頭には、二つの顔が思い浮かんだ。私をこのような目に合わせるきっかけとなった、二人の顔である。

一人はもちろん、私を署まで送りつけたタクシー男である。車が止まって彼が自動でドアを開けた時、私はようやく抵抗を試みた。

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今は刑事に没収されてしまったあのバスタオルは、私のものであり、私のものではない。彼にそのことを説得したかったが、「それは貴方のタオルですか」に「そうですよ」と答えたのがいけなかった。

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そしてもう一人は、そのタオルを私に「押しつけた」通りすがりの彼女である。

私はこの女こそが事件の犯人ではないかと思っていた。

美しい薔薇には棘があるように、彼女の裏の顔は身の毛もよだつ殺人犯だったのだ。

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今思えば、私がタクシーに乗るまで彼女がバス停から離れなかったのは、私がタオルを持って行くのを見届けるためではなかったか。

また、彼女は屋根の下で散々雨を見ていたが、それも雨が止んで私が歩いて帰ると言い出すのを気にしていたからだろう。

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彼女は、何としても凶器であるバスタオルを私に持たせておきたかった。そして彼女はタクシーを呼ぶといったあの電話で、実は私が事件の容疑者であるかもしれないと嘘の告げ口をしていたのだ。

そうであれば、タクシー男があんなにも事件に詳しかったことも納得できる。彼は真犯人である彼女から、事件の詳細を聞かされていたのだから。

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私は今になって悔しくてたまらなかった。彼女のことを天女だと思っていた自分が恥ずかしかった。

そして彼女にまんまと騙されたタクシー男を、自分を棚に上げて馬鹿な奴だと殴りつけたい気持ちになった。

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もし奴が目の前にいたら、私は人生のすべてを懸けて殴りかかっているかもしれない。

歯軋りしながらそんなことを考えていると、静かだった部屋の扉が勢いよく開いた。

「どうだ。取り調べなんてつまらんだろう」

私は扉から覗く顔を見て、あっと声を上げてしまった。

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それはたったいま心底憎んでいた、あのタクシー男だったのだ。

「どうしておまえ…あなたがここに…?」

「失礼なことを言うんじゃない!」

私の言葉を遮るように、扉の向こうからもう一人の男が出てきて叫んだ。

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彼はタクシー男が私を署に引き渡した時の受取役だった刑事の男であり、私を取り調べ室に放置した張本人である。

「この方は今でこそ引退されたが、数々の難事件を頭と足で解決されてきた伝説の刑事(デカ)なんだぞ!」

伝説のデカ。羨望の眼差しを向ける若い刑事の言葉に、私は呆気に取られていた。

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「すまんな、こんなマネをして。ただ、真犯人はもう捕まえた。つまらない取り調べも、"お客様"には必要ありません」

タクシー運転手の格好でおどけて言う彼が、昔は刑事、それもかなり有名な腕の立つデカだったとは信じられなかった。

しかし、そんなことより、真犯人を捕まえたとは本当か⁉︎

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たしかに私は放置されただけで取り調べすらまだ受けていなかったが、それも初めから犯人は私ではないとわかっていての作戦なのか。

私は自分の置かれている状況を把握するのに精一杯で、事件の真相なんてどうでもよかった。ただ真っ先に思い浮かんだのは自分に前科がつくのかということだった。

「はっはっは!つくわけないだろ!」

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私はタクシー男に訊いたつもりだったが、取り巻きの男が笑いながら答えた。私はその答えに安心する一方、散々弄ばれたと思うとやはり腹立たしかった。

しかしいちばん憤りを感じているのは、殺された被害者に他ならない。私は目の前で笑う二人の男を、薄情者だと心の隅で軽蔑した。

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その数十分後、あっさりと捕まった真犯人は、私のいる署に連行された。私はちらりとその姿を見る機会があったが、一目見たその姿に仰天した。

犯人はあの天女で間違いなかった。

しかし、「彼女」の正体は「彼」だったのだ。

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美しいと思っていた麗しい髪の面影はなく、すでに刑務所に入っているかのような短髪の男はこちらを睨んで、私の部屋の前を通り過ぎていった。

彼がバス停で出会った彼女だと分かったのは、その服装と、すでに押収したのか傍らに連れ立つ警察官が、しっとりと濡れた黒髪のウィッグを持っていたからだ。

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しかし、何よりも私を驚かせたのは、彼は昨晩湯船でたまたま意気投合し、その後同じ部屋で酒まで飲んだ、私にとって面識のある男だったことである。

