気鬱する程、頭中に彷徨う心の声。幻聴かもしれないが、無数の天使が私に囁く。天を飾る星々のように果てがない言葉が私を苛む。
「今宵も善行が御座いません。貴方の考えは如何に?」
「今宵も悪行が御座いました。貴方の考えは如何に?」
二名の天使が私に問う。天使の姿はわからない。聴こえはすれど、視えはしない。どんな表情で私に囁いているのか、声色から察するに決して良い印象ではない事は確かだ。なので今宵も心の中で言葉を返す。
(私は人間なのです。善行も悪行も謂わば人間の本質なのではないでしょうか)
「あの方も貴方と同じ人間でした。貴方なら救えた筈です」
責め立てて来る頭中の天使。私は生業場、人と人を繋ぐ役割が担われている。日々、姿と思考が違う異性を繋ぎ合わせなければならない。出逢いの場を提供しなければならない。なのでこの天使達の言葉はもしかすれば報いのようなものかもしれない。
(あの場はああするしか他がなかったのです)
「それは最善の道なのですか?」
また違う天使が頭中に現れる。そして他の天使と共に私を苦しめる。
(わかりません。私にはなにが最善なのか検討も付きません。お願いです。どうかアナタ方からご教授を)
いつもこうなる。いつもこの件りで頭中は沈黙と化する。どうして答えを求めても見返りがないのか、私を救ってくれないのか。繁華街の出店の灯りが眼を眩ませる。痛い程眩しく眼の奥が捲れそうになる。
街灯を頼りに彷徨うが、眼の焦点がわからなくなる。やがて脚が縺れ、通行人とぶつかってしまう。ここで意識が鮮明となり、眼の焦点が男性に合わさった。
「おっと失礼、おやアナタ、顔色が余り良くありませんな。お酒を召し上がりましたか?」
男性は恐らく五十代、頭部には白髪が混ざり、顎にもやや白い髭が生え揃っていた。しかし、決して不快感はなかった。それどころか紳士のような風貌。黒い背広を優雅に着こなし、渋い香水の香りがほんのりと鼻を揺らす。
「いえ、呑んでおりません。少し寝不足で」
「それはいけません。見た所まだお若い。夜も深くなってます。早く床に就いて下さい」
「はい」
それがこの男性との最初の出逢いだった。
ーー
また一名の天使が囁く。
「あの方の表情はご覧になりましたか?」
(はい)
「あの方は貴方に救いの手を差し伸べた訳ではありません。それをご理解されていますか?」
(はい)
天使は皮肉めいた物言いで辛辣な言葉を投げ続ける。私の心は帰宅後も縮こまる。身体を洗い、あの男性に言われた通り早々に床に就く。しかしまた天使が囀る。
「もうお休みに?今宵の反省はありませんか?」
「睡臥して、また同じ日を繰り返すのですか?」
また別の天使が現れた。この天使はどこかご立腹の様子だった。言葉の節々から棘を感じる。私は破裂しそうな頭中を冷すように言葉を思う。
(しかし、私は人間なのです。睡眠を確保しなければ)
すると、複数の天使が一斉に言葉を刺す。
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
「言い訳はよして下さい」
なじる言葉は私の意識を更に奥へ閉じ込める。天使達の意見は基本不統一。ただ、稀に意見が一致する。視えもしない鋭い矢が一斉に押し寄せ、頭中に姦しい音が反芻する。
(申し訳ありません)
私が折れるように言葉を遮る。すると天使達の声がぴたりと止まる。冷え切った空気が部屋に漂い、虚しい吐息を漏らす。瞳を閉じたが、なかなか入眠までは至らない。眼球が急速に蠢き、睡眠を阻害する。一度起き上がり、卓にある睡眠導入剤に手を伸ばす。湯呑みに水を注ぎ、薬を二錠口に含ませ、そのまま水と一緒に喉を通す。
やがて筋が弛緩されてゆき、精神に霧が掛かったように眠りにつく。今宵も決して心地の良い眠りではなかった。荒々しい流汗が背に滲む。一度覚めてしまうと再び寝付くのに時間を要す。また過酷な夜が訪れる。
ーー
「こんばんは、あの時の方ですね。あれからご容態はいかがですか?見た所、あまり芳しくない」
再び男性と会ったのは、あれから数日後の夜だった。また心地良い香りが私を癒す。
「あの時はどうも、容態はなんとか」
私は言葉を濁した。男性の朗らかな面持ちはどこか隙がなかったから。口調こそ飄々とした雰囲気だったが、嘘を付けばすぐに暴かれるような気がした。内面を見透かされているような気がする。しかし、それも決して悪い意味ではない。そう思い暫しの談を交えた。
男性の名は三影という。私も告げた、自身の名前、そして現状職に追われ睡眠が阻害されている旨を伝えた。
「なるほど、一見すると立派な職種だと思えたのですが対人関係の問題ですかな?」
「いえ、そう言う訳ではありません」
「そうですか、いや引き止めて申し訳ない。暗い夜道、どうかお気を付けて」
私は会釈して三影から身を返した。三影は敢えて話の深掘りを避けてくれているように思う。紳士的な行動、けれども私は悩みの核となる部位を伝えられなかった。おかしな人間と思われたくなかったと言うべきか、結局取り留めのない会話しか交わせなかった。目の隈をしっかりと見られたくなかったので目線も逸らしていた。
その日、私の方から天使に尋ねた。
(アナタ方はどうして私の頭中に?)
