「上海蟹を食べに行きませんか」と友人のEに誘われて、中華街に連れだって出向いた。
通りに面した人気店のようで、表に置いてあるホワイトボードにはその日だけで5組ほどの予約者がいることが記されていた。
「結構良いお値段するな……」
僕がそう呟くが、彼女は「まぁまぁ心配なさらず」と僕の背中を店内へ押し込む。
彼女の家は素封家の類いである。
いざとなれば彼女が支払うことだろうが、それにしたって対等な友人関係を築く上で貸し借りはあまり好ましくない。
ただ、ここまで来て引き返すワケにも行かない。
予約していたコースメニューにプラス5000円で上海蟹の酒漬け……
酔っ払い蟹が食べられるとのことだった。
これも躊躇したのだが、彼女はあくまで「大丈夫大丈夫」と笑顔で僕をなだめてくる。こちらは何も言っていないのに生ビールも二杯注文した。
そうこうしているうちに二杯の上海蟹が到着する。
薄暗い殻の中にほんのりとアルコールが香ってくる。
そんな中でオレンジ色の蟹味噌が鮮やかに食欲をそそった。
啜ってみると、なんとも言えない滋味が舌を刺激した。
「上海蟹、というのが現代における一般的な名称ですが、かつてはシナモクズガ二と呼ばれていたそうです。中国や上海などではダージャシェと呼ばれているとか。ちなみに欧米では環境を破壊する外来種として問題になっているそうですね」
Eは味とは関係ない豆知識を披露してくれたが、ともかくも美味しいことには違いない。
豆知識を小耳に挟みつつ、舌鼓を打った。
あらかた食べ終わったところで、彼女は一冊のノートを取り出す。
「ところで、こういうものがあるのですが」
Eは色々と奇妙な話を知っている。
仕事上の付き合いでそう言う話を聞くことが多い、ということだった。
ただ、彼女と付き合っていると単純に趣味なのでは無いかとも思うことも多い。
今回も例に漏れず、そういう不思議な話についてのノートであるとのことだった。
「さる筋から手に入れたノートです。今回お誘いしたのはこれを読んでいただきたくて……まぁ余興みたいなものですよ。……読んでいただけますよね?」
駄目とは一言も言っていないのに、なぜだか上目遣いでこびるような様態を見せてくる。
そこに一抹の不安というか、下心みたいなものを感じてしまったが……ともかく、僕はそのノートを受け取った。
これはその時に読んだ話である。
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蚤の市で発見したホルマリン漬けの瓶に一目惚れした。
円筒形のガラスの中に液体が入っている。
密閉され、一部の隙も無い。 その中に、何やら妙な3cmほどの肉塊が入っている。
「それ」は海のもののように視えた。
蟹か海老か。虫のようでもあるが、少し違う。
陸の上にある虫特有の、どこか嫌らしい雰囲気が無い。
森とか木の中で他の動物から……あるいは人間の生活圏の中で、人の目から逃げてやろうというところが無い。
……いや、そもそも海の中で他の動物から逃げてやろうという心すらなかったのでは無いか。
なんだか、そんな感じがする。
「それ」は透明な殻に覆われていた。脚などは付いていない。
透明、といっても色々な質感があるだろう。
クラゲのゼラチン質の透明さ、ガラス細工の光を反射してキラキラするような透明さ、クリオネのような薄く色のついた透明さ……
「それ」の透明さはいずれとも違う。
甲殻類のがっちりとした……確かに何かがある、という確信を感じさせるのに、透明なのである。
身近なもので言えば、透明なビニールが一番近いのでは無いか。
その中に、内臓が詰まってる。
赤と黄色。橙色をした楕円形の臓器である。
それぞれがどのような機能を果たしているのかは知らない。
店主に尋ねたところ、彼も知らないという。
そもそも、店主は様々な骨董を集めているが、由来までは完璧に知らないらしい。
故人となった生物学者の遺品が処分されたものだ、とのことだった。
その、臓器たちなのだが……
