俺は鼠。名前はNo.2861。
T大学附属S研究所で飼われている、しがない実験用マウスである。
しかしそれだけで俺のことを侮ってはいけない。
俺には他の鼠を寄せつけない特技があった。
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「No.2861、出てこい」
俺は人間の研究員にそう"言われる"と、彼の言う通りにゲージから出た。
ゲージが置かれたデスクの床はひんやりと冷たく、俺のために用意されたチーズはその上で石のように固まっていた。
「もうふゆなのですね」俺は、ゲージ横に敷かれたひらがなのプレートを並び替え、研究員にそう伝えた。
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彼らはまるで猫が絶滅した時みたいに大喜びして、俺の頭を次々に撫でた。
何を隠そう、俺は人間の言葉を理解することができたのだ。
それだけでなく、俺は自分の思考を文字で伝えることもできた。つまり俺は、人間と意思疎通が図れる鼠なのである。
そんな鼠は、この世にニ匹とはいないに違いない。
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「お前は優秀な鼠だ、No.2861」
俺は人間のご満悦な様子に気をよくして、机上のチーズをもう少し柔らかくできないかを頼んでみた。
「いつもたべづらいんだ」そう伝えると、研究員たちはまた狂ったように大喜びした。
彼らのうち、室長らしき白髪の男は俺に向かってこう言った。
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「お前が固いチーズを食べられないのは、お前の歯が短くなっているからだ。でも、それは決して退化なんかではない。お前はもうすぐ、私たちと同じ言葉を喋れるようになるんだ」
それを聞いて俺は、彼らと同じように喜んだ。
そんな俺の前には、電子レンジでほどよく溶かされたチーズの皿が差し出された。
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俺は口の周りを汚しながら、温かいチーズを堪能した。
他の連中はキャベツの芯やにんじんの皮などを食べていると思うと、この味こそが勝者の味なのだと思った。
俺と彼らの違いは食べ物だけではなかった。
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彼らが使われる実験はどれも、目を瞑りたくなるような過酷なものばかりであった。
ある鼠は、少しずつ脳を切り取られた挙句、今は薬漬けにされて歩くことすらできないでいる。
また別の鼠は、ひたすら体に電流を流されて、内臓がまるこげになっているに違いなかった。
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そんな彼らに対して俺はというと、特に実験に参加することもなく、ただ美味しいチーズを食べて人間とコミュニケーションをとっていればよかった。
言葉を覚えることにそれほど苦労はなかった。俺には才能があって、俺はただ生きているだけで、他の奴らとは違い価値があるのだと思っていた。
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しかし、周りの鼠たちは決して俺を羨んではいけない。俺には俺なりに、誰にも言えないような苦労を噛み締めているのだ。
というのも、俺は他の鼠と違って考えてしまうのだ。
言葉の発達は思考の発達であり、俺は些細なことであっても考えずにはいられなかった。
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俺は、自分より過酷な環境に置かれた他の鼠たちの、その無頓着さだけは羨ましかった。
いくら苦痛を与えられようが、それがいつまで続くのか、自分は死んでしまうのかといった未来の心配をせずに済むことに憧れていた。
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今の自分は誰もが羨む優秀な鼠に違いない。しかし明日の自分は、果たしてどうなっているだろうか。
そのようなことを考えてしまうのは自分だけに思えた。
だから俺には自分の悩みを打ち明ける仲間がいなかった。
かといって、人間に内心を打ち明けてしまうのはためらわれた。
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俺は心の不安を誤魔化すためにチーズを貪り、惰眠を貪り、人間に可愛がられるという不自由ない日々を過ごしていた。
その間に周りの鼠たちは、次々と拷問のような実験によって死んでいった。
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ある日、俺はついに言葉を喋ることに成功した。
口を開いて喉を震わせると、口の形と舌の動きによって頭に思い描いていた言葉が外に飛び出すことに快感を覚えた。
もっとも、俺の日本語は拙かった。
歯が短くなったとはいえ口の動きはぎこちなかったし、チュウチュウとしか鳴いてこなかった軟弱な声帯では、到底長時間の会話なんてできなかった。
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それでも白衣を着た人間たちは、まるで我が子にパパ・ママと言われたような喜び方をした。
