今から半年ほど前の冬の日だった。
俺、五条夏樹は大学を卒業し、保険会社に就職。
そして花形ともいわれる資金の運用を担当する部署に配属され五年になろうとしているが、なかなか成績が上がらず、特にこの数か月の運用実績は惨憺たるものだった。
毎日のように上司から怒鳴られ、そして先週は将来が不安だという理由で、とうとう社内恋愛の彼女から別れを告げられた。
悲しかったが、逆の立場であれば同じことをしたかもしれないと考えると彼女を責めたり、引き留めたりする気にはなれず、それを素直に受け入れた。
このままでは春の人事異動の対象になるかもしれない。
投資は運の部分も大きいが、人並み以上の努力はしているつもりなのに、一体俺の何がいけないのだろう。
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*************
その日もいつものように重い気分で仕事をしていた。
投資先を探して端末に向かっていたが、何処に投資しても上手くいくような気がせず、椅子の背もたれに寄り掛かって腕組みをした時だった。
(今関食品よ。)
息が掛かるかと思うほど耳のすぐ傍で澄んだ女性の声がした。
驚いて振り向いたが傍には誰もいない。周囲を見回しても今の声に相当するような距離に女性など見当たらない。
空耳かと思ったが、何となく引っ掛かった。
「今関食品って言ったよな。」
調べてみると東証二部に上場している食品加工の会社だ。
しかしここのところ業績は芳しくなく、株価はこの半年ほど200円を切るところで推移している。
数年前までは500円前後の値をつけていたが、現在は会社情報やネットなどを調べてみても特に目立った情報は見当たらない。
「まあ、この株価なら大損することもないか。」
資金をつぎ込む当てがない状況でも、何の売り買いもしないまま一日を終えることは出来ない。
調べても特に悪材料はなさそうであり、この株価なら倒産でもしない限り大きく値を下げることもないだろうと思い、取り敢えず三万株、俺が単独で決済できる額の半分を超えた額の買い注文を出した。
ほとんどやけくそだった。
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するとその二日後、その今関食品の株がストップ高まで高騰したのだ。
調べてみると前日の夜、魚の小骨を綺麗に取り除く作業を熟練の手作業と同レベルで自動化できる機械を開発したようだ。
肉に比べ魚が避けられる大きな理由のひとつが小骨だ。それを身を崩さずに自動で綺麗に取り除くことが可能となるのであれば膨大な需要が見込まれる。その翌日もストップ高を記録し、含み益は大きく膨らんだ。
「五条君、どうして今関食品の株が値上がりすることが判ったんだ?」
いつもは苦虫を噛み潰したような顔で怒鳴る上司が、にこにこと笑顔で話し掛けてきた。
「いや、まぐれなんですよ。何となく気が向いただけなんです。」
「本当か?インサイダー取引みたいなことだけは勘弁してくれよ。」
これまでの成績からまぐれという言葉を信じたのだろう、笑いながらそう言い残して俺の傍を離れた。
「当てたら当てたでいろいろ言われるよな。」
そう思ってまた背もたれに寄り掛かって腕組みをした時だった。
(今関食品は今日の引けで売りよ。)
またあの女性の声が聞こえた。周りを見回しても、やはり誰もいない。
今関食品の株価はストップ高となるような熱気は収まったが、依然として右肩上がりでじりじりと値を上げる状況が続いている。まだしばらくは上昇するとみてよいのではないだろうか。
しかしあの声に従って買った株だ。
売りも従ってみるか。
金曜日ということもあり、株式市場が閉じる五分前に全株を売り払った。
「五条君!今関食品の株を売ったのか?何故だ?」
取引のモニターを見ていたのだろう、上司が驚いて俺の席へ飛んできた。
「ええ、週末ですから今週の成績を確定させようかと思って。」
「いや、しかしこの株はまだ上がるだろう?」
不満そうにそう言った上司の表情は月曜の朝にすっかり変わっていた。
株を売った翌日の土曜日に今関食品は記者会見を行い、今回の魚の加工機械に関する技術を全て大手の精密機器メーカーに売却すると発表したのだ。
魚の小骨を抜くという、従来の食品加工の技術レベルでは遠く及ばない精密機械への投資が、今関食品では手が出ないほど膨大になる見込みとなったらしい。
