煌びやかな結晶の中に僕はいた。
僕の部屋にあるのは熊のぬいぐるみや、ピンクのシーツがすべすべのベッド、鼻につく香水の香り、それに負けない匂いを放つ化粧台、そして、大きな鏡に映る僕の、ひらひらしたスカートの装飾。
窓際のカーテンもピンク色で、その隙間から漏れる陽光がこの部屋の中で反射し続け、僕はまるでミラーボールの回る騒がしい地下の一室にいるみたいに、自分の部屋なのに気の休まることなんてなかった。
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結晶、のような僕の部屋には、扉があった。そんなにこの部屋がいやなら、僕はそこから出てしまえばよかった。
でも、扉の向こうは決して外の世界には繋がっていないことを、僕はすでに知っていた。
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ベッドに腰掛けていた僕は、トイレに行こうと思い立ち上がった。
その時、偶然にもその扉は開いた。
壁と扉の隙間から、僕のスカートと同じひらひらの装飾を身につけた母がこちらを見ていた。
その目が、まるで捕まえた籠の中の虫を見にきたみたいに不気味で、僕は何も考えずに、
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「トイレに行くだけだよ」
そう言って、すぐにしまったと思って顔を引きつらせた。
そして母は僕の思った通り、僕以上に引きつらせた顔をして、部屋の中に入ってきた。
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「なんなの、その言葉遣い。あなたは女の子なのよ、わかってるの?女の子は、トイレとも、行くだけだよとも言わないの。あなたは、お花を摘みに行く、品行方正な女の子なの!」
母の口調は段々と強くなっていき、僕はその声にびくびくしながら、いまの母はいくらスカートのひらひらを味方につけたって、ちっとも女の子らしくないやなんて思っていた。
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「ごめんなさい、ママ」
僕は従順にそう言うと、母は途端ににっこりと顔を綻ばせた。その顔はさっきまでの顔からは想像もつかない、綺麗で可愛い大人の女性の笑顔だった。
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「怒鳴ったりしてごめんね。でもママ信じてるから。ヒカルは女の子なんだから、絶対にお外では遊ばないの。お花を摘みに行くなんて言って、本当に外にお花を摘みに行ってはだめよ。外の世界は、ヒカルの知らない怖い人が、たくさんいるんだから」
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笑いながらそんなことを言う母の顔を僕は全然見慣れなくて、いまにもその場で失禁しそうであった。
もちろん、そんなことしたら次は母の顔がどんなになるかわからないから、僕は母に負けない笑顔を保ったまま、必死にお腹に力を入れた。
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「はい、ママ」
僕が我慢しているのは、限界に近い尿意だけではなかった。
それでも、僕の返事に母は嬉しそうに頷くから、僕は自分の我慢が無駄じゃないことを知って、今のままでいいのだともう何回目かわからない説得を自分に投げかけた。
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その後トイレでやっとひと息ついたとき、扉の向こうから、「座ってするのよ」と母の声が聞こえた。
その声を聞いて僕は、目の前の扉を開けることが億劫で仕方なかった。
だって、僕がどんな扉を開けたとしても、その奥には絶対に、母がいるんだもの。
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自分の部屋と同じように、トイレでさえ僕は気を休めることができなかった。
いまの僕にはもうどこにも、安らげる居場所なんてないのかもしれない。
ため息をつく僕の返事を催促するように、扉の向こうから数回ノックが聞こえた。
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はい、ママ。
力のない僕の返事に、それでも満足げな足音が去っていく。
母に対する唯一の反抗は、立った状態で腰まで下ろされたスカートだった。
それを元の高さまであげて、絶対に音を立てずに便座を元の状態に戻す。
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レバーを倒すと、僕のこれまでの我慢を飲み込むように水が渦を巻いた。
それが平静な水面になるまで、僕はひたすらに、便器の底を見つめていた。
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一階から漂う匂いが、寝起きの鼻腔をくすぐる。軽く身支度をしてリビングへ行くと、朝の食卓が完成されていた。
「おはよう、ヒカル」
男の子の服に身を包んだ僕は、おはようを返してテーブルにつく。
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母は僕の姿をちらりと見ると、すぐにまた台所のシンクへと向かい直した。それ以降は話しかけてこないので、僕は用意された具なしの味噌汁と白米、ハムエッグを黙々と食べた。
母は僕が女の子の格好をしていない時、極端に口数が減った。それでも僕は、男の子の服を着ているというだけでとても気分がよかった。
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誰もが平凡だと思う朝の風景は、僕にとっては特別なものだった。
母は僕が外に出ることを嫌った。また、男の子の格好をすることも、男の子のような喋り方をすることも許さなかった。
そんな僕の唯一の外出は、学校に行くことだけ。そして、その時だけ僕は、男の子の格好をして外に出ることができた。
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-こんなにも可愛いヒカルが、女の子の格好でお外に出たら危ないでしょう?
