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長編23
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点と線

1

人生は一本の線であるとは、私の友人の言葉である。

線とは点の集まりであり、人生は線ではなく点として見るべきだというのもまた、彼が私に対して繰り返すように言っていた、言葉のうちのひとつである。

人生のようなある時間の流れにおいて、それを線として考えることは時に失敗を招く。例えば、あなたは百名山を五年間で踏破するという目標を立てたとする。

そして五年後、その半分の山も登れていないことにあなたは気づく。

この時の反省において、五年間もあったのにと考えてはいけないのだ。

時間の束を一定の期間といった線ではなく、一日という点に着目すると真の反省が生まれてくる。

つまりあなたは毎週末や長期休暇の一日一日を妥協し、楽をしてきたことを省みなければならない。そしてもし再び百名山踏破を決意するならば、その計画は一日単位で考えなければならない。

決して未来の予定を立てるのに、人生は線であると考えてはいけない。たとえ一週間で三つの山を登ると計画を立てても、あくまで一週間という線ではなく「点の集合」として計画されなければならない。

しかし、未来の計画や過去を反省するためではなく、過去の時間について自ずと思い出されるような時、私たちは往々として一本の線を回想する。

ある時ふと人生の一端が線として思い起こされる時がくる。それは大抵が遠い過去であり、ひと繋ぎの物語として思い出される。反省するためではなく、味わい噛み締めるために思い出された時間は線であって、点としての面影はもはや残していない。

その過去の物語が自分にとって過酷なものであるほど、ぼんやりとしか記憶にならない。忘却と記憶の狭間にある時間は、あるいは線ですらないのかもしれない。

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ひと塊の時間。今から話すのは、絡まった糸の結び目のような、過去の一部分についての記憶である。

これは決して反省ではない。今は亡き友への、追悼と感謝を込めた告白であり、私の未来についての話でもある。

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2

この話の発端は山である。難しい話ではない。

ただ私が大学生の時、百名山のような名高い山ではなく、誰も知らないような田舎の山に登って、勝手に遭難したというだけの話である。

私の不幸は、発見されるまでに一ヶ月を要したことだった。一週間ではなく一ヶ月で、これは貴重な夏休みの半分の期間に相当する。

親や周りに行き先を内緒にしたのがいけなかった。また、いくら無名の山とはいえ、登頂の計画を怠ったのも大きな失態だ。

しかし幸運なことに、遭難した時私は一人ではなかった。そして私のそばには、誰よりも信頼のおける川田という友人がいた。

川田は筋肉隆々で頭も良く、男からも女からも好かれるような奴だった。しかし、私の知る限りでいちばんの、無謀な大馬鹿野郎でもあった。

だからこそ、普段から周りの馬鹿にも付き合ってくれていた。この時の登山だって、私が地形図を見て女の胸のようだと指差した山のひとつに、彼は着いてきただけだった。

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「ごめん。たぶん遭難だ、これ。」

私が真っ青な顔でそう言った時も、彼は「そうなんだ」なんて言って呑気に構えていた。

昼食用に持ってきていたカロリーメイトとコンビニのおにぎり以外食料もなく、私は途方に暮れるしかなかったが、ふと彼の背負うリュックサックを見てみると、何やら安心できる重みをたたえていた。

「大丈夫。お前は怖がりだな」

その自信はただの無神経からくるものではなかった。彼はまた、サバイバルの知識にも長けていた。実践経験のない知識はただのゴミだと本人は謙遜していたが、彼は遭難生活の中で次々にゴミから宝石へと知識を昇華させていった。

その時の彼のリュックサックは、まるで四次元ポケットのようだった。

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遭難一日目の夜のことだけは、今でも鮮明に思い出すことができた。私たちはひんやりとした草の上に寝転がり、長い間空を見上げていた。

「星空をゆっくり見ることなんて、これまでなかったな」

隣で呟く川田の声が、地面の下から轟いて聞こえるような錯覚を覚えた。

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この時の私は、どうしようもなく自信に溢れていた。ここは空でも海でもなく陸であり、水も草木も、動物だっている。

私には、足をつける大地がある。

私には、川田がいる。

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地面に背中を押されながら、何時間も空と向かい合っていた。星は昔人々の生活の指針となっていたという話を、川田は延々と続けていた。