もちろん技術売却による一時的な収入とその後の特許収入も見込まれるため、週明けの株価は暴落こそしなかったものの、それなりに値を落として始まり、上昇に転じることはなかった。
…
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これが始まりだった。
…
それ以来、時折、場合によっては日に数回あの女性の声が聞こえ、その声に従って運用すれば額の大小はあるが確実に儲かった。
低迷していた俺の成績は、それにより数週間後には部署でトップを争うレベルになっていた。
当然周囲の見る目も変わり、何故俺が急に勝てるようになったのかが周囲の興味の的になって、中には悪魔に身を売ったのではないかと言い出す輩も出てくる状況になった。
もちろん本当のことなど言っても信じて貰えないだろうし、俺自身あの女性の声が何者なのか全く分からない状態なのだから説明などできるわけがない。
ひょっとすると悪魔に身を売ったという噂が当たっているかもしれないのだ。
「あの今関食品のまぐれがツキを呼び込んだんですかね。それともそろそろカンが身についてきたのかな。この仕事は調子が良い時もあれば悪い時もありますよね。」
声を掛けてくる人にはそうやって誤魔化していたが、実は思い当たることがあった。
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◇◇◇◇
それはあの女性の声を初めて聞いて今関食品の株を買った前日だった。
冬とはいえ、春はもうそれほど遠くないだろうと思われる時期で、テレビのニュースでも気の早い桜の開花予報がちらほらと散見されるようになり、
その日の朝の天気予報でも厚手のコートを着た綺麗なお姉さんが関東地方で春一番が吹くかもしれないとにこやかに告げていた。
その日の仕事を終え、沈んだ気持ちで会社を出ると気象予報士のお姉さんが言った通りの強い風が吹いていたが、それが春の訪れを告げる暖かい南風という気は全くしなかった。
そして電車を降り、強い向かい風の中で顔を伏せアパートへ向かっている時だった。
カサッという乾いた音と共にコートを着た胸に何か白いものが貼り付いた。
「ん?何だ?」
風に押し付けられそのまま貼り付いている薄っぺらい紙切れのようなものを指先で摘まんで引き剥がしてみた。
顔の前に持ってきて見てみると、指の先で風に吹かれてべろべろとまるで苦しがっているように震えていたのは人の形をした紙切れだった。
和紙だろうか、習字で使う厚手の半紙のような材質などだが黄ばんでいてかなり古そうだ。
十センチを少し超える位の大きさで、丸い頭に手足のついた四角い体。神社などで厄払いによく使われる紙人形だ。
どこから飛んできたのだろうか。この付近に思い当たるような神社はない。
そのまま指を離すと紙人形は南風に乗り、顔の横をかすめて後ろへと飛び去り、俺はそれを目で追うこともせずにまた背中を丸めてそのままアパートへと帰った。
「あれ?」
コートをハンガーに掛け、ポケットから財布やスマホを取り出すと、はらりとカーペットの上に紙切れが落ちた。
見ると先程の紙人形ではないか。拾い上げてもう一度眺めてみる。
さっき風に吹かれて後方に飛び去ったはずだ。それが何故ポケットに入っているのだろう。
アパートに帰り着くまでポケットに手を入れて歩いていたが全く気付かなかった。
それにポケットの中に入っていたのに皺ひとつ付いておらず、ピンと綺麗な形のままだ。
裏返してみるとそこには小さな朱色の文字で何かが書いてある。
縦にしたり横にしたりして見ても何と書いてあるのか分からない。
どう見ても日本語ではなさそうだし、俺のつたない知識にある外国語の文字でもない。
捨ててしまおうかと思ったが、先程風に飛ばして捨てたはずのこの人形が何故かポケットに入っていたことを思い出し、安易に捨ててしまってはいけない、俺に対して何かしらの因縁があるのかもしれないと思い、お守り代わりになればと折れないように財布にしまっておくことにしたのだった。
…
この紙人形以外に思い当たるような身の回りの変化はなく、この紙人形とあの女性の声に何かしらの関係があるとしか思えないのだ。
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◇◇◇◇
そして好調な会社の成績を維持したまま、更に一か月程経ち、桜の咲く季節となったある日、以前フラれた彼女に突然会議室に呼び出された。
「やっぱり、あなたのことが忘れられないの。」
