長編8
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物騒な世の中だ。大通りの往来に混じって歩いていると、そう呟きたい気分になった。もう何年も買い替えていないTシャツに、膝の部分が大きく破れたジーパンという私のスタイルは、どこに行っても煙たがれた。おまけにいつどこで落としたのか腰に巻いていたはずのベルトを失っていて、私はジーパンが落ちないように不自然な歩き方をする必要があった。

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そんな怪しげな私の周りからは、歩けば歩くほど人が離れていった。しかし私を敬遠する彼らはおそらく、私よりもずっとまともな人間なのだろう。物騒な世の中でまともに生き抜くには、人はみな少しばかり冷酷にならなければならない。人が悪いのではなく世間が悪いというのが、私の使い古した持論である。

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物騒といえば、ふと小耳に挟んだ殺人事件のなんと酷いことか。以下、先程通り過ぎた八百屋の店主と客の話。

「いいこと教えてあげるから、じゃがいも安くしてちょうだい?」「何?内容次第だ、まずは教えてくれよ」「うーん、まあいいわ。今日のお昼過ぎくらいかな、隣町で下駄屋の長男が殺されたらしいのよ」「嘘?下駄屋というと…あんな好青年が?」「ええ、噂によると、金銭トラブルだって。最近自分の会社が成功したとかで…」

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「そういえば一年ほど前に起業したんだったな。若えのにすごいもんだ」「でも、いくらお金があっても、命がなけりゃ意味ないわ」「それでそれで、殺しの方法は?」「もう、物騒な話には目がないわね」「そう言うお宅もだろう?」「言うわね。まあそうなんだけど」「で?どうやって?」「なんでも、絞殺らしいのよう」「コウサツ?」「絞殺よ。首を絞められて殺されたの」「ひぇ、物騒な世の中だこった」

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「まだまだあるけど、玉ねぎも安くする覚悟ある?」「内容次第…と言いたいけど、まだ聞きたいことはいっぱいあるなあ」「犯人の目星は、だいたいついてるらしいのよ」「ほお。警察は無能なんて言われるけど、やる時ゃやるなあ」「目撃者も何人かいて、彼らの証言によると犯行現場はすごく臭ったらしい」「鼻は目よりも記憶力があるらしいから説得力あるな」

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「あと、殺人が起こったのは下駄屋の二階で、逃げた犯人は慌てて商品の下駄を履いていったのだとか。今頃犯人はカランコロンと賑やかに逃げてるみたいよ」「耳もまた目より強し」「でも、目も侮れないわよ。現にあなたが値札を入れ替えたこと、私は見逃さなかったわ」「げえー。定価を高い値段にして、言い値を安くしてやろうと思ったのに」「主婦を侮るなかれ」…

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私は殺人事件について明るく話す二人の会話をよく覚えていた。いくら被害者に同情しようと、所詮は他人事である。私は清々しいくらいに殺人事件の噂を楽しんでいる二人を見て、どうにかして仲間に入れないだろうかと思ったりした。しかし一文なしの私には、たとえ値切ることができたとしてもにんじん一本さえ買うのが惜しかった。

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何も買うつもりがないのに話しかけるのは気が引けた。だから私は八百屋を通り過ぎ、かわりにタダで得られた事件についての情報を頭の中でこねくり回していた。私は事件についての三つの基本的な謎について考えた。すなわち「どうやって被害者は殺された?」「犯人はいったい誰?」「犯人の殺しの動機とは?」という謎である。

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しかし、現場にいたわけでもない私が考えたところで、いったい何になるだろう。物事を知れば知るほど謎は深まるばかりで、私は考えれば考えるほどぬかるみにハマっていくような感じがした。第一の謎は絞殺ではあるものの、凶器が使われたのかそれとも手で締め上げたのかわからない。また第二と第三の謎は根っこの部分でつながっていて、犯人についての情報が自ずと殺しの動機を定め、同時にその動機こそが犯人の人物像の目星をつけるように思われた。

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私が考えたところでどうにもならないとわかっていたが、それでも私は暇だった。考えるだけなら何の罪にもならないと思い、第二・三の謎にかかわる情報を先程の会話の中から拾い集めてみる。

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まず、犯人はどうやら金に困っていたらしい。ひとつの会社の主である下駄屋の長男を襲った理由、つまり犯行の動機は、おそらく金に違いなかった。そして犯人の大きな特徴として、下駄を履いて逃走したということが挙げられる。もっとも今では脱いでいるかもしれない。下駄を履いて音を立てずに走るのは至難の業で、誰にも見つかりたくない犯人がわざわざ自分から目立つことをするはずもない。

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あと引っかかることといえば、現場がひどく臭ったということだ。しかし額面通りにとらえれば、絞殺死体の体臭と考えるのが自然だろう。首を絞められた死体の顔は見るに耐えない無残なものだと聞いたことがあるが、臭いまでキツくてはかなわない。私は現場に居合わせなかったことを幸運に思った。それはそうと、あの客は事件についての情報をよく知っていたなあ。まるで、その場にいたかのように。

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そう考えた時、私の体を電流のようなものが突き抜けていく感覚に襲われた。私はひとつの可能性の発見に戦慄したのだ。もしかしたら、彼女は本当に殺人現場にいたのではないか。それも、絞殺事件の犯人として。

私はそう考えてすぐに頭を振った。私の発見には根拠がなかった。裏付けなく他人を殺人犯にしてしまう自分の脳みそを呪った。いつだって物騒なのは世間ではなく、悪について考える人の脳みそなのだと思った。

