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長編37
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深刻な朝

以下、演技または妄想。

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朝。

ベッドから起き上がりカーテンを引くと、からりとした晴れ空から陽が差し、どこかから小鳥の美声が聞こえる。

私はこの平和な朝の光景を、驚きを隠し切れない表情で眺めてみる。

まるで理解できないというふうに、何度もまばたきしながら、じっくりと朝日を浴び続ける。

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しばらくして突然、私はがっくりと膝をつき、肩を落とす。

絶望に包まれた気持ちで、再び窓際で動かなくなる。

やがてその絶望に心を押し潰され、付近に何か鋭利なものがないかを探し始める。

ちょうどベッド横のテーブルに、果物ナイフが置いてある。

それを手に取り、刃先を震わせながら目をつむる。

そして…

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…カルト教団の教祖である私は、自分のすべき決断に苦悩する。

私はある無責任な予言-つまり、昨日の夜をもって世界は滅亡するという予言-によって、大勢の信者を死に追いやった。

しかし、来るはずのない朝はやってきてしまった。

私は自分の過ちを噛み締めるように歯軋りし、強ばった喉元にナイフを向ける。

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死は救いであり、破滅へと向かうこの世界に対する反抗である。

私に全幅の信頼を置く信者たちにそう説いたのは、紛れもなく自分自身である。

そして私に導かれた信者たちの自死を、昨日までに次々と見送ってきた。

数えきれない人数の信者が、嘘の予言を信じてこの世界から消え去った。

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そんな無垢な彼らに対して、当の私はというと、滅亡目前の最期の一夜を、抜け抜けとベッドの上で乗り越えていた。

自分はこの世界の終末を最期まで見届け、天国の彼らに伝えてやるのが役目だと思っていた。

しかし、私はまだこの世界に存在している。

せめて夜が明けず朝が永遠に来なかったらという期待も虚しく、窓の外では朝の光、風に揺れる草木、弾むような小鳥のさえずり…。

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私は今、予言を盛大に外したことを恥じて死ぬべきなのか。大勢の信頼に背いたことを詫びるために死ぬべきなのか。

何より、大勢の命を殺めた罰として死ぬべきなのか。

苦悩の結果下した決断に、ナイフはいよいよ動こうとしていた。

ナイフは赤色に包まれた。

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…私は、テーブルに置いてあったリンゴの皮を、器用な手つきで剥いていた。

固く閉じられたはずの目はいつのまにか開かれていて、膝は床についたまま、丁寧にリンゴの皮を剥いていく。赤い皮は蛇のように細長く、ナイフの刃や腕にまとわりつき、やがて床にとぐろを巻いた。

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私は、生きることを決断したのだ。

大勢の命を殺し、希望を絶望に終わらせ、それでもなお、それらを背負って生きていくことに決めた。

何かを決断した朝は、何千回と繰り返してきたこれまでの朝とは違った。

自分は大勢の命を踏みにじってなお生きているという意識が、生の象徴である朝を特別なものに見せていた。

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朝とは、夜が壊れた結果なのだ。

そして、壊された夜はじっくりと一日かけて修復される。

そのサイクルは、私の命が尽きるまで決して終わらない。

予言を外した今の私は、今日という日に、同じ体で再びこの世に生まれてきたような錯覚に襲われた。

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私は再び窓外の景色を見やった。

破滅とは無縁の穏やかな太陽の光が、驚くほど鮮やかに世界を照らしている。

光の加減で真っ白に見える手元のリンゴをひと口齧った。

甘い香りが部屋に充満し、朝には匂いがあることを、私は初めて知った気がした。

……

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…ここまでは、絶対に口外できない、冴えないサラリーマンである私の、妄想を交えた朝のルーティンである。

私は残りのリンゴを食べ終えると、バスに乗り遅れないよう、急いで身支度を整えた。

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「あれからさ、彼女とはどうなんだよ」

同僚のAが紙コップを片手に、ニヤニヤとしながら近づいてきた。

私は休憩室の長椅子のスペースを空けてやり、Aを快く迎え入れた。

「まあ、会話が弾むようにはなったかな」

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「お前にしては、すごい進歩じゃないか」

私は、Aの傲慢な褒め言葉を素直に受け止めた。

Aのいう「彼女」との関係をここ最近で発展させられたことを喜び、友人の失礼にも目を瞑るほどに浮かれていた。

これまでの私は、もはや数多の命の犠牲の上に自分が立っているという妄想と、そこから生まれた過激な自尊心なしでは、退屈な今日という日を生きられないように思っていた。

毎朝、架空の人命を自らの使命に変えるような痛々しい妄想を繰り広げているのも、そのような日々の退屈に対する恐怖心ゆえである。

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私は、退屈を恐れていた。

しかし、毎朝のルーティンは、彼女の登場によって徐々に変化を見せた。

先月から同じ会社の別部署に配属された、可憐で優雅な彼女。

彼女のおかげで、暗闇のような日常に一筋の光が差した。

これまでの私の人生は、真っ暗な夜だったとさえ思った。

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「じゃあ、お前の話を聞かせてくれよ」

「彼女についての話、だろ」

私が皮肉を言うと、Aはからりとした笑顔で話を促した。

私と部署の違うAは、休憩所で私を見つけては彼女の話を聞かせてくれるようせがんだ。

私とて、社会人になった今でも学生のように恋の話で盛り上がれることを悪くは思っていない。

朝のルーティンに対して、Aに毎朝の"成果"を報告することは、昼の日課になりつつあった。

私はたまたま彼女が同じバスで、さらに言えば同じバス停で同じバスに乗って、同じ会社に出勤することに幸福を感じた。

また、彼女がバス停まで歩いていくところを、アパートの窓から拝めることに運命を感じた。

私の朝のルーティンは、次第に彼女の姿を見るためのものになりつつあった。

退屈を紛らわすための手段が、彼女を見るという目的になり、その目的はどんな退屈をも吹っ飛ばす強力な起爆剤となった。

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私はこれまでにも、彼女について知りうる一切をAに話していた。

私は彼女の趣味や好き嫌いなど、上辺については誰よりも知っているつもりだ。

そのうちのいくつかは、バスの中で彼女から直接聞いたものだった。

今朝彼女が教えてくれたのは、自分からは聞き出すことのためらわれる家族構成、つまり決して上辺ではない要素で、彼女には歳の違わない妹がいるということだった。

成人してからはお互いに一人暮らしをしていて、最近はあまり連絡をとっていないという。

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私は快くAにそのことを話すと、「お前、それ以外に隠し事はないんだろうな」と半ば脅しのように肩を組んでくる。

