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一般に「殉教」と言えば、西洋古代の多神教時代にキリスト教徒が異教徒から迫害されたり、
あるいは未開地方に赴いて布教や人道的目的のために命を落としたり、
宗派争いで宗教的な信念のために処刑されたり、
そんな「他殺」のイメージが浮かぶだろう。
しかし、それらとは別に「緑の殉教」という考え方があったそうだ。
それは「苦行による死」を意味している。
インドの苦行僧や日本の即身成仏みたいなものか。人間のやること・考えることは、地域や時代が違ってもしばしば類似・共通するのは、やはり「同じ人間だから」だろう。
これは主にブリテンやアイルランドの逸話らしく、当時の現地では僧侶が独特の長髪スタイルだったらしい。
類似として、一般にはイエス・キリストが、人類を救う自己犠牲で磔刑(磔)されたのが有名だが、実は北欧神話のオーディン神にも苦行の逸話があるらしい。余談ながら「死んで生き返る」というのはエジプトのオシリス神のもあるし、「世界の破滅と再生」は北欧神話のラグナロク(神々の黄昏)とも重複する。
キリスト教の教えが理解され、ヨーロッパで発展・完成していく過程で、実は現地の精神文化も融合しながら洗練されていったようだ。
聖母マリアや天使・聖人への崇敬にしても、それ以前の大地の女神や精霊神・英雄神への崇拝が、洗練・整理されながら統合していった経緯がある。ドイツやフランスのゴシック様式の教会なども、聖なる森林のイメージなのだろう。
日本でも、儒教や仏教が、古来の大元の神道と融合・発展して、独自の精神文化を形作ったのと同じである。
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また、中世ヨーロッパでは「聖遺物」が有り難がられ、寺院(教会)などでも秘蔵・供養された。
つまり、イエス・キリストや聖人の遺骨や遺物。
中には期待・信念から、さして科学的・合理的な理由もなく、願望から問答無用で本物と信じられているものもある(純粋な崇敬目的の意味でならセーフで罪はないだろうが)。
それくらいならまだ良い。
聖遺物への民衆信者たちの欲求が高まると、遺骨欲しさに高徳そうな旅の坊さんが襲われて殺されることまであったとか。
ほとんど(半ば信徒に押し切られた)即身成仏や人柱と変わらない。日本でも、そういう似たようなことはあったわけだが、人間というのは(略)
聖職者としては「究極の名誉」ではあるだろうが、本人の心中はかなり複雑だったと思われる。冗談ではなかっただろう。
それもまた「緑の殉教」の一種かも知れない。
作者退会会員
昔に読んだ「ケルト神話と中世騎士物語」(中公新書)や「中世の奇跡と幻想」(岩波新書)に出てきた話から。なお、こちらで掲載している「髑髏寺とフランベルジュ」もヨーロッパの歴史ネタ(自作怪談)です。