夏の夜は、夜更かしするにちょうどよかった。

まるでこれが若さだとでも言いたげに、私たち二人は、不思議と希望に満ち溢れていた。

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3

私の記憶の中で流れ星は、幾千万とその日の夜空を駆け抜けていた。

しかしそれ以降の日々については、四六時中うるさい蝉の声と、その蝉の奇妙な味が私たちの過酷な居場所を教えていた。

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私たちが遭難した経緯については、まさに夏だったからと言うに限る。一日中太陽の下を歩き続けた私の頭は、少しの冷静さも保っていなかった。

「まだいける」

太陽が沈んでないから、まだいける。この時すでに夕方になっていたが、無計画が災いして、山頂までの行程をあと三分の一ほど残していた。

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それでも私は、なんとしても頂からの景色を拝みたいと思っていた。下山のことなんて考えずに登り続け、気づいた時にはあっという間に辺りは暗くなっていた。

夏だからといって陽が落ちるのはまだ先だとたかを括っていた。夏だからではなく「山だから」陽が暮れたらどうなるのかを考えるべきだった。

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さらに悪かったのは、それでも前に進み続けたことだった。いつしか私たちは山道を逸れて歩いていて、自分たちがどこにいるのかわからなくなった。

スマホのライトだけではどうにもならず、山道も舗装されていたわけではないから、周りの自然と道の区別が全然つかなかった。

夜の山の空気が、次第に体力と気力を奪っていった。

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「どうしてお前は何も言わなかったんだよ」

お互いの顔すら見えなくなった時、私は自分の判断ミスを棚に上げて、責任の少しでも川田に擦りつけようと汚く罵った。

「俺も、てっぺんからの景色を眺めたかったからだよ」

しかし、彼は何事にも縛られない自由な笑顔でそう言った。暗闇の中でも、確かに白い歯を見せて笑っていた。

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彼は自分の意志で、黙って私の無謀に着いてきたのだ。自分たちが置かれている現状をこれっぽっちもミスだと思っていない川田を見ると、自分だけ悩んでいるのが馬鹿らしく思えた。

「ごめん。たぶん遭難だ、これ。」

そこで私は初めて弱音を吐いた。そんな私を、彼はさっきと変わらない笑顔で慰めた。

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その後、私たちは開けた草原を偶然見つけ、そこで空を眺めて夜を明かした。景色を見下げるのは明日にして、今日は空を見上げて過ごそうか。まだ山頂を諦めていない川田の、キザな台詞が頼もしかった。

翌朝から私たちは再び山頂を目指すつもりでいた。しかし、いくら探してももともと歩いていた山道が見つからなかった。

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また、スマホはライト以外の用途で役に立たなかった。

画面上に示された「圏外」を見て、遭難という二文字がいっそう頭をよぎる。

スマホのほかに光源は持ち合わせておらず、頼りのスマホももうすぐバッテリーが尽きようとしていた。

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川田のリュックに懐中電灯が入っていないか尋ねると、彼は口で答える代わりに、折り畳み式の虫取り網やら、ライターやら、炭やら鍋やらと関係のないものを次々に出し始めた。

どうやら川田は自力での散策を見限って、山で生活する覚悟を決めたらしかった。

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どうしてそれらの道具があって、大きなライトが入っていないのかと文句を言いたくなったが、現状で川田に絶交されては私はもはや生きられない。

なにより私たちには、時間的な猶予が満足に残されていなかった。

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昨日の時点で持っていた食料は腐らせる前にすべて食べていたから、これから食いつなぐためには食料と、飲み水を調達する必要があった。

水は、何とかなった。苦労せずに川を見つけられたのが幸運だった。

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川田が持ってきた炭や現地調達した砂を、ナイフで切った二リットルのペットボトルに入れて層を作り、そこに川の水を流し入れた。

その作業を何度か繰り返して濾過された水を、今度は鍋の中に溜めた。石で作った即席のかまどに炭とライターで火をつけて、鍋の水を沸騰させて煮沸消毒を施せば、飲み水はまず保証されたと言うことができた。

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川田の手際の良さに私は目を見張るしかなかった。こいつとなら大丈夫かもしれないと改めて希望を噛み締めていると、少しだけ空腹が紛れる気がした。