私は彼のそういうところを、悪くないと思っている。

一方で、Aからすんなりと信用されない自分はまるで悪者みたいで、私は大勢から信用される教祖になんて絶対になれないのだと、心の中で自虐した。

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しかし、ひとつだけ彼には隠していることがある。

彼女について誰かに知ってもらいたいと思いつつ、毎朝決まった時間にアパートの窓から見える女神の姿だけは、自分だけのものにしておきたかった。

何より、Aの性格ならば、毎朝私をからかって、彼女の後ろをとびっきりの笑顔で歩いてくることも否定できない。

また、私の話がきっかけで、Aが私の部屋に来ることになるのもためらわれた。

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「まあ、これからも頑張って俺を楽しませてくれよ」

「別にお前のために彼女に恋をしてるわけじゃないぞ」

私はいつかAに、自分の恋人として彼女のことを話せる日を夢見ていた。

そしてそれは、そう遠くない未来に実現できるのではないかという淡い期待を、胸のどこかで抱いていた。

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朝。

いつものようにカーテンを引くと、からりとした春の空から陽が差し、どこかから小鳥の美声が聞こえる。

私はこの平和な朝の光景の中を、一人の女神が歩いてくるのを知っている。

この偶然に驚きを隠せないように、また、彼女との運命をまるで理解できないというふうに、何度もまばたきしながら、じっくりと朝日を浴び続ける。

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しばらくして突然、がっくりと膝をつき肩を落とす。

彼女が歩いてきたのである。

彼女を見ていることがバレないよう、しかしその姿が確認できる寸前まで、窓際で立ち尽くし、やがて身を隠す。

私は彼女が視界にいない絶望に包まれた気持ちで、再び窓際で動かなくなる。

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それも束の間、すぐに私は、我慢できないという具合に、ゆっくりと顔を上げて窓を覗いてみる。

同時に、ベッド横のテーブルに置いてある果物ナイフを手に取り、時間をかけない朝食の支度に取りかかる。

可憐に歩く彼女の姿を見ながら、器用な手つきでリンゴの皮を剥いていく。

まるでひとつなぎの赤い皮が運命の赤い糸であるかのように、絶対に途切れないようにするすると剥いていく。

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そして、私は苦悩する。

かれこれ一ヶ月も引き延ばしてきたある一大決心を、今日もまた保留にしてしまう弱い心を、なんとか表に出さないよう飲み込み歯軋りする。

もし今日告白しなかったら、このナイフで喉を突き刺して死んでやる。

喉元に向けたナイフは、甘い香りを漂わせながら細かく震えている。

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しかし、私の問題は、もし告白できなかったらというよりも、もし彼女に振られたら、これに尽きる。

私の苦悩は彼女に振られること自体にあるのではなく、振られた後に待っている、彼女を失ったゆえの真っ暗闇な未来に対する苦悩である。

死は救いであり、破滅へと向かうこの世界からの逃避である。

いざとなれば、死んでしまうのもいいじゃないか。

私は、そう言い聞かせる今の自分を信用している。

しかし、いざ彼女を目の前にしたときの自分は、何度このような私を裏切ってきただろうか…。

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ネガティブな思考は空腹からくるものと考え、陽光の加減で真っ白に見えるリンゴにかぶりつく。

彼女の姿は、窓から首を伸ばしても見えないところまで消えていた。

私は、今日も決断できなかった。

何度目となる後悔をする代わりに遅刻しそうだからという言い訳を反芻し、リンゴを平らげると、大急ぎで身支度にとりかかった。

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いつからだろう。朝のルーティンが、彼女を見るためだけのものになったのは。

バス停までの道のりを走りながら考える。

ルーティンは退屈な一日の始まりに喝を入れるためであったが、今は彼女の存在が私の生き甲斐になっている。毎朝バスの中で、彼女と他愛もない話をすることが何物にも変え難い癒しとなっている。

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私の日常は、一ヶ月前には考えられないくらいに、すでに満ち足りている。

今更、これ以上何を望む必要があるのか。

バス停の列の三番目に、彼女は優雅な立ち姿で並んでいた。

私が声をかけると彼女は驚いた表情で振り返り、列の最後尾に並び直し、二人でバスが来るのを待った。

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「昨日は二時間くらい電話したかな」

バスの中で彼女が話すのは、主に彼女の妹の話である。

最近はそればかりで、というのも先日妹から電話があり、それから度々連絡を取り合っているらしい。

彼女の口から妹のこと、それから家庭の事情について聞かされた。

彼女の両親は早くから他界し、その後は子どもに無関心な祖父母の家で育てられた。

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彼女は妹と支え合えながら生きてきた。

時に励まし、時に叱ってくれる妹のことが大好きで、また連絡を取り合えることがとても嬉しいと笑顔で話した。

「ごめんなさい、私のことばかりで」

私は彼女の謝罪を慰め、さらに話を促した。

彼女が妹をまるで自分のことのように話すのも、それだけ妹を愛している結果だと思うと、少し羨ましかった。

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「妹と直接会う予定はないの?」

私は彼女に訊いてみた。

「いつか会いたいねって話してたんだけど、今は忙しいみたい」

なんでも、付き合ってる彼といい感じみたい。

彼女は窓の外を見ながら、呟くようにそう言った。

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私は、彼女が妹に対して嫉妬しているのではないかと思った。

そして、もしそうならば、今こそ決断を下さなければならないような気がした。

「私、妹のこと大好きなんだ。だから早く結婚して、誰よりも幸せになってほしい」

しかし、彼女の言葉は私の思惑を颯爽と打ち崩した。

彼女の心に溢れているのは、嫉妬ではなく、純粋な思いやりであった。

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そんな彼女の目はこの世の誰よりも優しくて、窓の外を見つめるその先の光景がすべて映画のワンシーンのように鮮やかに見えている気がした。

そして、その中に、私はいないのだと思い知った。

彼女にとっての朝は、昨日という幸福な一日を振り返るためのものであった。

昨日とは、これまでに紡いできた過去という膨大な時間を一身に背負ったものであり、彼女は過去のすべてを受け入れて、今日という一日を生きている。

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彼女は決して私と話したいのではなく、私との会話を通じて、彼女自身と話したいのかもしれない。

彼女は妹を愛している。

そして彼女は、妹から愛されている。

いや、妹だけでなく、彼女はたくさんの人を愛し、同じくらいに、彼らから愛されて生きている。

そして何より、彼女は自分自身を愛している。

愛とはつまり信用であり、本当に人から信用される人は、誰よりも他人を、そして自分自身を信用することができる人なのかもしれない。

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私が毎朝なりすましている教祖は、本当に他人から信用されているのか。

何より、自分自身を信用できているのだろうか。

誰かに愛されることを知らない限り、私はどこにいようが暗闇の中から抜け出せない。

退屈な日々は、世界が滅亡しない限り終わらない。

私は、告白すらできない意気地なしの自分を、頭の片隅にしまい込んだ。

代わりに、先ほど彼女の口から出た結婚という言葉が、特別な響きを持って脳内を駆けめぐった。

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誰かに愛されることのすべては、結婚によって叶う気がした。