母は決して僕を男の子と認めたわけではなく、それはあくまで僕の身の安全を守るための妥協案であった。
母が僕を男としてみるのは酒に酔った夜だけで、昼間の明るいうちは僕は女の子にならなければならなかった。
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母は素面で、僕を女の子だと決めつけた。そして女の子の僕は、外に出られると言っても、決して自由になったわけじゃなかった。
「それじゃあ、行きましょうね」
僕よりも先に準備して、母が玄関で待っていた。
母はもちろん、いつも通りのひらひらのスカートをはいていた。
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母は、学校の校門まで一緒についてきた。そして帰りは、いつも放課後を告げるチャイムが鳴るよりも先に、同じ校門前で僕を待っていた。
そのことをクラスのみんなは知っていて、そんな恥ずかしい僕には、友だちなんてひとりもいなかった。
それどころかクラスの活発な集団は、母の存在をネタにして、よってたかって僕を虐めるのだ。
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ある時、僕は教室の真ん中で、つい家での癖で、自分のことを僕ではなく私と言ってしまった。
それから僕を見る周りの目は、母親離れできないマザコンから、母親離れできないオカマのマザコンへと進化して、より好奇な目で僕を揶揄い続けた。
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でも、僕の周りのたくさんの目は、僕が母に甘えているのではないことにも、僕が家では私呼びしていることよりもっと女の子らしい振る舞いをしていることにも、何ひとつ気づいていなかった。
そんな鈍感な目からは、何を言われたって、気にする必要はないと思うことができた。
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たとえ外に出られても、いつだって母は守護霊となって僕についてくる。それに守られているのは母自身であって、母が僕のそばで安心するたびに、僕は言いようのない不安に駆られる気がした。
母の考える安全とはどういった状態をいうのか、僕にはまったくわからなかった。母は、学校の中まではついてこなかった。それは、学校の中は安全だからということらしかった。
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でも、僕は教室の扉を開けた瞬間から、好奇に満ちたたくさんの目に晒され、ひとりでは絶対に敵わないような大人数から虐められなければならなかった。
それがもし安全な状況だと言うなら、母は僕には想像できないような、あの教室よりずっと落ち着かない世界で生きているのかもしれなかった。
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僕は断じてマザコンではないけど、それでも母が好きだったから、そんな母を安心させるために、決して母にいじめのことを言ったりはしなかった。
もっとも、学校について不満ばかりかというと、そうではなかった。僕は勉強が好きだったし、給食は母の作ってくれる料理とはまた違う美味しさがあった。
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なによりも、僕の唯一の居場所だったのは、他でもなく学校のトイレなのであった。
もちろんそれはトイレであるから、決して安らげるなんてことはなかったが、それでもトイレの個室にいるだけで、僕は自分が男の子であることを疑わずに済んだ。
だって、僕がいるのは、紛れもなく男子トイレの個室なのだから。
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…でも、そんな学校のトイレとも、しばらくはお別れをしなければいけなかった。
明日からは、僕の大嫌いな、長い長い夏休みが始まるのだ。
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母が壊れたのは三年前、僕がまだ小学六年の時だった。
僕はその時から、外で遊ぶよりも部屋の中で過ごすことが多く、母はそんな僕を外に出そうと、新しい靴を買ってくれたり地元の少年野球の試合の見学に連れて行ってくれたりした。
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僕は母の言うように、本当はみんなと一緒に外で遊びたかった。かっこいい靴でかけっこをしたかったし、分厚い革のグローブをキャッチボールで鳴らしてみたかった。
でも、僕と母の願いは叶わなかった。この時僕を家の中に縛りつけていたのは、母ではなく父だった。
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父は根っからの酒好きで、酔うと暴れる上に、普段からの吝嗇(ケチなこと)に拍車がかかった。
「誰が稼いでいると思ってる」
それは酔った酔わないに関係なく父の口癖だったが、酔った父はその言葉を躊躇なく行動に移した。
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母が僕に買い与えたスポーツ用具はすべて父に没収され、僕が抵抗すると決まって拳を振りかざした。母が僕を庇うと、僕の代わりに母が殴られた。
父は僕には絶対に手を出さなかった。たとえどれだけ僕に非があっても、罰を受けるのはいつだって母だった。
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「僕を殴れよ」
一度父に叫んだことがあった。
しかし父は僕を見てニヤリと笑うと、いつもよりも強い力で、それでも母を殴った。
父の目は何かを僕に予感させていて、その目も、痛々しい母の姿も見たくなくて、靴やグローブを諦め、言いつけ通りに家に閉じこもった。
