中編6
  • 表示切替
  • 使い方

シカエ

精神病棟に配属されて2年。

ベテラン看護士と言われる部類の私も、過酷な労働環境に、かなり参っていた。

昼夜問わず聞こえる叫び声や罵声。

暴れる患者。

私達は身も心も、いつも傷だらけだ。

思いやりや信念に溢れた人ほど、ダメージが多く、ドロップアウトする事も多い。

以前。何かの投稿で、二十代半ばの女性が、病院勤務の素晴らしさの実体験を語った話を見たが、鼻で笑ってしまった。

投稿者は日中だけの病棟勤務で、難しい患者もいるが、心を尽くせば、やがて返ってくると言う内容だった。

精神病棟とは言わないが、せめて、夜間の患者と接してから物を言ってくれ。

昼と夜では別の顔。

昼は物分かりの良い、仏の○○さんも、夜は餓鬼のごとく憎たらしい。

夜間の方が人員も少ないし、段違いに大変なんだよ、お嬢さん。

separator

とは言え。今までの経験を生かして何とか折り合いを付けてきた私も、ストレスでかなり厳しくなってきた。

転属願いを出したいが、後輩の手前や、見栄もあり、こちらからは言いづらい。

周りからの私の評価も悪くないし、「出来ません」「無理です」とは言い難い。

_そうやって、潰れたナースが何人もいるのを、わかってはいるのだが。

nextpage

ある時、何かと短い言葉を繰り返す患者にイラッとし、瞬間的に指で唇を上下から挟んでしまった。

「あに。あにふるのは。(なに、なにするのさ)」言いながら、こちらを見て責めるような目をし、驚いている。

まともな反応しやがって。

相変わらず腹立たしいが、少しスッとした。

周りにスタッフはいないし、まさか私が患者にこんな事をするとは、誰も思わないだろう。

それを機に、私はその患者に口も手も出すようになった。

もちろん、スタッフに知られない範囲でだ。

separator

その患者は、入院して数ヶ月の年配の女性で、「はーいはーい」「なーになーに」等の言葉を、お経のような言い回しでひたすら繰り返す。

時々、まともな反応や発語をするが、すぐに戻る。

基本的には何も考えていないように見えて、自分が望まない事には抗う意思があり、それも腹立たしい。

私達がいなければ、食事も、排泄の処理も出来ない癖に。

そんな患者ばかりだが、手を出すにあたって、さほど抵抗しない彼女は都合が良かった。

重度の精神疾患では無い為、一人で接する事が多いのもやり易い。

さしてストレスが解消される訳ではないが、

やり始めると、止められなくなった。

小さかった虐待は、段々エスカレートしていく。

初めは後悔したし、止めなくてはと反省したが、次第に後悔もしなくなった。

更衣を嫌がった時は、股関節を無理やり開いた事もある。

「いだいっ!」

大きめの声を出されて焦ったが、ステーションとは離れているし、近くにスタッフはいなかった為、聞こえていなかったようだ。

呻き声のバックミュージックもあるし。

あぁ。この位なら、大丈夫なんだ。

separator

こういう仕事をしている為、虐待をする人間の心理が、以前から分からない訳では無かった。

キレイ事では無いんだもの。

自分の言うことを訊かない相手のケアをするには、見返りが必要だと思う。

だから、無償で家族のケアは、私には無理だろうと、常々思っていた。

互いに遠慮が無くなって泥仕合。

始終接して、給料無し。

愛情や義務だけでは、私には成立させられないと思う。

労働の対価があるから、我慢出来るだけ。

_しかし今、仕事として患者と接している私が、職場で虐待を行っている。

相手が嫌がり、傷付くからこそ、やる。

心も痛まない。

そして、他者を虐待しながらも、自分の家族を心から愛している。

矛盾していると思うだろうか?