そして彼女と結婚できた自分を、私はより誇らしく愛することができるはずだと思った。

彼女は私の隣で、相変わらず妹の話をしていた。

しかし私は、その話の内容をほとんど理解できないでいた。

私は上の空で、ただ彼女の話が途切れるタイミングを待った。

彼女がひと息ついた時、すでにバスは会社の最寄りのバス停に到着していた。

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「今日も一日頑張ろうね」

バスから降りると彼女はそう言った。

私は毎朝この瞬間に、一日の終わりを強く願っていた。明日の朝になれば彼女に会えるという一心で、これから始まる新しい一日を耐え忍ぶ勇気をもらっていた。

でも、彼女は違った。

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彼女は私に手を振ると、今日という一日に向かって楽しそうに去っていった。

私は彼女の背中に向かって手を振った。

この日から、ひとつの願望が私の頭から離れなくなった。

何が何でも、彼女と結婚したいという願望。

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まだ誰とも付き合ったことのない私は、それでも遠ざかる後ろ姿に、純白のドレスを夢見ていた。

…………

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「で、今日で一週間になるわけね」

同僚のAは紙コップの手とは逆の手で、ニヤニヤとしながら私の肩を叩いた。

私は彼のように笑いたかったが、うまくいかなかった。

目標実現の第一歩は、それについて誰かに語ることだ。

そう思ってまずはAに、近日中に彼女に告白することを宣言したが、喉元過ぎればなんとやら、それからなんの進展もなく、あっという間に一週間が経とうとしている。

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「お前がここまで奥手だとは思わなかったよ」

彼の言葉には決して嘲笑の響きはなかった。それでも、私には重く冷たい言葉に受け取られた。

彼女との結婚を意識したあの日以降、この日常を、そして、意気地なしの自分を変えることに、何度も挑戦したはずだった。

満ち足りていると思った日常は実は嘘で、自分は彼女と会話するだけでは決して満足していないことに、とっくに気づいていた。

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彼女と顔を合わせるたびに募っていく感情は以前とは違っていて、楽しそうに話す彼女の隣で感じていたはずのかつての幸福は、彼女は自分にとって遠い存在であることを実感するという不幸に取って代わられた。

そんな日常は次第に耐え難く、唯一現状を打開できる手段は彼女に想いを告げることなのだと、それもわかっている。

しかし、毎度あと一歩のところで、私の勇気は隠れてしまう。

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「まあ、お前が奥手なのはいいけど、彼女とのことを秘密にしなくたっていいだろう?」

私はここ数日、彼に彼女との会話について話していなかった。

Aは、毎日楽しみにしてたんだぞと再び肩を叩いてくれて、もしかしたら私を励まそうとしてくれているのかもしれない。

しかし、私は彼のことを、心から信用する気になれないでいた。

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Aに彼女のことを話さなくなった理由として、そのような懐疑心が生まれたことは否定できない。

しかし、一番の理由は、私が相変わらずの上の空で、彼女の話をほとんど聞いていないということである。

いや、決して彼女のことを無視しているのではない。相槌は打つし、彼女が笑えば私も笑う。

周りから見たら誰ひとりとして、私が彼女の話に耳を貸していないとは思えないだろう。

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それでも、私の頭の中は別のことを考えていて、しかし何を考えているのかは自分でもわからない。

ただ、彼女の話が私の両の耳から通り抜けていくことは事実であり、日々の苦悩を癒していた彼女との会話が、今ではそれ自体が苦悩の種になっている気がした。

隣にいるほど、彼女は遠くに行ってしまう。

それでも私は、この日常を壊すための一歩を踏み出せないでいる。

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彼女と結婚したい、そのためにまずは付き合いたいと思う一方で、毎朝バスに揺られる十数分だけ顔を合わせるという今の関係を壊したくない気持ちが併立する。

新しいものを得るには既存の何かを壊さなければならないという、そんな当たり前のことに私は抗い続けている。

「うかうかしてると、俺が奪っちゃうかもよ」

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刹那、私は声のした方に反射的に振り向いた。Aが、先ほどのニヤニヤした表情ではなく、真剣な顔つきで私を見ている。

「本気なのか」

「本気かもね。てか、まだお前のものになってないじゃん」

私の声はかすかに震えている一方で、彼の声は堂々としている。

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私は彼の言葉を聞いて、これまでに感じたことのない恐怖を覚えた。

そしてその恐怖は、一刻も早く彼女を自分のものにしなければならないという危機感を私に植えつけた。

信じられないことに、私はこれまでに、彼女が他の誰かのものになることを考えもしなかった。

それは私が、バスの中での彼女を信じていたからであった。

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あんなにも親しく、それも毎朝、私と話してくれる彼女は、少なからず私に好意を抱いていて、たとえ他の誰かから誘われたとしても、一番に私のことを思って断るだろうとしか考えていなかった。

ましてや、私という存在がありながら、他の誰かが彼女に言い寄ることはないと、根拠がないにも関わらずたかを括っていた。

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しかし、今目の前には、紛れもなく自分の脅威となる存在がある。

もしかしたらAは、私に危機感を持たせるために演技をしているのかもしれない。

それでも、Aは本当に彼女のことを好いていると考える方が自然なように思えた。

Aが彼女のことを執拗に訊いてくるのも、私の恋話が聞きたいからではなかったのかもしれない。

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せめてAがその真剣な表情を崩して、冗談だよと肩を叩いてくれたら、私はどれほど救われただろう。

しかし、現実のAは私を見据えたまま席から立ち上がると、空になった紙コップをゴミ箱に捨て、そのまま立ち去ってしまった。

彼女だけでなくAまでもが、遠くに行ってしまったように感じた。

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私はもちろん、同僚であり友人の、Aの恋路を邪魔しようとは思わなかった。

一方で、彼女がAのものになってしまうことは避けなければならなかった。

私は彼女とどうなりたいのか。

結婚や恋愛というのはただの修飾的な表現で、それらを意識した私の、彼女に対しての純粋な気持ちとは何なのか。

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私は、Aの彼女に対する気持ちよりも、自分が彼女に対して抱く感情の方が純粋であることを確認する必要があった。

彼に対する唯一の反抗手段は、彼女に向けた自分の熱意であると思った。

私は、彼女とどうなりたいのか。

私は、彼女の隣で朝を迎えたかった。

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私は、彼女の幸福な一日の、始まりと終わりを共有したかった。

バスの中でしている昨日についての会話を、今日の話として同じ枕の上でしたかった。

私は、彼女と恋人になりたいのではないのかもしれない。

私の最も純粋な感情は、朝と夜を含めた彼女の一日を、支配したいということなのかもしれない。

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これまでの私は、彼女に対するそんな自分勝手な感情を美化するために、恋だの結婚だのと上辺だけを繕ってきたように思えた。

