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長編8
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もう戻れない

何歳の時だっただろうか。詳しい時期は忘れてしまったが、まだ僕が小学生だった頃に絶景の桜が見られるスポットとして有名な山に家族と一緒に来ていた。

「本当に綺麗ねぇ…。」

「ああ…。」

お母さん達がうっとりとした表情で桜たちを見つめている。春の澄んだ雰囲気をそのまま取り込んだかのような麗らかな青空に、柔らかな日差しに照らされ、時折キラキラ光る桜たちは確かに美しいとは思った。しかし、小学生といえどもまだ、今ほど自然への感受性というものが育っていなかった僕はすぐにその景色に飽きてしまい、今となってはまったく覚えていない、他愛のない話を妹の章子としていた。

「均!章子!写真撮ってほしいでしょ?お父さんが写真撮ってくれるって!」

「はぁ~い!」

実はそんなに乗り気ではなかったが、お母さんの声に元気よく答え、僕たちは桜の木の下に立った。

ぱしゃっ!カメラのシャッター音が響く。そこには無邪気な子供たちが映っていただろう。今となっては確かめようがないが。

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「お兄ちゃん…お母さんたち、まだ桜見ているよ。私、飽きちゃった…。」

「うん…。」

僕は返事と呼べるか曖昧な声を妹に返した。章子の言う通り、お母さん達は桜たちを眺めている。よっぽど気に入ったのだろうか。だとしてもいい加減、僕たちが飽きていることに気づいてほしいものだ…。そう思うほど、両親にうんざりしていた僕はふと妙案を思い付いた。

「なぁ、章子!ちょっとこの辺、冒険しない?せっかく遠くから来たんだからさ!」

「え~…お母さんたちから勝手に離れたらダメだよ…。」

「大丈夫だって!すぐ戻ってくればいいんだから!どうせ、まだまだ見続けるよ。」

「う~ん…やっぱり私はやめとくよ。」

僕の必死の説得もむなしく、章子には断られてしまった。僕はせっかくいい案なのにもったいないと思ったものだ。

「お兄ちゃんは行くの?」

章子にそう尋ねられて一瞬、思考が止まった。僕一人で冒険に行く。その考えが全く思い浮かんでいなかったからだ。今まで僕がした冒険は友達か章子が付いていて、一人でしたことなどなかったからだ。この時の僕はきっと章子のことを天才だと思ったことだろう。

「えっと、うん。僕は行くよ!」

「そう…危ないとこ行っちゃダメだよ。」

まるで章子の方が姉じゃないか。この時の僕はそう思ったのを覚えている。そうだ、章子には妹の癖に兄の僕よりしっかりしているところがあったんだ。今はもう見る影もない。

……とにかく僕は全く知らない土地で、はじめて一人だけの冒険を始めたのだった。

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ミサクラヤマ。御という字に桜と書いて御桜山。あまりにも桜の木が生えている山だからついた名前らしい。お父さんが車で移動中に言っていたことだ。

確かに御桜山は歩く至るところに桜の木が生えていた。幼い僕はもうすっかり見飽きた桜がどこまでもあるのに辟易していたと思う。何か桜じゃないモノが、僕が映し出している視界に出てこないかと願望していたものだ。

そのうち雲ひとつない青空が赤くなってきたことで、僕は自分が思っているよりもずっと長く歩いていることに気づかされた。そして、まわりを見ると、よくここまで来れたなと自画自賛したくなる程に、子供にとっては険しい場所に来ていたのだった。

桜しか見えない景色の中を歩いていたから、僕の感覚がおかしくなっていたのだろうか。

早く帰らないと。

僕は不意にそう思った。きっと、お母さんたちに心配されているからとかそういうのもあるが……大きな要因は別になった。うまく言葉に説明することはできないが…このままここにいたらきっと何か戻れなくなるに違いない。そう、そんな感覚だった。

早くお母さんたちのところに戻ろうと、足を動かそうとした僕は、目の前に鳥居があることに気づいたのだった。その鳥居は夕焼けに染まりつつある空よりもずっと朱く、鮮やかだった。確か……額束に何か神社の名前が書いてあったと思うが、今はもう思い出せない。さっきまであんなに早く帰ろうと思っていたのに、僕は朱い朱いその鳥居に惹き付けられていた。そして、そのまま吸い込まれるかのように鳥居のなかに入っていったと僕は記憶している。

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まず、僕が目にしたのは、荒れに荒れた本殿らしき建物だった。建物と表していいのかすら戸惑われるそれは、僕にある種の恐ろしさとよく分からない異様な厳かさを感じさせた。さらに奥に進んでみると、僕は絵馬が飾ってあることに気づいた。

みんな、何を書いているんだろう。

何気ない人並みの好奇心に押された僕は、すぐに見たことを後悔することになった。

『アイツを呪ってください。呪って呪って二度と日の目を見られないようにしてください』

『私が全てを失ったのは、全部彼のせいだ。呪ってください』

『早く姉を呪い殺してください。もう限界なんです』

そこには、怨嗟の言葉しかなかった。直に見てしまった怨みが持つ恐ろしさ。未だに忘れることができない。

そして、僕はここでようやく気づいたのである。この神社は何かおかしいと。

「貴方も呪いに来たのですか。」

早くこの神社から去ろう。そう思った僕の頭上から急に声が降りかかった。見上げてみると40歳ぐらいの柔和な顔立ちのおじさんが立っていた。所々白髪混じりの黒髪だったような気にする。それよりも、特に僕の目をひいたのはおじさんが着ていた服だった。僕は変な服を着ているおじさんだなぁと不思議に思ったことを少しおぼえている。

