長編15
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楡の木の精霊(2/3)

ゲームクリエーターの俺、三澤啓太は、新作ゲーム完成の打ち上げで仲間と飲んでいる時に、話の流れで小学生の頃、逢魔ヶ時に近所にある神社の境内で遭遇した見知らぬ女性の話を始めた。

◇◇◇◇

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それは高校三年生の夏休みの事だった。

その時、俺は自分の進路について真剣に悩んでいた。

勉強の成績はそれほど悪くはなく、医学部など特殊なことを望まなければ、自分の決めた道を自由に選ぶことは充分可能だった。

機械系、電気系、土木・建築系、情報系、経済系、社会学系、教育系・・・・

体育や美術、音楽を含めて科目による得意不得意がほとんどなかったことが逆にあだとなり、自分の特性が見極められずに数か月後と迫った入試の願書提出に向けて思い悩んでいた。

そして予備校の夏期講習を受講するにも的が絞れず、何を受講すればいいのかさっぱりわからない。

取り敢えずいろいろ勉強させてくれそうな、国立理系の一般コースを受講していた。

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その日は予備校の講師の都合で最後の授業がキャンセルになり、いつもより一時間ほど早く予備校を出て家へと向かっていた。

普段家に帰り着くのはどっぷり日が暮れて夜になってからなのだが、その日はまだ空が夕焼けに染まっている時間だ。

しかし早く家に帰っても晩飯までの間、早く進路を決めろという傷口に塩を塗り込むような母親の小言を聞くだけなのだ。

駅から自転車で自宅近くまで来た時に、ふと山入端(やまのは)神社に行ってみる気になった。

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実のところあの小学生の頃の一件は、その後の大祭や初詣などで繰り返し神社を訪れるうちに記憶の中に埋もれてしまっていた。

その日は、もう間もなく大祭だということもあり、帰りに今年の秋の大祭の日取りを確認しようと、神社前の掲示板に貼ってあるポスターを見に寄って見ただけだった。

しかしここまで来て素通りは神様に失礼かと思い、鳥居の前に自転車を置くと境内に入って社殿に向かって柏手を打ち、深々と頭を下げた。

神様への挨拶ついでに自分の進路が早く決まるようにお願いすると、ため息をひとつ吐いてそのまま社殿の階段に腰を下ろした。

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目の前に赤い鳥居があり、その向こうに自分の自転車が置いてある。

そして更にその向こうには真っ直ぐに通りへ向かうハス畑の中の畦道が、今にも夕闇の中に暗く沈み込んでしまいそうに見えている。

それが自分の見えない進路を暗示しているようで、うすぼんやりと見える道の向こうを見つめてぼっとしていた。

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「あんまり悩まないで。」

すぐ隣で女性の声がした。横を向くとなんとそこには見覚えのある、色白の優しげな顔立ちで軽くウェーブの掛かったセミロングの女の人が座っていた。

いつそこに座ったのか全く気がつかなかった。

しかし最初はなんとなく見覚えがあると思うだけで、どこでどのようにしてあった女性なのか、その瞬間は全く思い出せなかった。

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「ここまで来たら、将来やってもいいと思えることだけを紙に書き並べて、阿弥陀くじで決めちゃえばいいのよ。あなたはどのような道に進もうと必ず幸せになれる運命なの。」

彼女はそう言って、ハーフパンツを履いた俺の膝の上に手を置いた。

膝小僧に直接感じるその冷たい手の感触と同時に、その中指の赤い石が嵌め込まれた指輪を見た途端、あの写真が頭を横切りその女の人といつ出会ったのかを思い出した。

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あれから九年という年月が経つのに、彼女は記憶の中にある姿と全く変わっていなかった。

歳を取った、取らないというレベルではない。

優しそうな顔立ちも、ヘアスタイルも、そして着ている白のノースリーブのワンピース、そして白のサンダルまで同じ。

すなわち十歳の時の記憶のままここに存在しているのだ。

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あの時はまだ”お姉さん”という概念しかなかったが、今見ると二十代前半くらいだろうか。

しかししっとりと落ち着いた雰囲気で人妻だと言われてもそうなんだと思えるくらいだ。

しかしあの時、兄とふたりでこの女性はこの世の存在ではないと結論付けたのではなかったか。

どうしよう。

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「あの、えっと、お姉さん。」

「志乃って呼んで。」

「それじゃ、志乃さん、志乃さんは九年前のあの時からずっとここにいるのですか?」

あなたは幽霊か物の怪ですかと聞くわけにもいかず、少し遠回しに聞いてみた。

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「そうよ。ここで啓太君が大人になってこの時刻に逢いに来てくれるのをずっと待っていたの。」