しかし、私が本当に欲していたのは、上辺に隠された、欲望ともいえる、彼女を支配したいという感情だったのかもしれない。

たとえば、かのカルト教団の教祖の思想は決して世界の終末を見届けたいという崇高なものではなく、長く生きたいという人間の根源的な欲望だとしても、私は決して彼を責めることはないだろう。

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それどころか、世界の滅亡を前にしてなお生を諦めない純粋な心は、責められるものではなく崇拝されるべきではないか。

たとえ大勢の命を失わせた悪党だとしても、その命の輝きは誰よりも明るいものではないか。

私は、毎朝演じていた架空の教祖と、初めて一体になれた気がした。

彼女という希望を失う危機を前に、私は初めて純粋な心を手に入れたのだ。

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このときの私は、誰かを支配するという感情に対して、少しも疑問を持たなかった。

それどころか、今ならなんでもうまくいくと思える全能感に溢れ、早く明日の朝が来ないかと待ち侘びた。

もちろん、本当に彼女のすべてを支配しようと本気では思っていない。

ただ、その心意気こそが、告白には必要なのだと思った。

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つまり、私はついに、彼女に告白する覚悟を決めたのだ。

私はその日中、彼女のことを考えていた。告白のタイミングは明日の夜にしようと決めた。

そのためには朝のバスの中で、勤務後の予定について彼女に尋ねる必要があった。

…しかし、次の朝、彼女はバス停までの道のりを、いつもの時間になっても歩いてくることはなかった。

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私は彼女のことを心の底から心配し、遅刻ぎりぎりまでアパートの窓の前で粘っていたが、やはり彼女は歩いてこない。

いよいよ耐えかねてバス停に行ってみても、そこでも彼女らしい姿は見当たらない。

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結局その日は彼女に会えず終いで、私はというと、盛大に遅刻をして上司に怒られた。

それでも私は上の空で上司の怒鳴り声を聞き流し、頭の中ではひたすらに、彼女のことばかりを考えていた。

私は彼女と出会った半年前のことを思い出した。

彼女に一目惚れした私はどうしても話がしたくて、ある日の朝、勇気を持ってバスの中で話しかけた。

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今思えば、私は相当に不審だったかもしれない。

それでも彼女は、嫌な顔ひとつせずに私を受け入れてくれた。

あの頃の私は、決して臆病ではなかった。

そして彼女は、私の勇気を認めてくれた。

だから今度は、私が彼女のことを受け入れようと思った。

彼女にどんな事情があろうと、私は彼女を待ち続けるつもりだった。

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…しかし、それから数日にして、Aと彼女が付き合っているという噂が社内を飛び交うようになった。

その噂は当然私の耳にも入り、耳障りなそれは私の意に反して、かつての彼女の話のように、記憶に残らず通り過ぎてはくれなかった。

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噂によると、彼女はどうやら、Aのアパートから会社に通っているらしかった。

これで彼女がバス停に現れない説明がついたが、私は納得できなかった。

そのような変化は、Aにも現れた。

彼はその日以降、いつもの時間に休憩所に来なくなった。

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そして、私が誰とも話さなくなってから二週間ほど経ったある日、いつもの休憩所でAと彼女が親しげに話しているのを見てしまった。

私はその時ようやく、噂が本当であることを悟った。

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私は、これまで以上に苦悩した。

自分がどうして周りに裏切られるのかわからなかった。

自分が全能でないことに失望した。

何かを行動に移す前に挫折したのは初めてではないにしろ、今回ばかりは、自分の運のなさを嘆いた。

もし、Aよりも先に彼女に告白していたら、噂の主役は私だったかもしれない。

そう思うと、私はやり切れない思いでいっぱいになった。

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そのように自分の不運を嘆く一方で、私は決してAを妬んではいなかった。

私はこの世に当たり前に存在する、結婚という概念について思考を巡らせた。

そして、彼女との結婚に向かうAの背中を、友人として精一杯押してあげたいと思った。

私にはとても、たとえ彼女とでなくとも、結婚なんて無理だったのだと考えを改め、自分に言い聞かせた。

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結婚とは、相手の人生を背負うことである。

他人がこれまでに歩んできた時間と、その時間の中で出会った大切に思える人たちの期待や幸福を、別の人間が自分のもののように大切にすることなんて、少なくとも私には不可能であるように思われた。

婚姻の果てに生まれるのは、愛情ではなく支配なのではないか。

そう考える一方、私は孤独な自分の幼少期の反動で、大人になった自分の将来の結婚に夢見ていた。

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私は結婚というものが途方もなく困難であることに、とうの昔に気づいていたはずなのだ。

それでも、一目惚れをさせてくれた素敵な彼女と出会い、もしかしたら自分は両親のようにはならないという淡い期待が次第に私の人生の目標にまでなった時、ふと現実が顔を見せた。

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現実は私のもとから彼女を取り上げ、私の日常はまるで太陽を隠された曇り空のように影を落とし始めた。

いっそのこと以前の真っ暗闇な日々に、戻れた方がまだ良かった。

私の日常から彼女は消えてくれなかった。

自分のものではなく他の誰かのものとして、彼女は私の生活の一部となっていた。

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毎朝、彼女とAは同じ時間に、私のアパートの前を歩いて通るようになった。

一時はAのアパートで同棲していると思っていたが、最近は彼女の家で二人暮らしをしているらしい。

これまでの規則正しい生活習慣のせいか、私の起床時間は以前と変わらず、私は彼らを避けるために、ひとつ後のバスに乗らなければならなかった。

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私の朝には、変わらず彼女がいた。

そのために私は、朝が来るのを怯えていた。

彼らは毎日、違う話で盛り上がった。

窓を閉めた二階の部屋からも、鮮明に地上の彼らの声が聞こえることに嫌気がさした。

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ある朝、彼らは勤務後のディナーの話をしていた。

その日は彼女の誕生日らしく、Aは一ヶ月前から予約をしていたレストランの高級なメニューや夜景について、嬉しそうな彼女に向かって意気揚々と話していた。

また、別の日の朝は、翌日からの旅行についての話に花を咲かせていた。

二人揃って同じ日に有給をとり、二泊三日の温泉旅行に出かけるという。

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今度は彼女が旅行の手引きをするらしかった。

予約した旅館から眺める絶景や豪華な夕食について、自分の誕生日にAにしてもらった時以上に、楽しそうに話していた。

何でも、三日間の旅行の真ん中の日は、私も知っているAの誕生日だった。

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旅行から帰ってきた彼らは、いっそう親密な関係に見え、次第にお互いの家庭のことについて話す機会が増えていった。

彼らの家庭の話は、自然と結婚の話になっていた。

私が二人に裏切られて半年が経った頃、変わらず楽しそうな彼らの話によると、二人は来月に結婚するらしかった。

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私は聞きたくもない彼らの会話に、それでも耳を傾けていた。