俺の先行きが不安で別れようと言い出したのだが、俺の最近の成績を見てよりを戻したいということに違いない。
彼女の薄っぺらな私欲が透けて見えるような気がしたが、そもそも俺が彼女を気に入ってアプローチしたのであり、彼女に別れを告げられた時も相当な未練があった。
その一方で彼女の身勝手な態度に腹が立ったのも事実だったが、俺の成績により手の平を返すその態度も、自らが惚れたわけではない相手に対し、彼女が自分自身の将来を考えれば当然のことだという気持ちもあって彼女を許しても良いのではないかという気がしてきた。
しかし、そんな考えが頭を過った瞬間だった。
腰の横辺りに刺すような痛みが走った。
うずくまってしまうような強烈な痛みではなく、彼女の手前もあって声も出さずに堪えようとした。
しかしかなりの痛みであり、どうしたのか、何が起こったのかと、目の前の彼女よりも意識が痛みに向き、そこに手を当てた。
するとまず手に振れたのは、上着のポケットに入っている財布の感触だった。
するとその瞬間に何故か財布の中に入っている紙人形のことが頭に浮かんだが、まさか紙人形が痛みの原因とは思えない。
腰に手を当てて顔をしかめ、黙ってしまった俺の様子を見て彼女は拒否されたと受け取ったのだろう、ごめんなさいとだけ言い残して踵を返すと小走りに会議室を出て行った。
慌てて呼び止めようとしたが、痛みで足が前に出ない。
しかし彼女が出ていき、その足音が遠ざかると、それまでの痛みが嘘のようにすっとなくなってしまったのだ。
一体今の痛みは何だったのだろう。
社内とはいえ他部署でフロアの異なる彼女とはその後顔を合わせることもなく、もやもやした気分で一日を終えたのだった。
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*************
その日の帰りだった。
駅を出て商店街を抜けると俺の住むアパートがあるのだが、その商店街で夕食の総菜を買おうとした時だった。
(私の分も買ってください。)
あの女性の声が突然聞こえた。
会社以外の場所で聞こえたのはこれが初めてだ。
しかも夕方の商店街で周囲には人通りも多く賑やかなのだが、その声ははっきりと俺の耳に届いた。
反射的に周りを見回すと大勢の人が歩いているものの、みんな自分の用事に必死の様子で、俺のことを意識している人はいない。
その声自体にはもう慣れており、単にやっぱりと思っただけでそれ以上詮索する気は起こらず、目の前に並んだ総菜に向き直った。
今では声に逆らう気など全くない。言われるままにいつもの倍の量を買うとアパートへと向かった。
「しかし、このお惣菜をどうしろと言うのだろう。」
あの紙人形を財布から出して、その前に皿に盛った惣菜をお供えするように並べておけばいいのだろうか。
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そんなことを考えながらアパートへ戻り、カウチの前のテーブルに総菜を置くと、いつものようにシャワーを浴びた。
「うわっ!」
独り暮らしの気安さで裸のまま浴室を出て居室に入ると、なんとカウチに見知らぬ巫女装束の若い女性が座り、にこにことこちらを見ているではないか。
しかしそれが誰かということよりも、若い女性の前に素っ裸で立っていることの羞恥がまず先に立ち、慌てて浴室に駆け戻ると急いで服を身につけて居間へと戻った。
「君は・・・君は誰?」
依然としてにこにこと座っている女性に声を掛けると、女性はテーブルに置いてあるレジ袋から勝手に総菜の包みを取り出し始めた。
「ありがとうございます、夏樹さま。私の分も買って来てくれたんですね。じゃあ、ご飯にしましょ。せっかくだからお酒も飲みませんか?」
下の名前で”さま”を付けて呼ばれるのは初めてだ。
その一方で、まるで以前からの知り合いであるかのような彼女の態度と、そもそも自分の名前を知っていることに対し疑問に思いながらも、その穏やかで優しそうな見た目と柔らかな物腰し、そして何より彼女の声はあの女性の声にそっくりであり、この女性があの声の主かも知れないと思うと警戒感は湧いてこなかった。
「まずは君が誰か教えてくれないか?何で俺の名前を知っているの?」
すると彼女は横座りにしていた足を前に出し、赤い袴を履いた膝を抱えてにこにこしながら俺に隣へ座るように手で指示した。
「私?私は瑠香。夏樹さまは気がついていなかったかもしれないけど、二か月くらい前から一緒にいるわ。」
二か月前?