ついでに川辺の比較的土の多い平らな場所を、私たちの生活の拠点に決めた。石の少ない場所を選びクッション性のある高草を敷き詰めたが、それでも寝心地は昨晩の草原の比にならなかった。

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いちばんの問題は食料の調達だった。今は元気でもいつ助けが来るかわからない現状、長期的な食料計画は生き延びる上で不可欠であった。

しかし、この時の私たちには計画なんて立てる余裕がなかった。未来について考えるということは、現状を満たされている者だけがもつ特権なのだと知る。

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「もし生き延びたいならば、人生は線ではなく点として見るべきだ」川田はそんな言葉で私を勇気づけてくれた。

点あっての線だ。まずは今日明日を生き延びなければ、私たちに未来はない。

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それでも、現実は厳しかった。川田考案の動物捕獲装置はただの置物も同然だった。最も獲りやすいと思っていた魚でさえ、網の動きを見切って簡単に股の下をすり抜けていった。

ある時魚獲りの最中、突然川田は虫取り網を空に掲げると、足を水に浸けたまま声高々に宣言した。

「よし。俺たちは、蝉を食おう!」

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川田の声を聞いて驚いたかのように、辺り一面で蝉の声がいっそう大きく響き始めた。

細かい網の目のひとつひとつに水の膜が張り、それらすべてが太陽の光できらきらと乱雑に輝いて見えた。

希望の光は、夜空の星だけではなかった。希望はいつだって人の手で作ることができるのだ。

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「食うかー!蝉!」私はひとつ、童貞を捨てる覚悟を決めた。

川田の網が捕まえたのは、私の心と、数十匹の油蝉だった。半ば生きたままの蝉を木の枝に刺して、かまどの火で炙っている時、私は自分が鬼に思えた。

手指の間に蝉の刺さった枝を挟んで、振り回して遊んでいる川田は、きっと地獄に堕ちるだろうと私は冗談で笑っていた。

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その夜の味と食感を、今ではすっかり忘れてしまっていた。

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4

二人で生き延びることだけを考え過ごした日々。振り返ってみるとそれは、かけがえの無い毎日だった。

線として思い出される過去とは、何かを思い描いた時間なのだと思う。夢であり、希望であり、友情なんかを誰よりも語り合った日々は、遠く離れた現在からも、綺羅星のように輝いて見えた。

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蝉を食べ飽きた頃には、川田の動物捕獲装置は目まぐるしい発展を遂げていた。これまでの罠は、一定の重さがかかると自由に締まる縄の輪を、ケモノ道に仕掛けるというものだった。これでは動物が偶発的に通るのを待たなければならず、いわば受け身の罠だったといえる。

そこで、川田は受けから一点、攻めの「狩り」へと方針を変えた。

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そこで彼が着手したのがパチンコ作りだった。

川田の「四次元」リュックにチューブ状のゴムが忍ばせてあったのが幸いした。Y字の木の枝を見つけて二又の枝に溝をつけて、そこにチューブを縛りつけた。

あとは二本のチューブの片側に、穴を開けたタオルの切れ端を結べば、それだけで強力な猟具の完成である。

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試しに木に向かって小石を弾にして撃ってみると、その木が腐っていたせいもあるが見事に幹を三センチほど抉った。鳥やウサギが相手ならば、うまくいけば一撃で仕留められる破壊力だ。

川田は変なところで真面目で、パチンコなら自由猟具だから法律に引っかからないなんて呟いていた。それ以外の猟具の使用には免許が必要だと法律で決まっているらしいが、この時の私たちに法律はどれだけ効力を持っているだろうか?