一緒に海の幸山の幸を堪能し、取り止めもない話で大いに盛り上がった陽気な男が、私が別れを惜しんだ天女であり、私に罪をなすりつけようとしたずる賢い殺人犯の正体であった。

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「犯人の彼は車の中であらかたの自白をしてくれたみたいだ。私はそろそろ仕事に戻るとしようか」

後は頼んだぞ。運転手姿の男はそう言って、若い刑事の肩を叩いた。

彼は尊敬する人に頼られた感動から目と顔を赤くして、部屋中に響き渡る大きな返事をした。

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それを見たタクシー男は穏やかな笑顔を見せた。

これからどんどん忙しくからね。そう言って車のキーを指でくるくると回しながら、軽快な足取りで去っていった。

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…ここからは後日談である。

手柄を立てたタクシー運転手、もとい元敏腕刑事のその男は、後にこう語った。

「この殺人事件の真犯人が乗車した彼ではなく電話の主だと悟った第一の理由は、電話口の声に明らかに違和感があったからだよ。

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"彼"の猫撫で声は、こう言う言い方は変だが精彩を欠いていた。雨の音の中で聞けばたしかに女の声に聞こえるかもしれないが、電話口でのその声は明らかに不自然なものだった。

また、彼はこれからタクシーに乗る男が事件の容疑者であると訴えつつ、その根拠を何も示さなかった。私がそれとなく訊いても、犯人が近くにいて脅されている、だから早く来てほしいと耳を貸さなかった。

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もし犯人が近くにいるなら、そもそもこのような電話はできないはずである。また、ここまであからさまに助けを呼ぶ電話をかけてしまえるなら、タクシー会社にではなく警察に電話するのが当然であろう。

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しかし、それらは建前で、電話の男が真犯人であるとした本当の理由は他にあった。

私が依頼されたバス停にたどり着いた時、屋根の下の女装の彼に、黒髪をした女の幽霊がしがみついているのを見てしまったのだ。

彼が身につけているウィッグとは別の、濡れた黒髪が肩から腹にかけて垂れ下がっていた。

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引退するまでの四十年間、刑事として多くの死に触れてきたが、自分に霊感なんてものがあることをこの時まで知らなかった。私は女装の彼が犯人であると確信し、そいつが駅にたどり着いてしまう前に警察に電話をかけた。

コンビニで缶コーヒーを買うという名目で、私は乗客の彼に見えないところでスマホを取り出した。

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今から警察署にある男を連れて行くこと。しかし、絞首殺人の真犯人は彼ではなく、バス停から駅に向かって歩いている「男」であること。だからその男を捕まえて欲しいことを端的に説明して車に戻った。

彼が駅に向かって歩くことは確信していた。旅館から駅までは田んぼばかりの一本道で、犯行現場である旅館に向かって戻るとは考えにくかった。

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そして私の言葉を信用した警察は、畦道の真ん中で傘もささずに歩く男の姿を発見した。

この時すでに彼は署に連れられた時と同じ男の姿をしていて、わざと雨に降られていたのは顔の化粧を落とすためであった。

もっとも途中で雨は止み、中途半端に化粧の流れた顔はひどいものだったが。

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Tシャツにジーパンという格好のためか、ウィッグと化粧さえなくせば元の「美人」の面影もなかった。持っていたバックは防水性で、彼は駅に着いてからトイレで着替えようと考えていたみたいだが、その前に警察に見つかってびしょ濡れの状態で連行された。

警察官は誰一人として彼にタオルを与えなかった。そりゃそうだ。彼が殺しに使った凶器はタオルなんだから。

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…これはその後の話なんだが、あの時の電話口の声の違和感は、彼の演技もさることながら、彼にしがみついていた幽霊の声も混ざっていたからなのではという思いつきがどうしても頭を離れなかった。そこで私は昔馴染みの警察に協力を依頼して、スマホの着信履歴からその時の音声を再生してみることにした。

その音声には、やはり二つの声が混ざっていることを発見した。さらに、彼の猫撫で声ではないもう一つの声は、ある言葉を繰り返していることに気づいた。

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カレガコロシタ、カレガコロシタ、カレガコロシタ、カレガコロシタ、カレガコロシタ、…

私は彼にしがみつく幽霊の姿とこの時の声を思い出して、雨の日の勤務が少しだけ億劫になってしまったよ。

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もっともタクシーが忙しいのも、殺人事件が起きやすいのも、他でもない、雨の日なんだけどね」

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場面を現在に戻そう。

私は取り調べ室にいた。目の前の若い刑事は、タクシー男に肩を叩かれたのがよほど嬉しかったのかご満悦な笑顔で、私の巻き込まれた事件の概要を別に知りたくもないのに張り切って聞かせてくれた。