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でも父は、僕が外に出なくても母を殴ることがあった。そんな時母は、決まって何も言わずにされるがままにした。
まるで人形のように、打たれて、倒れて。
次第に父の様子で殴るかもしれない日がわかってくると、その日だけ母は、いつもより化粧を分厚くした。その化粧はまるで、父に対する感情のすべてを必死に隠しているみたいだった。
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化粧した母は息を呑むほどに綺麗で、そのせいで父の暴力がかえって元気になることに、母は気づいていなかった。
顔色は隠せても、目尻や口元に浮かび上がる悲痛な表情は化粧ではどうにもならなかったが、次第にそれすらなくなった。
無感情な母が人間に戻るのは、倒れた床から起き上がる時と、父がいなくなった時に大丈夫だよと僕に笑いかける時だけだった。
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なんで父が殴るのか、理由なんてちっともわからない。
どんな理由だろうと、わかりたくない。
酔った時だけだった父の暴力は、いつしか日常的に行われるようになった。だから母は、たとえ外に出かけない日でも、分厚い化粧を顔に塗らなければならなかった。
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僕は、本当は少しだけ文句を言いたかった。わけもわからず殴る父にではなく、黙って殴られる、母に。
なんで何も言わないんだよ。黙って殴られるなんておかしいじゃないか。
母に対する文句は決して外へ出ることなく、胸の内で渦を巻き、その渦が自分を飲み込んでしまいそうになった時、いつしか文句の対象は別のものへと変わっていた。
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僕は母が父に殴られるたびに、男というものに失望し、自分もまたその男であることに、やり場のない怒りを抱くようになった。
殴られる母を見て握りしめる自分の拳が、父と同じ種類のものであるような気がして、無闇に男を振りかざす父のようには絶対になりたくないからと飛びかかりたい気持ちを抑えつけ、黙って父と母を見ていた。
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…いまになって思うのは、母は父より弱いから殴られていたわけではないということだ。
人を殴りつけることでしか自分を確立できない父よりも、理不尽な暴力に何も言わずに耐えることのできる、母の方が強いに決まってる。
ただ、幼い僕の目には父が母を痛めつけるという構図がそのままの形に映り、母の本当の強さに気づくことができなかった。
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可哀想なのは、母ではなく父だ。父は弱いから、強い母を殴っていた。
僕が父を殴りたくなかったのも、父のように弱い存在になりたくなかったからだ。でも、外から見れば、僕は母が殴られるのを傍観している薄情で弱虫な息子に違いなかった。
それでも、僕が母の本当の強さに気づけなかったように、誰もが僕の行動の真意に、気づいていないだけなのだと信じたかった。
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僕はいつか、本当の強さで父を見返したかった。しかしある日、弱い父はまるでこの世から逃げるように、母に謝ることもなく突然に死んだ。
死んだ、というより、殺された。僕と母の目の前で、見ず知らずの何者かの手によって。
その何者かは父よりももっと弱くて、愚かな人間だった。それは当たり前といえようか、やはりというか、男であった。
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犯人は大学生だった。就活に失敗し、将来に希望を見出せないまま留年し続ける彼は、居場所を守るために自分よりも弱い存在に手をかけることを悦とした。
その行為は次第にエスカレートした。虫から魚、魚から小動物、犬や猫へと発展して、ついにはその殺意の矛先は人間に向けられた。
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彼は力のない女子供を殺めるため、平日の昼間、閑散とした街のある民家に侵入した。
それが、僕の家だった。
彼の誤算は、家には父もいたことだった。しかし父は男の姿を認めると、あからさまに怖気づいた。それに気をよくした彼は、用意していたナイフで父の胸を数回刺した。
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僕も、母も、されるがままの父を黙って見ていた。僕にはまるで、それはいつも通りの光景のように思えた。
痛めつけられているのが父で、父は母とは違い遠慮のない大声で叫ぶこと以外は、日常となんら変わりなく思えてしまった。
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母子が揃って父の死に様を眺めている光景に、今度は犯人の方が怖気づいた。
父の叫び声を聞いた近隣の通報によって、数分後には警察官がやってきたが、その時には犯人はとっくに逃走していた。
警察は父の惨劇を見て僕たちを疑ったが、その後すぐに一人の大学生の自首があったと連絡がきた。
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ただ日常がつまらなかったから。それだけの理由で、父は得体の知れない誰かに殺された。もっとも父は、そんな理由で殺されるのにふさわしい人だった。
でも、父を目の前で殺されて母はどう思ったのか。それを考えるたびに、僕は自分も鋭利な刃物で胸を刺された気分になった。