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三日三晩パチンコの練習に費やし、遂に鳥を狩ることに成功した時には涙が出た。おそらくは鳩だったと思うが、それは定かではなく、何でもよかった。

一度獲物を仕留めると次はそれを餌にして、より様々な生き物を捕らえることができた。余った鳥肉を餌にサワガニを誘き寄せて一網打尽にすると、それは蝉から素焼きの座を奪い取った。しかし、蝉もまた小さな鳥や大きな魚の餌となってくれ、その後も活躍し続けた。

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食料確保に余裕が生まれると、それをいかに保存食へと加工するかが次の課題だった。しかし、干物や燻製に必要不可欠な塩が身近にはなく、そのため肉の長期保存は諦めざるをえなかった。

そのかわり、魚は生け簀を作っていざという時のために大量に飼い、普段の食事は一日一羽の鳥やウサギで賄った。また、野草に手を出し始めたのもこの頃だった。

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私は川田の指導のもと、初めて獣を捌くという体験をした。遭難する前平気で食べていた肉というものが、実は毛皮に包まれ動いているという事実に不思議な違和感を抱いた。

まさか生肉のまま野生に転がっているわけないのに、数時間前まで逃げ回っていたウサギが目の前で皮を剥がれている光景を目にすると、なぜか今いるこの場所が、本当の世界ではないような気がした。

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あるいは、肉を加工するという人間の技術に恐れを抱いたのかもしれなかった。私は川田の、相変わらずの手際の良さにぞっとしていた。

「ウサギは死んだ直後が、いちばん皮を剥ぎやすいんだぜ」

まだ体温が残ってて柔らかいから。そんなことを平気で言う川田を、私は尊敬と、少しの畏怖をもって見つめていた。

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ある日の夜、私たちは月と蛇について話をしていた。月と蛇のどちらも、不死というテーマに関係しているという話である。

飲めば若返るという変若水(おちみず)の信仰は、ツクヨミ(月夜見)と深く関わっている。また、蛇は人間のこぼした不死の水を浴びたために不死になったという逸話がある。

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その日の夜空に浮かぶ満月は、この山で生活を始めて半月が経つことを示していた。私たちは自力で命を捌き、涙しながら食べたことでいやに感傷的になっていたのかもしれない。

だから、遭難中にもかかわらず死について考え始めたことは、ある意味で失敗だといえた。少なくとも私は、ただ生き延びることだけを考えていた遭難初日の気持ちに戻りたかった。

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いくら大学生の夏休み中とはいえ、私たちの不審な不在に誰かは異常を訴えているかもしれない。もしかしたら捜索届も出されているのではと思うと、山での生活を謳歌している自分の無神経さを不甲斐なく思うようになった。

なにより、ずっとこのままではいられないという危機感が胸のうちに募っていた。今は生きるために狩る立場にいるが、いずれは狩られる身になることも十分考えられるではないか。

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そして川田もまた、私が危機感を抱き始めたことに薄々気づいているみたいだった。

「かぐや姫って、知ってるか?」

唐突に川田がそう切り出したのも、私たちは同じ月を見て同じことを考えていたからなのかもしれない。

「うん、知ってるよ」と無難に返事をする。

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「寓話や逸話には、必ずそれによって示される教訓があると俺は思う」

真面目腐った顔で川田は続ける。

「かぐや姫から学べる教訓としては、本当に欲しいものはお金では買えないとか、噂ばかり信じては無駄な感情の消耗だとか。色々あるけど、お前はかぐや姫から何を学ぶ?」

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「かぐや姫のストーリーもうろ覚えだし、お前とは違って、難しいことはよくわからない」

私が言うと川田はにやりと笑って、話を続けるよう顎で促してきた。

「ただ、この話と自分たちの現状を比較することは誰にだってできる。そして、自分たちはかぐや姫と違って、もしかしたらお迎えが来ないかもしれない」

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私はそう言うと思わず吹き出してしまった。川田もまた、隣で笑い出した。

「俺たちには天の羽衣もないから、そろそろ親の顔が恋しくなってきたよな」

「天の羽衣って、纏えば人の心を忘れてしまうってやつか」

「そう!本当に大切なものを、俺は失うなんてできないよ」

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「蝉で遊んでたくせに人の心なんて、よく言えるな」

私たちはいつでも馬鹿を言って笑い合ってきた。この遭難生活だって、川田とだから楽しめた。

でも、そろそろもとの居場所に戻らないといけない。そのためには、受け身よりも攻めの姿勢が必要なのだと肌で感じ始めていた。

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「月のウサギを食べてしまった俺たちに、お迎えなんて来るわけないよな」

つくづく、こいつと遭難できてよかったと思った。

「明日から、ここを離れて山を降りよう」

「絶対に、二人で生き延びような」

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私たちは子どもみたいな指切りで、強く固い約束を交わした。