素直に彼女の隣に座った俺はその言葉であることを思い出し、財布を手に取った。
ない。
財布の中に入れてあった紙人形がなくなっている。
仕事が好調な理由はあの紙人形のお陰だと思っている俺にとって、紙人形がなくなることは一大事だ。
しかし先ほど総菜屋で財布を使った時には間違いなく入っていたし、あの時に落としたとは思えない。
「紙人形を探しているの?」
瑠香はどことなく楽し気な表情で横から俺の手元を覗き込んだ。
「うん。ここに入っていたはずなんだけど・・・って、あれ?」
何故瑠香はここに紙人形が入っていることを知っているのだろう。誰にも見せたことがないのに。
財布にいれた紙人形、それから聞こえ始めた声、その声にそっくりな声をした瑠香の突然の登場、それとともに消えた紙人形。
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もちろんそれはある結論に帰結するのだが、それはあまりにも現実離れした結論だ。
紙人形をお守りにしてから、どこからか声が聞こえるようになり、その声によって会社の成績がアップした。
もちろんこれだって充分不思議な出来事なのだが、まだ頭の中で許容できるレベルだ。
誰だって何かしらの効果を期待してお守りを持つだろう。それと同じだ。
しかし十センチちょっとのペラペラの紙人形が目の前に座っている可愛い女性に化けるなんてことがあるはずがない。
有り得るとすれば俺が精神的に破綻したか。
そんな困惑している俺のことを楽しんでいるように瑠香は相変わらずにこにこと俺を見つめている。
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「ねえ、お腹空いたから、早くご飯にしましょ?」
何が起こっているのか理解できないまま、棚からぐい呑みをふたつ取り出しテーブルに置くと、冷蔵庫から先日親戚が送ってきた生酒を取り出した。
「わーい。美味しそうなお酒。御神酒だね。じゃあ、乾杯しましょ、乾杯。」
たっぷりと注がれたぐい呑みを溢さないように持ち上げると静かに乾杯した。
「あー美味しい。」
瑠香はぐい呑みに口をつけると、唇を舐めながらテーブルの上に並んだ総菜に箸を伸ばした。
「うん、美味しい。人間っていつもこんな美味しいものを食べているんですね。」
箸が止まった。今の瑠香の言葉は先程の俺の想像を裏付けている。
「瑠香さん、いつも仕事でこっそりアドバイスをくれるのは瑠香さんなんだよね?」
すると総菜を頬張っている瑠香がにっこりと笑った。
「そうですよ。」
「なぜ?」
「私はあなたの為に存在しているの。そしてその私を大切に、いつも身につけていてくれるから、かな。」
瑠香は自分が紙人形であると言っているのだ。
しかし横に座っている瑠香はどう見ても実体のある人間だ。髪の毛を後ろで束ね、化粧っ気のないやや丸顔の可愛い顔はお酒を飲んでいるのが不自然なほど幼く感じる。
にわかには信じがたいが、会社でのことを含め、今の状況はそれ以外に説明がつかない。
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それでも疑問は次から次へと湧いてくる。
「瑠香さんは何処から来たの?何故俺のところに来たの?」
しかしその問いにはにこにこと悪戯っぽく笑うだけで返事をせず、ちらちらと俺の顔を見ながらどこか嬉しそうに箸を運んでいる。
返事をしないということは答えたくないのだろう。
「財布の中に入れてから二か月も姿を見せなかったのに、何で今日になって急に俺の前に現れたの?」
すると瑠香はぐい呑みに手酌で酒を継ぎ足しながらニヤッと笑って俺の顔を見た。
「夏樹さまが浮気をしようとしたから。」
浮気?何のことだ?