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大学生の彼は、僕と母を暴力から救ってくれた救世主。
…なんて、ちっとも思わなかった。思えるはずがなかった。
「横取りされた」
病院で父がすでに息絶えていることを告げられた僕が、いちばんに抱いた感想は、それだった。
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それは多分、母も同じだ。
母の胸の内には、僕のとは比べ物にならないくらいの渦が巻いていて、それを鎮める前に父を奪われた母は、渦に抗うことをやめて簡単に飲み込まれていった。
そしてその日から、母は壊れはじめた。
父が死に、母が壊れたのは、何ヶ月も前から楽しみにしていた、小学生最後の夏休みだった。
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雲ひとつない青い空。窓の外には純粋な夏が広がっている。でも僕にとってその空は、けばけばしい絵の具の青で塗られた安っぽい絵のように見えてしまった。
きっとそれは、この部屋のピンク色のせいだろう。僕は美術の時間に習った、補色対比という言葉を思い出す。
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たとえ同じ色だとしても、補色同士を隣り合わせにするとどちらの色もより鮮やかに見えてしまうことを補色対比という。
そして、ピンクと水色は補色だ。赤系と青系の色は、どうも真逆の色とされるらしい。
僕はいつのまにか中学三年生になっていた。あの頃に比べると随分と背が伸びて、線の細かった体にも多少筋肉がついた。
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父はいなくなった。体も健康体そのものだ。
でも僕は相変わらず部活動はさせてもらえなかった。それどころか母は、僕を外に出そうとさえしなかった。
きっと母は、どんどん男の子の体になっていく僕が嫌なのだろう。だから、僕にスカートなんてはかせるのだ。
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可愛くて綺麗な母からしたら、男なんて野蛮で汚く見えても仕方がないとは思う。でも、僕は僕として、母に見て欲しかった。
男とか女とかじゃなく、母にとって一人しかいない、母の子どもの僕として、あの頃のように一緒に笑いたかった。
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夏休みというだけでわくわくしていたあの頃。父が家にいない昼間、母と二人だけの時間が僕は大好きだった。いま思えば母は、無理して楽しそうな表情を繕っていたのかもしれない。
それでも、ふとした時に心から溢れたような笑顔で僕を見てくれるから、僕は母もこの時間が幸せなのだと信じていた。
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たとえ殴られようとも、あの頃の母は心から笑えていた。そんな母の笑顔が失われたのも、ぜんぶ父のせいだと思った。
でも、父のせいだと思うたびに、本当に父だけのせいなのかと思ってしまう僕もまた、鮮やかに浮き彫りになった。
ピンク色の母と水色の父の、どっちも僕の親だから、本当は僕は同じように、どっちのことも好きでいたかった。
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でも僕はそう思うたびに、胸の奥がずきりと痛む気がした。父を好きでいることは、母に対する裏切りのように思えた。
そして、母の強さを認めた今でもまだ、母に対する文句は僕の中で鳴りを潜めていた。
ぜんぶ父が悪いに決まっているのに、ふとした瞬間に母を責めている自分もいて、僕はその存在に気づく度に、自分を殴りつけたくなった。
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僕は父を人として、まったく認めていなかった。今でも死んで当然の存在だったとためらいなく言えるくらい、父のことが憎かった。
そんな父はもういない。だからいっそのこと綺麗さっぱり忘れてしまえればよかった。
それなのに。自分の父親であるというだけで、なぜこんなにも、あの人のことで悩まなければいけないのだろう。
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父の存在は得体の知れない渦となって、今でも僕の中に住み着いていた。それを僕は、父が僕と同じ男であるからと、無理やり理由をつけて納得した。
あの人が僕の父親である以上、彼こそが僕の性の見本となる「男」の像であり、だから僕はあの人のことを忘れられないのだと、そう思い込むことにした。
一方で、僕にとっての「男」である父が死んでしまったのならば、僕は母の言う通りに女の子にならなければいけないような気もした。
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自分が父と同じ男であることに嫌気がさすことは、一日のうちに何度も訪れた。その一方で、僕は母の女の子扱いにも辟易している。
僕はそんな両極端な自分に、時々我慢できないもどかしさを感じた。それでも、ただひとつ言えることは、母はこれまで、散々我慢してきたということ。
だから次は、自分が我慢する番なのだ。あの頃に比べて体が大きくなったのは、いろんな理不尽を我慢するためなのだ。
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母は僕を必死に守ろうとしてくれている。それは僕が生まれた時からずっと変わらないことであった。
僕の恩返しは、そんな母の苦労に比べたら全然簡単だった。母は僕を守ってくれているのだから、そのくらいのことはやってあげないと。
…でも、母は。いまの母は。
本当に、守ってくれてるの?
