俺、工藤信二が、澤井美香子に初めて会ったのは、真夏の蒸し暑い夕方だった。
その日は仕事が早めに片付き、珍しく定時に会社を出たのだが、突然の激しい雨に見舞われ、会社を出てすぐの駅ビルの一階にあるコーヒーショップへと逃げ込んだ。
三か月ほど前に急な転勤でこの街に引っ越してきて、ようやく新しい生活にも慣れてきたところだ。
転勤が決まってすぐに決めた賃貸マンションへはここから歩いて五分程なのだが、傘だけではすぐにびしょ濡れになってしまいそうな雨であり、真っ直ぐ帰る気が失せてしまった俺はグラスビールを注文すると窓際のカウンター席に腰を下ろした。
目の前の窓ガラスには忙しなく雨の雫が流れ落ち、その向こうには傘を差して列を作ってバスを待つ人々の姿が見える。
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どうせ真っ直ぐ帰るのなら多少濡れてもいいのだが、独り暮らしの俺はそうまでして急いで家に帰ろうという気が起こらなかったのだ。
「あの、すみません。」
ビールを口に運びながらスマホを弄っていると、不意に後ろから声を掛けられた。
振り返るとOLと思しき、ブラウスにタイトスカートという服装の女性が、俺と同じグラスビールを片手に立っていた。
彼女がつけている香水だろうか、うっすらと柑橘系の香りがする。
ロングヘアでどこかちょっと暗い感じがするが、なかなかの美人だ。
「あの、隣の席は空いていますか?」
周囲を見ると、同じように雨が通り過ぎるのを待つ人たちなのだろう、店の中は先程よりもかなり混んでいた。
俺の右側には大学生と思しきカップルが座り、左側の席がひとつだけ空いていた。
「ええ、どうぞ。」
俺が快諾すると彼女は笑顔で椅子に腰を下ろした。
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「雨はまだ止みそうもないですか?」
たったいま、彼女に声を掛けられた時、俺はスマホで雨雲レーダーを見ていた。
おそらく彼女も雨宿りなのだろう、俺の手元を後ろから見て聞いてきたのに違いない。
「雲の動きからすると、あと二、三十分位で小降りになりそうですよ。」
「そうですか。でも止むわけではないんですね。」
彼女はテーブルに置いたグラスを手に取ると、こくりと一口飲んで俺の方を見た。
「いつも会社帰りにカフェで一杯飲むんですか?それとも雨宿りのついで?」
おそらく彼女も今日は雨宿りがてら軽く一杯ということだろう。
「おそらくあなたと同じですよ。」
俺がそう返事をすると、彼女は悪戯っぽくにやっと微笑んだ。
「あらそうなんですか?私は雨降りで鬱陶しい日が続くから、誰かこの後一緒に飲んでくれそうな人がいないかなって探していたんですけど、私と同じだったんですね。良かった。」
「は?」
思わず声が出てしまったが、これは彼女に逆ナンされたということなのだろうか。
「私、この近くに美味しい炉端焼きのお店を知っているんです。一緒に行きませんか?」
特に誘いを断るような理由もなく、彼女、澤井美香子の誘いに乗ってその炉端焼きの店に行った。
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彼女はこの近くにある不動産会社のOLで、ここからふたつ先の駅で降りたところに住んでいると自己紹介してくれた。
驚いたことに彼女の勤務先は、今のマンションを借りる際に利用した不動産屋だった。
俺はまったく記憶していなかったが、マンションを決める際に担当者が不在の時など何度か彼女が対応してくれたことがあったらしい。
そしてたまたま今日このカフェに立ち寄ると俺の姿に気がつき、わざと同じビールを買って隣に座ったのだと彼女は言った。
そんな風に近づいてきた彼女に対し、その時は取り立てて悪い印象はなく、新しい友人が増えたという程度で連絡先を交換した。
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◇◇◇◇
そしてその日から頻繁にLINEでメッセージが届くようになった。
また飲みに行こうと何度も誘われるのだが、仕事が繁忙期に入ったこともあり、なかなか飲みに行く機会を作ることが出来ずにいたが、それでも十日程経った頃に何とか都合をつけて再びあの炉端焼きの店に飲みに行く約束をした。
しかしやはり仕事が押し、それでも元来の律儀な性格から小走りに店に向かって、なんとか十分程遅れただけで店に駆け込んだのだ。