以下、彼が話した内容を私なりにまとめたものである。

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今回の事件の犯人をA(仮名)とする。事の発端は、彼のちょっとした出来心であった。

旅の恥はかき捨てというように、知らない土地ではつい羽目を外してしまう人も少なくない。どんなに恥ずかしい事をしてもその場限りであるという気持ちが、普段のAには考えつかないある作戦を立てさせた。

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彼は、大の大人であるにもかかわらず女湯を覗こうとしたのだ。

いや、覗くなんてものでは満足せず、自らが女性の姿となって仕切りの向こう側へ行こうと考えた。

彼は女装には自信があった。化粧で目元を柔らかくしウィッグを被れば、細身で色白な彼はたちまち誰もが目を見張る美人へと変貌した。

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また、彼はこの日のために裏声も練習した。女湯で万が一話しかけられた時のために、普段の低い声を悟られないよう女性のものに聞こえる猫撫で声を習得した。

いわば彼は用意周到にこの日の覗きの準備をしていた。久しぶりの旅に傘も持って来ず、おまけに家には干しっぱなしの洗濯物というズボラな私とは大違いである。

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しかし用意周到な彼にも誤算があった。それも二つあり、どちらも後に彼を殺人者にたらしめる致命的なものであった。

つまり、彼はその誤算によって自分が男であることを周りにバレてしまい、己の恥と罪を包み隠すために、目撃者である被害者を殺すことになった。

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まずひとつに、彼の用意したタオルの色があった。

実はこの旅館では、バスタオルの色を男湯と女湯で別々に用意していた。

ちなみにタオルは各自に支給されるのではなく、誰でも使えるよう脱衣所の棚に積んであった。

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それならなぜ彼は女湯のタオルを使わなかったのか。

それは、彼は女湯の脱衣所ですぐに裸を隠せるように、あらかじめ男湯からバスタオルを持ってきていたから。というよりも、この時の彼はゆったりとしたワンピースを着ていて、その下の体には前もってバスタオルを巻いていた。

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この旅館のバスタオルは特徴的で、全身を覆い隠せるほどの大きなものだった。当然彼はそのことを調べていて、だからこそこの旅館を作戦決行の舞台としたのだ。

ただ、タオルの色が男湯と女湯で違っていることには気づかなかった。そのぬかりは彼の人生を大きく変える落とし穴となるが、落とし穴とは落ちて初めて気づくものである。

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彼は完成度の高い女装のために問題なく女湯に忍び込むと、一応周りを気にして、着ていた服を脱いだ。昼間の中途半端な時間帯のためか、彼の他には一人しか客はおらず、それでも彼はすでに満足していた。

女の人の裸というより、女湯の雰囲気そのものを実感してみたかった彼は、たとえ誰一人として浴場にいなかったとしてもそれでよかった。むしろ誰もいないからこそ、正体を悟られる心配もなく伸び伸びと女湯を堪能できると考えていた。

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しかし、そこには一人の女性がいた。そして彼はそのたった一人の女性に正体を暴かれ、天国から一転、地獄へと落ちた。

彼女は勇気のある人だった。しかし、彼に話しかけなければ殺されなかったかもしれないと思うと、彼女の勇気はかえって仇となったといえよう。

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彼の正体を暴いたとはいいつつ、彼女がしたことはただタオルの色を指摘しただけであった。女湯のタオルは薄いピンク色のはずなのに、ウィッグを被った彼の巻いていたのは、本来男湯に置いてある水色のタオルだった。

旅館のタオルは使い古されていて、よほど注視しなければぱっと見の色の違いはわからなかった。しかし、人が少ないことがいけなかった。その場に居合わせた女性客は、嫌でももう一人の客である彼のことを意識しなければならなかった。

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…ここで私と彼の話になるが、私たちが意気投合したのもその前の夜に浴場で顔を合わせたからだった。裸の付き合いは人と人との距離を容易に縮めるもので、その時も、普段は人見知りな私の方から彼に話しかけたくらいだった。

彼女についても、居合わせた彼を男だとは思っておらず、ただ話がしたかっただけなのかもしれない。旅先での出会いや思い出を求めていたのかもしれない。そしてたまたま気づいたタオルの色を、話のきっかけとして持ち出したに過ぎないのかもしれない。

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理由はともかく、彼女はバスチェアに座っている彼に話しかけた。しかし、話しかけられた彼の方は、一瞬で顔を真っ青にして狼狽えた。

彼は自分が男であることがバレたのだと思い込み、それでもまだ挽回できるかもしれない、そんな一縷の希望を裏声に託した。タオルの色の言い訳をしようと口を開くが、しかし思うように声が出ない。