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空の青を見ようとすればするほど、部屋のピンク色が目に焼きついた。
母が必死に安全に見せかけようとしているこの部屋のすべてが、僕にとっては脅威だった。
窓の外では名前も知らない鳥が目の前を羽ばたいて、どんどん離れて小さくなっていく。
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その鳥を羨ましいなんて思ってしまうような部屋が、世界でいちばん安全なはずがなかった。
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その後も窓の外では、何羽もの鳥が忙しそうに近づいては離れていった。
僕の夏休み一日目は、そうやって鳥を眺めていたら、いつのまにか終わっていた。
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その翌日から僕は、本格的に夏休みの宿題に取り組んだ。
勉強が好きな僕は、ドリル系の宿題は難なく終わらせてしまった。
問題は、自由研究や工作といった座学以外の課題だった。僕の通う中学校では、小学生の夏休みみたいに工作なんて課題が課されるのだ。
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それは受験生でも関係なく、特に自由研究はテーマから何から自分で決める必要があり、テーマ選びだけでも随分と時間がかかるので僕は全然気が乗らなかった。
ちなみに工作の方はというと、あらかじめテーマが定められた貯金箱を作ることになっていた。しかし、そのテーマは「独創的な貯金箱」だった。これでは一から自分でテーマを決めるのと変わらない。
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テーマはともかく、僕が何よりも頭を悩ませたのは、自由研究や工作に必要な道具や材料を、母に頼んで準備してもらうことだった。
僕はお小遣いをもらっていないどころか、父がいない今どうやって僕と母が生活できているのかさえわからなかった。母は働かずにずっと家にいて、できる限りの時間を僕の姿が見える範囲で過ごしていた。
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そんな母だから、工作の貯金箱はともかく、自由研究のテーマを考える際には自分で金銭的な問題を考えなければいけなかった。
しかし、僕を縛りつける制限はそれだけではなかった。
小学生の頃待ち望んでいた夏休みのシチュエーションは、今では僕の精神を削る修行のようなものだった。
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母の心はもうすでにこの家にはなかった。母は大きな目となり、僕のことを監視するだけの存在に思えた。
そんな母の目は自由研究のテーマにも届いていた。学年が上がるごとにより高度なクオリティを求められるうえ、僕は母の納得するテーマを毎年選ばなければいけなかった。
まず、テーマには女の子らしさが求められた。僕は本当は昆虫の標本なんかを作りたかったが、そんなことは絶対に母が許さなかった。
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また、母は刃物がだめだった。あの事件の日以来、母は刃物の類がまったく使えなくなった。
朝ご飯には具なしの味噌汁と包丁を使わないハムエッグばかりでてきたし、大好きだった裁縫からもまるで記憶を失ったかのようにきっぱり手を引いた。
そんな母の刃物嫌いは日に日に重症化し、今では使うどころか見ることさえできなくなった。
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だから僕は、お金がかからなくて女の子らしくて、ハサミを使わないテーマを選ばなくてはいけなかった。
それはもはや「自由」研究ではなく「僕の母」研究であるように思えたが、苦心した末にテーマが決まったのは、夏休みも後半戦に入った頃だった。
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「私、自由研究にミョウバンを育てることにしたの」
僕が自由研究のテーマを発表すると、母は子どもみたいに目を輝かせた。
僕はミョウバンの提案が予想通り母に喜ばれたことに胸を撫で下ろした。結晶や宝石といったキラキラしたものを母が大好きなことを知っていたから、僕は母のために、好きでもないミョウバンについてインターネットで調べていた。
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母は快く、三千円も僕にくれた。準備物を揃えるのには苦労したが、作り方自体はそれほど難しくはなかった。
のちに結晶となる小さな核を溶液の中で少しずつ育てるという工程は、家の中でやるのにぴったりだった。
溶液に浸る糸の先の、米粒ほどの小さな核が自分の子どものように思え、僕はまるで親の気持ちになって、その核の将来の姿を思い描いた。
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結晶は、うまくいけば正八面体になるらしい。僕はもう済ませてしまった数学の宿題に、正多面体は五つしかないと書いてあったのを思い出した。
正八面体は、そのうちのひとつだった。その他の正多面体は、正四面体、正六面体(立方体)、正十二面体、正二十面体で、どれもが同じ形の面からなる均整の取れた立体になっている。
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正多面体というものは、なんだか母の好きな品行方正という言葉がぴったりな気がした。
僕を女の子にするために母が投げかけるスローガンのような言葉が、この時は少し良いものに思えた。