しかし先に店で待っていた彼女は、先日一緒に飲んだ時から想像もできないような不機嫌な顔をしてカウンターに座り俺を睨んでいた。
「ごめんね。帰ろうとしたら部長に呼び止められちゃた。」
彼女のその表情を見て思わず言い訳をしたが、彼女の不機嫌な表情は変わらない。
「仕事と私との約束、どっちが大事なのよ。」
この女は何を言っているんだ。
まだ会って二度目の恋人でもない相手に言うセリフではない。
仕事よりも自分の方が大事だろうと言っているのと同じだ。
「給料貰っている以上仕事は大事だけど、それでも約束だからここまで走ってきたんじゃないか。」
俺も思い切り不機嫌な表情でそう答えると、その雰囲気を察したのか、彼女は態度を急変させた。
「ふ~ん、じゃあいいわ。さあ何を食べようか。」
今までの態度が嘘のように笑顔へ変わり、テーブルの上のメニューを手に取った。
そして飲み物とおつまみを注文し終わると、彼女は自分の身の回りで最近あったことをいきなりしゃべりだした。
そして強引に相槌を打つことを求めてくる。
思い出してみれば、前回もこの女はよく喋った。
しかし前回は初めて会う相手であり、それほど気にならなかったのだが、詰まるところかなりの自己中女なのだ。
そのくせ時折俺の顔色を窺うような眼差しで俺の目を覗き込んでくる。
そんな彼女の相手をすることに三十分も経たずうんざりしてきた。
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(この女には深入りしない方がいい。)
それでも何とか我慢し二時間程経ったところで、そろそろ頃合いかと彼女の話の切れ目を狙った。
「ごめんね。俺、明日朝早いから、そろそろお開きにしようか。」
もちろんその場しのぎの言い訳でそんな予定などないのだが、それを聞いた途端に機嫌良さそうにしゃべり続けていた彼女の表情が変わったが、すぐに何か企んでいるような笑みを浮かべた。
「まだ九時過ぎよ。じゃあ、まだ飲み足りないから信二君のお部屋に行って飲み直そ?」
複数人で飲んでいるのならともかく、ふたりだけの状況でまだ会って間がない男の部屋に行こうという彼女はどういうつもりなのだろうか。
「ねえ、ふたりっきりで静かに飲み直そうよ。」
そう言って俺に腕を絡めてくるのだが、俺の心は強烈な危険信号を発していた。
この女は駄目だ。相手にすべきではない。
「いや、明日朝早いって言ったろう?だから今日はもうお開きにしようよ。」
「嫌よ。まだ全然飲み足りないもの。信二君のお部屋でもっと飲もうよ。」
「やだよ。ここの分は払っておくから、飲みたければあとは勝手にしてくれ。じゃあ、おやすみ。」
もうこの女に気を遣うような気持ちは全く失せていた。とにかく、はっきり態度に出した方がいい。
別に嫌われたところでつい先日までと何も変わるところはないのだ。
この女の分まで払うのは腹立たしいところはあるが、割り勘の話をする気も起らなかった。
俺は伝票を掴んで会計を済ませるとそのまま彼女を残して店を出た。
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◇◇◇◇
マンションへ戻りシャワーを浴びて出てくると、ハンガーに掛けてある上着のポケットでスマホがメッセージの着信を告げた。
見ると画面にはずらっと澤井美香子から送られてきたメッセージのヘッドラインが並んでいる。
シャワーを浴びていた二十分ほどの間に十件以上のメッセージが届いていた。
いったい何なんだと思いながら既読はつけないほうが良いと思い、待ち受け画面に表示されているメッセージを目で追うと、自分のわがままを詫びるメッセージから始まり、それが勝手に帰った俺への怒りのメッセージへと変わり、また自己批判的な内容に戻り、それを繰り返しているのだ。
酔っ払って自分の感情をコントロールできていないのだろうか。
俺の方から彼女に対して何かをした憶えはなく、彼女が一方的にアプローチしてきたのだ。
出会って間がない相手に対する非常識な態度が、自分で判断できないのだろうか。
それなりに美人であるが故に、これまで自分がちょっかいを出して言いなりにならなかった男がおらず、恋愛に関しては非常に自己本位的な考え方に偏っているのかもしれない。
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ガチャガチャガチャ!