そのように山を降りる決意をした直後、まるで山が私たちを引き止めるように、過酷ながらも平穏な日々に突如として終止符が打たれた。

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川田は次の日の朝、原因不明の発熱に襲われた。

それから何日も苦しみ続けた挙句、まるで嘘のように、彼は息を引き取った。

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5

それは満月がこれまでとは反対に欠け始めた、遭難開始から三週間後のことだった。

虫によって川田は死んだ。これが私の出した結論だった。

私のカルテは頼りなかったが、親友の最期は自分の納得した理由で看取りたかった。その時の私にできることといえば、ただ川田の亡骸を他の生き物から守ることだけだった。

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筋肉質な彼の体が痙攣を繰り返すようになった頃、肌の至るところに虫刺されのような斑点があることにようやく気づいた。マラリアが蚊を原因に発症されるように、川田は虫から病原体をもらったのだろうと思った。

手遅れになった川田のことを、私はただ見ることしかできなかった。それ以上のことは、覚えていない。私は川田の死に際の、華やかな部分しか記憶に残していなかった。

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「あの時、真っ暗になっても、山を登り続けたお前に、どうして俺は着いていったと思う?」

真っ青な顔で息も絶え絶えに、地べたに横たわる川田はそう言った。傍らでは幾度となく繰り返された嘔吐の痕が、夏の暑さに蒸し返され酸っぱい臭いを漂わせていた。

「なんかやめろよ。そういうの」

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「いいから、答えなよ」と言う彼は、言葉を発することさえ苦しそうだった。

「…てっぺんからの景色を眺めたかったから?」

私はそう言うと、固いウサギの肉を噛み切る時よりも歯を食いしばらなければならなかった。川田は涙を堪える私を見て、ふっと静かに笑った。

「お前の背中が、死ぬほどダサかったからだよ」

私は目を湿らせながら、複雑な心境で川田の顔を見た。

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「がむしゃらな奴は、いつだってダサく見える。お前はあの時、馬鹿だったけど、たしかにかっこよかったよ」

それが、親友の残した最後の言葉になった。

川田の最期は呆気なかった。

川田の最期は、死ぬほどかっこよかった。

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いつも真っ直ぐなその目が二度と開かないことを受け入れた時、私はふと、医者になろうと思った。

どんな病気も治せるような、そんな医者になる夢をみた。

そのためには、なんとしても、どれだけダサくても、山を離れるその日まで生き延びてやろうと思った。

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私がどれだけ頑張っても、ダサいと笑って褒めてくれる友人はもういなかった。

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6

昆虫の中には、トカゲやネズミを襲わずにしてその死体にありつくものがいる。

奇妙な逃げ方をして、追いかけてくる天敵を過酷な環境に誘い出し、巣に帰れなくなった彼らがやがて餓死するのを待つのである。

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私は熊や猪よりも、そのような獰猛な虫を恐れていた。なにより飢死を恐れていた。肉と骨になった体を笑いながら虫たちが這いずり回っているのを想像するとなんとしても生きたいと思った。

熊も手をつけないような私の腐肉を、虫のような存在が我が物にしてしまうことに怒りさえ感じた。

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やがて、体中を大量の虫が這いずり回る幻覚に襲われ始めた。つまり私は、体よりも先に心を蝕まれていた。

川田が死んで三日が経った。彼を失った私は、ドラえもんを失くしたのび太も同然だった。

ポケットだけあっても意味はなく、自分を助けてくれるのは道具ではなく人の心だ。たとえロボットでも幽霊でもいい、誰かの心に私は触れたかった。

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医者になるという私の夢は、突きつけられた残酷な現実を前に儚く散ろうとしていた。この日は遭難生活が始まって以来初めての大雨に降られ、雨粒が森羅万象を叩く音のほか、蝉の鳴き声さえ聞こえなくなっていた。

拠点には屋根がないので枝が覆いかぶさるような大木の下に避難した。もちろん、川田の亡骸も一緒に。その体はいくら周りから守っても、見えない何かに腐食され始めていた。私はそれも虫のせいにして、つくづく虫を忌み嫌った。

