ぐらり、と揺れる感覚で意識が覚醒した。
波を描くスーツと、灰色の座席シート、その上に置かれた鞄。その視界の中で開いた一冊の手帳の白が、ただ車内の照明に照らされて煌々としていた。
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そのページの色の明るさが痛い。
文字も辿る気にならないが、「ちび、誕生日」の赤色が目に焼きついた。
随分と寝ていたらしい。
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手帳を閉じて、ふと辺りを見る。
窓の外は暗く、一瞬遠くに街灯りが見えたが、直ぐ影に隠れた。
他にも疎らに乗客がいるが、みんな眠っている。
まぁこんな夜だ。起きた自分が異質であるように感じた。
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轟々とどこか遠くで聞こえる車体の音、静かに耳に届く空調の音以外、車内はしんとしている。
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駅はまだだろうか。
モニターを見るが何も表示されていない。いや、先頭車両、運転席から眺めているかのような映像が流れているだけだ。
闇から闇へ、照らすライトがそれを裂いて車両が進むその目線がただ映されていた。
減速する気配はない。
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ぐ、と凝り固まった体を少し伸ばす。体中に痛みを感じた。
手足に血流が巡っている感覚がして、喉の渇きが気になった。
鞄の隣に置かれた未開封のミネラルウォーターが目に入る。
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手に取ってキャップを捻る。
ぱきり、とキャップリングの小気味良い音が車内に大きく響いた気がした。
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「おい。」
口元に飲み口を持っていった時だった。
後方の座席からやってきたらしい老年の男性は、くいと手招きをしてくる。
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「もう止まるぞ。降りるなら飲むな。」
確かに車体が減速している。
アナウンスなんて聞こえなかった。
降りなければ、と慌てて飲んでもいないペットボトルのキャップを閉めて、鞄を引っ掴んだ。
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「その水、飲んどらんならくれんか。」
降りるならいらないだろう、と半ば奪われるように持っていかれる。
「降りないんですか。」
口から不思議とその言葉が溢れた。
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「降りんよ。」
早よ行け、と車両の端への道を開けられる。
もう列車は止まりそうだ。
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「ーーーー、ーーーーーー。」
去り際に何か声をかけられた。
咄嗟にありがとうございます、とだけ返して降車口に忙ぐ。
扉が開く。
降りた先は白いーー。
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そうして、父が目覚めた先がこの病室だったらしい。
黄泉の国にでも行く列車に乗ったのか、とぼんやりと考えたが、口には出さなかった。
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父が此岸に完全に帰ってきたのかとか、そのうちゆらりと行ってしまうのかとか、そんな理由じゃない。
ただ隣にいた神経質な母に、縁起でもないと叱られることを恐れただけだ。
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抜管も済み、自分で呼吸し、声も出るようになって、意識もはっきりと回復した父。
父は夢の話を穏やかにすると同時に、書斎にお前への誕生日プレゼントがとか、手帳に書いておいて良かったとか、思いの外元気そうだ。
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「忘れ物はしてないよな。」
列車に、と続けた言葉が酷く掠れてしまった。
鼻の上の方がじくじくと震える。
母は席を外していた。
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「うん。もう50年は乗らないな。」
は、と弱々しい笑い声が自分の口から溢れた。
体中があつい。
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「母さんが帰ってくるまでには泣き止めよ。」
父は困ったように目を細め、ふいと俺から顔を逸らした。
自由に動かない体では限界があるんだろう。
隠しきれていない父の目尻に同じものを見て、俺は今度こそ笑った。
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…
あの男はきちんと帰っただろうか。
伝えたことは守っただろうか。
慌てた声で礼を言われたが、聞いていたのだろうか。
ーー『帰るまで、何も食うなよ。』
腹の中に溜まった不安を吐き出すように、大きく息を吐く。
ぼんやりとした男から奪ったペットボトルの中で、体に溶け込むような舌触りの甘露が揺れていた。
作者芽衣
初創作です。
ちょっとベタな話。怖い話を書きたかったのですが無理でした。
ところで表紙画像選択をしてみたんですが、びびりなので一覧を見るだけで一苦労でした。人形こわい。