人から怖い話を聞くことは多いが、自分自身がそうした経験をしたことは少ない。
幽霊も宇宙人もUMAも、見たことは一度として無かった。
それでも、ひとつだけ覚えていることがある。
それが、見知らぬ女に追いかけられた時のことである。
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小学生の頃の話。
通っている学校は家から15分ほどの位置にあった。
ただ、クラブ活動で残っているとあっという間に日が暮れてしまう。
その日も、すっかり暗くなった道を歩いて帰ることになった。
学校とは線路を挟んで向こう側に僕の家はある。
友人たちの多くは駅に向かうか、あるいは線路を超えない場所に家があった。
僕だけが、線路の向こう側に住んでいた。
線路を渡るには二通りの方法がある。
一つが踏切を渡る。もう一つが歩道橋を渡る。
学校からは「踏切を使ってはいけない」というお達しが出ていた。
無視している生徒も多かったが、僕は律儀に守っていた。
……しかし。
その、歩道橋のすぐ下は寂しく、また不気味な場所であった。
周囲が古く荒れたアパートやコンビニの裏手に囲まれていて、昼であってもぼんやりと薄暗い。日が落ちると橙色の蛍光灯しか明かりが無い。
また、人出の多い大通りに出るまでジグザグと折り曲がった道になっている。
それだけであれば、別に問題は無かった。
問題は、である。その場所にホームレスの女性が住んでいるということだった。
彼女はいつもそこにいた。
薄汚れた緑色のコートを着ていて、周囲では緑のおばさんと呼ばれていた。
伸び放題になった髪の毛をチューリップ帽の間から垂らし、目線はサングラスで常に隠されている。その傍らにはいっぱいの空き缶を詰めたビニール袋が結びつけられた自転車がいつもあった。
彼女を見たのはその日が初めてではない。
そこに彼女がいることは知っていた。僕だけではない。クラスメイトもなんとなく知っていたし、周囲に住む多くの人間も知っていた。
しかし、コミュニケーションは無かった。
そういうものだ、と理解していた。
……ただ。
その日は違った。
いつも通り、歩道橋を渡り、薄暗いジグザグの裏手の道に入った時。
shake
「おい、お前」
急なことに身体が跳ねるようだった。
ただびっくりした、というだけでもない。
その声からは明らかな敵意が感じられた。
知らない大人から恫喝される……そんなシチュエーションになど慣れていなかった。
「な、なんでしょう」
どもりながら僕が訊く。
彼女は先ほどよりも厳しい、ガラガラとした声を出した。
「お前、ここでうんこしただろう」
やはり心臓が震える。
何を言われているかより、その声が怖かった。
知らない大人……誰にも見えない場所で……僕は怒鳴りつけられていた。
しかも彼女の言うことはまったく身に覚えのないことだった。
「し…してません。そんな下品なこと……」
そんな、妙にかしこまった言い方が出てくる。
かなり動揺していた。
「嘘を吐くな。見てたぞ。しただろ。うんこを、ここで」
「してないです!」
その恫喝に耐え切れなくなった僕は、いつの間にか走り出していた。
shake
「逃げるなぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
逃げだした僕を、彼女は追いかけてきた。
片足が悪いのか、引きずるように、しかし確かに僕を捕まえようと向かってくる。
彼女の怒鳴り声に負けず劣らずの悲鳴を上げながら、ジグザグ道を走り抜けた。
道は三回折り曲がっている。それぞれの角にはカーブミラーが備え付けられていた。
一回目の角を曲がる。彼女の姿はもう見えない。
もしかして諦めてくれたのではないか……と、そう考えたタイミングで、2回目の角のミラーに緑色の影が見えた。
僕は萎えかけた足に一層の力を入れて、全力で駆け抜けた。
三回目の角を曲がる。
……やや遅れて、緑の影がミラーの端に姿を現した。
なんでこんな目に会わなければならないのだろう。
僕は何もしていない。彼女のテリトリーを侵したわけじゃないし、彼女に何かいたずらをしたわけでも無い。当然、彼女の言うように用を足したりもしていない。それなのに、彼女は僕を犯人と決めつけて執念深く追いかけてくる……
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その先は一本道だった。
道の先にはもう大通りがある。近くに大学がある関係で、騒がしい声が常に響いている。向こうから聞こえる喧噪。その音の喧しさに安堵する。
しかし、もうミラーは無い。
後ろを見る術はない。振り返れば見えるかも知れないが……そんな勇気は無かった。僕は足が速い方ではなかったし……なにより、彼女の顔を見る気にはなれなかった。
般若とか鬼とか山姥みたいな……そんな、憎悪に歪む皺だらけの顔を想像してしまった。その顔を見たが最後、僕の脚はいよいよ萎えてしまいそうだった。ただ、逃げることしか考えていなかった。
一本道を抜け、大通りに出てからも僕は足を止めることは無かった。
後ろを振り返ることもしなかった。ただただ、彼女から遠ざかりたかった。
……後から思えば、おそらくあの女性は三度目の角を曲がった先まで追いかけてはこなかったのではないだろうか。
あそこは一種の境界線だった。
三度目の角から先の一本道は、もう人目の付かない生存圏ではない。
多くの人の目が向く、公的な空間だった。
ホームレスにも色々いるとは思うが、少なくとも彼女は人目の付かないスペースを自身のテリトリーとして居着いていた。
ならば、誰かに見られたくないという心理があったのではないだろうか。
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その日から歩道橋を通ることは無くなった。
両親や学校にその日あったことを相談し、その道を通りたくないと主張したからである。
僕の主張は受け入れられ、登校は踏切を使うようになった。
彼女のことはしばらく忘れていた。しかし後年、大学で古事記を学んだ際にイザナギ・イザナミの黄泉の国での追いかけっこの下りで、この時のことを思い出すことがあった。
なんでも多くの文化圏でこうした話はあるらしい。
考えてみれば都市伝説などに語られる口裂け女なども『追いかけてくる女』の話である。
『追いかけてくる女』というモチーフは遺伝子レベルに刷り込まれているのではないか……と教諭は言っていた。
その通りだと思う。あんなに恐ろしい経験は今のところしていない。
つい最近、思い切ってこの道を通ってみた。
その場所はすっかりきれいに整備されていて、ホームレスも居着いていなかった。
たとえいたとしても、あの時の女性はもういないだろう。
あの時点で随分な高齢であったように思うし、あれからもう15年は経っている。
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……しかし。三度の角を曲がる度。僕はミラーを見ずにはいられなかった。
そして緑色の影が視界の端を捉えたりはしないか、あの怒鳴り声が耳朶を揺らしはしないか……そう思わずにはいられなかった。
作者佐倉
実話怪談……というか実際に遭った変質者のお話。
最近、沖田瑞穂氏の『怖い女』という本を読んでふと思い出しました。
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こちらも面白いのでぜひお読みいただければ。