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長編27
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正二十四面体 後編

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その日の夜、僕は母の腕の中にいた。

鼻腔をくすぐる香水の匂いが僕を包み込み、その中で僕は目をつむっていた。

部屋には微かに月明かりが差し込むだけだった。まるで昼間の喧騒が嘘のように、僕たちは夜の底にいた。

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僕の部屋は母の作りあげた世界一安全な部屋である。少なくとも母は、そう思っている。そして窓とは反対にあるベッドの上の、ふわふわとした母の腕の中は、僕にとって、世界一安心できる場所であるはずだった。

母はたまに僕を父の代わりのように求めることがあって、僕は母に包まれるその時間が好きだった。その時でさえ、僕の服装は女の子だったが、母が僕に委ねる体は、間違いなく僕を異性として求めていた。

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しかし、母は僕を愛しているのではなく、理想の「ヒカル」を造ろうとしていることに気づいた今の自分は、いつものように母に身を任せて眠ることができなかった。

それどころか、都合のいい男扱いに嫌気がさし、今の自分に必要なのは、徹底的に女の子として接してもらうことだと思うようになった。

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自分が男であることに疑う余地はなくなった。それでも僕は母のために、母の考える完璧な女の子になりたいと思った。

そしていつか僕の手で、完璧な女の子になった自分を母の目の前で壊したかった。母に本当の美しさを教えてやりたいという想いは、孝行と復讐のどちらになるのだろうか。

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微睡みつつも眠ることのできないぼんやりとした頭で考えていると、外の世界に不穏な音を聞いて思考の一切が遮断された。僕は咄嗟に母の腕から顔を出して窓を覗こうと頭を動かした。しかし、母の腕は僕を逃さなかった。

さっきまで続いていた嗚咽の声が再び始まると、香水の匂いのきつい胸がひくひくと揺れた。甘いような苦いような匂いは、涙と汗、それとお酒の匂いでもあった。

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さっきの音は、どうやら外でオートバイの走る音らしかった。しかし遠くに行ったはずのその音は、僕の頭の中でいつまでも鳴り続いていた。

その音のせいか、ゴミ箱で眠っているはずの蜜蜂のぼろぼろの体が、部屋の中を飛んでいるように思えて落ち着かなかった。

蜜蜂が、まるで今でも母を叫ばせようと、僕たちを観察しているように思えてならなかった。

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現実の音である母の嗚咽を聞いて、僕は昼間の叫び声を思い出した。蜜蜂の死骸を見て一階へと逃げ隠れた母は、その日を通して泣き続けていた。

僕はひたすらに母を慰め、謝った。しかし本心では、感情のままに振る舞う母の姿を見るのが痛快だった。

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僕が内心では母の恐怖する様子を楽しんでいるとも知らずに、母は僕にすがって夜を乗り越えようとしていた。

僕は母が、何に対して恐怖しているのか考えた。

母は、蜂そのものに怯えているのではなく、昆虫をなんとも思わずに握りしめていた、僕に対して恐れを抱いているのかもしれなかった。

自分が必死になってつくり上げてきた理想が壊れるのを、これ以上見たくなくて部屋から出たのかもしれない。

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母の中で女の子の僕は、決して昆虫を平気に扱ったりしないのだ。母は突然に理想を打ち砕かれ、自分を裏切った僕をどう思っているのだろう。母は、何も言わなかった。ただひたすらに泣いてはやめ、また泣いてを繰り返していた。

母が今こうして僕を抱いているのは、僕が男の子であることを受け入れようとしているのかもしれない。本当は、僕を突き飛ばしたくて仕方がない感情を押し殺して…。

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母の中には、男の子と女の子の両方の僕がいて、そのどちらが本当なのかわからなくて苦しんでいる。母にとって大切なのは、理想の世界だけにしか存在しない女の子の僕で、その僕はいつだって可愛くて、現実の僕と全然違うから母は怒っている。

母は僕を男として扱うときの記憶はすぐに忘れてしまって、この夜が終われば僕は再び女の子として扱われるに決まっていた。

それでも、本当は覚えているはずだった。

母は僕が男であることを忘れたふりをして女の子として可愛がっているだけで、しかし僕にとっては、自分と過ごした時間を忘れたふりにされるのがいちばん悲しかった。

暗い夜。静かな夜。電気を消した部屋の中で僕を脅かすピンク色はただの黒色となり、母の腕の中で蕩けていくような気分の僕は、本当に女の子になってもいいのではないかと思った。

母が諦めないなら、僕が受け入れたらいいのだ。そう思いつつ、僕は昼間の快感を忘れられないでいる。男としての圧倒的な性体験が、自分は男の子であるという元の思考に引き戻す。