色とりどりの臓器が、絶妙に食欲をそそった。
曰く、人間の食欲をそそる色味とは暖色であるという。
肉にしろ果実にしろ、その多くが暖色である。
その反対に寒色系の食べ物はあまり食欲をそそらない。
黒とか緑とか、そう言う色をした生き物が自然界に多いのはそういう理由からである。
食べられにくい色をした個体が生き残ってきたからだ。
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食べてみたい。
そんな欲望が頭をもたげた。
常識的に考えて、そんなものが美味しい訳がない。
とっくの昔に死んで、薬品に付けられた生物である。
ガラス容器もそう新しいものでは無い。あちこちに傷がついていて、ところどころ黄ばんでいる。
そもそも、食べられるものなのかどうかも分からない。
名前も書いていないのである。
しかし。
そんな理性やガラス容器の古ぼけた雰囲気といった数々の心理的・物理的なフィルターを通しても、「それ」を食べてみたいという欲望が萎えることは無かった。
値札に付けられた価値は3500円。
さして趣味の無い社会人にとって、払えない金額では決して無い。
加えて……なんというか、その値段の絶妙な高さが良かった。
食べるものとして考えた時、もしそれが500円とかだったら、なんだか食べにくい。
3500円の値札はそれが食べられるもの、清潔さとか確かさみたいなものを担保してくれているように感じた。
冷静に考えればそんなわけが無いのだが、多分そのときは少しでも購入する言い訳が欲しかったのだと思う。
そんなことを考えて、そのガラス容器を購入することにした。
とはいえ、怖いものは怖い。
食べて大丈夫なのか、という疑念も絶えない。
一分の理性が、「それ」についての情報を少しでも集めようという気持ちにさせた。
帰宅してからインターネットで色々と調べた。
「透明な蟹」とか「海の生物 透明」とか、そういうワードを検索エンジンに掛ける。
愛知県の干潟で発見された蟹とか、京都大学の実験で色素やタンパク質を取り除いて透明になった蟹の殻とか、そういうものがヒットした。が、いずれも違う。
これまた冷静に考えれば、「それ」についてどこかの大学か研究機関などに問い合わせるべきだったのかも知れない。
しかし、そうはしなかった。
なぜかと言えば、値段の話と同じことで、食べられない可能性や理由を排除したい気持ちが心のどこかにあったからだ。
こういう時、自分の本当の欲望が現れるものだと実感した。
本当は嫌な時は『分からなかった』ということを理由に拒否する。
而して本当は背中を押して貰いたいときもまた、『分からなかった』ことを理由に行動に移すのである。
海鮮物を食べるにあたって、どの食べ方が一番いいだろうか?
この質問には色々な答えが付きまとうことだろう。
甘辛いタレ、九州風に甘醤油、レモンを掛けたり、や三杯酢で締めるといった答えもあるかも知れない。
ここは塩ゆでだろう、と思った。
見た目が食欲をそそっている以上、見た目を損なわない食べ方にしたかった。
沸騰した湯にたっぷりの塩を入れる。
ぶくぶく、と気泡が水面へと上がっていく。
湯気が顔を照らして、湯が沸騰したとき特有の、清涼感のある匂いが顔を覆った。
次いで、購入してきたガラス容器を開ける。
上部の部分はゴム栓で機密を保っており、開けるときゅぽ、と気味の良く鳴る。
古いだけあって開けるのに中々苦戦したが、中身を取りこぼすこと無く開けることが出来た。
栓を抜くと、やや甘い、鼻孔の奥側をふわふわと刺激するような異臭。
ブランデーとかウィスキーに近い。
中華料理の『酔っ払い蟹』を食べたことがあるのだが、匂いはそれが一番近いだろうと思う。
その時も出てきた瞬間は面食らったが、賞味すればたちどころに舌鼓をうつ結果となった。
流石に今回はそのままは食べられないだろう。
ガラス瓶の中に入っている液体を、本体を取りこぼさないよう慎重に流しに捨てる。
よく見てみると透明な糸で固定されていたので杞憂だったが。
