「でね、この【裏拍手】なんだけど、またの名を【死者を誘う拍手】といってね、既にこの世にいない人をもう一度復活させる儀式らしいのよ」
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ここで台所で洗い物をしていた麗奈の手がピタリと止まった。
彼女はおもむろに水道の蛇口を捻ると、背後の食器棚に置いた小さなラジオのボリュームを上げた。
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若い女性DJの話が続く。
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「この話真偽のほどは定かではないんだけど、とある女子中学生が深夜2時に試しに鏡の前で【裏拍手】をやってみたらしいんだ。
そしたらさ去年死んだはずのじいさんが姿をみせるようになったそうで、終いにはその女の子、死者の世界に連れていかれてしまったって」
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「裏拍手、、、」
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麗奈は一人ボソリと呟くと、ラジオを消し奥の畳部屋まで歩く。
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6帖ほどの殺風景な和室。
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隅っこには小さな仏壇がひっそりとある。
そしてそこには、サーフボードを小脇に抱え爽やかに微笑む小麦色に焼けた若い男性の遺影が一つ、飾られている。
麗奈は仏壇の前で正座すると、その遺影に向かって語り掛け始めた。
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「劉生、そっちはどう?
暗いところに1人で寂しくない?
来月の8月13日で、やっと1年になるね。
そう劉生の一周忌だよ。
私たちやっと一緒になれたのに、
まだたくさん2人の思い出作りたかったのに、
劉生、、、ズルいよ。
私を置き去りにして1人で逝っちゃうんだもん」
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それは1年前のこと。
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麗奈の制止を振り切って天候の悪い日にサーフィンに出掛けた劉生は高波に飲まれ、それっきり帰らぬ人になったのだ。
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遺影の前でひとしきり泣いた麗奈は居間に戻ると、ふと壁の時計を見る。
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午前1時55分
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─そういえばさっきラジオで、深夜2時に【裏拍手】をすると死者が現れるって言ってたけど、、、
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彼女は再び和室に行き仏壇の遺影を両手に持って居間を横切ると、洗面所に入る。
そして洗面台の横手にある洗濯機の上に、そっと遺影を置いた。
ジャージのポケットから携帯を出し、画面を見る。
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午前2時00分
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麗奈は、遺影の中で微笑む劉生の顔を一瞥した後、正面の姿見に映る自分の顔をじっと睨みながら、ゆっくりと慎重に3回手の甲を合わせた。
それから緊張した面持ちで鏡を睨みながらしばらく立っていたが、やがて辺りを見回し「まさかそんなこと、起こるわけないか」と苦笑いすると、また遺影を両手に持ち洗面所を出た。
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翌日は仕事が休みだったから、麗奈はいつもより遅めにベッドから降りた。
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既に9時を過ぎている。
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昨日ベランダに干した洗濯物を取り込もうと、彼女はサッシ戸のカーテンを一気に開けた。
そのとたんに、
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「ひ!」
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心臓が止まるくらいに驚き、思わず尻餅をついた。
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透明なサッシ戸の向こうに、くっつくようにして劉生らしき男が立っている。
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ただその顔には生前の面影は欠片もなくげっそり痩せこけていて、焦点の定まらない2つの瞳で微笑みを浮かべ呆けたように立っている。
しかも衣服は何も身に付けておらず素っ裸だ。
身体のあちこちには痛々しい傷があり、全体に薄汚れている。
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「劉生、、、劉生なの?」
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麗奈は呟きながらゆっくり立ち上がりサッシ戸を開け、男を室内に招き入れ、そのまま浴室に連れていくと熱いシャワーで隅々まで洗ってあげた。
そしてタオルで拭くと、とりあえず白いガウンを着せる。
その間、彼は終始微笑んだ表情のまま無言だった。
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それから居間に連れていき、ダイニングテーブルの前に座らせると、向かい合って彼女も座る。
そして麗奈は、虚ろな目で微笑む男の顔を見ながら話し始めた。
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「劉生、ありがとう。
私のために帰ってきてくれたのね。
本当に嬉しい。
ねぇ、あっちの世界はどうだった?