この人は俺の名前を知っていた。

「僕の名前を知っているのですか?」

「あら、この村で生まれた男の子は数え年で十歳になると逢魔ヶ時にこの境内にやってきて、幸せになれるように私のお祈りを受けるの。

だからこの村で育った十歳以上の男の名前はみんな知っているわ。

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そしてみんなに幸せを送る代わりに、その中で特別に気に入った男の子がいれば、生贄として六十年にひとりだけ私の好きにしていいという約束なの。」

「生贄?約束?・・・六十年?」

生贄という禍々しい言葉に、ほんの少しだけ志乃と名乗る女性から離れるように体が動いた。

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「あら、生贄と言っても殺して食べちゃうわけじゃないのよ。みんなの幸せと引き換えに私自身を幸せにしてくれる人になって貰うの。」

志乃さんはそう言いながら、膝にあった手をハーフパンツの裾から差し込み、太ももへと滑り込ませた。

まだ十八歳の俺の股間は当然それだけでパンツを押し上げる状態になってしまった。

「あら、やっぱり若いだけあって元気ね。」

志乃さんは笑ってそう言うと反対の手で俺の手首を掴み自分のスカートの中へと導いた。

俺は指先に直接触れたやわらかい毛の感触で彼女がワンピースの下には何も身につけていないことを知った。

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◇◇◇◇

「ねえ、三澤君はその時高校生だったんでしょ。まだ童貞だったんだよね?」

隣に座った福村祥子が特に恥ずかしがる様子もなくストレートに聞いてきた。

「いや、童貞じゃなかった。その頃はそれなりに彼女もいたし、あんまり大きな声では言えないけれど他にもね。」

彼女がストレートに聞いてくるからこちらもストレートに答えた。

「ふ~ん、そっちはそっちの話でまた別の機会に聞かせて貰おうっと。」

「祥子ちゃんはその手の話が好きなの?まったく。でも私も聞いてみたいかな。あはは。」

福村祥子のそのオープンな態度に小出愛子が笑いながら茶化した。

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◇◇◇◇

「志乃さん、さすがにこの場所じゃあこれ以上はまずいですよ。」

彼女がこの世の存在ではないかもしれないという疑念はもうどこかに消し飛んで、畏怖の気持ちはまったくなかった。

しかし目の前の街灯の灯った境内と鳥居、そしてその向こうにぼんやりと見えるもうかなり暗くなった畦道に、不意に誰かがやってくるのではないかという不安で彼女のスカートの中から手を抜いた。

すると彼女もズボンの中に差し込んでいた手を抜き、ゆっくりと立ち上がった。

「そうね、それじゃ、向こうに行きましょ。」

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志乃さんは俺の手を取って階段を登ると賽銭箱の前を横切って高床の廊下を進み、本殿の横に回った。

そして彼女はそこにある木の引き戸に手を掛けた。

しかし俺はその扉の存在に全く記憶がなかった。

この本殿の周りは何度も歩いているが、小さな社であり、この部分は何もない白い土の塗り壁で引き戸があるという認識は全くない。

しかし志乃さんは音もなくその引き戸を開けると俺を中に引き込んだ。

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するとそこには予想外の不思議な空間が広がっていた。

ちょうど外の夕暮れ時と同じような少し赤みのかった薄明りの中に見えるのは、八畳ほどの広さで手入れの良く行き届いたぴかぴかの板間の部屋だ。

中央にはひと組の布団が敷かれているだけで、それ以外は何もない。

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何かで見た平安時代の貴族の寝屋のような雰囲気だ。

壁は全面白木の板張りで、どの方向を向いても窓はないのだが、この部屋の明かりは何処から採っているのだろうか。

見回しても照明器具はどこにも見当たらず、よく見ると部屋の光は濃い橙色の天井全体がじわっと柔らかく光っている。

その色のせいで部屋全体が橙色に照らされて夕暮れのように見えるのだ。

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しかし俺が何より違和感を抱いたのが、この部屋の広さだ。

この神社の本殿の中は、正面の扉が開かれている時に何度も見たことがある。

それは六畳ほどの広さの正方形で、かなり傷んだ板間の奥に祭壇があり、供物が並べられた中央にはご神体である鏡が置かれていた。

それに対し、その部屋に横から入っただけであるはずなのに、そこには祭壇がなく、そもそも空間自体が相当に広いのだ。

「さあ、入って。」

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◇◇◇◇

「そして志乃さんとそこでエッチしたんだけど、予備校の帰りだったから早く帰らなきゃと思って、終わった後布団で横になったままぐったりしている志乃さんを部屋に残してその部屋を出たんだ。」