そこで先程の別れた彼女の顔が浮かんだ。しかし浮気というのはちゃんとした奥さんなり彼女がいる場合に使う言葉だし、今日は彼女と何があったわけでもない。
「浮気って何のこと?」
「また、しらばっくれて。」
瑠香は俺の方を向くと顔を突き出してきた。
「あの女の人がまた付き合いたいって言った時、夏樹さまはそうしようかなって思ったでしょう?」
確かにそう思った。しかし口には出さなかった。
瑠香は俺の心の中が読めるというのか。
「何となく解るんです。それでだめよって夏樹さまのことをちょっとつねったの。」
あれは瑠香の仕業だったのか。しかしあれはちょっとつねったというような痛みではなかった。
しかしあの時痛みの原因として一瞬紙人形のことを考えたのは正しかったのだ。
いや、正しいというよりも今思えば瑠香がそうさせたのかもしれない。
「夏樹さまはもう私のものなの。浮気は許さないからそのつもりでいて下さいね。」
俺の意思は完全に無視され、それはあたかも決定事項であるように瑠香はそう宣言したが、当然そのような言い方をされれば心の中にそれに反抗する気持ちがじわっと湧いてくる。
もちろん目の前の瑠香は可愛いし、今の発言を除けばいま初めて会ったにしては非常に好感度が高いのは事実なのだが、彼女は人間ではないのだ。
目の前でにこにことお酒を飲んでいる、人間ではない彼女に自分のものだと言われたことをどう解釈すればいいのか。
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「“私のもの”ってどういうこと?」
考えても仕方がない。素直に聞いてみた。
「幸せな未来を夏樹さまと一緒に作っていくことが私の役目なの。でもそれは私でなければいけないの。他の女の人と幸せになったら私の居場所がなくなっちゃうでしょう?」
「瑠香さんと結婚するっていうこと?」
すると瑠香は妖しげな笑みを浮かべた。
「そうじゃないの。私は人間じゃないから”結婚”は出来ないけど、ずっと一緒にいるわ。それが夏樹さまの幸せなんだし、いつの日か私を自由に操れる日が来るのよ。」
そもそも一般常識から掛け離れた出来事であり、少なくとも瑠香は俺が幸せになることを望んでおり、実際紙人形を手に入れてからの状況を考えると、それで良いではないかという気がしてきた。
もちろんもしここで瑠香のことを否定するとすべて元に戻ってしまうという恐れを感じたのは間違いない。
そして時間が経てば今度は俺が瑠香を思うがままに出来ると言っているのだ。
俺は瑠香の言葉に対し、肯定も否定もせずに笑みだけを返した。
瑠香は当然それを肯定と受け取ったのだろう、嬉しそうにぐい呑みを口に運んでいる。
俺は気になることが多すぎてあまり飲んでいないのだが、瑠香はかなりのペースで飲み続けており、もう頬がかなり赤い。
「あー美味しい。ねえ、夏樹さまももっと飲んでください。」
瑠香はそう言って酒瓶を手に取ると俺のぐい呑みになみなみと継ぎ足し、俺の手を取って両手で包み込む様にしてぐい呑みを握らせるとそのまま俺の口へと運んだ。その手は暖かく、普通の人間と変わるところはない。
「瑠香さん、その“夏樹さま”っていう呼び方はやめてくれない?何だか居心地が悪くって。呼び捨てとか、”くん”付けでいいから。」
この妙に丁重な呼び方と馴れ馴れしい言葉が混在していることに最初から違和感があったのだ。これからずっと一緒にいるというのならもう少し馴染める呼び方にして欲しい。
「えっ、でも夏樹さまを呼び捨てにするなんて私の立場ではとてもできません。」
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私の立場?