いきなり玄関のドアレバーを乱暴に動かす音が聞こえ俺はビクッと驚いた。
澤井美香子がやってきたのか?
もちろんあの不動産屋に勤める彼女がこの部屋の場所を知っていて不思議はない。
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「おい、今帰ったぞ!開けてくれ!」
その声は隣の関口さんだった。
俺とそれほど年齢は変わらないのだが、結婚して奥さんとふたりで住んでいる。
仕事の付き合いなのか時折酔っ払って帰ってきて部屋を間違えるのだ。
このくらいの時間であればまだいいが、たまに深夜に帰ってきてこれをやられると心底腹が立つが、関口さんもわざとそうしているわけではなく、月に数回程度なので我慢するしかない。
玄関ドアを開けた俺の顔を見ると、すぐに部屋を間違えたと理解した関口さんは、こちらが何かを言う前に謝るとそそくさと自分の部屋へと向かった。
その姿を目で追うと関口さんの部屋のドアが開いており、寝る前だったのだろうか、パジャマ姿の奥さんが体半分を部屋の中に隠すようにドアからこちらを覗き、俺に向かって謝るように会釈をした。奥さんも大変だ。
「まったくしょうもないオヤジだな。」
苦笑いをしてドアを閉めようとした瞬間、通路の向こうにある外階段の柱の陰にちらっと女性らしき姿が見えた気がしたが、それはすぐに見えなくなった。
その体型や髪型から澤井美香子のような気がしたが、それを確かめようという気も起らなかった。
しかし急いでドアを閉めると鍵を掛けると普段はしないチェーンまで掛けて部屋に戻り、勘弁して欲しい、そう思いながらさっさと電気を消して眠りについた。
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◇◇◇◇
そして澤井美香子からのLINE攻撃は翌日も続き、俺は彼女のアカウントをブロックした。
すると今度はメールを送り付けてきた。
― 何でLINEをブロックしたの?また飲みに連れて行ってよ!
― 勘弁してくれ!君と付き合うつもりはない。もう俺にまとわりつかないでくれ!
不動産屋に勤めている彼女にとって、メールアドレスや電話番号を調べるのは容易な事なのだ。
俺はいろいろと面倒だったが携帯電話の番号やメールアドレスも変えた。
とにかくあの女に関わりたくない一心だった。
さらに会社への行き帰りに待ち伏せされることもあったが、出退勤時間を散らしてとにかく逃げ回った。
これまで女性からモテないわけではなかったが、ここまでつきまとわれるのは初めてであり、どうしていいか解らない。
やがて時折見掛ける澤井美香子の様子がおかしくなってきた。
これまでは度が過ぎているとはいえまだ単なるしつこい女だったのだが、まずマンションの郵便受けに手紙が投函されるようになった。
その内容は、とてもラブレターと呼べるような代物ではなかった。
自分がこんなに努力しているのになぜ答えてくれないのかといった恨みの言葉や、死んでやるといった脅迫めいた内容に溢れているのだ。
警察に届けようと何度思ったか分からない。
しかし物理的な被害は何もなく、どうしようかと思っていると一か月程過ぎた頃にばったりとそれが止んだ。
毎日のように投函されていた手紙は投函されなくなり、通勤時に彼女の姿を見掛けることもなくなった。
そして何事もなく一週間が過ぎるころに、俺はやっと諦めてくれたかとほっと胸を撫で下ろしたのだ。
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◇◇◇◇
澤井美香子の姿が見えなくなって十日ほどが過ぎたある日、突然エアコンが故障した。
住んでいる賃貸マンションは、備品等の故障が発生した場合、直接大家ではなく契約した不動産会社を通して管理会社に連絡されるようになっている。
もちろん連絡などしたくなかったのだが夏も盛りのこの時期に我慢するわけにもいかず、やむなく不動産屋に連絡を入れた。
電話に出た女性の声は澤井美香子ではなかった。
取り敢えずほっとして、住んでいる物件名とエアコンが故障したことを告げると、女性は少々お待ちくださいと言って電話を保留にした。
そのまま電話口で待っていると、先程の女性が再び電話に出た。
「澤井が担当させて頂いていた物件ですね。申し訳ありませんが、澤井は退社しましたので、私、小森が承ります。」
いつの間にか担当が澤井美香子に変更されていたようだ。しかしすでに退社したというのはどういうことだろう。
「澤井さん、退社されたのですか?」
「ええ、退社というか、十日程前に交通事故で亡くなられたんです。」
死んだ?澤井美香子が?