今、思えばそのおじさんはあそこの神主か何かだったのだろう。

それはともかく、僕は「呪い」という言葉が優しそうなおじさんから出たのだと、一瞬理解できなくて鸚鵡のように返した。

「呪い…?」

「はい。ここに来ているということは、そうかなと思いまして。」

子供相手にも丁寧な人だ。その時の僕はハッキリとではないが、そう思ったのであった。僕を子供ではなく、1人の人間として相手してくれている。なかなか普通にできることではないだろう。僕はここでもちょっと変わった人だなぁと思ったものだ。

「ええと…僕は呪いに来ていません。ただこの神社が気になって見に来ただけです。」

「そうですか。葉栗洋太さんを呪いに来たのではないのですね。」

思わず僕の口から「えっ」と声が出る。何を言っているんだ、この人は。何でこの人から葉栗洋太の名前が…。

僕は葉栗洋太のことを知っている……というか同じクラスメートだった。我儘で気にくわないことがあるとすぐ暴力を振るう乱暴者。その上で体格も良かったから誰も逆らえない。僕も彼の捌け口になったことがある。何度いなくなってくれたらと思ったことか…。

僕の体が冷えていく。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。気持ち悪い感覚だ。恐怖を何とか抑え込み、僕は声を出した。

「呪うなんて…そんなの…。」

「よければ、絵馬に彼の名前を書いてください。そして何か生き物の死骸を本殿に置いてください。」

「し、死骸?何ですかそれ…。」

聞きなれない単語に僕は不安げに聞き返す。おじさんは相変わらずのにこやかな笑みで答えてくれた。

「死体のことです。」

あまりにもあっさりとした言い方だった。少し間をあけておじさんが話を続ける。

「…これが呪噛様の力を高める儀式です。こうすることで相手を呪ってくれますよ。」

また知らない言葉だ。ジュガミサマだって?神様?確かにここは神社だけど…。僕はそう混乱しつつある頭でおじさんに尋ねたと思う。

「じゅ、呪噛様って?」

「この神社に祀られている神様です。」

おじさんはそう答えただけだった。ジュガミサマについて多くを語ってくれないおじさんに僕は薄気味悪く感じ、今度こそ神社から出ようと決意した。

「どうしますか?今崎均さん。」

急に自分の名前を出され、心臓がキュッと縮んだかと思った。だけど、急に葉栗洋太の名前を出されたときほどではなかった。僕はぎゅっと手を握る。

「ええと…僕は彼を呪いません。やっぱり呪うのってダメなことだと思います。いくら嫌いでも…。」

おじさんが何か言葉を発する前に僕は、彼から走り去った。空はどんどん夜になろうと暗くなっていくし……何よりこのおじさんともう話したくなかったからだ。鳥居を抜けたときに微かに「また来てくださいね」というおじさんの声が聞こえた。

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これがあの日、僕が体験した出来事の全容だ。鳥居を抜けたあと、僕は少し道に迷ったものの、どうにかして元の場所に戻ることができた。もちろん、僕はお母さん達にしこたま怒られた。当たり前だ。いくら小学生だったとはいえ、浅はかなことをしたものだと思う。お母さんたち、泣いていたな。あの頃の僕に会ったら、一発殴ってやりたい。

だけど…このちょっと苦い思い出は、今や遠く美しい思い出となってしまった。

あれから僕の家は壊れてしまった。

お母さんとお父さんは毎日喧嘩するようになってしまったし、僕は通っている高校の皆から白い目で見られている。これもかれもすべて章子のせいだ。章子がぐれなければ…!!

僕よりも時々大人びていた彼女はもういない。今のアイツはただの馬鹿でどうしようもない人間だ。シンナーを吸ってはいけない、万引きをしてはいけない……そんなこと誰もが知っていることだ。昔の章子は分かっていた。なのに、分からなくなってしまった…。

そんな章子がいなくなったって誰も困らない。

___高校3年生の春休み。僕はまたここにいる。かつて家族と行った御桜町に。

あの頃と変わらない、春を含んだ青空。あたたかな日差し。桜に囲まれた御桜山。

きっと僕だけが変わってしまった。

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『御桜山には呪いの神様が祀られている神社がある。その神様の名前は呪噛様と言って、絵馬に呪いたい人の名前を書き、呪噛様の力を高める儀式さえすれば呪ってくれる。』

僕はまたあの神社に足を運んだ。片手に猫の死骸を持って。この猫は御桜山の麓にある、家の裏で死んでいた猫だ。どの動物を殺そうかひどく迷っていた僕にとって、自分で殺す必要がなくなったことは正直ホッとしたものだ。

ふと額束を見てみると「名……神社」と書かれていた。汚れていて読めない部分があるが、こう書いてあったのかと僕は思った。

血のような朱い鳥居をくぐると、僕は絵馬がある場所に向かった。相変わらず、恨み辛みばかりの暗く嫌なところだ。だけど……僕も彼らと一緒だ。呪いという禁忌にすがってしまうほどに落ちぶれてしまった人間たち。

僕も人を呪うことなんてダメなことだと頭では分かっている。……章子も今の僕と同じようなことを感じているのかな。だけど、もうどうでもいいことだ。僕は絵馬を呪噛様に奉納した。

『今崎章子を呪い殺してください 名……神社』

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