次の日も、その次の日も、彼らの結婚や家族計画の話は繰り広げられ、Aがますます仕事を頑張らないとな、と笑う傍ら、私はというと、いつしか会社にも行かなくなっていた。

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その日は朝から雨が降っていた。

しとしとと降り続く雨が、窓ガラスの向こう側の世界を叩いている。

私はベッドの上にいた。

ガラスの水滴は不規則な模様を作り出し、私が外の世界を覗くのを阻んでいる。

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しかし、私はそれでもよかった。

私はあの二人が、雨の日にはいつもよりひとつ早いバスに乗っていくことを知っていた。

今もうとっくに、彼らはバスに乗っているはずだ。

私は何の目的もなく、降り頻る雨をただ見ていた。

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しばらくしてベッドから立ち上がり、朝食のリンゴの準備をする。

ナイフを持った手の動きによって、するすると赤い皮が床に落ちていった。

私の足元の床には、かろうじて原形を留めている腐ったリンゴの皮が散乱していた。

その臭気は雨の匂いとひとつになって、この部屋の憂鬱を作り出していた。

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会社を辞めた私は、それでも彼女とAを追い続けていた。

毎朝、私の目は仲睦まじい彼らの姿をとらえ、私の耳は楽しげな会話を聞いた。

私が彼らの前に姿を現すことは決してなく、彼らもまた、私に見られているとは思っていないだろう。

つくづく、この部屋に住んでいることをAに話さなくてよかったと思った。

そして、私の住処を誰も知らないために、私はいっそう孤独になった。

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外では、相変わらず雨が降っている。

私はふと、彼女の妹のことを思い出した。

最後に彼女から話を聞いたのは、もう一年以上も前になる。

その時妹は結婚を考えていて、彼女は妹が早く結婚することを願っていた。

もう、妹は結婚したのだろうか。

彼女が望んだように、幸せになったのだろうか。

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彼女と顔を合わせなくなった今では、私には知りようもないことであった。

毎朝の盗み聞きで、彼女とAの結婚生活がうまくいっていることは自ずと知れたが、妹のことまではわからなかった。

私は不味そうにリンゴを齧りながら、自分がどうして会社を辞めたのか振り返ってみた。

彼女を失い、その上仕事まで辞めてしまえば、これまで以上に退屈になることはわかりきっていた。

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それでも、私は半ば衝動的に会社を去った。

彼女と出会い、Aと親しんだ会社から、逃げ出すように辞退した。

私は、退屈と向き合いたかったのかもしれない。

自分が会社を辞めたことに、今更ながら何か理由が欲しかった。

私は思考で退屈を遠ざけ、感情で退屈を恐れていても、本能では、退屈を克服しなければいけないと感じ取っていたのかもしれない。

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私の人生は、常に退屈との戦いであった。

幼い頃から両親が共働きで、兄弟もいない私は長い一日をひとりで過ごさなければならなかった。

たまにある休日でも、両親は私を構ってはくれなかった。

私はできるだけ利口に努め、彼らから嫌われないように子どもながらに気を遣って幼少期を過ごした。

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中学生になって物事の分別がついてきた頃、私は両親の自分に対する態度がネグレクトであることを知った。

その時の私には家族同然とも呼べる友があり、今更両親に期待することが馬鹿らしくなった。

それでも、両親の愛を完全に諦めたわけではなかった。

もし彼らがこれまでの過ちを認めてくれるなら、私は決して責めることなく彼らの謝罪を受け入れたに違いなかった。

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しかし、両親二人ともに、反省の色など微塵もみられなかった。

私は彼らと顔を合わせることを次第に避け始めた。

高校生になると、友人とも距離を遠ざけた。

私は誰かと一緒にいればいるほど、耐え難い孤独感を感じなければならなかった。

孤独の代償は、地獄のような退屈だった。

やりたいこともなく、生きている意味もわからない。

誰からも求められず、自分にすら期待できない日々。

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唯一私に意味を与えてくれたのは仕事だった。

自分の労働によって給料が発生し、その金で食っていくことに生きる喜びを知った。

一方で、私は相変わらず孤独であり、退屈だった。

会社の同僚や上司は、決して家族以上の存在ではない。

私は人に認められることはできても、心の底から愛されることはなかった。

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自分には仕事以外に何もない。

誰からも愛されず、仕事すら辞めた今、私には何があるのだろうか。

最近の自分を省みる。

ここ数日、まったく部屋から出ていない。

私はきっと、誰の目にも触れずゆっくりしたかったのだと思う。

また、私は会社を辞めてなお、彼女たちの観察を続けている。

私はきっと、誰かの幸福の傍観者でいたかったのだろう。

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それでいて、彼女たちの会話に不幸の話題が生まれると、私は奇妙なくらいに嬉しい気持ちになってしまう。

私はきっと、誰かの不幸の目撃者でありたいのだ。

以前の規則正しい生活の影もなく、私は荒みきっていた。

酒さえあれば、まともな食事を摂らなくてもよかった。

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今の私にあるのは、本能だった。

そして、本能は退屈を紛らわすものではなく、退屈に打ち勝つものなのだと考えた。

本能こそが生きる意味であり、意味のある生き方こそ、退屈を感じない充実した人生を実現する。

私は自分の結論に満足した。

私は本能に従うように、その日も朝から飲み耽った。

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私はいつのまにか、酒という魔力に溺れていた。

酒はよかった。これまでの苦悩を忘れ、苦痛を取り去り、退屈を慰めることができた。

私は酒になりたいと思った。

多くの人に愛され、必要とされ、何度も求められる酒という存在に憧れた。

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買い置きしていた酒はやがて尽き、それでも飲み足りないために雨の中を出かけなければならなかった。

私は渋々と部屋を出て、傘を片手に繁華街へと繰り出した。

久しぶりの外の空気は澄んでいて、澱んだ部屋にこもっていた自分には外の世界はかえって息苦しく感じた。

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せっかく靴を履いたのでこのまま外で飲もうと考えていたが、雨の中を歩いていると次第に酔いが冷めてきた。

ふわふわと程よく朦朧した意識が雨の匂いに刺激されて気持ちよく、今日はこれ以上酒を飲む必要がないように思えた。

私は酒を飲む代わりに、ひたすらに歩いた。

雨は一向に止む気配がなく、私はそれでも構わなかった。

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途中、いくつもの教会の前を通った。

私の住んでいた町には、こんなにも教会があるのかと驚いた。

いつのまにか隣町まで歩いていた。

私はその町の、ある教会の前で立ち止まった。

私は、はっとした気持ちになった。

門前に設られた掲示板には、力強い墨の達筆で、格言のようなものが書かれていたのである。

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「科学は人生に富をもたらし、宗教は人生に意味を与える」

…私はそこを通り過ぎた後も、しばらくこの言葉を反芻していた。

私はこの言葉に、宗教に対する前向きな態度よりも、人生に対する後ろ向きな印象を受け取った。

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人生とは、何かに意味を与えられなければならないものなのか。