他人の不幸を喜ぶのは良くないことだと百も承知している。
しかしそもそも知り合って間がなく、俺にとっては、言い方は悪いが、毒にしかならない存在だった彼女が死んだということは、これで完全に開放されたということだ。
この時ばかりは思わず笑みがこぼれた。話を聞いたのが電話で良かった。
…
しかし本当の恐怖はここから始まった。
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◇◇◇◇
澤井美香子の死を知ってから久しぶりに何も気にすることなくのんびりと通勤していたが、三日程過ぎた夜のことだった。
何かの気配を感じたのだろうか、夜中にふと目が覚めると玄関の外で何か蠢くような気配がすることに気がついた。
時計を見ると午前二時過ぎ。
1DKの狭い単身用マンションであり、玄関までそれほど距離はないのだが、耳を澄ませても特に音は聞こえない。
この気配は何だろう、誰かいるようだと思っていると、いきなり玄関のチャイムが鳴った。
やはりドアの外に誰かいたようだ。
こんな時間に誰だと少し腹立ちを覚えながら上体を起こしたところで、再びチャイムが鳴った。
「どなたですか?」
玄関まで出てドアに向かって声を掛けたが返事はない。
「どなたですか?」
もう一度声を掛けると、目の前でレバー式のドアノブがゆっくりと動き始めた。
鍵は掛けてある。
「誰だ⁉」
名乗りもせずにドアを開けようとするその非常識な行為に少し腹が立ち声を荒げると、いきなりレバーがガチャガチャと激しく音を立てて上下に動き始めた。
俺はドアに近づくとドアスコープで外を確認したが誰もいない。
スコープから見えない位置にしゃがみこんでレバーを動かしているのだろうか。
「誰なんだ⁉」
もう一度声を掛けると、レバーの動きがピタッととまった。
しかしドアの前から誰かが立ち去ったような足音は全く聞こえないことからすると、まだドアの前に潜んでいるのだろうか。
そのままじっと外の気配を窺っていたが、数分経っても遠くから車の走る音や犬の鳴き声が聞こえるだけで何の気配もない。
思い切ってロックを外し、ゆっくりとドアを開けてみた。
外には誰もいなかった。
深夜の通路は静まり返って何の物音もしない。
「何なんだ、いったい。」
しかしドアの外にはうっすらと柑橘系の香りが漂っていた。
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◇◇◇◇
翌朝、出勤前に管理人室へ立ち寄った。
廊下に設置されている防犯カメラの映像を見せて貰うことにしたのだ。
管理人に事情を説明すると、すぐに映像を見せてくれた。
「昨夜というか今朝の午前二時過ぎだったんです。」
「じゃあ、二時くらいから確認してみましょうか。」
管理人さんは録画されているデータを起動させ、午前二時から再生を始めた。
「何だ?これは・・・」
映像を見ていた管理人さんが顔を強張らせたのも無理はない。
午前二時を少し過ぎたあたりで、通路を進む女の後ろ姿が映っていた。
画面下から突然現れたモノクロのその姿はフルカラーの映像の中で妙に浮き立って見え、そのまま足を動かさず滑るように通路を進むと俺の部屋の前で止まりドアの方へ向きを変えた。
「これは人間じゃないですね。」
管理人さんが呟くように声を掛けてきたが、俺は返事をすることが出来ず画面に見入っていた。
それは間違いなく澤井美香子だった。
後ろ姿、そして横顔しか見えていないが、その髪型も背格好も、そして着ているスーツも彼女に間違いはない。
鼻の奥にあの柑橘系の匂いが蘇る。
彼女がこの世からいなくなったと聞いてほっとしたのはほんの束の間だった。