複数いる天使達は私からの質問には答えない。それどころか、今日に限って頭中は静寂だった。いつもなら帰宅後、数々の罵りが始まるのだが、なぜだろうか。しかし、お陰で今宵は健やかな睡眠を確保できた。
穏やかな気分で朝を迎える。小鳥の囀りが心地良い。頭中にはまだ何もない。だが、これから何かが上書きされていくのだろうと思うと少し憂鬱になる。天使は日中に現れない。決まって職の終わり、日の反省を言い殴られる。いつからだろうか、気付けばその存在は増え続けていた。
ーー
「おや、菊野さん、こんばんは。気が合いますな」
帰路の繁華街、私の名を呼ぶ声が聞こえる。昨晩に続いて今宵も三影と出逢う。背広は昨晩とは違い色の濃い灰色を纏い、首元から水色のネクタイが伸びていた。
「こんばんは。昨晩はどうも。お陰で良い睡眠を確保出来ました。今夜は随分とお洒落なネクタイをお締めになられていますね」
「ええ、先程場に呼ばれてまして。いやそれはそれは、しかし私は何もしておりません。良い睡眠は善行を成し遂げた者にのみ訪れます。常日頃の行いが功を成したのではないでしょうか」
「善行ですか、それはどうでしょう」
私の頭中にまた天使が現れる。恐らく善行と言う言葉に反応を示したのだろう。低い声色で囁く。
「貴方に善行がありましたか?」
「今宵、貴方の何処にそのような行いが?」
「貴方はまた、その方を頼るのですね?」
「やはり、ご自身での判断は難しいですか?」
四名の天使が私を苛む。その声は順番ではなく一斉に放たれる。まるで天使達は己以外の存在を知らないように。先程まで穏やかだった心持ちは一気に薄暗い色に染まる。
「菊野さん?」
三影が私の様子を察したのか徐々に歩みを寄る。しかし私は頭中の言葉を押さえ込むのに意識が向いており、三影の言葉が耳に入らない。
「アナタ方は日中の…日の当たる頃の私を存じておられるのでしょうか!」
気付けば感情を口で表現していた。荒げた声に三影はその場で立ち止まり、小さく被りを振る。何とも言えない面持ちで私を包むように言葉を放つ。
「菊野さん。アナタの心、どこか嘆いているように思えます。本来ある筈の清らかな心が何者かに蝕まれている気がします。よければ少しお話を」
ーー
私は三影に促され、繁華街から外れた川沿いの縁台へと移動した。そして共に腰を掛ける。夜も深く人通りもなく、川の細流だけが空間に色を足す。三影は何かを言う訳ではなく、ただ昏い空の月を眺めている。私は三影に尋ねた。
「あの、三影さん。お話と言うのは」
「ええ、こんな所に招いておいて申し訳ない。菊野さん、あれをご覧になって下さい」
三影はこちらに目を向けず、暫く眺めていた遠い月を示す。私は言われるがまま天に視線を向けた。
「月、でしょうか?」
「はい。菊野さんから見て、あの月はどう映る?」
「歪んでおります。大変歪んで視えます」
「そうですか、しかし私から視える月は相変わらず綺麗に映ります。さては菊野さん、下弦がお嫌いでしょうか?」
「下弦?」
「ええ、月を構成させる用語です。上弦の月が日中から登り、日を跨ぐ頃に沈みます。そして日跨ぎにより登り、日中に沈む月を下弦と呼びます。菊野さんはいつも下弦の月が登る頃にお会いする。そしていつも何かに苛まれていらっしゃる。私にはそれが不思議に思えまして」
「月に関係があるのでしょうか?」
「わかりません。しかし相関性がないとも言い切れません。菊野さんは月が歪んで視える、そう仰いましたよね?」
「はい。三影さんには綺麗に視えると先程お伺いしました」
「そうです。つまり、歪んで視えている原因は菊野さん自身の問題ではないでしょうか。先程、菊野さんからの不自然な怒気、心当たりが御座います」
「心当たりですか」
「そうです。結論から申し上げると菊野さん、アナタに、とある呪いが掛かっております。そしてその呪いを掛けた本人は菊野さん自身です」
「どう言う事ですか?」
「呪いと言うのはなにも霊的存在だけではありません。菊野さん、アナタ天使を飼ってらっしゃいますよね?」
すると、頭中の天使が一斉に騒ぎ始めた。
「耳を塞いで下さい」
「その方は貴方の何を知ってるのでしょうか?」
「結構貴方はその方に救いを乞うのでしょうか?」
「貴方一人の知恵では複雑でしょうか?」
「貴方にとって我々は」
「貴方にとって我々は」
「貴方にとって我々は」
「貴方にとって我々は」
ーー
気付けば三影は私を支えていた。どうやら卒倒していたらしい。同時に頭中から天使が、己を苛む心の声が消え去った。頭中が鮮明となり私の頬に一抹の涙が通り過ぎる。景色、思考が先程と異なって思えた。身を支えられた斜面より視える下弦の月がとても美しく感じる。まるで私ではなく、月から溢れる雫のように視えた。
「では菊野さん、私はこれで失礼します。まだ夜も深いです。どうかお気を付けて」
そう言って三影は私から距離を取り、深くお辞儀をした。凛々しい背中が徐々に遠のいてゆき、昏い夜に溶け込んで姿が見えなくなる。
それ以来、私は三影と再会する事はなくなった。あの時、私は三影に何も言えなかった。結局、天使とは何だったのか、三影と名乗る男性は私に何をしてくれたのだろうか。三影が語っていた呪いとは何だったのだろうか。その全ては深い闇に消え去った事だけが真実として残った。
ーー
数年後、私は小宝を授かった。命名する際、何故かあの時の下弦の月を思い出した。私はその美しい記憶を心に忍ばせ、我が娘に『雫』と名付けた。
作者ゲル
遅かれながら、明けましておめでとう御座います。
新年一作目となります。読んで頂けたら幸いです。