その糸をピンセットハサミで切る
ステンレス製のボールに水を張り、自由になったそれを漬けて30分ほど待った。
アルコールが抜けてくれることを期待してである。
ただ、その間にそれが駄目になってしまわないかが気がかりだった。
内臓部分の色味が失われたりしないか、水に流れ出てしまったりしないか……
ボールの中を、じっと眺めながら30分待った。
幸いなことに、色味が失われることはなかった。
透明な殻の形が崩れたり、あるいは中身が流出すると言うことも無い。
ボールの中からそれを取り出す。
慎重に、ゆっくりと、赤ん坊を抱くようにやんわりと、それをつかみ出してまな板の上に乗せた。
障ってみると、その透明な物体はやはりキチン質であるようだった。
アルコールと水分を吸い込んでしなびてはいたが、よく煮込んだ海老なんかはこれに近い質感であると思う。
顔を近づけて、匂いを嗅いでみる。
アルコール臭はかすかにあるが、先ほどに比べればマシだ。
ここから茹でてしまえば、おそらくそこまで気にならないことだろう。
今にも待ち遠しい、というように湯は泡立っている。
待っていろ、今入れるから……と、まるで湯と対話しているかのように独りごちる。
もちろん、お湯はそんなことは思っていない。
待ち遠しい気持ちを湯に投影しているに過ぎない。
塩気がたっぷりの湯が張った鍋の中を覗き込み、まな板を持ち上げる。
やや名残惜しい。
もし、お湯の中に入れてそれが色味を変えたり、あるいは中身が駄目になったら……水にさらした時と同じ懸念がまたもたげた。
が、ここまで来て引き返すワケにも行かない。
まさかこのまま食べようとも思えない。食べるのなら、一番美味しく感じるであろう食し方をすると決めていたのだ。
意を決して、まな板の上にあるそれを優しく湯の中に投入した。
波紋を立てて墜ちる「それ」。
幸いなことに色は変わらなかった。
殻も本体も、いずれも食欲を損なうことはない。
異臭が漂うことも無かった。
むしろ、海鮮物を塩ゆでしたとき特有の、磯混じりの香りが立ち昇っていく。
1分ほど待って、すこししたらザルで「それ」を掬う。
色味は落ちず、見た目も悪くない。匂いが食欲をそそってすらいる。
食べられる分量は一口しかない。
皿に盛り付け、上に塩を少量振りかけ、いよいよ食べようという時。
これまた名残惜しい気持ちが身体を支配する。
しかし、それが何であるかも分からないし、名前も分からない。
しかし、食べてみたいという気持ちが抑えられることも無い。
食べてしまえばおしまいだが、「それ」がなんであるかを調べる時間も惜しい。
もし冷めてしまったりしたら最悪だ。
いま、ここで、食べたいという欲が最高に高まったタイミングで食べないなんて、そんなことは出来ない。
食欲のまま、箸でそれを持ち上げた。
最後の一瞥を交わすと、それをひと思いに口内に放り込む。
心地良い舌触り。押すとぷに、と内臓が感じ取れる。
匂いは気にならない。
湯ですっかりアルコールは飛んだようだ。
殻にはあっさりとした塩味がしみこんでいる。
ぐう、と腹の音がなった。もう我慢ならない。
「それ」を、奥歯でかみしめる。
それから目が覚めたのはベッドの上だった。
病院特有のアルコール臭とチカチカとした照明が顔を照らす。
ナースコールを押そうか、と身体を動かそうとするが、動かない。
どうやら両手両足がバンドで固定されているらしい。
やはり、食べてはいけないものだったのか。
最初、そう思った。何かの毒がある食べ物で、それを食べた自分は意識を失い、緊急搬送された……手かせが付いてるのがよく分からない。
ただ、神経性の毒とかで、手足がはねていたりしたのかも。
そう思いながら、看護師の到着を待った。
床ずれか、尻のあたりが汗ばんで気持ち悪い。
速く来て欲しい、と思いながら天井を眺めて待ち続ける。
30分ほどして、男性の看護師が病室にやってきた。
すみません、と声を掛けると、男は目を見開いて、少ししてから様々な質問を投げかけた。