男の子であり女の子でもあるということは、そのどちらでもないに等しかった。自分はいま、胎児なのだと思った。

ピンクも水色もわからないこの暗闇の中で、母に包まれる僕は生まれる前の胎児だった。そうであれば、僕の性別を決めるのはいったい誰なのか。

女王蜂は、オスとメスを生み分けることができるらしい。でも母は決して女王蜂なんかではなかった。ただの雄蜂に殴られるような女王蜂がいるものか。

僕の性別を決めるのは、他の誰でもない、僕自身だ。その決断がたとえ鋭く研がれた刃物のように母を傷つけようと、僕は自分の意思で生きたいのだ。

いまの僕の拠り所は、決して母の豊かな胸ではなかった。

あの美しさ。僕は蜜蜂の体が壊れた時、そして母が感情のままに叫んだ時に感じた、あの美しさが忘れられなかった。

僕はまた、自分がそのような美しい存在になることに憧れていた。

それが母も僕も納得する、唯一の手段に思えてならなかった。

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部屋に監視カメラが設置されているのに気づいたのは、それから二日後のことだった。

あの夜以降、母の僕に対する女の子扱いはいっそう激しくなっていた。

自分から望んでいたはずだった母の態度に、僕はどうしようもなく辟易した。母は僕ではなく、自分の理想のために笑顔を振りまいていて、母の不気味な笑顔は、泣き叫ぶ母を目の前にして笑った僕への復讐のように思えた。

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しかし、部屋にカメラをつけるのはいくらなんでも度が過ぎている。きっかけは先日のあの一件のせいだとしても、ここ二日間で母が外に出た様子はなかった。

となれば、母はいつカメラを買いにいったのだろう。もしかしたらカメラで監視することはすでに考えていて、前から準備していたのかもしれない。

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そして僕は母の監視下で、二十四時間女の子として存在することを強要された。

もう、僕の居場所はどこにもなくなった。いや、もともとこの家に僕の居場所なんてなかった。

あるのは「私」としてしか認められない、窮屈で窒息しそうな空間だった。僕は、こんな風に女の子扱いして欲しかったわけではなかった。

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母はあの日から全然寝ていないようだった。次の日の夜にはそれぞれの部屋で別に寝ていたが、母の顔は優しかったいつの日かの面影もなく、誰からも殴られていないのに目にアザのようなものをつくっていた。

カメラがいつからついていたのかわからないが、もしかしたら母は夜通し僕を観察していたのかもしれない。僕がミョウバンのことが気になって夜中に目を覚ますことがあるように、母は僕のことを眺めることで安心を得ているように思えた。

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今すぐにでもカメラを取り除いて、思い切り壁にぶつけて壊したかった。それでも、母は夏休みのように長くて退屈な毎日を少しでも良いものにしようと健気に考え抜いて、その結果が僕を監視することならば、僕には簡単にカメラを壊すなんてできなかった。

ミョウバンはそんな僕の心のうちに募る不満のように、日々成長していた。最初のミョウバンはもちろん、後の二つも負けじと大きくなっていた。

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ただ、最初の結晶の形には他の二つとは違い、言葉にできないような違和感を覚えた。正八面体とはいえずとも順調に立体感を帯びていたはずのそれは、どこか不自然な、歪んだ印象を与えた。

その理由として、研究の最初の段階で溶液の不純物を取り除くのを怠っていたことが挙げられた。結晶とは溶液の成分の塊であるがゆえに、溶液自体が純度を損なうと結晶の出来栄えにもろに直結するのだ。

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僕ははじめての結晶作りで、そのような「アク取り」作業の重要性に気づいていなかった。暇に任せてミョウバンについて調べ直していたところそれに気づき、急いで台所からコーヒー用フィルターを持ってきたのは、ちょうど二つの結晶を新たに育て始めた時期だった。

なので、最初の結晶の違和感は、僕の失態が招いた結果だった。しかし、準備が足りなかったことに悔いは残るものの、僕はその結晶が他のものより劣っているとは思えなかった。

僕の興味は、むしろ不恰好へと近づきつつあるその結晶に最も傾き、これからの変化を楽しみに思った。

その結晶の行方こそ、僕のこれからの姿を暗示しているように思えて、僕は見ているのか見られているのかわからない気持ちで、ひたすらミョウバンを見て過ごしていた。

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…しかし、僕にとって平和な日々は長くは続かなかった。

「どうしてできないの⁈」

母は今日何度目かわからない叫びをあげた。僕はピンクの部屋に備えられた、石のように冷たい化粧台の前に座り、鏡の中の自分を見つめていた。

鏡の中の顔は、無様に塗られたファンデーションで見るに耐えないものになっていた。それを施したのは僕であり、母だった。

僕は、化粧なんてしたくなかった。他にしたいことはたくさんあった。しかし、ある日母が僕の部屋に入って、これまで置き物のような存在だった化粧台を手入れし始めた時から、嫌な予感がしていた。