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◇◇◇◇
出社しても全く仕事に身が入らない。
「工藤さん、浮かない顔をしてどうしたんですか?」
斜め前に座る三島早紀が声を掛けてきた。
「いや、何でもない。ちょっと気掛かりなことがあってね。」
椅子に座り直し、仕事を再開する素振りをしながら周りに目をやると彼女以外は会議などで席を外している。
「ねえ、三島さん、ちょっと話を聞いて欲しいんだけど昼休みに時間をくれないか?」
以前に別の女子社員が、彼女は見える体質、つまり霊感があるようなことを噂していたのを思い出したのだ。
ひょっとすると彼女は俺に何かを感じて声を掛けてきたのかもしれない。
ふたつ返事でOKしてくれた彼女と昼休みに近くの喫茶店へ入ると、澤井美香子について初めて会った時から昨夜の出来事まで包み隠さず話をした。
「もう、節操なく女の人の誘いに乗るからそんなことになるんですよ。まあ、工藤さんは独身だから仕方がないですけどね。」
三島早紀はそう言って口を尖らせながらも、俺のおごりのパフェを嬉しそうに食べている。
「たぶん、誰かから私に霊感があるような話を聞いて相談してくれているんだと思うんだけど、残念ながら私は霊媒師さんでもお坊さんでもないから霊を追い払うなんてことは出来ないわ。こうやって工藤さんが頼って話をしてくれたのは凄く嬉しいんだけど。」
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◇◇◇◇
その夜、また午前二時過ぎに再びチャイムが鳴った。
もちろん玄関に出る気などない。
そのままベッドで布団に潜り込みじっとしていると、昨夜と同じようにドアのレバーをガチャガチャと激しく動かす音が聞こえ始めた。
昨日と同じであればこの後しばらくするといなくなってくれるはずだ。
ベッドのある居室と玄関のあるダイニングの間は凸凹ガラスの引き戸で仕切られており、直接玄関のドアは見えない。
布団に潜り込んだまま引き戸越しにそちらの方をじっと見つめていると、一分程でその音は止んだ。
訪れた静寂に、これで終わりかと思った途端、今度はドンドンと直接ドアを叩き始めたのだ。
こんな夜中に大きな音を立てて、近所から文句が来ないかと心配になったが、逆に誰かが顔を出して文句を言ってくれれば消えていなくなるのではないかと都合の良い考えが頭を過った。
しかし誰の怒号も聞こえないままドアを叩く音は数十秒で止んだ。
今度こそ終わったかと耳を澄ませていると、しばらくして”カチャッ”という小さな音が聞こえた。
ドアロックが開けられた・・・・
間髪を入れずに、暗かった引き戸の向こうの玄関の辺りが明るくなってまたすぐに暗くなった。
ドアを開けて中に入ってきたようだ・・・
そして凸凹ガラスの向こうにじわっと白っぽい影が浮かんだかと思うと、それはすぐにガラスのすぐそばまで近づいてきた。
反対側を見え辛くした凸凹ガラスとはいえ、そこまで近づくとそのシルエットははっきりとわかる。
白っぽいスーツに長い髪は防犯カメラに映っていた通りの姿だ。そしてガラスに近づけられたその顔は澤井美香子に間違いない。
とうとう家の中まで入られてしまった。
澤井美香子はガラスの向こうで居室を窺うように若干顔を左右に動かしている。
その様子からすると彼女は俺がベッドにいることに気がついていないということだろうか。
そのままどのくらいの時間が経ったのだろう、”チッ”という舌打ちするような声と共に澤井美香子のシルエットがガラスから離れ、そのままじわっと溶けるように消えてしまった。
しかしドアから出て行った様子はなく、ひょっとしたらまだダイニングにいるのではないかとそのままじっとしているうちに、気を失ったのか寝落ちしたのか、気がつくと朝になっていた。