人生そのものに、意味は伴っていないのか。

私は次第にむしゃくしゃした気分になった。

今頃になって濡れた靴が気持ち悪く感じ、肌にまとわりついた汗に嫌気がさした。

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辺りはすっかり暗くなっていた。

しかし、私は夜に救われたような気がした。

私は今では朝に怯える一方で、真っ暗な夜という時間に何かを期待していた。

彼女に告白する決心が生んだかつての全能感が、太陽の光が翳るにつれて自分のうちに蘇り、夜の中で私は、本当の意味で目覚めるように思った。

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私は酒代にと持ってきていたわずかな金でバスに乗り、何もないあの部屋に向かって猛スピードで引き返した。

快適なバスに揺られながら、ごちゃごちゃと考えて歩いていた先ほどの自分を愚かに思った。

宗教に対して、科学は何と便利なものか。

よく効いたクーラーの風が、全身の汗を急速に冷やしていった。

私の頭も、すっと冴えていく気がした。

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だからだろうか。

私はアパートの最寄りのバス停まであと少しというところで、窓外にひとりの女性が歩いているのを、決して見逃しはしなかった。

傘を持たず、どこか見覚えのある背中が、土砂降りの中を歩いている。

そしてバスが女性の横を通り過ぎる時、私はその女性が、かつて想いを寄せたあの彼女であることに気づいた。

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私はすぐに降車ボタンを押した。

まもなくバスは停車した。

私は傘を開きもせずに、彼女の歩いていた方に向かって走った。

彼女に近づくにつれアパートからの距離は遠くになっていくが、私は全然気にしなかった。

私が彼女の目の前にたどり着いた時、彼女はすでに全身を雨に濡らしていた。

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私は彼女をアパートの二階から見下ろすのではなく、同じ平面上で向かい合えることに喜びを感じた。

同時に、目の前の彼女に起こったであろう喜びとは程遠い異変を、私は一緒に受け入れたいと思った。

彼女は全身で泣いていた。

スーツと黒髪が同じ色に塗れ、周りの暗闇と一体になっていた。

その黒は彼女の内面の色でもあり、彼女はその目元口元に、普段とは違う雰囲気を纏っていた。

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彼女は突然に現れた私の姿を一瞥した。

私はようやく今の自分の身なりを恥じた。

だらしのない灰色のスウェットに雨が染みているのが、急に情けなく感じた。

彼女は一瞬戸惑ったが、すぐにどうでもいいといった様子で、私の横を通り過ぎようとしていた。

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「何かあったの?」

「別に何でもないです」

私は彼女が自分に対して敬語を使うことに、心臓を掴まれるような苦痛を感じた。

部屋の中に閉じこもり続けた私と、毎朝歩き続けた彼女の距離は、決してアパート二階分の距離なんかに収まらないことを知った。

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それでも、私は諦めることを躊躇した。

まるで彼女に告白しなかったことを悔い改めるように、私は嫌われる覚悟をもって、彼女の後を追いかけ話し続けた。

「これ以上着いてくるなら、警察呼びますよ」

彼女の警告に、それでも私はめげなかった。

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「彼と何かあったんだろ」

私の問いに、彼女ははっとした様子で口籠った。

言い当てられたことを悔しがるように顔に影を落とす彼女は、一方で、どこか解き放たれた表情をしていた。

「私が話したら、もう着いてこないって約束します?」

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「約束はできない。でも、無理やり着いていくことはもうしない」

私がそう言うと、彼女はからりと笑った。

その笑い方が私の知っているAのそれにそっくりで、私は複雑な心境になった。

「今までは無理やり着いてきてる自覚あったんだ」

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これまでの強引さを詫びると、彼女はまた笑うので、私は自分の悩みなんてどうでもよくなった。

私は、彼女の抱える闇を晴らしてあげたいと思った。

それは同時に、自分の中の闇も晴らすことのように思えた。

「でも、私もあなたのことを非難ばかりできないね」

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実は私も、ちょうど誰かに話したかったんだ。

そこでようやく、私たちは傘をさしていないことに気づいた。

私は手に持っていた傘を開き、彼女の隣に立った。

それから私たちは同じ方向を、雨を掻き分けるようにして歩いた。

今にも雨音に消えてしまいそうな声で語る彼女の苦悩は、幸福だった結婚生活の破綻についてであった。

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…彼女が話し終えた後も、私たちは肩を並べて歩いていた。

それ以降お互いにひと言も話さないので、彼女にはきっと雨の音がいっそう大きく響いていたかもしれない。

しかし私の耳は、一切の音を遮断していた。

私は彼女にかけるべき言葉に頭を悩ませていた。

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彼女は私に返事を促すこともせず、私たちはただ単調な歩幅を積み重ねた。

でも本当は、彼女は私からの言葉を待っているのかもしれなかった。

いや、そうに違いなかった。

しかし私は、彼女が話してくれた苦悩に現在進行形の自分の苦悩が重なり、過去一度も克服できていない私の苦悩に、答えを出すことなんてできないと思った。

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ネグレクト。

私はこの言葉の意味について正確にわからないから、彼女の苦悩がネグレクトといえるものか判断できない。

ただ、彼女が雨の中を傘もささずに歩かなければならなかった理由は、夫の彼女に対する徹底的な無視であった。

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きっかけは些細なことだった。

ある日の口喧嘩を境に、夫はひと言も口を聞かなくなった。

それは次第にエスカレートし、彼女の挨拶や呼びかけは悉く無視されるようになった。

仲直りしようにも、話し合いができないのでは到底叶わないことだった。

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しかし、彼女を最も苦しめたのは、彼が家の外では今まで通りに接してくることであった。つまり、彼女が無視されるのは家の中だけで、他人の目がある外の世界で彼は優秀な社会人と良き夫を演じていた。

彼女は、夫が自分ではなく、世間体を選んだことに失望した。

それでいて彼女自身も、周りからの評価が怖くて、外では仲のいい夫婦を演じ続けていた。

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私は、毎朝見ている彼女たちの仲睦まじい姿を思い出した。

それは見せかけの姿で、彼らの間で交わされた会話はすべて嘘だったのだ。

彼女は話の中で一度もAの名前を言わず、夫のことを「あいつ」と呼んだ。

にもかかわらず、その語気は落ち着いたもので、私は彼女の抱える憎悪が今に始まったものではなく、彼女の中で幾度も折り合いをつけてきたものなのだと理解した。

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私は彼女の苦痛を骨身に染みるように思った。

彼女の置かれた地獄に気づかず、毎朝外から眺め続けた自分を殺したいと思った。

彼女の幼少期を思い出してまた後悔した。

彼女は両親の死後、無関心な祖父母のもとで妹と助け合いながら生きてきた。

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そんな彼女には報われてもらいたかった。

そう願う気持ちと同時に、これまでにないチャンスだと思う自分を否定できなかった。

私が彼女に告白する、これまでにないチャンス。

「でも、本当は」

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突然、彼女の声が私の思惑を遮るように、頭の中で響いた。

私は彼女の方を見た。

彼女もまた、こちらを見ていた。

「…本当は、私自身を騙し続けてきた自分のことが、あいつよりも、他の誰よりもいちばん嫌いだった。

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結婚して誰かを好きになることが人生の幸せだと思っていたけど、私はひとりでも幸せになれるんだと思った。