自分の年齢、名前、意識の明瞭さの度合い、最後の記憶……それらをひとつひとつ答えていく。
しばらくすると医者の男性が急ぎ足で病室にやってきていた。
物々しい雰囲気に、よほど大変だったのだろうか、と冷や汗が出る。
どうやら大事になっているらしい。少し食中毒に当たったとか、そういうレベルの話ではなさそうだった。
「あの、私が食べたものはなんだったのでしょうか」
「……え?」
その質問に、医者は一瞬顔をしかめた。
何を言っているのかわからない……というよりも明確な嫌悪を覚えている様子だった。
しかし、少ししてから思い出したかのように表情を取り繕った。
「いえ、あの……食中毒で運ばれたのですよね?」
「……最後の記憶は家で、その蟹のようなモノを食べた時、でしたね?」
「はい」
医者たちはしばしひそひそと会話を交わした。
やがて別室で改めて説明する、と言われ、そのまま車椅子に乗せられて移動する。
車椅子の上でも手足は固定されたまま。
身体に異常は無かったのだが、特に異存を唱えることも無かった。
通された別室で、数人の医者の立ち会いの下、主治医だという男性が口を開いた。
「落ち着いて聞いてくださいね。あなたが運ばれてきた理由は食中毒ではありません。あなたが覚えているという最後の記憶は……2018年のことでしたね。それからもう3年経過しています。あなたは、心神喪失状態にあり、責任能力なしと判断されてこの病棟に移送されてきました」
責任能力なし。
その、物々しいワードに頭を殴られたような衝撃を受ける。何の話だ。何の……
「ショックかも知れませんが、落ち着いて。あなたは殺人罪と死体遺棄罪で逮捕され起訴されています。その裁判において心神喪失状態と認められ、そのまま……」
殺人、死体遺棄。
ああ、と概ねの想像がついてしまった。
何が起きたのか、何をやったのか。
そんなことしていない。しているはずが無い。
そう思えば思うほど、自分がやった罪が輪郭を伴う気がしてきた。
……それにしても、尻の辺りが気持ち悪い。そんな、場違いな感想を抱きながら。
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読み終わると、そろそろ次の料理が届いた。
次の料理はサーモントラウトの刺身を中華風のタレで味付けした中華風カルパッチョという珍しい料理であった。
……しかし、文中にも出てきた酔っ払い蟹である。
それをふたりして味わった後、というタイミングで彼女はこの手記を出した。
いや、この手記を見せるためにこの店に呼び出して、文中で例えられた料理を食べさせた、というのが正確かも知れない。
奇妙な話、趣味の悪い話に事欠かない彼女だが、ここまで来ると趣味が悪いを通り越してエンターテイナーである。
「この手記の持ち主ですが。その後精神鑑定に掛けられ、罪を犯した記憶や意識が無いことを確認した上で、現在は社会復帰していらっしゃるとのことです。その後、自身の犯した罪に付いての新聞記事などもお読みになったそうですが……まぁショックだったそうですよ」
それはそうだろう。
詳しくは知らないが、連日のニュースを騒がしていたことを覚えている。
住宅街のアパートで異臭がする……ということがきっかけで発覚した死体遺棄事件。
調べてみると、男性の住む部屋の冷蔵庫から遺体が出てきた……という、時折起こるタイプの猟奇的事件だ。
もっとも、その後釈放された云々のニュースまでは聞いていなかったが。
「納得が得られる話でもないでしょうしねぇ。週刊誌とかが焚きつけでもすれば話は違うかも知れませんが。まぁ今のところは無いようで」
気が気で無いだろう、と思った。
何時、自分の罪が……それも、身に覚えのない罪への罰がが降りかかるか。
まるで時限式の金縛りだ。
そんなものを抱えながら生きるというのは、きっと、とてつもなく息苦しい。
「それで、ですね。この奇妙な標本についての話は、まぁ警察の方やお医者様にもされたそうなのですが、当然もう何年も経っていますし……それが神経性の毒だったりしたとしても、もう残っていないだろうし……一応、調べては貰ったらしいのですが、何も見つからず、証拠にはならないとのことでした」
