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中編7
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「マイカー」

社会人一年目。これまでの常識が通用しない社会の厳しさに心打ち砕かれ、新人にも容赦のない繁忙期の激務に耐え抜いた末に、ようやく手に入れた念願のマイカー。

憧れのスポーツカー、ではなく、誰でも乗っているようなありきたりな軽自動車だけど、自分で選んだ車種や色、そしてこの一年身を粉にして働いた実感が、目の前の車を特別なものに見せていた。

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僕は納車日の翌日、いや、納車したその日から心ゆくままにドライブを楽しんだ。

まだ誰も握っていないハンドルが、踏んでいないアクセルとブレーキが、埃一つ付いてないシートが、ピカピカのバックミラーと透き通るような窓ガラスが、この車体を構成するすべての要素が、まるで我が子のようにたまらなく愛おしかった。

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また、統率のとれたその車体が自分の意思のままに動いてくれることに、はじめて人体の精密さを発見した時と同じ感動を覚えた。

それからの休日は海に山に、目的地も決めずひたすらに駆け巡った。僕の人生はマイカーによってさらに鮮やかに色づいた。NO CAR , NO LIFE. カー無しは、悲しい。

自動車は疑いようなく、僕の人生の重要な一部であった。

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ある休日、僕はいつものように夜のドライブを楽しんでいた。昼間とは違う黒色の風景は、まるでプラネタリウムの中をジェットコースターで駆け抜けているような気分にさせてくれた。

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赤信号ひとつとっても幻想的で、それが青に変わる瞬間はなぜかいつも緊張してしまう。僕の住んでいるアパートは比較的都会にあり、明かりで溢れる夜の街並みは、郊外にある薄暗い閑静な住宅街への憧れを抱かせた。

だから夜のドライブは、決まって長丁場になる。僕はカーナビなんて使わずに、できる限り明かりの少ない方角を目指して車を走らせた。

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そしてこの日、当てずっぽうにたどり着いたのは、周りに人気のない木々ばかりの僻地に、忘れられたように佇む公園の駐車場であった。

走行中、偶然窓外から見えたその公園に決して魅力を感じたわけではない。ただ、トイレがしたくなっただけだ。

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僕は車を停めると、ドライブに夢中で爆発寸前になるまで気づけなかった膀胱を労りつつ、明かりの点いている公衆トイレへと一目散に駆け寄った。

町、あるいは区が清掃日を決めているのか、こんな僻地のトイレにもかかわらず中は驚くほどに清潔であった。幸い事なきを得て小便器の前でほっとしていると、ふと駐車場に停めてあるマイカーのことを思い出した。

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車の鍵、閉め忘れたな。それどころか、鍵は車内に挿しっぱなしで持ってきてすらいない。

いつもなら何よりも優先して施錠を確認するのに、さっきの自分の慌てようときたら。どたどたと走る自分の姿を想像して苦笑いする一方で、辺鄙な場所にあるこの公園で車上荒らしなんていないと高を括っていた。

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車に戻ると、その心配はやはり杞憂であることを知った。予想通り鍵は挿しっぱなしで施錠はしていなかったが、車内や車体が荒らされている形跡は微塵もなかった。

そりゃあ、こんな夜の公園に誰もいるわけがない。やがて僕がいなくなったためか公衆トイレの電気がセンサーで消えると、たちまち辺りは暗闇に包まれた。

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街灯はほとんどなく、その公園の暗闇は身震いするほどに薄気味悪く感じられた。

僕は鍵を回してエンジンをかけると、家に帰るか、もう少し遠くに行ってみるかと迷いながら駐車場を出て、とりあえず来た方向へと曲がり、再び夜の公道にマイカーを走らせた。

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その帰り道、家からの距離があと数キロというところで僕は妙な物音を聞いた。

いや、実際には公園を離れてからすぐに、その不可解な音の存在には気づいていた。

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というのも、運転席の後ろの後部座席から、時々ではあるが、硬い何かが擦れるような乾いた音が聞こえてきた。僕のドライブは完全な一人体制で、後部座席どころか助手席にさえ誰も乗せたことがなかった。

人だけでなく荷物も後ろに置くことはなく、必然的に物なんて落ちていないはずで、後部座席の物音は僕にとって違和感しかなかった。

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唯一考えられるのは、運転中に飲んで床に捨てた空き缶の転がる音が、妙な物音の正体である、ということ。たしかに夜のドライブには常々缶コーヒーをお供にしていたが、車内を汚したくない僕が床にゴミを捨てるなんて、あり得ないに決まってる。

しかし、僕はすぐに自分の考えを思い直した。それはさっき公園のトイレで、いつもは最優先に行うはずの施錠を忘れていたからだ。

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絶対なんて絶対にないのだと思いながら、僕は自分の犯したであろう過ちを責めた。一方で、本当に空き缶の転がる音なのか、早くその真相を確かめたくてうずうずしていた。