どういう意味なのだろうか。そのまま解釈すれば、瑠香は俺を”さま”付けで呼ばなければならない立場だということになる。
それはこれから居候させて貰うということなのだろうか。
とにかく不快な”さま”付けは止めて貰えそうもないからあまり深く考えるのは止そう。そのうち慣れる。
とにかく今日の登場の仕方や、人間であるかないかは別にして目の前にいる瑠香は可愛いのだ。
そしてずっと傍にいてくれるということであれば目下恋人のいない俺としては文句ない。
「瑠香さんは何でそんな巫女さんみたいな恰好をしているの?」
今日初めて顔を合わせ、特に共通の話題はないのだが、総菜やお酒の話、このアパートのことなどでそれなりに会話は盛り上がり、酒もかなり進んだところで最初から疑問に思っていたことを口にした。
「だってこれしかないんですもの。」
そもそも彼女は紙人形なのだと考えれば、着替えを何種類も持っているはずはないし、人間のようなお洒落という感覚がないのかもしれない。それはなぜ巫女装束なのかという問いの答えにはなっていないが、彼女は何かしら神懸った存在ということなのだろうか。
「この白の着物と緋袴以外は持っていないから、寝る時は生まれたまんまの格好なの。」
つまり下着も持っていないということであり、この巫女装束の下は何も身につけていないということだ。
想像するとちょっとドキドキするが、寒くはないのだろうか。
それまでは服の下のことなど意識していなかったのだが、言われてしまうと気になってしまう。
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しかし瑠香は、そんなことは当たり前のことだというように特に気にしていない様子で相変わらずぐい呑みを口に運んでいる。
「夏樹さま、これからも私のこと、大事にしてくださいね。」
何を思ったのか、突然瑠香はそう言って小首をかしげ俺のことを見つめた。
その様子がとても可愛く、俺は酒の勢いもあって思わず瑠香のことを抱きしめた・・・はずだった。
一瞬瑠香に触れた両腕は空を切り、思わず体が前のめりになった。
そして視界の隅にひらひらとカウチの上に舞い落ちる白い紙が見えた。
何が起こったのかすぐに理解した。瑠香が紙人形に戻ってしまったのだ。
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「瑠香さん?」
カウチに落ちている紙人形に向かって声を掛けて見たが返事はない。
指先でつまんで持ち上げてみると、一瞬紙人形がふるふると震えたような気がしたが、それが紙人形だったのか自分の手が震えたのかよく解らない。
部屋の中を見回してみたが、もちろん瑠香の姿があるわけがない。彼女が自分だと言った紙人形は俺の手にあるのだ。
紙人形をテーブルの上に置き、瑠香の顔を思い浮かべながらしばらく眺めていたが、紙人形は瑠香の姿に戻ることなく微動だにせず、俺はカウチに座ったままいつの間にか寝落ちしてしまっていた。
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◇◇◇◇
仕事をしていても瑠香のことが頭から離れない。
しかし今日は何故か朝からずっと瑠香の声が聞こえないのだ。
どうしたのだろう。何か怒らせるようなことをしたのだろうか。
瑠香は最後に自分のことを大事にしてくれと言っていた。
とても怒っているようには見えなかったのだが、そうするとあの時抱きしめようとしたのがいけなかったのだろうか。
手を触れると紙人形に戻ってしまうのか?
いや、ぐい呑みに添えた手に触れた時には何も起こらなかったではないか。そうすると時間だろうか。シンデレラみたいにある時間になると魔法が切れてしまうのか。
昨夜は何時に瑠香が紙人形に戻ってしまったのかまったく記憶にない。十一時は過ぎていたと思うのだが。
そんなことをぼっと考えているうちに何もしないまま勤務時間が終わり、帰宅の途についた。
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家に帰り着くと鍵は掛かっているのに部屋の照明がついていた。ひょっとしたらと思い部屋に駆け込むと、案の定、瑠香がカウチに座ってこちらを見ていた。テーブルには瑠香が作ったのだろう、料理が何品か並んでいる。
「ただいま。」
瑠香の顔を見て思わず笑みがこぼれたのだが、瑠香は頬を膨らませてこちらを睨んでいる。どうやら怒っているようだ。やはり昨夜は何か気に障るようなことをしてしまったのだろうか。
「今日、私のことを置いて行った!」
一瞬何のことかと思ったが、すぐに気がついた。
昨夜、テーブルの上に置いて眺めていた紙人形をそのまま忘れて会社に出てしまった。
それで今日は一日中瑠香の声を聞くことがなかったのだ。
「今日一日部屋の中で寂しかったんだからね。」
口では怒っているようでも、こうやって瑠香の姿で夕食を作り俺の帰宅を待っていてくれたということは、心底怒っているわけではなさそうだ。
俺はカバンを置いて上着を脱ぐと瑠香の隣に座った。
「ごめんね。夕べ瑠香さんがいきなり紙人形に戻っちゃったから、何か怒らせるようなことをしたかなってテーブルの上に置いてずっと考えていたら、そのまま置き忘れて会社に出かけちゃった。」
「まあいいわ。もう忘れずに必ず傍に置いておいてね。」
瑠香はそう言うと笑顔に戻り、俺の目の前に日本酒の瓶を突き出した。
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「ねえ、夕べは何故急に紙人形に戻っちゃったの?」
頬を赤くして楽しそうにぐい呑みを傾けている瑠香に聞いてみた。
「解りませんか?昨日私が紙人形に戻った時のことをよく思い出してください。そうすれば解ります。」
あの時?私のことを大事にしてくれと言った瑠香が可愛くて、思わず抱きしめようとした途端に瑠香は紙人形に戻ってしまった。
ひょっとするとそうなのか?