僕は、結晶の完成が楽しみだった。何より、母の喜ぶ顔を見るのが楽しみだった。
周りがプールや祭りで夏を満喫しているなか、ミョウバンだけが僕の楽しみになった。
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それからの日々はというと、夏休みの終わりまでの日にちを数えながら、ひたすらに空と結晶を眺めて過ごしていた。結晶は順調に育っていった。僕は嬉しくなって、後からもう二つの結晶を育て始めた。
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今では化粧台の上に三つのミョウバンの子どもが並んでいた。そのどれもがやがて結晶としての頭角を表し始め、最初に育てていたそれは特に目を見張るほどの成長を遂げていた。
もう少し待てばちょうどいい大きさになるかもしれない。僕はひとりでほくそ笑む傍ら、相変わらずの退屈な日々には嫌気がさしていた。
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日に日に大きくなる結晶を眺めるのは、確かに楽しかった。しかし、結晶が理想的な形に近づいていくにつれ、僕は落ち着かないような気持ちにもなった。
まるで計画の段階では楽しいはずだった旅行が蓋を開けてみればそれほどでもなかったように、描いていた未来が現実になるにつれ、僕は結晶の成長を喜ぶとともに物足りなさのようなものを感じていた。
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そんな自分を嘲笑うように、窓の外では鳥が飛んでいく。遠ざかる羽音を聞いて、ミョウバンを見るだけの自分は相変わらずの不自由な存在なのだと思った。
結晶の肥大化は、夏休みという特別な時間の喪失を表していた。周りが夏を満喫している中、僕はひとり部屋に閉じ込められている。
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ミョウバンは、結局ただの気休めに過ぎなかった。僕の夏休みは、決してこんなはずじゃなかったのに。
それでも、僕は母を見捨ててまで、自分の自由に向かって飛び立ってしまえる勇気がなかった。いまだに名前も知らないその鳥を見た僕は、羨望と諦観の織り混ざった気持ちに悶々としていた。
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僕はなんだかむしゃくしゃして、どうにもできないとはわかっていながら、興味本位で窓を開けてみた。窓の隙間から湿ったような熱気をはらむ夏の風が吹き、僕の頬を優しく撫でた。
僕は母にはわからないように、音を立てずにそっと窓を動かした。そのため窓はまだ半分も開いていなかったが、その隙間から何かが不穏な音とともに滑り込んできた時、僕は驚いてとっさに身を屈めていた。
音の正体はやがて、部屋の壁に静止した。同時に不穏なその音も消え去り、部屋には静寂が訪れた。
さっきの落ち着かない気持ちに拍車がかかり、僕は緊張した面持ちで壁を見やった。
目線の先の壁には、一匹の蜜蜂がとまっていた。
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それは天井付近の高い位置で羽を休ませていた。しかし、危険を醸し出す胴の色合いや六本の足、胸にうっすらと生える毛、透き通るような翅脈といった、それが蜜蜂であるという特徴は十分に見てとれた。
部屋の中で缶詰になっていた僕は、蜂という生き物を近くで観察できるまたとない機会が、偶然にも飛び込んできてくれたことに歓喜した。僕は作り物のように動かないその蜜蜂を、壁に穴が空くほどにじっくりと見た。
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やがて、後ろの足に黄色い花粉を蓄えているのを発見して、見たこともない蜂の巣を思い浮かべた。
この蜜蜂は巣へ帰る途中だったのかな。もしかしたら、飛んでいる鳥から逃げるためにこの部屋に飛び込んできたのかもしれない。そんな想像をしていると、目の前の蜂が自分のことのように思えて愛おしかった。
僕もまた窓の外の鳥にうんざりしていたから、蜜蜂は僕の悩みをわかってくれる同志のように思えてきた。
僕は愛おしいその小さな体を、とても美しいと思った。整った全体的な容姿と、まれに精密な機械のように動く細部の脚や羽が、僕のいるつまらない部屋の景色を変えてくれた気がした。
ピンクの壁の上で目立つ黄色と黒の体こそが、この部屋にふさわしい色の答えであるように思った。ピンクのベットの上で座っている熊のぬいぐるみが、蜜蜂の敵であるように思えて憎たらしかった。
しかし、僕の心には蜜蜂を愛おしむ気持ちと同時に、決して穏やかでない感情が生まれていた。それら二つの感情は、同一な性質のものなのかもしれなかった。
好きの反対が単純に嫌いとは言えないように、僕は反対のようで同じような、不思議な気持ちに満たされていた。ただ、胸の内のもやもやがどうであれ、僕は純粋にこの蜜蜂のことをもっと知りたいと思っていた。
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もっと近くで見る方法はないだろうか。見上げなければいけない自分と蜜蜂の位置関係を、どうにかできないか思索した。
部屋の中を見回すと、工作の貯金箱のために一時的にもらった三枚の硬貨が目に入った。僕はそれを手に取り、再び壁の蜜蜂に目を移した。
三枚同時に投げればどれかひとつは当たるのではないかと思った。もちろん当たらずとも、蜜蜂がより低い位置に逃げてくれればそれでよかった。
僕は壁に向かって硬貨を投げつけた。三枚の硬貨がそれぞれ独自の回転で、しかし真っ直ぐに蜜蜂のとまる壁へと向かっていた。
そして、そのうちの一枚が蜜蜂の胸の中心、ちょうど羽の付け根に命中した。蜜蜂の体は磁力を失った磁石のように床に落ち、僕は内心でガッツポーズした。