俺は笑顔で溢れる人間たちを見て、どうして動物実験ができる残虐な心を持ち合わせているのかわからなかった。
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残虐といえば、俺の隣のゲージにいる鼠の苦痛ときたら…。彼は尻尾の半分を失っていた。その切り口は、ただ化膿しないためだけに繕われた痛々しいものだった。
人間は、鼠の尻尾は切られることで歩行機能に影響を及ぼすのかを測っているらしい。しかし、この実験は、人間の何に役立つのだろうか。
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俺たち鼠を使った実験は、総じて人間の医療開発のためだと思っていた。そうならばこの実験に、果たして意味はあるのだろうか。隣の彼は意味のない苦痛を強いられているだけではないか。
俺は他の鼠たちが体に受ける苦痛を、心で一緒に受けているような気がした。次第に今の生活に嫌気がさしていき、言葉を覚えてしまったことを後悔した。
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俺は人間の前では言葉の喋れるポップな鼠を演じつつ、内心では自分の置かれた環境を恨んでいた。周りの鼠が身体的苦痛でチュウチュウと言葉にもならない叫び声を絞り出す一方で、自分は贅沢な食べ物に加え教育まで与えられて、のうのうと生きている。
俺は、このような地獄もあるのだなと思った。何一つ不自由のない、楽園の姿をした地獄。
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それでも、俺はこれまで以上の待遇を受けながら、文句を言うことなく毎日を過ごしていた。しかしそんな生活は、人間たちのひと言で一変した。
「No.2861。今日で実験終了だ」
実験が始まっていたことすら知らなかった俺は、ここ数週間で格段に上達した日本語で、彼らにその訳を訊いた。かつて俺の歯が短くなるのを喜んでくれた室長らしき白髪は、冷酷な表情で話し出した。
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「No.2861。我々は実験体No.2861によって、人間以外の動物の心の動き、特に、他に対する思いやりの心を測っているつもりだった。
しかれどNo.2861。お前はこの数週間、仲間の苦痛に声も上げず、助けも促さず、ただ悠々とチーズを食べて眠っていただけだった。
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我々は、お前に感情の伴っていないことを確認することができた。そして仲間に対する慈悲心のない鼠には、より遠慮のない実験を行えるというものだ」
そして白髪は俺のゲージの餌や寝床をすべてを取り上げると、無造作にゴミ箱に放り投げた。俺は彼の言葉のすべてを理解し、信じられないといった様子で周りを見た。
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これまでは自分の一挙手一投足に歓喜していた研究員たちが、感情の感じられない冷たい目で自分を見ていた。
寒気がした。これから待ち受ける未来を想像して吐き気がした。
自分が言葉を理解できることを呪った。俺の悩みなんてまったく理解できそうにない、他の鼠たちが心底羨ましかった。
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「もし、ほかのねずみをたすけていたら、おれはどうなっていたのか…」
俺は言葉につまりながら、震える声で訊いてみた。
「他の鼠たち同様、苦痛レベルの高い実験体だったろう。しかしその代わりに、少なくとも三日以内には死んでもらう予定だった。
でも、お前には死なない程度の実験を、何度も何度も繰り返し行なってもらうつもりだ」
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「おれは、とくべつではなかったのか」
俺の訴えに対する最後の答えは、それまでの俺を嘲笑うものだった。
「特別なんてちっとも思っていない。喋れる鼠は、お前だけじゃないからね」
普通の鼠以下に成り下がった俺は、誰よりも貧しいゲージに閉じ込められた。
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それからの俺は、何度も脱走を企てた。
血が出るまでゲージを繰り返し齧った。
しかし短くなった歯では、鉄のゲージに傷をつけるのがやっとだった。
いつしか俺は、キャベツの芯さえ齧れなくなっていた。
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それでも俺は点滴によって生かされ続けた。実験当日までに俺の体は、注射針のせいで穴だらけになった。
実験室へとゲージが運ばれる直前、「考えているのが自分だけだと思うなよ」と隣から鼠の声が聞こえた。
尻尾を失ったその鼠の日本語は俺よりも遥かに上手で、澱みなく冷たい声だった。
作者退会会員
僕の友人の彼女はキュウソネコカミというバンドが好きでした。友人は彼女の趣味を尊重したいと思っていました。しかし滑舌の悪い友人はキュウソネコカミがうまく言えずに、それが原因で別れました。僕は涙を流す友人の姿を見て、この話を書こうと思いつきました。
今でも鏡の中の友人の目は、どうしようもなく真っ赤です。