この手記に書かれている内容を信じるなら、確かにそういう話へと向かうだろう。
すなわちこの謎の標本が一連の心神喪失の原因である、という話である。
「幾通りかの可能性が考えられますよね。彼言うところの「それ」に神経性の毒がありそれによって記憶を失いながら殺人を犯した、とか。あるいはこの奇妙な物体の中かあるいはそのものが一種の寄生生物の類いであった、とか。ハリガネムシのことはご存じでしょう?カマキリの内部に入り込み、栄養を吸えるだけ吸った後に入水自殺するよう仕向けるという生物です」
「あるいはカタツムリの触覚を支配するロイコクロディリウムという寄生虫もその筋では有名です。これも採集捕食者である鳥に捕食されやすいようカタツムリを支配すると言われています。そして人間に寄生するサナダムシなどはお尻……失敬、臀部から出てくるのだとか。これを思うと彼が臀部をやたらと気にしていたことも何か意味があるように思えてきますね。寡聞にして聞いたことがありませんが、例の標本は人間が人間を捕食するよう仕向ける寄生生物であった……という可能性もゼロではありません」
彼女は持ち前の雑学を用いて様々な可能性を示唆してきた。
すくなくとも食事中にする雑学では無い。まだコースメニューは残っている。
しかしながら早口でマシンガンのようにまくし立てられるその語り様は楽しそうであり、そこに水を差すようで指摘が憚られた。
「ここで得られる教訓は」
「はい」
「拾い食いは良くないってところかな?」
「いえ、それがですね、その方、今でも時々蚤の市なんか見て回ってるらしいのですよ。その……また食べたいという欲が今でも収まらないようで」
業が深い、というか。なんと言うべきか。
「結局のところ、彼の認識としては”まだ食べられていない”んですよ。とても美味しそうで、いよいよ食べる……というタイミングから記憶が無いんです。例の標本……その一番気になっていた内臓部分は賞味していないわけです」
それにしたって懲りるものでは無いだろうか。
我を失い、殺人を犯し……そして人間を捕食するような奇行に及ばせたであろう物体である。そうであっても、警戒より食欲が勝るものだろうか。
「それはどうでしょうね?煙草、麻薬……お酒だってそうです。身体に悪いと分かりながらも嗜んでしまうものでしょう?」
そう言うと、Eは店員を呼んでお酒を二杯追加注文した。
白酒、中国語でバイチュウという、中国で良く飲まれるお酒だという。
古代中国の詩で語られる酒というのは概ねコレである……というような雑学を披露してきた。
到着した白酒を口に含むと、どこかパイナップルのような香りと舌と喉を焼くような刺激が漂った。
刺激と同じくらいキツイ酔いが、頭を侵すように入り込んでくる。
「それでですね、その標本を探して欲しい……というご依頼があったそうなのです。一般的には奇妙というか変な話にカテゴライズされるだろう……ということで巡り廻って私のところにこの話が来たんですが」
というわけで一緒に蚤の市を探して回りませんか?
この上海蟹は奢りますので……
彼女の口説き文句に心が揺らぐ。
一杯5000円の高級食品。
懐が寂しい身としては、奢ると言われると断りにくい。
……ああ、と理解した。
そのために僕をこの場に呼び、上海蟹を食べさせたのだろう。
異界の食べ物を食べると元の世界には戻れない……なんて話があるが。
僕も彼女の勧めるままに食してしまった。
これでは手記の中の男と同じだ。
もし奇妙な標本を発見したとして。
せめて、自分はその物体に食欲を抱くことが無いと良いのだが。
そんな感想を抱きながら、頷くことしか出来なかった。
作者佐倉
蚤の市で見つけた奇妙な標本。
それに異常なまでの執着と食欲を抱いた男は、いかにそれを食べようか思案する。
……一番怖いのは、こういう話を食事中にしてくるEのような人間なのかも知れない。