「今日から、お化粧の仕方を覚えましょう」

その予感は的中し、母は僕に化粧のレッスンをするようになった。母はせっかくカメラを設置したのに僕の部屋に篭りっきりになり、僕の隣であれこれ指導した。

母は自分の化粧はもちろん、人の顔に施すのも上手だった。最初はなんとなく興味本位で向き合ってみたが、母の本気の指導に次第に嫌気がさしていた。

それでも、嫌々ながらに昼夜を問わず化粧の練習に取り組んだが、やはりというか、一向にうまくならなかった。

蜜蜂に刺された手のひらの腫れは数日で引いたが、思うように手が動かなかった。それは意志の問題なのだとわかっていても、母はそんな僕に気づかず、僕が言われた通りに化粧ができなかったことを、自分の指導不足のせいだと失望した。

せっかく手が治ったのだから工作の貯金箱にも手をつけないといけなかったが、熱心な母の心を折るようなまねはできなかった。したくなかった。

しかし、この時の僕はここ数日続いていた母のレッスンに鬱憤を溜めていた。母への献身的な態度が限界まで我慢した不満に押し負けた時、それは意地悪な嘘となって僕の口から出た。

「ごめんなさい、ママ。でも、蜂に刺されたところがまだ痛いの」

僕は、母の顔がみるみる変わっていくのを見て、どんな化粧も表情だけは隠せないことを知った。母は悲壮感に帯びた声で、

「私が見本をみせるから、貸して」

そう言って、僕の手から粉っぽいスポンジを取り上げた。

それから何かに追い詰められたみたいに、僕の顔の上で手を動かし始めた。

僕は相変わらず化粧のことはよくわからないけど、母が僕をどうしたいかはよくわかった。僕の本来の姿を隠すかのように分厚く、入念に、しかしあっという間に僕の顔はつくられていった。

鏡の中の顔はもはや僕のものではなかった。母の色に染まったその顔を見て、母が鏡に手を突っ込んで化粧をしているような錯覚に襲われた。

母は、実物の僕を決して見てはいなかった。母の顔はすでに明るく、恍惚とした表情で見つめる鏡の中には、どこからどう見ても女の子にしか見えない自分がいた。

僕は内面までを映し出してくれない鏡というものが不便に思えた。しかしもし僕の内面を映し出す何かがあっても、母の目にはそれは見えないに違いない。

母は目に映るものを意識の中で変換して、自分の見たい風景しか見ることができないのだ。

「どう、ヒカルはこの顔の時がいちばんなのよ」

「…私もそう思うわ、ママ」

母は手の傷のことには一切触れなかった。たとえ手が痛いというのが嘘であっても、少しくらいは慰めてもらいたかった。

それでも、僕は自分の感情を表に出さずに閉じ込めた。化粧で表情は隠せないが、表情の原因となる気持ちの変化は、僕の内側でどうにでもできた。

僕は本物の化粧は少しもうまくならなかったが、心に施す化粧はどんどんうまくなっていく気がした。

「うまくできなくてごめんね、ママ」

「…そう、これからもっと練習しましょうね」

母はその日の午後には、僕が手が痛いと言ったことなんかすっかり忘れて、再び化粧を熱心に教えた。

僕は母を、可哀想だと思った。強かった母は、いまでは弱い者いじめをしていた父と全然変わらなかった。

たとえ固く握った拳が柔らかいスポンジになったとしても、それは僕の頬を強く打っていた。打たれる僕の化粧が母の意図で日に日に濃くなっていくところまで、父が生きていたあの頃と何も変わらないように思えた。

ただ、母が僕に、父が母に置き換わっただけだった。

母の教える化粧が日に日に濃くなるほど、僕は自分の感情を殺されているような気がした。父に殴られていた母の気持ちを、同じ立場になって本当の意味で理解した。

母は心に施す化粧もとても上手だったことを改めて知った。同時にその化粧は、心をぼろぼろにしていくことも。

可哀想な母。僕はそんな母のために、頑張ろうと思った。

僕は母のおかげで女の子になるという目標に近づいているのだから、これからも我慢するしかない。顔は女の子になっても、体までは女の子になれなかったが、僕の顔は母を笑顔にするためにあり、男の子の体は、母を守るためにあるのだ。

しかし、男でも女でもない僕の心は、僕自身のためにあった。そしてその心は、決して母に跪いてはいなかった。

母は化粧によって、僕の胸に秘める悪意までもを塗り隠していた。そのことに気づいていない母の様子を、鏡の中の自分は、母に瓜二つの妖美な顔で見つめていた。

本物の母は僕の後ろで、肩に手を置いて笑っていた。

残りわずかな夏休みという時間が、僕たちの背後を、するすると通り過ぎていった。

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夏休みの終わりまであと一週間になり、僕はいよいよ貯金箱の製作に手をつけなければならなかった。工作のために化粧のレッスンを中断する提案をどのように伝えようかと考えていたが、その必要はなくなっていた。