やっぱりこっちとは違う?
いっぱい話を聞かせてよ」
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果たして麗奈の問いかけが聞こえているのかいないのか、男は相変わらず虚ろな目で宙の一点を見ながら、じっとしている。
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「ごめん、ごめん、お腹空いてるんだね?
すぐご飯作るから、ちょっと待ってて」
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そう言って彼女は立ち上がると台所に行き、料理を準備し始めた。
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やがて男の前には、野菜炒めとご飯、それと味噌汁が並んだ。
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「ごめんね急だったから、そんなものしか出来なくて。明日は大好きなハンバーグ作るから」
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そう言って麗奈は、男の前に座る。
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だが5分しても10分しても彼は両手をだらりと下げたままで、箸にさえ手をつけることはなかった。
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「そうか、疲れてるんだね。
食べることなんかより今は寝たいんだ」
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麗奈は一人呟き男を寝室に連れていくとベッドに寝かせ、自分はベッドの下の床に横になり、時折彼の横顔に視線をやってみる。
だが相変わらず彼は天井を見詰めたまま微笑んでいた。
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そんな感じで一週間が過ぎた。
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その頃になると気疲れによるストレスからか、麗奈の肉体にはかなり疲労が溜まり、心にも暗雲が立ちこめだしていた。
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そしてそれはいつもの晩御飯の時に起こった。
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毎度の如く麗奈の前に座る男は、目の前に置かれた料理には一瞥さえもせず、ただじっと虚ろな目をして微笑んでいる。
彼女は上目遣いで彼の顔を見ながら口を開く。
その口調にはいつもと異なり、刺があった。
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「ねぇ、劉生、こっちに戻ってきてからもう一週間になるけど、そろそろ何かしゃべったら?
それとも私とは何も話したくないというの?
もう私のこと嫌いになったの?
ああ、分かった、もしかしたら、あっちの世界で好きな人が出来たんでしょ。
そうよ、そうに違いない。
……………
ねぇ、お願い、
お願いだから何とか言ってよ!」
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思わず彼女は湯呑みを掴むと、熱いお茶を男の顔にぶちまけた。
だがやはり彼はだらりと両手を下げたまま微動だにせず、宙の一点をただ見詰めて微笑み続けている。
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とうとう彼女はドンとテーブルを叩いて立ち上がり、彼の真後ろまで歩くと、その耳元に口を近付け「今日もわざわざご飯作ってあげたんだから、笑ってないで一口くらい食べなよ!」と叫ぶ。
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その時だった。
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男の右肩がピクリと動いたかと思うと、ゆっくり右手を持ち上げ、指に箸を絡めた。
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「え!?」
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その様を見た麗奈は驚いた表情で後退りする。
そして震える声でこう言った。
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「ち、ちがう、
チガウ、
違う!
り、劉生じゃない、
劉生じゃない!
じゃあ、あなたはいったい、、、」
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劉生は左利きだった。
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彼女は小走りでクローゼットの前に立ち徐に扉を開くと、
中から護身用の金属バットを引っ張り出す。
そして男の背後に立つと、その頭部めがけて躊躇なくバットを振り下ろした。
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shake
コン!
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小気味良い打撃音とともに、そのまま彼は椅子からカーペットに崩れ落ちた。
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そして仰向けのまま壊れたからくり人形のようにビクンビクンと全身を痙攣させている男めがけて麗奈は、なおも二度三度とバットを振り下ろす。
終いに男の顔面は血だるまになり、原形を留めぬくらい歪に変形していた
ただその目は相変わらず宙空の一点を見詰めながら、微笑み続けていた。
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麗奈は、白い顔に点々と付いた返り血を拭うこともせずバットを落とし、その場にガックりとへたりこむと、いつまでも狂ったように笑い続けていた。
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fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう
とらうま【四】─死者を誘う拍手─
https://kowabana.jp/stories/36368