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しかし、他の二枚の硬貨が壁に跳ね返る音を聞いて、はじめて母のことを思い出した。それまでの僕は、母のことなんて忘れていた。あれだけ窓を開ける時には細心の注意を払っていたのに。僕は取り返しのつかない失敗をしてしまった気がした。
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僕の不穏な音を聞いたせいか、階下から母が近づいてくる音がする。
「何、いまの音?」
母が扉を開いた時、僕は右手を強く、それでいて慎重に握りしめた。
僕の手の中には、床に落ちたはずの蜜蜂が隠されていた。
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僕ははじめて堂々と母に隠し事をしたように思えた。その背徳感に、かつて感じたことのない酔ったような目眩がした。
「ちょっとふらっとして」
「それで壁にぶつかったの?すごい音だったけど」
僕はふらついた拍子に壁にぶつかったという、偽の説明を取り繕った。自分でも驚くほどに、嘘はすらすらと出ていった。
壁に硬貨を投げつけたくらいで「すごい音」なんて出ないと思ったけど、母にはどんな大きな音に聞こえたのか分からなかった。
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それでも母が僕の説明に納得しかけた時、僕は足元の床には三枚の硬貨が散らばっていることに気づいた。窓際に不自然に立つ僕を訝しげに見ていた母は、僕の目線につられて床の硬貨を見た。
母は何も言わなかった。僕は何も言えなかった。まるで同じ方向に鉢合わせた他人と道を譲り合う時みたいに、僕たちの間に気まずい空気が流れた。
同じひらひらのスカートを身につけた二人は、それぞれ別のことを考えながら、たった三十円を無言で見つめていた。
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「…痛っ!」
突如、鋭い叫び声が部屋に響いた。
その声は紛れもなく僕のものであり、咄嗟に出た素の声は男っぽい野太いものだった。
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僕が飛び退くようにして右手を振ると、蜜蜂は力尽きたように振り払われた。僕の手のひらはじんじんと鼓動し、盛り上がった部分は熱をもって赤く腫れていた。
右手に握っていた蜜蜂が手のひらを刺したのだ。弱りきった蜜蜂は体力を使い果たしたのか、ちょうど母の見つめている硬貨の散らばる辺りにあっけなく落ちた。
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「…虫?」
そう呟く母の顔色が異常に変わっていくことも知らず、床の上で蜜蜂は呻くように動いていた。
僕は蜂がまだ生きていたことに喜びを覚えるとともに、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
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僕は手のひらの痛みよりも、目の前で引き攣る母の顔を見るのが耐えられなかった。母の透き通るような白い頬がどんどん赤くなって、次には怖いほどに青ざめていく様は、死後にあらわれる変化と同じように思えた。
だからだろうか。その後母のピンク色の唇からつん裂くような叫び声が漏れた時、僕はその声から人の死に際を連想し、頭の中は父が死んだ夏休みのあの日にまで遡っていた。
頭の中の風景で立ち尽くしているあの日の母は、決して叫ぶことなく、僕と一緒にただ父が殺されるのを見ていた。あの日だけでなく、母は父に殴られる時でさえ、声ひとつあげたりしなかった。
そんな母が今、顔色が変わるくらいに何かに怯えながら、感情を剥き出しにして叫んでいる。僕は、現実で母が叫んでいる光景を目の前にして、言い表せないほどの喜びを感じていることに気づいた。
父に殴られても声すら出さず、あの日以降人間らしい心を取りこぼしてきたと思っていた母が、たかが虫を見ただけで、感情のままに叫んでいる。
もしかしたらその時の僕は、母を見て笑っていたのかもしれない。だから母が部屋を飛び出て行ったのも、笑っている僕が恐ろしかったからなのかもしれない。
僕は母を追わなかった。この部屋から母が消えてなお、母を騙し、叫ばせ、逃げられたことの快感を味わっていた。
僕は母を心配する代わりに、床にしゃがみ込み、瀕死の蜜蜂を人差し指と親指で摘み上げた。自分の感動を助けてくれた盟友の最期の姿を、じっくりとこの目で観察したいと思っていた。
僕は蜜蜂を手のひらにのせた。その体は硬貨による傷のせいか縦に裂けかけていて、それでも針を失った腹の先を、びくびくと動かしていた。
しかし、今度は突然に、まるで電球が切れる瞬間みたいに、手のひらの上で動かなくなった。生き物の最期は徐々に衰退していくものだと思っていた僕は、こういう死に方もあるのだなと思った。
僕はぴくりともしなくなった死骸に、生きている時と同じ、もしくはそれ以上の美しさを感じていた。
それは死骸となる前の生の輝きを見ていたからかもしれなかった。
目の前にある死に抵抗するために、体を潰されてなお繕うことなく奮闘する蜜蜂の姿に心打たれていた。
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ひたすらに生を目指した結果の、死にゆく手前に増して輝く命の灯火。僕は手のひらの死骸に走る縦の裂け目の、その真っ暗な内側に輝く何かを垣間見た気がした。
そのうちに、忘れていたはずの鋭い痛みが蘇ってきた。僕の手のひらは前にも増して赤く腫れ、しかし部屋の中で得られるとは思っていなかった痛みだと思うと、どうしようもなく嬉しい気持ちになった。
壊れた母と潰された蜂は、何が違うのか。僕はぼうっとする頭で、そんなことを考え始めた。