母は徐々に、僕が化粧をすることへの興味を失っていき、今ではあれだけ熱心だった日々が嘘のように、化粧のケの字も言わなくなった。

その代わりというか、母は、僕を小さな子どものように扱いはじめた。

たとえば、夜ご飯にはハンバーグや唐揚げという子どもが好きなおかずばっかり出てきたし、僕に対する口調はまるで子どもを諭すような優しいものになった。

もちろん、ハンバーグに刻んだ玉ねぎは入っていなかったし、唐揚げはひとかたまりの鶏もも肉を揚げただけのものだった。つまり、母の刃物嫌いはまだ治ってはいなかった。また、口調は変わっても僕を女の子としていることはそのままで、母の変わったところといえば、ただ僕を子ども扱いし始めたことだけだった。

しかしその変化は、僕の日常をがらりと変えてしまう無視できないものだった。この家には僕と母しかおらず、家に篭りきりの僕にとって、母の異変は日常生活の変化そのものだった。

「きょうも、一緒にお風呂に入りましょうね」

母の甘い声を聞いて僕はぞっとした。トイレの扉の前で、中の僕に座ることを強要する母の方がまだよかった。

これまでは一緒にお風呂に入ることなんてなかった。男の子の体を無視したい母にとって、僕の裸を見ることはいちばんの苦痛であるはずだった。

それでも、僕は母に逆らえなかった。僕がひとりで入ると言うと、母はまるで子どものように駄々をこねるから、僕が母を連れる形で浴室に向かうしかなかった。

側から見れば、母の方が子どもっぽく見えているに違いなかった。それでも、この家には僕と母の二人しかいない…。

最後に一緒にお風呂に入ったのは、小学生も低学年の頃だったろうか。浴室の大きな鏡は、化粧台の鏡に代わって僕の思案顔を映していた。その顔は素の顔であるはずなのに、いまだに化粧が取れていないような気がした。

顔だけでなく、裸なのに見えない何かで全身を覆い隠しているような感じがして、そのような妙な感覚は早くシャワーで洗い流してしまいたかった。

シャワーのお湯は、何事もなく、僕の肌を滑り落ちていった。

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僕の髪は、もう何ヶ月も切っていなかった。今では肩にかかりそうな髪を、母は毎晩洗ってくれた。母が僕とお風呂に入りたいのは、この髪を手入れしたいからなのだと思った。

母はもう、実物の僕も鏡の中の僕も見ていなかった。母にとって僕の女の子としての要素は長くなった髪の毛だけだった。だから母は僕の髪の毛だけを洗って乾かして、その間楽しそうに話しかけられているのは、僕ではなく髪の毛だった。

僕は、ある日突然ハサミを握って、自分の髪の毛を乱雑に切り始めた時の、母の泣き叫ぶ姿を想像することがあった。その想像はひとりで布団に入った夜にするものであり、決して母といる浴室ではできなかった。

母とはたまに同じベッドの上で眠ることがあったが、以前のように抱かれることはなかった。代わりに、僕の枕元には沢山の絵本が積まれていて、毎晩ゆっくりとした口調で母の気が済むまで読み聞かせられた。

僕は母の口から出てくるおとぎ話の世界に助けを求めたかった。しかし、どんな話も僕の置かれた恐ろしく奇妙な世界のヒントとなるものではなかった。

僕はそれでも、工作の貯金箱こそ僕と母を繋いでくれる唯一の現実的なものと考えて、母に喜ばれる貯金箱を作ろうと思った。

自由研究の時とは違い、今回は母も手伝ってくれるらしかった。それは決して僕がぎりぎりまでサボっていたからではなく、いまの母の目に僕は小学生の低学年のように見えていて、母の中の僕はひとりで貯金箱なんて作れないみたいだった。

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理由は何であれ、僕は母と二人で何かをすることが嬉しかった。だから、母が僕の部屋でいつかのように叫び始めた時、僕はいままで以上に落胆した。

夏休みも終わりに近づいたある日、やっと母との楽しい時間を過ごせると思っていた僕は、その淡い希望すら叶わないことに泣きたくなった。母のためではなく自分のために、死んでしまおうとさえ考えた。

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きっかけは、貯金箱の製作にミョウバンの結晶を使おうと僕が提案したことだった。僕は「独創的な貯金箱」にするために、宝箱のような貯金箱を作りたかった。

僕の掲げたテーマに、母はおおいに賛成してくれた。きらきらしたものが好きな母は、僕の描いた完成予想図を、子どものように目を輝かせながら眺めていた。

母は僕の指示で、宝箱のような形をした菓子箱を買ってきてくれた。本当は段ボールを切って一から作りたかったが、母の前でハサミを使うことはできなかった。だからその箱を飾りつけるという方法で「独創的な貯金箱」を作る必要があったが、それでも、二人で紅茶を淹れて中身のクッキーを食べながらどのように箱を装飾するかを話し合う時間は、それ自体がまるで宝物であるように思えた。