音が鳴っているのは運転席の後ろで、運転中は後部座席の下を覗き込めないため確認できない。かといってわざわざどこかに駐車してまで確認するのも面倒で、家に着いてからでいいだろうと妙な音を鳴らしながら走り続けた。

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ようやくアパートが見えてきた時にはすでに真夜中を過ぎていて、それでもアパートの廊下に灯っている電灯が、なんだか自分を迎えてくれているみたいでありがたかった。

ふと、電灯で思い出したことがあった。それは、あの公園のトイレに灯っていた明かりである。あの時も限界寸前の僕を、眩しいくらいの明かりが出迎えてくれたな、なんて、まるで遠い過去を振り返るような気分で思い出したのだ。

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…しかし、次には、僕は血の気が引いた真っ青な顔をしていた。思い出す限りだと、あの時のトイレの明かりは、たしかに点いていた。

どうして、点いていた?

僕の脳裏には、トイレから出た後、自動で明かりが消えたために姿を現した身震いするほどの暗闇の光景が鮮明に蘇った。

あのトイレの明かりは、たしかにセンサー式だった。

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であれば、どうして僕が駐車場に車を停めた時、すでに明かりが点いていたのか。

考えられることは、ひとつ。僕の前に、誰かがあのトイレを使っていた。それも、僕が来るほんの寸前まで。

あんな辺鄙な、周りに住宅街もない、どちらかというと山に近い真っ暗な公園に、それでも僕以外に誰かがいたのだ。そして、その誰かはあの時まだトイレの近くにいたと考えるのが自然だろう。

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この時もし僕が道を歩いていたとしたら、呆然と立ち止まっているに違いない。しかし、自動車を運転する僕は、たとえ知りたくもない恐ろしい事実に気づいても、簡単に止まることができなかった。

気づけば僕はアパートの前を素通りしていた。しかし、それでいいと思った。

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今から後部座席の「何か」を確かめる上で、住民の寝静まっているアパートの前よりも、少なくとも起きている人間のいるコンビニの前の方が適当だと考えた。

そして最寄りのコンビニへ向かう道中、僕は背後の「何か」が気が気で仕方なかった。相変わらず妙な物音は車体の振動に合わせて鳴っていた。

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それは、もしかしたら「誰か」かもしれない。ふと縁起でもない想像が僕を襲った。

放尿に夢中になっていたあの時の僕は、車のドアの開閉の音に気づけたかどうか怪しかった。

また、今も後ろで鳴っているこの音は、後部座席に体を丸めて潜む誰かの衣服についているボタンやチャックが、車体の内側に擦れる音であってもおかしくないような気がしてきた。

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いや、大丈夫。そんなはずはない。

そんなこと、あり得ない。

第一、もし後ろに人がいたら、ここに来るまでの間にさすがに気づいていただろう。…気づくよな?

ドライブに夢中で膀胱が爆発寸前になるまで尿意に気づけなかった今日の僕は、人の気配にさえ気づけないのではないか、そんな不安ばかりが募った。

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しかし、もはや後ろを振り返ってしまえる勇気が僕にはなかった。ドライブ中によそ見はするべきでないなんて言い訳しながら、バックミラーも見ずにひたすら前を向いて車を走らせた。

何かに夢中になることは、別の何かに気づけないことなのだ。

この場ではまったく役に立たない発見をして、しかし平常心を保つために僕ってすげー!なんて内心おどけながら、事故だけはしないように、震える手と足に力を込めた。

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そんなこんなでようやくコンビニにたどり着いた僕は、別の意味で漏れそうになりながら、まずは意を決して車から降りた。

そしておそるおそる運転席の後ろ、妙な音のする後部座席を覗き込んでみるが、コンビニ店内の明かりが届く限りでは、間違いなくそこに人の気配はなかった。

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そりゃそうだ、と思いつつも内心で安堵のため息をつくと、どうせ空の缶コーヒーだろうと後は杜撰にドアを開けてみた。

おそらく際にあったのか、ドアを開けると同時にそれは僕の足元に落ちると、二、三回からからと心地よい音を響かせ、駐車場のわずかな傾斜に引っ張られて転がった。

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音の正体は、僕の思った通り空き缶で間違いなかった。

しかし、「缶コーヒー」ではなかった。

やがて転がるのをやめた缶は、眩しいくらいのコンビニの明かりにその表面を光らせた。

運転中に決して飲むことのない「麦酒」の文字が、わずかに残っていたのであろう中身のつくり出した、点々とした黒い染みの上で輝いていた。

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ふと、車内に視線を戻す。

リアウィンドウの内側は、注視しなければ分からないくらいに曇っている。

それはまるで、誰かの体温で…。

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僕は楽しかったドライブの思い出に鍵をかけ、二日後、愛車を売りに出した。

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