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これもまた私との話になるが、私と彼は初めて顔を合わせたとは思えないくらいに気が合った。よそよそしい世間話から次第に仕事や恋愛の話になり、挙句の果てには性癖なんかについて、部屋に戻って酒を飲みながら延々と話した。

酒を飲むと無口になる私とは逆に、彼は酔えば酔うほど陽気になった。加えて話題が話題なだけに真面目に話すのも馬鹿らしく、彼の声はますます大きくなり、朝方にはガラガラになっていた。

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つまり、彼は私との会話によって、声を枯らしてしまったのだ。そして、それこそが、彼を殺人に走らせた第二の誤算であった。

彼は翌日に決行を考えていた覗きに緊張していたのか、普段以上に羽目を外して私と盛り上がりすぎた。その結果、せっかく習得した猫撫で声は、いざという時に不発に終わった。

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女湯で話しかけられた時も、堂々としていれば元からそのような声の人だと思われたかもしれない。しかし彼はうまく声が出ないことに、明らかに動揺してしまった。

丹念に練習を積んだことも今となっては逆効果だった。あれだけ練習したのに、という自負が、かえって彼を追い詰め、焦らせた。

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うまく猫撫で声が出せず、おまけに不自然な挙動を見せるAに対して、彼女もさすがに怪しいと思い始めた。そんな彼女の刺すような視線に耐えられず、Aは逃げようと思い立ち上がった。

しかし心の焦りは体に直接影響を与えた。彼は濡れたタイルに足を滑らせて転んでしまったのだ。そして不幸なことに、その拍子に被っていたウィッグが落ちて、彼は自分が男であることが完全にバレたと思い込んだ。

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私がバス停の屋根の下で天女の髪が濡れていることに気づいたのも、雨に降られたからではなくウィッグを濡れた床に落としたからであった。

正真正銘の女性である彼女は、しかし、そのような状況に置かれてなお狼狽えなかった。女装した彼の顔は化粧で綺麗なままだったし、ウィッグにしても何か事情があってのことだと思ったのかもしれない。もちろん彼女は死んでいるため、あくまで落ち着きを取り戻した後のAの主観に過ぎないが、この時の彼女はまだAが男であるとは、完全には思っていなかったようだ。

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もしそうであれば、彼女はどこまでも"出来た"人であった。Aは、そんな人を、自分の恥と罪を包み隠すためだけに殺した。

彼は自分の体を覆っていたタオルを取ると、彼女はようやく目の前の者が男であることを悟った顔をした。彼は呆気にとられている彼女の首にタオルを巻きつけ、気が動転したためか何度も執拗に締めつけた。

そして意識を失った彼女を、溺死に見せかけるために浴槽へと浮かべた。

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後の彼の供述は、極めて幼稚なものであった。

タオルなら縄などと違って首に絞首跡が残らず、溺死に見せかけることができると思ったこと。はじめから溺死にしなかったのはすぐに逃げられるように体を濡らしたくなかったから。

もともとAはシャワーを浴びておらず、ただ足のペディキュアを落とすフリをしてバスチェアに座っていた。

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彼はある程度女湯の雰囲気を楽しめたら、湯に浸かることもせずにそそくさと退散しようと考えていた。しかし予期せぬ殺人を犯してしまい、一刻も早くこの場を立ち去らなければいけないと思うと頭が真っ白になった。彼は男湯のタオルが女湯にあるのも不自然だと考え、凶器のタオルをとりあえず持って浴場を後にした。

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事前の調査でこの日は夕方から雨が降ることを知っていたAは、それに乗じて私にタオルを押しつけることに成功した。

ちなみに本来の彼の作戦では、雨はもっと早く、彼が女湯にいる時にはすでに降っている算段だった。

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雨が降ることで外の気温が下がり、内と外の気温差になって浴場内に湯気が立ち込めることで、いっそう自分の女装を見破られる危険を回避しようと考えていたが、その雨は思わぬ形で役立った。

もちろんすべてがバレて捕まった今となっては、何の意味もなさなかったが。

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「長々とこんな話を聞かされてたまったものじゃないだろう」私に向かって刑事は自虐的に笑いかけた。

しかし最後に彼が話してくれたのは、私にとって耳の痛い内容だった。

それはAが前々から計画していた覗きに、確固たる実行の決意をさせたきっかけについてである。なんでも彼は前日の晩酌中、私との会話の中でそのきっかけを得たと自白したらしい。