いや、そんな。
瑠香はそんな俺をにやにやと薄笑いを浮かべながら酒を口に運んでいる。
試しに瑠香の肩を指先で突いてみた。
何も起こらない。
瑠香は相変わらず俺の顔を見て微笑んでいる。単に体に触れると戻ってしまうと言う訳ではないようだ。
それでは夕べのように抱きしめようとすると紙人形に戻るのだろうか。
恐る恐る瑠香を抱き寄せて見る。
やはり何も起こらない。昨日と何が違うのだろうか。
しかしこうやって抱きしめてみるとやはりとても紙人形とは思えない。
柔らかい感触としっかりした質感、そして瑠香の匂い。うっとりした気分になり更に強く抱きしめた。
その瞬間に両腕が空を切った。
また紙人形に戻った瑠香がカウチの上にひらひらと舞い落ちた。
これは、ひょっとすると・・・
…
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◇◇◇◇
「そうですよ。夏樹さまが色欲を以って私に触れると戻っちゃうんです。」
翌日の夜も瑠香の姿で夕食の準備を終え、彼女がテーブルについたところで昨夜のことを確認してみると予想通りの答えだった。
瑠香はさらっとそう返事をしたが、俺は腹が立った。
瑠香は俺を幸せにするから浮気は許さないと言った。
しかし瑠香に対し性的な欲求を以って触れることは許されないのだ。
食欲、睡眠欲、性欲は人間、いや生物の三大欲求であり、それが満たされない限り幸せにはなれない、愛はなくてはならないものだし、愛と色欲は切り離せないと俺は瑠香に文句を言った。
「いいえ、愛情と色欲は別物です。例えば男性が抱く母親に対する愛情、姉妹に対する愛情、娘に対する愛情はたとえ異性に対してであっても色欲とは異なるものですよね?
でもそこに幸せを感じることが出来る。そこに色欲を持ち込むような人間はそもそも煩悩に支配された、まともな人間とは呼べない生き物です。」
「そこは解る。でも家族、肉親に対する愛情と、自分の子孫を残すために伴侶を求める気持ちは別物だよ。」
「そこです。夏樹さまは色欲、煩悩を乗り越え、全ての人達に対して家族に対するような愛情を持てるようになることが大事なんです。」
「わからん。何でそんな必要があるんだ?俺はちゃんと自分のパートナーを見つけて、イチャイチャしながら子供も作って人生を楽しく過ごすほうがいい。」
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「いいえ、夏樹さま、あなたは陰陽師の末裔なのです。私達式神はあなたの何十代も前の、所謂ご先祖に当たる陰陽師、賀茂文忠さまに仕えていました。
そして文忠さまは620年後の皇紀2654年に生を受ける男子がこの世を変えるほどの力を持って生まれてくる、その力になってやれと私を祠に封印し、やっと時が来て解き放たれこうして夏樹さまのところにやってきたのです。」
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陰陽師?式神?