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雨の弊害は決して優しくなかった。夏だとはいえ一度体温を奪われると思うように体が動かなくなった。こんな時ほど物を口にして英気を養わなければいけなかったが、命綱である生け簀は濁流によって壊されていた。

私は病人の川田に何もできなかったように、自分の死に際さえも無抵抗に見送るだけなのかと思った。

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それは嫌だと奮い立つ。が、雨が止むまで体は動こうとしなかった。

しばらくの間木に体を預けて雨を眺めながら、川田の言っていた月と蛇の話を思い出していた。

不死の水をこぼしたのが人間で、その水を浴びたのが蛇だった。そのために人間は死ぬ存在となり、蛇は何かを成したわけでもなく不死になった。

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ただの逸話だとわかっていても、私はこの話の理不尽さに納得いかなかった。どうして蛇は何もせずに不死になり得たのか。どうして人間は水をこぼす前に飲まなかったのか。

不死とは、果たして幸福なことなのか。死について考えるほど、かえって自分は生きているということを実感できた。今の自分に必要なのは、これまでの固定観念を壊していくことなのかもしれなかった。

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ただひとつ、川田のことを忘れることは、何があろうと断じて許されなかった。

いくら周りが変わろうと、自分が変わろうと、川田はいつだって私のそばにいるのだ。

その夜、雨上がりの空はいやに澄み渡っていた。ここ数日の夏の熱気を雨が洗い流してくれたためか、空は霞むことなく鮮明に星を光らせていた。

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月もまた、今日一度も顔を見せなかった太陽によって照らされていた。その月はまるで一本の線のような、今にも消えそうなくらいに細長いものに見えた。

月と蛇は、確かに似ていた。月は満月から三日月へと再生を繰り返す。蛇は脱皮を繰り返す。その本質は私たちに不死を連想させ、だから神話や逸話で月と蛇は不死の象徴として登場するのだと思った。

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あるいは、それらは何度も死んでいるのかもしれない。死を繰り返すことは死なないことと同義で、手の届かないところに浮かぶ月と恐れ多い容姿の蛇は、人々が決して不死にはなれないことを、何度も生き返ることで教えているのかもしれなかった。

川田は当然のように、目を覚まさなかった。ぼろぼろな皮膚を突き破って元気な川田が死体の中から出てくる妄想を、私は無意識のうちに繰り返していた。

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私の体を這い回っていた架空の虫は、やがて川田の亡骸にも現れるようになった。二つの体に集るそれを払い除けつつ、死者と生者が平等に扱われていることに対して、私のうちに喜びのような感情が込み上げているのを知った。

その時から私は、自分自身を恐れるようになった。私はこれまであらゆることを受け入れて、そのたびに新しい何かに慣れてきた。

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そしていつしか私は川田の死をも完全に受け入れて、この遭難の記憶も忘れてしまうのではないかと思うと、体に纏わりつく虫でさえ自分の元から離れてくれるなという気になった。その虫が音も立てずに飛び立っていくことは、忘れてはならない記憶の喪失を意味しているように思えてならなかった。

私もまた、脱皮を繰り返して生きている存在だった。幼稚園から小学校にあがり、中学高校と経て大学生の今に至った。

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その中で体の成長とともに、精神的にも殻を破り続けてきた。時には殻を引きずったまま下を向いて歩いたし、脱ぎ捨てた殻を何度も踏み潰してそれに満足した時もあった。

そうやって、私は生きてきた。そしておそらく、これからも、私はそうやって生きていく。

いつのまにか、私は眠っていた。始まりも終わりもわからない眠りの中で、私は奇妙な夢を見た。

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私の目の前には大きな一匹の蛇がいた。その大きさの理由が遠近法なのか、実際にあり得ないほどの大蛇だからなのかわからない。

ただ、蛇は夢の中でまん丸な月を飲み込もうとしていた。まるでウミガメの卵のような月に対してほぼ垂直に口を開き、時間をかけてゆっくりと体内にそれを押し込んでいった。

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口を閉じると破裂するくらいに頭が歪曲し、その膨らみは誰かが匍匐前進をしているように腹の方へと移動していった。それから月は消化されるかと思いきや、そうではなかった。途中で蛇は苦しそうにのたうち回ると、やがてぴくりとも動かなくなった。