「えっ?その大事な部分をさらっと流しちゃうの?エロ怖にならないじゃない。」

福村祥子がすかさず口を挟んだ。

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「その幽霊というか物の怪とのエッチってどんな感じなのよ?端折らないで詳しく説明してよ。」

「いや、ごく普通だよ。あまり他の人のエッチを見たことないけど、エッチ自体に特に変わったところはなかったと思うよ。問題はその後なんだ。」

「その後って?何があったの?」

エッチの内容にこだわる福村祥子から話題をさらうように西野麻奈が俺の話の先を促した。

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「その部屋から出た後、社殿の正面に回って地面に降りたんだけど、振り返って見るとそこにはいつもの社殿があるだけで、気になったから横に回って見上げてみたんだ。

でもそこは一面記憶にある通りの白壁で、今出てきたはずの扉など見当たらなかった。

慌てて社殿の階段を駆け上がって横の壁の前に立ってみたけど、やっぱりそこには扉などなかった。

今のは幻覚だったのかと時計を見ると・・・」

「時計を見ると?」

小出愛子が先を促すように、オウム返しに繰り返した。

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「どう考えても、神社に来てから十分程度しか経っていなかった。」

「え~っ、それって超早漏じゃない?」

福村祥子が思い切り驚いたような身振りをして、にやけた顔で茶化した。

「バカ言え。社殿の階段に座って話をしていた時間だけでも十分以上あったし、その時の俺自身の感覚だと一時間半から二時間は一緒にいたはずなんだ。

それで早く家に帰らなきゃいけないって思ったんだけど、実際に十分しか経っていない以上、本当に夢でも見たんじゃないかと思ったんだけど、その時はそのまま家に帰ったんだ。」

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◇◇◇◇

山入端神社での出来事は、夢にしてはあまりにリアルで、家に帰ってからも彼女のことが頭から離れない。

あれは本当に夢か幻だったのだろうか。

夢を見ていたとしても、時計の針は十分しか進んでいなかったのだが、どう考えても十分間の出来事ではない。

考えれば考えるほど志乃さんと過ごしていたあの部屋の中は時間が止まっていたとしか思えない。

彼女は間違いなくこの世の存在ではなく、そのようなことも起こりうるのかもしれないとまで考え始めていた。

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彼女はこの世の存在ではない・・・

そのようなことを頭から信じる方ではなかったが、子供の頃、そして今日の出来事を鑑みるとそう信じざるを得ないのだ。

そして彼女の言葉をそのまま信じれば、俺は彼女の生贄として彼女を幸せにする義務を負ったということになる。

しかし彼女を幸せにするということは、いったいどのようなことなのだろうか。

彼女は俺に何を求めているのだろう。

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翌日、俺は予備校の授業をさぼり、昨日と同じ時刻に山入端神社へと向かった。

そして昨日と全く同じように神様に挨拶を済ませると階段に腰を下ろした。

社殿は東を向いているため、太陽は社殿の後ろ側に沈む。

そして周囲はどんどん暗くなっていくが、何故か彼女は現れない。

立ち上がって周囲を見回してみても猫の子一匹いないのだ。

彼女は毎日現れるわけではないのだろうか。

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そうしているうちに日はとっぷりと暮れて空にはいくつもの星が輝き始めた。

俺は彼女に逢うことを諦め、家に帰ろうと鳥居の向こうに置いてある自転車へと向かった。

そしてまさに鳥居を潜ろうとするその瞬間だった。

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「啓太」

不意に彼女の声が背後から聞こえた。

やっと来てくれたと思い、嬉々として振り向いたがそこには誰もおらず、薄暗い石畳とその向こうに本殿があるだけだ。

「志乃さん?」

そのまま本殿の方に戻ろうとすると再び彼女の声が聞こえた。

「啓太、無理矢理この逢魔ヶ時に時間を作ってここに来ても私に逢うことは出来ないわ。あくまでも自然にここへ導かれた時でないと逢えないの。だから無理しないで、その時を待ってね。」

彼女は俺が予備校をさぼったことを言っているのだろう。

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「でも志乃さん、どうしても逢いたい時はどうすればいいの?」