形のない、どこにも閉じ込めておけない幸せな時間を、僕は決して忘れたくなかった。しかし、それはすぐに、一刻も早く忘れてしまいたい時間になった。

僕たちはクッキーを食べ終えると、宝物に装飾するためにミョウバンを取り出そうと、三つの容器が並んだ箱を覗き込んだ。

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その箱は化粧をするようになってからは、化粧台の上から学習机の上に移動させていた。もっとも今では化粧をしなくなっていたが、化粧台の上に戻す必要もなかったので容器の入った箱はいまでも机の上にあった。

化粧台と違って学習机は部屋の隅っこにあるから、僕はともかく、母が容器の中を覗き込むのは随分と久しぶりであるように思えた。

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僕は後から二つの結晶を追加してつくったことを、母に褒められると思っていた。その二つは最初のものよりも出来がいいからなおさら期待していた。

「きゃーー‼︎」

…そんな僕の予想を裏切って聞いたのは、賞賛の声ではなく、悲鳴だった。その声は蜜蜂の時と同じ、いやそれ以上に悲惨な色をはらんだ、怒ったような声だった。

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母がどうして叫んでいるのかわからなかった。その疑問は、僕が母と同じ光景を見た後でも解消されなかった。箱を覗き込むと、三つの容器の中で一際目立つ不恰好な結晶が目に入った。母は、それを見て驚いたのかもしれなかった。たしかにそれはもう、八面体とは呼べないほどに崩れた形をしていた。しかし、泣き叫ばれるほどの代物ではないように思った。

僕はなぜ母が叫んでいるのかわからないから、蜜蜂の時のような感動を覚えなかった。僕の心を満たしたのは落胆だった。もし母が結晶の歪な形を見てそれが理由で叫んだならば、僕は三つの中でもその結晶を特に大切にしていたから、母に自分のすべてを否定されたようで悲しかった。

「ちゃんと、世話をしなさい!」

そう言って母が不恰好な結晶の容器を箱から出した時、僕は母が何をしようとしているのかわかった。でも、僕の体は母を静止させようとは動かなかった。母は何の躊躇いもなく、手に持っているものを思い切りフローリングの床に叩きつけた。プラスチック製の容器は割れることなく、床にぶつかった後はからからと高い音を鳴らして転がった。

僕たちの足元は冷たいコップの結露のように水浸しになり、結晶は、不安定な立体の表面を濡らして、床の上で光っていた。母は自分でつくった惨劇に目を背けるようにして、真っ赤な顔で泣き始めた。

僕は、目の前で大切なものを踏み躙られた気分で、子どものように泣く母を見つめていた。泣きたいのは僕なのに、どうして母が部屋の真ん中でうずくまっているのかわからなかった。

僕は何も贅沢なことは望んでいないはずだった。ただ二人で楽しく過ごしたいだけだった。僕は本当は母のためにお金を貯めたかったから、貯金箱はそのために二人で納得するものを作ろうと考えていた。旅行とか外食とか二人で楽しいことができるように、毎日少しずつ貯めたいと思っていたのに。

父のいなくなった今、どうして母はこんなにも苦しんでいるのか。僕が何も言わないでいると、母は顔を伏せて部屋から出ていった。僕は壊れた母を受け入れつつ、本心では母が普通になることを諦めていなかった。しかし、部屋の惨劇を整え、ミョウバンの箱をもう二度と母の視界に入らないように机の下に隠し終えた時、階下から怒鳴っているような母の声が聞こえた。

そして僕の心は、ぽっきりと折れた。母の壊れ具合は、きっと、母の感じている恐怖の度合いであった。僕は母がもう普通には戻らないかもしれないと思うと、美とかそんなのは関係なく今すぐにでも死にたくなった。母のためではなく、自分のために死にたくなった。

母はもう元には戻れない。たとえどれだけ周りを美しく整えても、どんなに美しいものに触れても、母はただ醜く廃れていくだけなんだ。その日の夜、僕は夢の中で父の目を知った。それは父が母を殴る時の目で、僕は母の目線になって父を見ていた。「僕を殴れよ」と隣で声があがった。それはあの時の僕の声で、それでも父の拳はその声を無視して母の体を殴った。

僕は母の体で父の暴力を受け止めた。夢の中だから痛みなんて感じなかったが、それでも大きく後ろに倒れ込んだ。母となった僕の前で二人の男が自分を見下ろしていた。目をギラギラさせた父と、同じ目をした僕…。何かを予感させていた父の目は、僕が紛れもなく男であることを示唆していた。そして母はその目で見下され、僕は父と一緒に母を見つめていた。僕の顔は、笑っていた。僕はあの頃から、母を見つめて笑っていた。

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母が僕に化粧をすることはもうなくなった。しかし母は化粧よりももっと強力な何かを僕に塗していて、それは僕の目には見えなかった。

いまの母の目に、僕はどう映っているのかわからなかった。ただ、母の僕に対する口調はまるで赤ん坊をあやすような甘いものになっていて、もしかしたら僕は赤ん坊の姿で母には見えているのかもしれなかった。

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いまでは部屋のカメラはまったく機能していなかった。母は四六時中僕のそばで過ごすようになったから。それもそうだ、母にとって僕は、自分では何もできない赤ん坊だった。