死んでしまったかのように見えた蛇は、今度はもぞもぞと後ろ向きに動き出した。体の真ん中あたりにあった月の膨らみをそのままにして、古くなった体を吐き出すように新しい体が誕生した。

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つまり、その蛇は外側の殻を脱ぎ捨てるのではなく、内側にあるもうひとつの体を腹の膨らみごと吐き捨てたのだ。新しい蛇の体は少しだけ大きくなっていて、不思議なことに抜け殻の中にあるはずの月は、再び蛇の目の前に復活していた。

蛇はもう一度、月を口に含んで飲み込んだ。しかしやはり消化されることなく、やがて苦しみ悶えながら、また一段と大きくなった新たな体に生まれ変わった。

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その光景は幾度となく繰り返された。蛇が生まれ変わっては、月も同様に再生する。細長い体はどんどんと大きく太くなり、腹の膨らみは少しずつ目立たなくなっていった。

そして飲み込まれた月が蛇の中でまったく形にならなくなった時、一本の均等な線となった蛇は、初めて私の前から姿を眩ました。

まるで結び目の解けた糸のように、するすると蛇は逃げていった。

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そこで私は目を覚ましたのかもしれない。気づけば辺りは朝の柔らかな陽光に包まれていて、当然目の前には蛇の姿はなかった。

ただ幻覚症状としての虫だけが、いつものように視界の中でもぞもぞと蠢いていた。しかし、その虫は、私ではなく川田の亡骸を、少しの隙間もなく埋め尽くしていた。

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私は、ひどく狼狽した。まるで虫に見捨てられたような気分だった。死体に集る虫を必死に手で払い除けるが、それは一向に姿を消さず、ただ手に残るのは、腐り果てた肉が骨から剥がれ落ちるぐにゃりとした手応えだけだった。

虫も、川田の体も、川田との思い出も失っていくような気がした。私は、飲み込まなければ、と思った。大切なものは失う前に、飲み込んで自分のものにして、そうやって大きくなっていかないと、生き延びることはできないと思った。

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現状からの脱皮。この時の私に、法律はどれだけ効力を持っているだろうか? 蛇が何日もかけて丸呑みした獲物を消化していくように、私は川田をゆっくりと味わおうと思った。雨で消されたかまどの火を、壊れかけのライターで復活させた。

リュックの中から乾燥した炭を取り出し点火すると、火はめらめらと音を立てて目の前の空間を歪めた。私は蛇となり、本当の鬼になる決意をした。この時には虫の幻覚は、跡形もなく消え去っていた。

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川田がウサギにやっていたように、私は彼の体を捌き始めた。無論それは腐っていて、ナイフを使わずとも手で裂けた。私は素早く手を動かすが、それは決して手際がいいわけではなかった。少しでも手を止めてしまうと、私は正気を保っていられなくなる気がした。

使える部分を鍋に入れ、残りはすべて土に埋めた。土葬できることが唯一の救いだった。ここが海ではなく陸地であることに、改めて私は感謝した。

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そして、その日のうちに、川田は私の一部となった。

五味のすべてを混ぜ合わせたような味が、舌に乗った時の肉の食感が、たとえその先どのような美味に出会おうと、決して忘れられることができなかった。

川田が与えてくれたその味こそが、私の遭難に関するひと塊の記憶の、すべてに成り代わろうとしていた。

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7

「今日の実習は終わりです」

むせかえる臭いに周りの何人かが軽く咳き込むなか、私は懐かしいという場違いな感情に動悸していた。

目の前の死体はつい先ほど腹を開かれたばかりで、解剖を教える先生の手は脂肪によっててらてらと光っている。

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鼻を裂くほどの猛烈な臭いは鼻腔を通じて舌の上に乗り、忘れられないあの味を記憶とともに呼び起こす。

川田とひとつになったあの後の私は、何日間も歩き通して自力で山を降りることができた。

警察はおろか誰も私たちのことを探している様子はなく、アパートに帰るや体に染みついた泥や死臭を洗い落とすと、まるで遭難したこと自体が夢であったように、私はそのままもとの日常へと溶け込んでいった。

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しかし私の日々は、山での遭難を経て一変した。川田が死んだ後の山での過酷な日々を思えば、一日十数時間机に向かうことは少しの苦でなく、勉強漬けの毎日を過ごすようになった。