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Aの言葉「俺は彼(私のこと)と一晩語り明かして、ああ、俺と同じ考えの奴がいたんだと、なぜか勇気をもらえたんだ。そして俺は自分の計画を実行することで、彼のような同志に対して、いつの日か自分の武勇伝を語る日がとても楽しみに思えたんだ」

私は昨晩、いったいAとどのような話をしていたのか。ひたすら無口に徹していた私はほとんど寝ぼけていて、彼との会話の内容をまったく覚えていなかった。

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ただ、気持ちいいくらいに未来的な話を、時間も忘れて語り合えたという楽しい感情だけが、あの夜の思い出として私の胸には残っていた。

その時はそれが今回の旅のいちばんの思い出になると、私は信じて疑っていなかった。

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話終えた若い刑事は、今にも顔から火が出そうな私を見てまた笑った。旅の恥はかき捨てとはいうが、どんな恥も人前に晒されてはたまったものでない。

私はなぜAの声を見破れなかったのか、募る後悔は山ほどあったが、いちばんの望みはできることなら昨日の晩に戻り、彼を説得してやりたかった。なにより、被害者である女性が不憫でならなかった。私との会話でAに覗きの決意をさせてしまったのなら、彼女の死の一端は自分の責任であるような気がした。

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しかし私の思考を瞬時に支配したのは実はそのような反省よりも、微かな硫黄、それから青草のような雨の匂いであった。

それは、雨に降られた私を慰めてくれた、あの時のタオルの匂いである。

まさかあのタオル、彼の…。

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私は天の羽衣の下に隠された男の体を想像して、思わず顔を歪めた。そして私に与えられたタオルは、罪のない人間を絞め殺した凶器であり、それ以前に彼の裸体を覆っていた穢れた布切れなのかもしれない…。

人が殺されているのに、こんなことを考えてしまう私は、何という奴だ。自分がいよいよどうしようもない下衆な男に見え、殺人犯の彼と私には、これといった違いなんてないようにさえ思えた。

しかし、本当に、違いなんてないのだと思った。

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若い刑事は枯れることを知らない大声から一転、声を潜めてこう言った。

「ここだけの話、こういう奴にはなりたくないよな」

私は、なぜか目の前の男に憤りを感じた。私はこの事件で、人は誰でも簡単に殺人犯になり得ることを知り、自分は絶対にそうはならないと豪語してしまう刑事のことを、それこそ殺人を犯したAよりも恐ろしい人間であるように思ってしまった。

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私はAと意気投合した自分のことを、正当化したいだけなのかもしれない。しかし、殺意というものは時には性欲と同じくらいに身近なものだという発見を、内心馬鹿らしく思いながら、どうしても簡単に諦めることができなかった。

殺意は、何も旅先のような非日常でなくても、日常のふとした瞬間に、自分の意図しない形で飛び出してしまう。

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「身近なもの、普段からよく使っているものでも、少し使い方を変えるだけで簡単に人を死なせてしまう。私たちは意外にも、常に死と隣り合わせの危ない世界で生きているようです」

あの時のタクシー男の言葉が、今となってようやく腑に落ちたような気がした。

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もともと真犯人の目星がついていた上に彼があっけなく捕まったことで、私は数時間後には釈放された。

警察署を出る頃には雨雲はすっかり消えていて、満点の星空が無実の罪人である私を迎えた。

見上げる空の一角では曇りのない満月が輝いていて、逮捕された彼は月に帰れずお仕置きか、なんて、面白くもない冗談を思いついて私は虚しく苦笑いした。

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駅までの道中、後ろから走って来た車に水溜りを引っ掛けられ、唖然とする私はその車が空車のタクシーであることも、空には流れ星が走っていることにも気づかなかった。

やっと乾いてきた服も元通りのびしょ濡れで、拭くものを求めて泣きそうになりながら鞄を探るが、傘すら忘れてきた私はタオルなんて持ってくるはずもなく、例のバスタオルさえ署に没収されていることに気づいた。

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代わりに鞄から出てきたのは、運転手にもらった冷えた缶コーヒーだけである。プルタブを引いて少し口に含むと、体に染み渡る苦みが妙に心地よかった。

ちょっとした旅行のつもりが、まさかこんな事件に巻き込まれるとは。散々な小旅行の思い出は、いつの日か苦い缶コーヒーの味とともに思い出すことになるだろう。

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私は空になった旅の「小道具」をいつまでも捨てられないまま、雨上がりの夜を一人寂しく歩いた。

ふとベランダに干したままの洗濯物のことを思い出した。たとえ干していたタオルが乾いていたとしても、少なくとも今晩、風呂に入るのはよそうと思った。

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