私が自分を好きでいる限り、私はいつだって幸せになれる。

だからもう、終わりにする。私、離婚しようと思うんだ」

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彼女はそう言うと、私の目の奥をじっと見据えながら、今度こそ返事を待つように動かなかった。

私は、いよいよ口を開こうとした。

「聞いてくれてありがとう」

しかし、私よりも先に彼女はそう言って前を向いた。

彼女の歩調は次第に早くなり、私の先を行く背中は、もう着いてくるなと言っているようであった。

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雨が頭上の傘を叩いている。

隣には一人分の空間が空き、まるで回転不足で傾いた独楽のように、アンバランスな傘は私の手から離れて地面へと落ちた。

彼女は後ろを振り返りもせず、彼女自身の幸福に向かって歩いていく。

私は離れゆく背中にデジャヴを覚えて、その背中がいつだって自分を必要としていなかったことを思い出した。

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雨が、私の頭を叩いている。

頭の中を雨が洗い流したように、先ほどまでのまとまりのない思考の一切を失う。

傘を閉じながら、冴え渡る私の頭は、ある計画を思いつく。

そして、私の身体は私よりも先に行動する。

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「ここ、自分のアパートなんだ。もしよかったら、家の近くまで車で送っていくよ」

私は彼女の背中に追いつくとそう言った。

ちょうどそこは、私の住むアパートの前だった。

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彼女は振り返り、呆れたような視線を私に投げかける。

「車なんて持ってないでしょ。それより、その傘を私にちょうだい」

私は自分の"嘘"があっけなくばれたことに動揺した。

彼女は、私の持っている傘を引ったくろうとした。

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私は、手に力を込めた。

彼女は間接的に私とつながり、そのことに気づいて咄嗟に手を離した。

「何なのよ!あんたみたいなろくに仕事もしてない身なりの人が、車なんて持ってるわけないでしょ。それに、私は家に帰りたくないの。これから実家に帰るつもりだから、本当にもう着いてこないで」

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彼女は鬼の形相でまくし立てると、私から遠ざかっていった。

しかし、私が不意に傘を落とすと、その音に反応して立ち止まった。

「それじゃあ、せめて身体を拭いていきなよ。部屋にタオルがあるから、それを取りに行こう。あと、部屋着もいっぱいあるから。濡れたままだと、風邪ひいちゃうよ」

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私は呟くようにそう言った。

雨の音にかき消されたその声は、彼女に届いているのかわからなかった。

しかし、私の身体は、すでに生身の彼女を捕らえていた。

私が言い終わるより先に走り出した彼女の背中を、私は猛スピードで捕まえて、暴れる彼女を押さえつけるために、両手で軽く首を絞めつけた。

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本当に、軽く絞めたつもりだった。

一瞬だけでも、彼女を支配する優越感に浸りたかったゆえの行動だった。

しかし、私の手の先につながるその身体は、やがて魂が抜けたように脱力して一切を私に預けた。

私は彼女を部屋に運ぶことにした。

抱えた身体から、彼女の鼓動が聞こえた。

彼女はまだ生きていた。

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私は彼女が目覚めたら、私の一切を彼女に打ち明けようと思った。

願わくば、この夜を永遠のものにできたなら。

…私の思惑通り、やがて彼女は目覚めた。

そして数時間後、私の決意は、血に塗れた死体をつくりだした。

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…………

…………「あなたは、自分のことばっかりね」

腐臭と雨の匂いの充満する部屋を、それまで雲に隠れていた月明かりがライトアップする。

雨はもう、降っていない。

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窓をつたう水滴は乾いていて、外の世界を覗くのに少しも支障をきたさない。

しかし、私に窓は必要なかった。

彼女は今、私の目の前にいる。

暗闇の中で横たわる彼女は、死を目前にしてなお、毅然とした態度で言い放つ。

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「声をかけてきたあの時から、あなたは自分のことばっかり」

「自分のことばっかり…?」

…私は、そうは思わなかった。

私はただ、逃げ続けてきただけなのだ。

しかし、私が逃げることで利益を得たのは、決して私自身ではなかった。私は自分のために逃げていたわけではなかった。

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彼女は両手足を縛られた格好で、それでも私を睨み返していた。私は彼女から目を逸らした。

私はまるで、後戻りのできない現実から目を逸らすように、彼女のことを直視できなかった。

あるいは、逃げ続けてきた自分の過去を、受け入れたくないのかもしれなかった。

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たしかに、彼女に告白しなかったのも、会社を辞めたのも、何かと理由をつけて、自分の思い通りにならないことから逃げてきた結果だった。

そしてその度に、得られるかもしれない何かを失ってきた。

しかし、失うだけの人生ではなかった。

あらゆることから逃げるために育んできた思考は、自分には本能以外の何もないことを教えた。

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私は考えれば考えるほど、理性を手放し本能に近づいた。

本能こそ生きる意味であり、宗教よりも人生に意味を与えるものであると信じた。

本能とは、人類の、いや、四十億年にも及ぶ生物の進化の記憶である。

人間の幼児の行動が極めて動物に近いように、言語や思考という皮を本能に被せただけの動物の姿が、人間の本当の正体である。

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私は今から、彼女を得るために彼女を刺そうと思った。

生物は何かを獲得して生き永らえてきて、野生動物然り、野蛮な原始人然り、彼らは狩ることでしか存在できなかった。

それは本能としてすべての肉体に備わり、私はこれから行われる殺人の責任を、野蛮な生物の歴史に押しつけようとした。

決して私のための殺人ではないのだ。

そして私は彼女と向き合い、無抵抗な身体を何度も刺した。

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彼女を刺した瞬間、顔も知らない彼女の両親や妹、祖父母、友人、恩師、そして、Aのことがぐるぐると頭をよぎった。

私はそれでも手を休めなかったが、彼女の身体をナイフが貫くたびに、自分は動物ではなく人間であることを悟った。

周囲が赤く染まった頃には、自分がどうして彼女を刺しているのかわからなくなった。

私は返り血を浴びてやっと、自分が取り返しのつかないことをしていることに気づいた。

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私がこれから生きるということは、彼女を信じ、託し、愛してきた彼らの、怒りと絶望を背負って生きていくということだ。