僕はミルクのような甘い匂いを空想上で嗅いだ。母の思い出話として、赤ん坊だった頃の自分の甘い匂いを聞いたことを思い出した。

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母は、いまの僕にミルクのような匂いを嗅いでいるに違いなかった。僕は泣けてきた。傷だらけの心には影が落ちていた。母はもう、僕を女の子にすることすら諦めていた。かといって男の子として受け入れてくれたわけでもない。

一日中大人がつきっきりになることでしか生きられない、男とも女ともいえない赤ん坊。母は僕から性別を剥ごうとしていて、化粧で隠すことをやめ、僕という存在を壊しにかかっている。

でも、十五歳の中学三年生で、男でも女でもない僕は、母の一人だけの子どもだった。それだけは、僕が母の子どもということだけは、おそらく母も諦めていなかった。

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僕ははじめて、自分から進んでスカートをはいた。はじめて本気で化粧を練習し、必死につくった顔を母に見せた。僕は母に喜んでもらいたかった。あれだけ熱心だった母の指導に、はじめて本気で応えたいと思った。自分の子どもの頑張りを、母親として認めて欲しかった。

「お化粧で遊ばない‼︎」

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母はそんな僕を、信じられないくらいに叱りつけた。僕は今まででいちばんよくできた化粧を否定されて、ぽろぽろと涙をこぼした。母はもう手遅れな状態であることを悟った。悲しみや悔しさなんて言葉で片付けてしまいたくない思いが、透明な涙となって溢れ出た。

僕の頬をつたう涙は、化粧を台無しにした。母は先刻僕を怒鳴りつけたことなんて忘れて、まるで粗相をした赤ん坊をあやすように僕の化粧を拭き取り始めた。

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母が過去に目を向けずにいるのは今に始まったことではなかった。男としての僕のこれまで、そして父がいても二人きりの楽しい時間があったあの頃の思い出を含め、すべての過去を母は隠したがっていた。

今の母にとって楽しかった過去の思い出は、目の前の現実を凄惨なものに見せる酷いものでしかなかった。現状に満足できず未来に絶望した母は、過去を振り返りそれと今を比較してしまう。

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でも比較すればするほど過去は光り輝いて見え、それは決して手の届かないところにあることに気づく。母はそれでも、必死に手を伸ばして掴もうとしている。まるでショーウィンドウの向こうにある煌びやかな宝石を、どうにかして自分のものにしたい子どものように。

母にとって、僕は唯一無二の結晶だった。でもその結晶が、自分のいちばん嫌いなものに似てきたから、これまでのすべてをなかったことにしたがっている。手に届かないものは、もとから存在しなかったのだと自分に言い聞かせている。

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母はたまに僕の部屋の学習机の下を覗き込むことがあった。机の下にはミョウバンの箱があるから、母はそれを見ているみたいだった。母は、あの時のように泣かなかった、喚かなかった。ただ感情のない虚ろな目で、成長のとまった三つの結晶を見ていた。

母に容器を叩きつけられたあの日、僕はすべての結晶を溶液から取り出した。そして箱の上に割り箸を置いて、そこに結晶のついた糸をくくりつけた。つまり、三つの結晶は宙に浮く格好で箱の中でじっとしていた。結晶は成長することもなければ、その形を崩すこともなく、同じ状態で外気にさらされていた。

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母の目にはそんなつまらない結晶が、どのように見えているだろうか。母は僕だけでなく、その結晶たちも監視していた。もうこれ以上醜くならないように、自分が叫ばなくていいように…。

母は僕を赤ん坊のように扱う傍ら、眠る時だけは自分の部屋に戻っていった。母にとってベッドの上は僕の男としての記憶が蘇る場所だったのかもしれない。あるいは、夜という時間くらいは現実から体ごと剥離し、ひとりで夢の中に閉じこもりたいのかもしれなかった。

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それでもある日、僕は母の誘いをうけてベッドの上で抱かれた。その時の僕はもちろん赤ん坊で、もう男としても求められていない腕の中で寝息に混じる母の寝言を聞いた。

刺された、刺された。

囁くようなその声に、僕は母が父のことを言っているのかと思った。

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母は今更父を見殺しにしたことを後悔しているのか。僕が母の理想からどんどん離れていくから、母は疲れて誰かに頼りたいのかもしれない。あんなに酷いことをされ、きっとこの世でいちばん大嫌いなのに、それでも母は父を必要としている。僕では父の代わりにならないから、母は夢の中で父を取り戻そうとしている…。僕は狭い布団の中で息苦しさを覚えて、今すぐにでもそこから飛び出てやろうと思った。

その時、僕の耳に、さっきの寝言の続きが飛び込んできた。

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刺されて、痛かったね。

ヒカルごめんね。

守ってあげられなくて、ごめんね。

ヒカルが刺された。

私のせいで、刺された…。

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母は父ではなく、自分のことを言っていた。僕が蜂に刺されたことを、母は今でも気に病んでいる。母は頭がおかしくなるほどに、僕を心配してくれている。苦しむように何度も寝言を繰り返す母を見て、僕の目から涙がこぼれた。