今の私は、例えば、孫が生まれて幸せに涙した翌日でも、人を殺せる気がした。

separator

ある日の夜間、例の患者が無人の廊下を徘徊していた。

少し前に、歩行中に転倒してケガをした為、夜間は拘束していたのだが。

患者は上肢・下肢を拘束しても、いつの間にか、それを自分で外してしまう事が多い。

「縄抜けが、お得意で。」

実際には縄では無いのだが、揶揄してナース間ではよく言う。

ベッドに戻そうと声がけしたが、

私の顔を認識するなり

「いーやいーやいーやいーや…」

と連呼する。

何が「いや」だ。言う事を訊け。

私は、逆方向に歩き始めた患者の足の前に、自分の足を出し、思い切り転ばせた。

ドンッ!!バタンッ!

大きな音がし、スタッフが駆け寄ってくる。

「転んじゃった。ごめん。見守り不足で。」

私は責任を感じている風を装って、皆に謝った。

「拘束、解いちゃったんですね。いや、連帯責任ですよ。」

私を責めるでも無く、スタッフの一人が言う。

患者は、顔をしかめて「いだっいだっいだっいだっ」と繰り返していた。

何人かでストレッチャーに乗せ、精密検査に向かわせる。

結果は、顔面と下肢の骨折。寝たきりになるだろうとの事だった。

私は、現場にいながら事故を防止出来なかった事で、事故報告書を提出した。

報告書をまとめながら、

以前よりも、手を出し易くなったな。

と思っていた。

separator

骨折した所を、こう、少し動かすだけで…

「いだいっ」

だよねぇ。

分かりやすくて、助かるなぁ。

「……シカ…シカ……」

は?何?シカ?鹿?

「馬も連れて来ようか?」

患者の耳元で、うっすら微笑んで囁く私は、鬼畜に他ならない。

「シカエ…シカエ…シカエ…」

は?シカエ?

また、訳の分からない事を。

無抵抗の相手に、圧倒的優位な立場を利用して、私はそれからも、分からないように痛ぶり続けた。

そして患者は、私に"シカエ"としか言わなくなった。

separator

その何ヶ月か後、予想だにしなかった未曾有のウィルス感染があり、勤務している病院でも、クラスターが発生した。

初動がまずかったのか、私のいる病棟でも感染が確認され、類を見ない忙しさとなった。

他の病棟に駆り出されたりし、例の患者と接する機会はあまり無かった。

だが、たまに私の顔を見ると、相変わらず

"シカエ・シカエ"と繰り返す。

今までが忙しく無かった訳ではないが、今回は桁違いの激務で、そんな事は気にもならなかったが。

_やがてその患者は、ウィルスに感染し、苦しんだ末に亡くなった。

nextpage

その後、感染はようやく落ち着きを見せ、次第に以前のような勤務が戻ってきた。

"シカエ"の患者のベッドには、とうに他の患者が入床している。

(はーいはーいはーい)

(なーになーになーに)

(いーやいーやいーやいーや…)

件の患者の口癖を、繰り返してみた。

(…シカエシカエシカエ…シカエ…シカ…エ…シ…シカ…エシ……シカエ…シ……シカエシ。)

"仕返し"

_あの患者は 仕返し と言っていたのだ。

私に、仕返ししてやると。

そう…でしょうね。

因果応報・自業自得は、必ずある。

この先私は、罰を受けるに決まっている。

あるいは、私に代わって、家族が報いを受ける事があるのかも知れない。

その方が、よほど辛いだろう。

でも、私は止められない。

大事(おおごと)になったり、見つからない限りは。

…あぁ。とっくに、大事だったっけ。

クスリと笑ったその時、後ろに何かの気配を感じて振り返ったが、何も無かった。

私は、何もない空間に向かって、

「止めないわよ」

と、呟いた。

次のターゲットは、誰が良いだろうか。

私は踵を返し、病室へと巡回に向かった。

Concrete
コメント怖い
2
14
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ

@むぅ 様。怖ポチとコメント、ありがとうございます!
ホント、胸糞悪い話ですよね(^^;)
しかしながら、この胸糞話。いつもより何故かスムーズに書けてしまいました。
そんな自分も、恐ろしいです(汗)

返信
表示
ネタバレ注意
返信