620年前?西暦1380年頃は室町時代の初めだったっけ。
陰陽師って安倍晴明くらいしか知らないし、彼は確か平安時代の人ではなかったか?
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「安倍晴明さまは、賀茂文忠さまの先祖である賀茂忠行さまの弟子になります。
賀茂忠行さまや安倍晴明さまの時代は朝廷の官職であったため後世の人々にも名が残っているようですが、その後は官職としてではなく各武将たちのお抱えになって卜占(ぼくぜん)などを行ってきたのです。
文忠さまが未来を案じて私を祠に封印した後も、文忠さまの子孫たちは陰陽師というよりも呪術師として生きてきましたが、乱世の世が終わり、それが生業として成り立たなくなって次第に廃れていきました。
しかし、そもそも陰陽師は、その任務にあたるために日本全国から選りすぐられた人達に対し、さらにその能力を高めるための訓練を受けた特殊な人達で、忠行さまはその中でも神と同格扱いされるほどの高い能力を持っていました。
そして文忠さまを含めてその血を受け継いだ子孫達は皆とても高い基本的な能力を持っているのです。」
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「俺がその末裔だと?」
思い当たることはある。
俺の母親、そして妹は異常なほど霊感が強いのだ。祖母もそうだったと聞いている。
しかし俺自身はそのような経験はなく、基本的に女系で受け継がれる能力であり、俺には関係がないとずっと思ってきた。
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そしてそのような霊感に限らずこれまでの人生を振り返っても他人より長けた能力を持っていると思ったことは一度もない。
「夏樹さまは自覚していなくとも、内に秘めた高い能力があるのです。それに導かれて私はここに来ました。夏樹さまのその秘めた能力を高めてこの時代の陰陽師になって頂くのが私の役割です。」
「え~~~~~っ! 絶対ヤダ!!」
「ダメです!」
「今の時代は職業選択の自由という憲法があるんだぞ!」
「いいえ、夏樹さまにその自由はありません!そんな憲法ができる600年以上前から決まっているのですから法は適用されません。観念してください。」
「え~ん。」
「泣きまねしてもダメです!」
「じゃあ、瑠香さんがエッチしてくれたら観念する。」
「ダメです。触れた途端に紙人形に戻ってしまうって分かっているでしょう。」
「・・・」
その末裔だから何なのだ。
この世の中を変えるほどの力を持っていると何か良いことがあるのか?
そもそも大事な煩悩を捨ててまで陰陽師になって、この世を変えなければいけない理由ってなんだ?
俺は子供の頃から戦隊ヒーロー物は嫌いで、ちびまる子ちゃんが好きだったんだ。
「理解して頂けましたか?私が精一杯お手伝いさせて頂きます。」
理解できるか!
俺は瑠香に抱きついた。胸一杯に煩悩を抱えて。
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「えっ?夏樹さま?」
瑠香は一瞬にして紙人形に戻ってしまった。
俺はため息ひとつ吐くと、ひらひらと床に落ちた紙人形を指先でつまみ上げた。
「ごめんね、瑠香さん。」
俺はテーブルの上に置いてある卓上ライターを手に取ると、皿の上で紙人形に火をつけた。
紙人形は一瞬ふるふると震えたかと思うとあっという間に燃え尽き、黒い灰になって粉々に崩れた。
「陰陽師がその時代に真の平和をもたらしたのかどうか。もう少し勉強した方が良かったね。」
俺は灰になった瑠香さんにそう語りかけた。
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これでまたあの暗い生活に戻るのかと思うとちょっと憂鬱になったがそれも仕方がない。
明日から気持ちだけでも前向きに頑張ろう。
瑠香さんの言う通りなら、俺には内に秘めた力があるのだから。
それが表に出ることはなくとも。
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なんだかんだ言ったって、俺は瑠香さんの望むような陰陽師にならないことで世界平和を守ったのだから。
…
…
たぶん。
…
◇◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
調子に乗ってちょっと長くなってしまいました。
私的な話ですが、今ネトフリの”ウェンズデー”にはまってます。
全八話の六話まで見終わったところですが、自分もあんなしっかりとしたミステリー+ホラー+恋物語みたいなストーリーを書いてみたい。