精神病棟に配属されて2年。
ベテラン看護士と言われる部類の私も、過酷な労働環境に、かなり参っていた。
昼夜問わず聞こえる叫び声や罵声。
暴れる患者。
私達は身も心も、いつも傷だらけだ。
思いやりや信念に溢れた人ほど、ダメージが多く、ドロップアウトする事も多い。
以前。何かの投稿で、二十代半ばの女性が、病院勤務の素晴らしさの実体験を語った話を見たが、鼻で笑ってしまった。
投稿者は日中だけの病棟勤務で、難しい患者もいるが、心を尽くせば、やがて返ってくると言う内容だった。
精神病棟とは言わないが、せめて、夜間の患者と接してから物を言ってくれ。
昼と夜では別の顔。
昼は物分かりの良い、仏の○○さんも、夜は餓鬼のごとく憎たらしい。
夜間の方が人員も少ないし、段違いに大変なんだよ、お嬢さん。
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とは言え。今までの経験を生かして何とか折り合いを付けてきた私も、ストレスでかなり厳しくなってきた。
転属願いを出したいが、後輩の手前や、見栄もあり、こちらからは言いづらい。
周りからの私の評価も悪くないし、「出来ません」「無理です」とは言い難い。
_そうやって、潰れたナースが何人もいるのを、わかってはいるのだが。
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ある時、何かと短い言葉を繰り返す患者にイラッとし、瞬間的に指で唇を上下から挟んでしまった。
「あに。あにふるのは。(なに、なにするのさ)」言いながら、こちらを見て責めるような目をし、驚いている。
まともな反応しやがって。
相変わらず腹立たしいが、少しスッとした。
周りにスタッフはいないし、まさか私が患者にこんな事をするとは、誰も思わないだろう。
それを機に、私はその患者に口も手も出すようになった。
もちろん、スタッフに知られない範囲でだ。
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その患者は、入院して数ヶ月の年配の女性で、「はーいはーい」「なーになーに」等の言葉を、お経のような言い回しでひたすら繰り返す。
時々、まともな反応や発語をするが、すぐに戻る。
基本的には何も考えていないように見えて、自分が望まない事には抗う意思があり、それも腹立たしい。
私達がいなければ、食事も、排泄の処理も出来ない癖に。
そんな患者ばかりだが、手を出すにあたって、さほど抵抗しない彼女は都合が良かった。
重度の精神疾患では無い為、一人で接する事が多いのもやり易い。
さしてストレスが解消される訳ではないが、
やり始めると、止められなくなった。
小さかった虐待は、段々エスカレートしていく。
初めは後悔したし、止めなくてはと反省したが、次第に後悔もしなくなった。
更衣を嫌がった時は、股関節を無理やり開いた事もある。
「いだいっ!」
大きめの声を出されて焦ったが、ステーションとは離れているし、近くにスタッフはいなかった為、聞こえていなかったようだ。
呻き声のバックミュージックもあるし。
あぁ。この位なら、大丈夫なんだ。
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こういう仕事をしている為、虐待をする人間の心理が、以前から分からない訳では無かった。
キレイ事では無いんだもの。
自分の言うことを訊かない相手のケアをするには、見返りが必要だと思う。
だから、無償で家族のケアは、私には無理だろうと、常々思っていた。
互いに遠慮が無くなって泥仕合。
始終接して、給料無し。
愛情や義務だけでは、私には成立させられないと思う。
労働の対価があるから、我慢出来るだけ。
_しかし今、仕事として患者と接している私が、職場で虐待を行っている。
相手が嫌がり、傷付くからこそ、やる。
心も痛まない。
そして、他者を虐待しながらも、自分の家族を心から愛している。
矛盾していると思うだろうか?
今の私は、例えば、孫が生まれて幸せに涙した翌日でも、人を殺せる気がした。
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ある日の夜間、例の患者が無人の廊下を徘徊していた。
少し前に、歩行中に転倒してケガをした為、夜間は拘束していたのだが。
患者は上肢・下肢を拘束しても、いつの間にか、それを自分で外してしまう事が多い。
「縄抜けが、お得意で。」
実際には縄では無いのだが、揶揄してナース間ではよく言う。
ベッドに戻そうと声がけしたが、
私の顔を認識するなり
「いーやいーやいーやいーや…」
と連呼する。
何が「いや」だ。言う事を訊け。
私は、逆方向に歩き始めた患者の足の前に、自分の足を出し、思い切り転ばせた。
ドンッ!!バタンッ!
大きな音がし、スタッフが駆け寄ってくる。
「転んじゃった。ごめん。見守り不足で。」
私は責任を感じている風を装って、皆に謝った。
「拘束、解いちゃったんですね。いや、連帯責任ですよ。」
私を責めるでも無く、スタッフの一人が言う。
患者は、顔をしかめて「いだっいだっいだっいだっ」と繰り返していた。
何人かでストレッチャーに乗せ、精密検査に向かわせる。
結果は、顔面と下肢の骨折。寝たきりになるだろうとの事だった。
私は、現場にいながら事故を防止出来なかった事で、事故報告書を提出した。
報告書をまとめながら、
以前よりも、手を出し易くなったな。
と思っていた。
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骨折した所を、こう、少し動かすだけで…
「いだいっ」
だよねぇ。
分かりやすくて、助かるなぁ。
「……シカ…シカ……」
は?何?シカ?鹿?
「馬も連れて来ようか?」
患者の耳元で、うっすら微笑んで囁く私は、鬼畜に他ならない。
「シカエ…シカエ…シカエ…」
は?シカエ?
また、訳の分からない事を。
無抵抗の相手に、圧倒的優位な立場を利用して、私はそれからも、分からないように痛ぶり続けた。
そして患者は、私に"シカエ"としか言わなくなった。
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その何ヶ月か後、予想だにしなかった未曾有のウィルス感染があり、勤務している病院でも、クラスターが発生した。
初動がまずかったのか、私のいる病棟でも感染が確認され、類を見ない忙しさとなった。
他の病棟に駆り出されたりし、例の患者と接する機会はあまり無かった。
だが、たまに私の顔を見ると、相変わらず
"シカエ・シカエ"と繰り返す。
今までが忙しく無かった訳ではないが、今回は桁違いの激務で、そんな事は気にもならなかったが。
_やがてその患者は、ウィルスに感染し、苦しんだ末に亡くなった。
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その後、感染はようやく落ち着きを見せ、次第に以前のような勤務が戻ってきた。
"シカエ"の患者のベッドには、とうに他の患者が入床している。
(はーいはーいはーい)
(なーになーになーに)
(いーやいーやいーやいーや…)
件の患者の口癖を、繰り返してみた。
(…シカエシカエシカエ…シカエ…シカ…エ…シ…シカ…エシ……シカエ…シ……シカエシ。)
"仕返し"
_あの患者は 仕返し と言っていたのだ。
私に、仕返ししてやると。
そう…でしょうね。
因果応報・自業自得は、必ずある。
この先私は、罰を受けるに決まっている。
あるいは、私に代わって、家族が報いを受ける事があるのかも知れない。
その方が、よほど辛いだろう。
でも、私は止められない。
大事(おおごと)になったり、見つからない限りは。
…あぁ。とっくに、大事だったっけ。
クスリと笑ったその時、後ろに何かの気配を感じて振り返ったが、何も無かった。
私は、何もない空間に向かって、
「止めないわよ」
と、呟いた。
次のターゲットは、誰が良いだろうか。
私は踵を返し、病室へと巡回に向かった。
作者パンダ13
虐待は、ダメ、絶対。