カーテン越しに差し込む光に目が覚めると、凸凹ガラスの引き戸に目をやったが明るくなったダイニングにその姿はないようだ。
恐る恐るベッドから起き出して引き戸を開けてみたがやはり誰もいなかったが、しかしそこにはかすかに柑橘系の香りが漂っていた。
なぜあの女はここまで入ってきながら居室へ入ってこなかったのだろうか。
玄関の鍵を開けて入ってきたのだから、引き戸を開けることができないはずはないと思うのだが。
ふと時計を見ると間もなく出勤しなければならない時間だ。
会社に行く支度をしようと居室に戻ったとき、足元にある小皿が目に留まった。
それは昨日の昼休み、三島早紀が最後に、気休めかもしれないけれど盛り塩をして置いておけば、と言った言葉に従って居室の四隅に置いたものだった。
このおかげで澤井美香子はここへ入ってこられず、そして居室にいた俺のことも認識できなかったのか。
見ると盛り塩は、全体が水を掛けたようにどろっと溶け、一部が黒っぽく変色していた。
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◇◇◇◇
「たぶんそうね。私の言うことを信じてちゃんと盛り塩をしたんだ。偉い、偉い。」
昼休みに再び三島早紀に話をすると、とても後輩とは思えないような口ぶりで俺の頭を撫でて自慢げに笑みを浮かべた。
「感謝しているんだったら、今日飲みに連れて行ってくれませんか?もちろん工藤さんのおごりで。」
もともと三島早紀のことは好ましく思っていたが、反社内結婚派の俺はこれまで特にアプローチすることはなかった。
本当に盛り塩の効果なのかは分からないが、とにかく一夜の危機を凌げた安堵から彼女の誘いに乗った。
…
「私ちょっと考えたんだけどね。」
少し酔った様子で頬をピンクにした三島早紀がテーブル越しに顔を寄せてきた。
「何?」
その仕草を可愛いと思いながら、彼女が何を思いついたのか聞く態勢を取った。
「ベッドのある部屋の四隅に盛り塩を置いてその幽霊が入ってこられなかったのなら、工藤さんのマンションの部屋全体、通路側からベランダまで全体の四隅に盛り塩を置いておけばドアを叩くこともできなくなるんじゃない?」
なるほどと思った。
確かに今の状態ではダイニングまで入ってこられてしまい、ガラスの向こうに立たれると気が気ではなく安眠できない。
「そうだね。ありがとう。帰ったら早速やってみるよ。」
「うん。でも結局部屋に入ってこられなくするだけで、根本的な解決にはなっていないんだけどね。」
そうなのだ。
盛り塩で結界を作ったとしても、その中だけで生活できるわけではない。
澤井美香子の霊自体を何とかしない限り、問題は解決しない。
「引っ越せば何とかなるかな。そもそも今のマンションが澤井美香子と関わるきっかけになった場所だし。」
「うん、そうかもね。取り敢えず私のアパートに引っ越してくる?」
三島早紀はそう言って悪戯な笑みを浮かべて俺の顔を見つめた。
「もし緊急事態が起こったらそうさせて貰うかも。その時はよろしくね。」
口ではそう言ったが澤井美香子の霊が俺自身に憑いてこないという確証がない限り、彼女を巻き込むようなことは出来ない。
しかし三島早紀は俺の言葉を聞いて嬉しそうにサワーのお替りを注文している。
もし澤井美香子と出会う前にこの子と付き合い始めていたらと、今更考えても仕方のないことが頭に浮かんでいた。
…
しかしいいアイディアだと思った盛り塩の位置変えは、思わぬ結果を招くことになってしまった。
…
- To be continued -
作者天虚空蔵
思いのほか長くなってしまったので前後編に分けました。
お時間のある時に読んで頂けると幸いです。