僕は自分が母に心配をかけ続けていることに気づかなかった。母が壊れていると決めつけて、そんな母を何とかすることが僕の使命だと思っていた。でも、母は母だった。僕が僕であるように、母はあの時からずっと、僕の母親だった。

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それは、父についても同じだ。たとえ死んでも構わない屑であっても、あの人はたしかに僕の父親だった。僕は本当の意味で犯人を呪った。家族を壊されたという理由で彼に怒りをぶつけるのははじめてだった。僕はたとえ家族の形がどんなに歪であっても、父と母を諦めてはいけなかったのだ。家族としてやり直す機会を身勝手に奪った犯人を、僕はこの手で殺してやりたかった。

それでも母は、この夜が明けるとまた僕を忘れた。母の中の僕は依然として、母のことしか求めない産まれたての赤ん坊だった。

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あれからまったく貯金箱の製作は進んでいなかった。僕は一日何も手につかず、母が隣にいるのにわざと窓を開けて空を見たりした。母はそんな僕の姿を見て、声も出さずに泣き始めた。僕もそんな母の顔を見て泣いた。二人で向かい合ってぼろぼろと涙を流した。やがて母はふらふらと部屋を出ていった。僕はもう、何もかもお終いにしたかった。母がいなくなった後、机の下にある箱の中の、三つの結晶を覗き込んだ。

僕は自分の目を疑った。自分の内面を映し出す鏡が、そこにはあった。

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二十四時間僕と一緒に、母によって監視された末にできたのは、凹凸混じった目もあてられぬほどの、歪な形の結晶。以前に見た時よりも数段大きくなったそれは、他の二つの結晶をも取り込んで、巨大な醜体をさらけていた。

溶液に浸されていないその結晶は、この部屋の空気を糧に成長し続けていた。いや、そんなことあり得ない…。僕は暗がりの下、じっくりと歪な結晶を観察した。その不規則な面のひとつひとつが、僕の内側を映し出していた。ただの石ころのような不恰好な姿で、それでも輝こうとしている、不純物だらけの健気な結晶は、僕のありのままの姿だった。

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男でも女でもなく、青年とも赤ん坊ともいえる僕は、いったい何者なのか。

…いや、違う。

それを含めたすべてが、僕なのだ。

歪こそが、僕なのだ。

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僕と母はどっちも、とっくに壊れてる。僕はその醜い結晶を、これまでに見た何よりも綺麗だと思った。もうすでに中身は熟成されている。もういい、もう十分だ。あとはもう、外側を壊すだけだ。それで、二人とも幸せになれるんだ。

僕はひとつになった結晶を掴み取ると、全力で腕を振りかざした。あの時の硬貨のようにそれは投げられ、硬貨よりもろい結晶は、化粧台に当たり砕け、破裂音のような鋭い音を伴い、いくつもの破片となって飛び散った。

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階下の母は、もう駆け寄ってはこない。

砕けた結晶の断面が外側よりも美しいことに、はじめて本物の美を見た気がした。

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結晶のような部屋に僕はいた。その部屋にはピンク色のスーツのベッドがあり、僕はその上に座ってじっとしていた。

隣では熊のぬいぐるみがつぶらな瞳で窓の外を見ている。夏休みの最終日、熊の目線の先に見える空は地上の子どもたちに惜しみなく光を降り注ぎ、それぞれの夏のフィナーレを鼓舞している。

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もっとも、朝の涼しい時間帯では日差しはまだ強くなく、部屋の中も蒸し暑くない。部屋の中は汗や化粧の匂いが漂っていて、この匂いは気温が上がるにつれ濃度と純度が増し、夏休みという日々を凝縮したひとつの安定した芳香になった。

その匂いも含めて、僕の周りはピンクのもので溢れていた。角の傷ついた化粧台には大きな鏡があって、その鏡の中はピンクでいっぱいだった。

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ただひとつ、ピンク色の中に不気味な黒色が混じっている。それは僕の肩まで伸びきった髪の毛の黒だった。鏡の中で自分は、ひらひらのスカートを着て、ぼさぼさの髪を梳かすこともせず、右手にはハサミを持っていた。僕は自分を見て笑っていた。もう一人の僕もまた、自分と同じ笑顔でこちらを見ていた。

結晶、のようなこの部屋には、扉があった。僕はベッドから立ち上がると、その扉を開けて部屋の外に出た。

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ゆっくりと階段を降りて一階のリビングを覗き込むと、殺風景なテーブルに向かい合って母はひとりで座っていた。袖から伸びる母の手首は病人のように細く、頬も痩せていて、髪の毛は僕と同じくらいにぼさぼさだった。僕は母に見られてばかりで、全然母のことを見てこなかったことに気づいた。僕もまた、空想の中でしか母を見ていなかった。

僕は手にハサミを持ったまま、母の前に出た。母はわずかな顔の肉を硬らせて怯えていた。可哀想な母。僕は少しずつ母に歩み寄った。僕が近づくにつれ、母は次々に叫び出した。

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「ハサミを、捨ててきなさい!」

「私の見えないところに、隠しなさい!はやく!」

僕は母の声に耳を貸さず、乱れた髪をそのままに、一歩また一歩と母に訴えた。

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ママの世界は、ほんとに綺麗なの?