背負うのは、すべて私なのだ。

私は彼女から飛び退くようにして離れた。

窓辺で立ち尽くした私の手には、朝食のためだったはずの果物ナイフが握られていた。

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刃先は何十と刺されることで付着した彼女の血肉によって重みを増し、刺殺の手応えを覚えた右手が力を失うと、滑るように床の上に落ちた。

私は窓の外を見た。

空に浮かぶ月が満月であることに気づいた。

あの月の下、彼女に逃げられたあの夜道の私は、彼女と一緒に死ぬ気でいたはずだった。

それでも、彼女の死体を目の前にした今、私のうちに響めく根源的な、生きたいという欲望が当初の計画の邪魔をした。

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私は再びナイフを握り、喉元にあてがった。

真っ暗な部屋と同じ黒色の刃先は、ただ震えるだけで動こうとしなかった。

私は今、思考か本能のいずれにおいて、三度(みたび)逃げようと試みていた。

死とは何なのか。

死は反抗であり、逃亡であり、救いである。

私は死ぬことで、この先に待っている責任と後悔に苛まれる苦しい人生から脱落できる。

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私は心から死にたかった。

しかし私は、あらゆることから逃げ続けてきた私は、その死からも逃げようとしていた。

私には、変わりなくやってくる朝を迎える勇気がなかった。

それでも、人生に絶望してなお、その人生から逃げる唯一の手段を恐れていた。

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私は、生きたいのである。

そのために、永遠に夜の中に存在したいと思った。

朝の到来は、今後の人生における社会的な孤立を意味した。

この夜が終われば、私はいずれ、猟奇的殺人犯として捕まるに違いなかった。

私は、どうすれば朝から逃げられるか考えた。

でも、私がいくら遠くに逃げようと、迫り来るものには抗えなかった。

私の思考はきりきりと張り詰め煙を出し、固く握られたナイフの柄は手汗でびっしょりと濡れていた。

私は何度も死を考えたが、その度に生を決意した。

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私の生は誰にも喜ばれない一方、私の死は多くの人を幸せにするはずだった。

それでも、私は生きたがっているという自分の気持ちに平伏した時、「自分のことばっかりね」という彼女の言葉が正しかったことを理解した。

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あとはただ、朝の訪れを待っていた。

天文学的な確率で地球が滅亡し、朝が来ないという非現実的な希望を捨て切れない私の意志とは関係なく、静まり返った夜は音も立てずに、しかし驚くほどの早さで壊れていった。

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朝。

昨日の鮮血はどす黒い血痕に変わり、濃縮された鉄の臭いが床に散乱したリンゴの皮の腐臭と混じり合っている。

いつかの甘い香りは微塵もなく、壊れた何かはもう元通りにならないことを示すような、破滅的な朝の匂いが部屋に充満している。

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それでも太陽は登り、草木は揺れ、小鳥はさえずる。

私もまた、いつものように窓際で、真っ白な朝の光景をぼんやりと眺めていた。

背後では、血に塗れた彼女の死体が横たわっている。

彼女と朝を迎えるというかつての願望が叶ったことを、朝の光は教えてくれた。

この日の朝は、特別だった。

ルーティンが生み出してきた妄想の朝が、現実のものとなって目の前に広がっていた。

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私は今、たしかに教祖だった。

自分の思想を貫き、そのために人の命を蔑ろにし、心の底から生きたいと思っているところまで、妄想していた教祖の姿と同じだった。

世界の朝はなくならない。

しかし、私の朝は、今日で終わりにできたはずだった。

それでも生を選んだ私が窓の外を見て驚くことなど、もはやつまらない演技に等しかった。

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私が彼女を殺した今、いつも通りの朝は来ないはずだった。

…しかし、私は、目の前の光景に言葉を失った。

しばらくしてがっくりと膝をつき、肩を落とす。

絶望に心を押し潰された私は、ナイフを探す代わりに後ろを振り返った。

彼女は、相変わらずの血みどろで目を閉じている。

じゃあ、窓の外を歩いている、彼女の姿は何?

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私は恐る恐る顔をあげ窓を覗く。

たしかに、彼女はAを伴って歩いてくる。

これは夢か。じゃあ、後ろの血みどろは何だ?

私は、自分が狂人になってしまったように思った。

目の前の光景がすべて幻覚であって欲しかった。

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しかし彼女たちが近づいてくるにつれ、次第に彼らの会話の声が聞こえてきた。

それは幻聴というにはあまりにも現実的な、感情を帯びた残酷な声であった。

「大丈夫。すぐに帰ってくるよ」

彼女はAに寄り添っていて、青白い顔がいかにも不安げな様子であった。

そんな彼女をAは励ましていた。

Aもまた、真剣な顔つきだった。

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「でも、連絡を返さないことなんて、これまでになかったのに」

「昨日はたまたま忙しかったんだろ」

彼女は今にも泣き出しそうであった。

私は、自分の方が泣きたいと思った。

「そうだ。旦那さんの方に聞いてみるのは?」

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「とっくに聞いてるわよ!彼のところにも帰ってないから、こうして心配してるんじゃない」

彼女は鬼の形相でAを怒鳴りつけた。

朝にそぐわない大声のせいか、一帯の民家から、外の様子を伺う人の顔がぞろぞろと現れた。

Aは謝りながら彼女を宥めた。

彼女は自分の失態を悔いるように項垂れた。

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「…第一、旦那とはうまくいってなかったのよ。最近の電話も、全部旦那の愚痴ばかり。あいつさえいなければ…。あいつさえいなければ…」

彼女はぶつぶつと繰り返しながら、スマホの画面を操作した。

突如、私の背後で着信音が鳴った。

私は涙目で、真っ赤になったバックを体で覆った。

「どうして妹が…」

彼女はそれきり喋らなくなった。

私にはもう、十分だった。

私はひとつの真実に気づくと、彼女たちから隠れるようにしゃがみ込んだ。

私はまるで狂人のように、何度も繰り返し呟いた。

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頼むから世界よ、滅亡してくれ。世界よ、滅亡してくれ。滅亡してくれ。滅亡してくれ…

「妹のこと大好きなんだ」

彼女の声が間近に聞こえた気がして、私は上半身を仰け反り飛び上がった。

窓の外には、すでに彼らの姿は見えなかった。

以前バスの中で聞いた彼女の声だけが、頭の中で響いていた。

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私は自分の孤独が発見されるまでの三日間、繰り返し繰り返し呟いていた。

その間彼女と同じ顔をした死体は、たくさんの人によって捜索された。

どの朝の太陽も破滅とは無縁の穏やかな光で、背後で微動だにしない双子の妹の亡骸を、いつまでも照らし続けた。

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頼む世界よ、どうか夢であってくれ!

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以上、演技または妄想…?

…………

私はベッドの上で目を覚ました。

今日も朝がやってきた。

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