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一方で、私はこの結論についてまわる違和感を拭いきれずにいた。私は一度味見して手放した情報を、もう一度舌の上でこねくり回してみようと思った。そして事件について考え直しているうちに、私は先程よりもさらに衝撃的なひとつの結論に至ることになった。私は周りのすべての情報を遮断し、頭の中でパズルを組み立てた。そのパズルの完成図は、何度組み立て直しても、犯人として私の顔を浮かび上がらせた。

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「…私?」

私の脳みそは、なんと私自身を犯人にしてしまった。もちろん私はいたって真面目に考えていた。どうしてこのような結論に至ったのか。もう一度だけ、事件の情報をなぞってみることにした。被害者は金持ちである下駄屋の長男、金に困っている何者かがその金目当てに反抗に及ぶ、殺しの方法は絞殺、その現場はひどく臭った…。

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私はここ数時間の自分の記憶がすっぽりと抜け落ちていることに気づいた。さらに、事件についての情報を私の問題として照らし合わせてみると、やはりこの事件が私とは無関係なものには思えなかった。

というのも、たしかに私は、にんじん一本買うことさえためらうほど困窮していた。下駄屋の長男が成功者であることはここら辺一帯の誰もが知っていたから、金を奪うために彼に目をつけることは道理にかなっているように思えた。

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また、絞殺についても私は考えなければならなかった。いつのまにか失っていたベルト。心当たりもなくベルトを失くすなんてあり得るだろうか。私にはそれが、絞殺の犯行に使われた凶器に思えてならなかった。それに現場の臭いというのも、死体の体臭というほかに犯人の残した重要な証拠としての側面もあるのではないか。となれば、その臭いは私の体が臭っていたのかもしれない。たしかに何年も替えていないTシャツからは、人の鼻に強烈な印象を与える異臭がした。

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私は半分夢のように、しかし半分は現実のこととしてその事件について考えていた。私の胸はどうしようもなく鼓動していた。その時、後ろから声をかけられた。「ちょっといいですか」後ろを振り向くと、制服を着た大柄な男がこちらを睨んでいた。手帳を見るまでもなく、警察官だった。

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「今日の昼頃、隣町で殺人事件が起こったのですが、そのことで事情聴取をさせていただけませんか?」私は犯人ではないと言いたかった。それでも、私が犯人であるという情報は揃いすぎているように思えた。私はいつのまにか走り出していて、警察官が後ろから追いかけてくるのを振り切ろうと必死だった。しかしどこまで走っても、警察官は私の居場所を見失わなかった。それは私が足を踏み出すたびに、乾いた音が鳴り響いたからだった。

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カランコロン。カランコロン。私は下駄を履いていた。私はやがて捕まると、そのまま署に連行された。

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私は冷たい留置所で嘆いていた。これまで私の頭に思い浮かんでいたのは、「犯人はいったい誰?」という謎であったはずである。それがいつのまにか「どうして私が犯人?」という新しい謎に置き換わっていた。それまで自分の外に存在していたはずの謎が、突然自分と近しい関係になってしまっていた。いや、近しいなんてものではない。現状、自分の存在こそが謎そのものであった。

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私は本当に人を殺したのだろうか。いくら貧乏でも私はそんなことで人を殺す奴ではなかったはずだ。仮に殺すとしても、どうしてベルトで絞め殺した?手でやればいいところを、なぜ証拠品を自ら増やすマネをしたのか。おまけにそのせいでズボンは下がって逃げ足に影響が出たし…。逃げるといえば、どうして下駄なんか履いていたんだろう?いや、違う。そもそも私は人を殺したりなんかしない。

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じゃあ何で逃げたのだ!私はなぜここ数時間のことを覚えてないのだろう。まさか誰かにハメられたのか。だとすればそれは私でなければいけなかったのか。もしハメられたとしても、私はどうして人を殺すようなマネができたのか。私はそんな酷い人間ではなかったはずだ。私は、私とは…。なんて考えているうちに訳がわからなくなった末に、新たに思い浮かんだ謎が、もうひとつ。

「私はいったい誰?」

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私はそれから数時間、悩みに悩み抜いた。しかしそんな私をよそに、この事件の幕切れは呆気ないものとなった。八百屋で見た「あの客」こそがこの事件の真犯人として捕まったのだ。私はそれを聞いて目が飛び出るほどに仰天した。一度は彼女が犯人かもしれないと考えていたが、まさか本当だとは思いもよらなかった。

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彼女は自分の犯行を認めているらしかった。自分の罪を自白しながら別の部屋でぼろぼろと涙を流していると聞いたが、私にはその涙は玉ねぎに助けを借りた嘘泣きにしか思えなかった。ともかく、彼女が犯人だという結論をもって、この事件は一件落着した。しかし私の頭の中は相変わらず多くの謎に支配されていた。なぜ彼女は事件について八百屋の店主に話したのか。強盗殺人によってお金を得たなら、どうして値切りなんかしていたのか…。

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まったくこの世は謎だらけだ。釈放された私は堂々と通りを歩きながら、いろんなことを考えていた。犬も歩けば棒に当たるというが、たったの半日ほどでこんなにも多くの謎に出会うとは。しかし、そのうちのいくつかは綺麗さっぱり解消してくれた。私についての謎もあらかたキリがついた。私が記憶をなくしていたのはただの酔っぱらいが原因だった。私が貧乏なのも、ベルトを失くしたのも、間違えて店の下駄を履いてきたのも、酒を飲み過ぎたという説明で十分だった。

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もっとも、私に近しいひとつの謎は、いつまでもしこりとなって私の胸に居座り続けた。その謎は私を脅かした奇妙な音とともにいつまでも離れてくれなかった。

私はいったい誰。私はいったい誰。カランコロン。カランコロン…。

私が下駄泥棒として捕まったのは、それから二日後のことだった。

Concrete
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