なんでもきらきらさせて、それが本物の美しさなの?

いや、母には美しさなんてわからないのかもしれない。母にとってこの世界は、醜くて汚いものに見えているのかもしれない。だったら、"私"が教えてあげなくちゃ。

そうすれば母も私も、これ以上苦しまずに済むから。

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私は、女の子の自分を殺したかった。苦しみ続ける母を救いたかった。

私は、美しさの中で死にたかった。母にも、美しい姿のまま死んでもらいたかった。

そして、髪を振り乱して、私は母に飛びかかった。

私のハサミは、母と僕を刺し殺した。

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…………

…………

…………

「ハサミを、私に見せないで」

母は最後に、静かな声でそう言った。母の僕を見る目は、優しかった。

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僕の視界は突然暗転して、僕を現実の世界へと引き戻した。再び視界が開けると、僕の目の前には母の後ろ姿があった。

僕はリビングの扉から中の様子を見ていた。さっきの幻想は、すべて扉の前で佇む僕の頭の中であった。僕は力なくハサミを床に落とした。その音に気づいて、母がこちらを振り向いた。

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はい、ママ。僕は心の中でそう呟いた。

僕は、これでいいと思った。自分を殺すのに、ハサミなんて必要なかった。

「どうしたの?」

「ママ、ごめんね」

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いままで、ひとりぼっちにさせてごめんね。

僕が言うと、母ははっとした表情で僕を見つめた。母の顔は固まったまま、僕の言葉を聞いていた。

ママは本当は誰かに頼りたかったんだよね。お父さんがいた時からずっと、ママはひとりで耐えてきたのに、いままで気づかなくてごめんなさい。

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母の顔はどんどん崩れていった。これまででいちばん不細工な顔は、化粧で整えている時よりもよほど美しいと思った。

やっぱり、ママは綺麗だった。純粋に僕を愛し、僕を守ろうと頑張ってくれた母は、誰が何と言おうと美しかった。

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でも、僕は知ってるんだ。心の中で呟く。いちばん美しい結晶は、歪なのに綺麗な結晶を、めちゃくちゃに壊してできた欠片であることを。

僕は、綺麗にはなれなかった。母の用意した部屋という溶液の中で、男という核を女の子のように成長させて作られた結晶が僕というものならば、僕はまだまだ未熟だった。

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でも、もし誰よりも母の望んだ、綺麗な僕が出来上がったその時には、はじめて僕は刃物を握って、大好きな母に本当の美しさってやつを、この体で教えてやるんだ。

…そんな綺麗で完璧な僕なんて、百年かかってもできやしない。この世に存在しない結晶には、いくら手を伸ばたところで決して届かない。

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…もし僕が本当に、母の想像よりもずっと綺麗な女の子になることができたなら、その時は、僕の決意を叶えてやる。

だから、それまでは、一緒に生きよう。

僕は何も言わずに、母の背中に腕を回した。はじめて自分から母を抱いて、こうしていれば、拳なんて握らなくていいことに気づいた。

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虚をついた僕の行動に母は驚いていたが、やがて目の前の胸に顔を預けると、まるで何かを確かめるように、力まかせに頬を当てた。

本当はもっとはやく、こうするべきだったんだ。当たり前の家庭や失った時間は、もう二度と手に入らない。でも、もともと正解なんて存在しない。僕たちは煌びやかな理想ではなく、それぞれが輝ける現実を創っていかなければいけない。

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男や女ではない。「ヒカル」にしかできないこと。

僕は嗚咽する母の背中を何度もさすった。母は途切れ途切れの声で僕の胸に言った。

「ミョウバンの結晶を、もっと大きくしてあげたかったの」

母の告白に僕は驚かなかった。

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結晶を大きく育てていたのは母だった。三つをひとつにしてびっくりするくらいに大きな結晶を作れば、ヒカルに喜んでもらえると思って。そう呟いた母を、僕はさらに強く抱きしめた。もう何も必要なかった。ただ母がいれば、それでよかった。

ふたつのスカートが、ひとつの衣装であるかのように重なり合った。窓から差し込む陽光は、その衣装の、歪な影を床に投げかけた。

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同じ暗さを共有した影のそばで、母の目から溢れた世界一綺麗な雫が、僕の平らな胸を濡らしていた。

静寂な家の中で時計の針だけが、いつまでも規則正しく動いていた。

今日という日が、終わろうとしている。

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長かった夏休みも、もう終わりに近い。

Concrete
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