蜜蜂の毒の強さを僕は知らなかった。もしかすると毒が体中を回れば死んでしまうかもしれないと考える投げやりな今の頭は、突如にして沸いた幻惑のような疑問を、解決するのにぴったりだと思った。
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母は日頃からお化粧をしてひらひらの服を着て、家の中なんかもピンク色に染めて、いつまでも可愛くて綺麗な女の子でいようとしている。一方、今にも内臓が飛び出しそうな醜い姿で、命すら失って死骸となった手のひらの蜜蜂は、なんでこんなにも、母よりも、美しいのだろう。
どうして蜜蜂は、母より美しいのだろう。
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それは、母が死骸の蜜蜂よりも壊れているからだと思った。それ以上に、母は壊れていてなお、それを繕おうとしているから、少しも美しくないのだと思った。
母はちゃんとしすぎていた。父に虐げられやり返す前に父を横取りされて、そんなことがあっても、いや、そんなことがあったからかもしれないけど、ちゃんとする母が健気で、でも壊れたことを隠し通すその健気さこそが、母を美から遠ざけていた。
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僕が美しいと思えるのはそんな健気さじゃなく、死に際の蜜蜂の痙攣のような、迫りくる恐ろしい何かに対して直向きに抗う姿なのだった。
体が壊されてなお、内側の、本当に大切な部分は壊されておらず、真っ暗な体の裂け目からしかそれが見えないような、一瞬の輝きのような何かなのだ。
僕は、蜜蜂に対して抱いた愛しさについてまわる、二つの相反的な感情を理解した気がした。
それは造ることと壊すことに伴う感情であり、何かを愛しいと思う気持ちには必ず創造と破壊がつきまとうという発見に、自分の慧眼を見直した。
僕はあの時、蜜蜂との出会いについて想像を膨らませるとともに、最終的な別れであるそれの死についても自ずと考えていた。そして彼をよりよく知るためには、自分の手でその体を壊すことを無意識に求めていた。
その結果として僕は躊躇いなく硬貨を投げつけ、蜜蜂であり友人の彼を死なせてしまった。しかし、彼が僕の手を刺して息絶えた時、ひとつの命の終わりよりも、僕はふたつの美しさに出会えたことを喜んで笑っていた。
最期まで死に抗う蜜蜂の輝きと、繕うことなく感情を外に出した母の叫び声。母がはじめて蜜蜂と同等になったことに、僕は弾けるような喜びを噛みしめていた。
でも、その美しさは外側で見ていた僕にしかわからないものだった。僕は母に、僕の感じたのと同じ感動を味わって欲しかった。
そのためには何かを壊さなければならない。次は何を壊してみようかと考えた時、僕は刻一刻と父に近づいていく自分に気づいた。それはまた、父を殺した犯人の大学生と同じ精神構造だった。僕はそんな自分を、どうしようもなく壊したくなった。
母はあの日以降、母自身を、周りを、新しく作り直そうとしている。でも僕はそんな母のつくった理想郷に嫌気がさし、母の思い描く僕の像に葛藤している。
僕は壊すことでしか、母に抗えないのかもしれない。別の言い方をすれば、僕は母の大切にするものを壊すことで、母を救い出せるのかもしれない。
そうなれば、壊すべきなのは僕自身だった。僕は、母が手塩をかけて育ててきた、一粒の結晶なのだから。
僕は鋭利な刃物で刺される自分、それも、完璧な女の子の姿をした自分を思い浮かべた。父を殺した屑みたいな男に何度も刺され、その傍らで僕の血を浴びながら叫び続ける母の姿を思い描いた時、僕は下腹部に違和感を覚えた。
その違和感は、次第に現実味を帯びた。僕を包み込んでいた非現実的な空間がフェードアウトしていくからであった。真っ黒のような、真っ白のような空間が僕の意識の中でだんだんと薄れていき、それは僕が体験したはじめての立ち眩みが回復する過程だった。
僕はこれまでに感じたことのない不思議な気持ちで、自分の身に起こった変化を理解した。
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ああ、そうか。壊れているのは、僕も同じなんだ。
僕は、自分の異常性に気づいて笑った。僕もまた、自分を保とうと繕っていただけの、美とは程遠い存在だった。
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下着を汚すそれは、中学三年にして初めて精通がきたことの証だった。同時に、母がいくら頑張ろうと自分は男であるという意識が、いよいよ確固たるものになった。
僕は、丸めたティッシュペーパーをゴミ箱に捨てた。
蜜蜂の死骸は、そのうちのひとつに包まれて眠っていた。
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僕は蜜蜂のやってきた空を見上げようと顔を上げた。その時はじめて窓が開けっぱなしになっていることに気づいた。部屋全体が見える扉の前に立っていた母は、窓が開いていることに気づいていたに違いなかった。
僕が二階の窓を開けて立ち尽くしている光景を、母がどのように捉えたのかわからなかった。
しかし、不思議とそこに罪悪感は湧かなかった。僕が自分を壊す時、その罪悪感は、乗り越えなければいけないものだった。
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今度は音を気にせず、窓を全開にして空を仰ぎ見た。そしてゆっくりと目をつぶって、合掌する。
熱気をはらむ夏の風が僕の頬を優しく撫でる。まぶたの裏に見る空は相変わらずのつまらない空だったが、さっきまでの閉塞的な気持ちは、とうに消え去ってしまっていた。
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後編に続く…
作者退会会員
長くなったので、前編と後編にわけて投稿することにしました。後編は4月中に投稿できればと思います…