すでに真っ暗になった境内に立ち、街灯の光に照らされた本殿に向かって問いかけたが、何の答えも返ってこなかった。

それでも彼女に逢いたくて、翌日もまた予備校をさぼり、境内で彼女が現れるのを待った。

しかしその日は彼女の声すら聞くことは出来なかった。

俺は彼女の声が言った通り、何かを犠牲にして強引にここへ来ても彼女は現れないということを悟った。

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しかし残念ながらそれ以降予備校の授業が休講になることもなく、逢魔ヶ時に山入端神社を訪れる機会に恵まれないまま、夏の予備校は予定の授業を全て終了した。

そしてその週末は山入端神社の大祭の日に当たっていた。

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毎年八月の三週目、もしくは四週目の週末に執り行われるのだが、大祭とは名ばかりの小さなお祭りだ。

特にテキ屋が出す屋台などはなく、地元の自治体によって境内に張られたテントで酒や料理が振舞われる。

別にどうでもいいようなお祭りなのだが、行けば普段は全く会わなくなった小学校や中学校の同級生に会えるということで、毎年必ず顔だけは出していた。

この日は毎年神社に顔を出す日であり、志乃さんが言った自然な流れでここに導かれた時、と言っていいはずだ。

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そう思って期待する半面、小学校の時に初めて志乃さんに会ってからも、毎年このお祭りの日の夕暮れ時はここで過ごしていたはずだが、これまで志乃さんに逢えた記憶がない。

それなりの人出がある中、志乃さんの事を忘れていた俺が気づかなかっただけなのか、大勢の人が境内にいると現れないのか。

考えても仕方がないので、俺はいつものように日没前に家を出て山入端神社へと向かった。

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「おお、啓太、ひさしぶり。」

神社の境内に足を踏み入れた途端、中学時代の友人、片桐竜太に声を掛けられた。中学時代の彼はかなりやんちゃで、飲酒、喫煙で補導されたり、学校をさぼったりすることも頻繁にあり、当然学校の成績もあまりよくなかった。

しかし中学卒業と同時に、知り合いの宮大工のところに弟子入りし、今では真面目に仕事を続けているようだ。

成績もそれなりで態度も真面目だった俺と中学時代はほとんど付き合いがなかったが、それでも毎年この神社で何となく声を掛け合うようになってからは、それなりに打ち解けて話が出来るようになっていた。

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「おう、竜太、まだ宮大工の修業は続いているのか?」

「ったり前だろ。ちょっとした神社の修復なんかは任されるようになってきたんだぜ。そのうちこの神社も俺の手で建て替えてやるよ。」

中学を卒業してからの二年半で彼はかなり成長していた。

その自慢気な姿が、目的を見つけられずぐだぐだと受験勉強している俺には少し眩しかった。

ふと、彼も十歳の時に志乃さんから幸せになれるように祈りを受けており、その姿も当然なのかもしれないと思った。

俺自身は志乃さんの言うように幸せになれるのだろうか。

そして頭の中で、竜太がこの神社を立て替えてくれる時にあの部屋はどうなってしまうのだろうと考えていた。

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「啓太は高校を卒業したら何をするか決めたのか?」

俺は黙って首を横に振った。

「なんだ、まだ決められないのかよ。もうすぐ秋になるのによ。よっしゃ!俺が決めてやる。」

「バカ言え、竜太に決められちゃうくらいなら、阿弥陀くじで決めるよ。」

自分のその言葉で思い出した。

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そう、今日ここに来れば志乃さんに逢えるかもしれないと思い、それを楽しみに来たのだ。

竜太のことなどどうでもいい、早くしないと逢魔ヶ時が終わってしまう。

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「ちょっと今日は探している人がいるから。じゃあな、竜太。頑張れよ。」

「え?あ、おい。」

いつもはこのまま祭りが終わるまで、隣にいる竜太の彼女も含めて一緒に過ごしていた。

当然竜太はそのつもりだったのだろう。

しかし俺は竜太と彼女をその場に残して、人混みの中へ身を投じた。

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周りをきょろきょろと見回しながら境内を歩き回ったが、この狭い境内の中で彼女を見つけることは出来なかった。

そうこうしている間に空は濃い紫色から黒へ変わろうとしている。彼女と逢える時間はもう終わりだ。

今日も逢えなかった。

そう思い落胆して境内の隅にある縁石に座り込んだその時だった。

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社殿の裏手に白い影が過ったような気がして顔をあげた。

もう既に暗くなっている社殿の裏手に目を凝らして見ると、社殿沿いの高床になっている廊下の一番奥の角から上半身だけこちらに覗かせて志乃さんが手招きしているではないか。