二年半かかったが、猛勉強の末に、なんとか医大生になることができた。そして、今日はようやく待ちに待った、初めての解剖実習の時間だった。

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解剖室を出て他の実習生たちは次々にトイレへ駆け込んだかというと、そうではなかった。

私を含めて皆が、不思議なくらいに湧きあがる自分の食欲に戸惑い、どうしていいかわからずに立ち往生していた。

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先輩の体験談などで聞いていたが、まさか解剖実習後に本当に腹が空くとは思わなかった。

猛烈な臭いで感覚中枢がおかしくなったのか、将又人の死を間近で扱うことで生への渇望が刺激されたのか。

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私は仲間を連れ立って恐る恐る食堂へと向かい、普段以上の食事を摂った。食べながら、あの時の私の行動は、人として当然な事だったのだと何度も自分を肯定した。

川田の捜索届が出されたのは、夏休みが終わって一週間が経つ頃だった。

二ヶ月以上も部屋のガスや水道が使われていないことを、アパートの大家が不審に思った故の届け出だった。

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学生がひとり行方不明になったという噂は、瞬く間に学内で広がった。当然私の耳にも届いていたが、自分から真実を提供する気になれないでいた。

そしてまるで奇跡のように、私は誰にも秘密を追求されることがないまま、医大に合格して大学を移ることになった。しかしそれからの日々も、自分が遭難したことを人に話そうと決意しては、その度に取り消してを繰り返した。

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決して私は、川田や、彼のことを大切に思う人たちのために話そうと思ったのではなかった。

彼との思い出が記憶の中からだんだんと薄れていくように感じ、完全に消えてしまうことを恐れるあまりに、自分の他に証人を得たいと思っていた。

それでも最後には、川田との記憶を自分の内に閉じ込めてしまうのだった。話すことで、川田に関するすべてを、誰かに取り上げられてしまうことを恐れていた。

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彼の亡骸を土に埋める時、私は右手の小指の骨を切り取っていた。一緒に生きようと指切りしたその小指の骨から、親友の全部を想像して、それを支えにゼロからの受験勉強を乗り越えてきた。

ボロボロになったパチンコと一緒に持ってきた小指の骨だけが、確かに川田が存在した証拠だった。私の一部となった彼の血肉は、何度も脱皮を繰り返した今ではすべて抜け殻として葬り去られたように思えた。

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しかし、私は約束したのだ。あいつと一緒に生き延びることを。あいつのおかげで食い繋いだ一日一日を、絶対に忘れてはならなかった。

私が日々勉強に明け暮れる原動力は、あの頃の動機とはまったく違っていた。人の命を救いたいという想いは、今ではほんの少しも持ち合わせていなかった。

ただ、川田を失いたくない。そのために私は、人体について知りたかった。

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食欲という純粋な欲望でしか、私は川田を思い出せなくなっていた。

その日の夜、私は捕らえたばかりの人肉を、昼間の見よう見まねで捌いてみた。

数年ぶりに食べたそれは、川田のものとは違って筋ばかりの固い肉で、私は虫歯のない健康な歯で筋を噛み切り時間をかけて何度も咀嚼した。 

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味わい噛み締めるための線としての過去が、確かな味となって思い起こされた。

学習机の上ではどこかから吹いてきた隙間風のせいで、人体のページがぱらぱらとめくれた。

あの時足りなかった知識をがむしゃらに頭に詰め込む日々。私はようやく、ここまできた。

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川田は確かに、私のそばにいた。

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8

これは決して過去の反省ではない。

今は亡き友への追悼と感謝、そして、私の未来についての話である。

私は近い将来、必ずや医者になるだろう。

そして、白衣を纏った私は人の心も忘れて、川田のことばかりを思い出すだろう。

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しかし、いつまでも私の罪が発見されないとは思っていない。

いずれ私は殺人鬼として、世間から非難を浴び、警察組織のお迎えに怯える日々を過ごすことになるかもしれない。

その時は、たとえ目の前が真っ暗になっても、ひたすらにかっこ悪く逃げようと思う。

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計画なんて立てずに、あわよくば月まで、私は蛇のように逃げようと思う。

Concrete
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