思わず俺は駆け出し、人目を避けて裏手から強引に高床へ登った。

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「啓太」

本殿の横へ回ると、そこには先日と同じように扉があり、少しだけ開いた引き戸から志乃さんが手招きをしている。

なぜか境内にいる人達は誰もその姿に気づいていないようだ。

俺が滑り込む様にその中へ体を入れると、志乃さんはすぐにぴしゃりと引き戸を閉めた。

中は先日と全く変わらない橙色の光で満たされた板間の寝室だ。

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この部屋に入る瞬間まで鳴り響いていたお囃子や境内にいる大勢の人達のざわめきが全く聞こえない。

やはりこの部屋は時間が停止した異次元の空間なのかもしれない。

「啓太、ここに座って。」

見ると布団が敷いてあるだけだったはずの部屋の中に小さな座卓が置かれ、その上には紙と鉛筆が乗っている。

志乃さんに言われるまま座卓の前に座ると、志乃さんも俺の横に寄り添うように座った。

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「それじゃ、啓太、その紙に上から自分がやりたい、やってもいいと思う職業を縦に並べて書いてくれる?」

「職業?」

「そう、できるだけ具体的にね。」

それで何をするつもりなのか訝しく思いながらも、普段自分の進路で思い悩んでいる時に思い浮かべていた職業のイメージを書き出していった。あれこれ悩んで全く決まらないと思っていたが、いざ書き出してみると十個程度で行き詰まり鉛筆の動きが止まった。

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「これ以上は時間を掛けても無駄ね。ちょっと貸して。」

志乃さんは俺から職業を書き並べた紙と鉛筆を取り上げると、縦に並べて書かれている仕事のひとつひとつの横に長い線を引き始めた。

「まさか・・・志乃さん、ひょっとして阿弥陀くじを作ってる?」

志乃さんの手の動きを見ながら、先日の志乃さんの言葉を思い出して聞いてみたが、志乃さんはにこにこしながら黙って線を引き続けた。

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そして横の線に続いて縦の短い線をランダムに引き終わると紙を折って書かれている仕事の名が書かれている左半分を隠した。

「さてと、それじゃ啓太は私の体の中でどこが一番魅力的だと思う?」

突然の考えたこともない質問になぜいきなりそんなことを聞くのかと思ったが、素直に志乃さんを改めて上から下まで眺めて答えた。

「くちびる」

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「そう、唇ね。」

志乃さんがそう言って先ほどの紙を手に取ると、紙の右端には横に引かれた線のところにいつの間にか文字が書かれていた。すべて漢字一文字で、「髪」、「眼」、「鼻」などから始まり、「乳」、「腕」、そして、「尻」、「股」など際どい部分も書かれ、「脚」で終わっている。

志乃さんは俺の手を取ると、俺の人差し指を立てて両手で握り、その先端をまず自分の唇に当て、そして紙に書かれた「唇」の文字の上に置くと線をなぞり始めた。俺の人差し指と志乃さんの両手はゆっくりと幾度か折れ曲がったあと、ある仕事に辿り着いた。

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『ゲームクリエイター』

そして志乃さんは俺の手を離し、再び紙の上に手を伸ばすと俺の字でゲームクリエイターと書かれた文字の端を摘まむような仕草をした。

すると驚いたことに、まるでシールを剥がすように文字が紙から剥がれていくではないか。

そして彼女は剥がした文字を手のひらでくるくるっと丸めると自分の口の中へ放り込んだ。そしてそのまま俺に唇を重ね、自分の口の中にあった文字であろう異物を唾液と一緒に俺の口の中へ舌で押し込んできた。

俺がそのままそれを嚥下すると志乃さんはゆっくりと唇を離し微笑んだ。

「啓太はゲームクリエイターになるのよ。そうすれば必ず幸せになれるわ。」

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◇◇◇◇

「え~っ、それって本当の話?ちょっと出来過ぎじゃない?」

隣に座っている福村祥子が俺の肩を指先で小突いた。

「別に作り話をしているわけじゃないし、特に話を盛っているつもりもない。ただ、まだ26歳の俺がこうやってフリーのゲームクリエイターとして常に食うに困らない仕事にありつけているのも彼女のおかげだと思っている。」

「それで一生幸せにしなければならないはずの彼女に義理立てして、ずっと彼女も作らずにいるの?」

西野麻奈がにやりと意地悪そうな笑みを浮かべて俺の顔を見た。

「その大祭の後は、冬に向かって日没の時間が早くなっていったこともあって、ずっと彼女に逢える機会がなかった。もちろん受験生だということもあったからなんだけど、次に彼女と逢ったのは受験も終わった春分の頃だった。」

◇◇◇◇

つづく

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