俺、岩崎佑二は会社の転勤で三か月前に茅ケ崎へ引っ越したのだが、そこで行きつけとなった小料理屋『しずく』の女将、静香さんの姉である瑞穂さんの霊に取り憑かれる。
しかし何故瑞穂さんが、この地に引っ越してきたばかりで無関係のはずの俺に絡んでくるのか、その理由が解らない為、どう対処すべきなのか見当がつかないのだ。
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◇◇◇◇
結局、美紀ちゃんの思惑通りに『しずく』の定休日にあたる翌週の火曜日、俺は休暇を取って静香さんの実家の掃除に参加することにした。
別にお金に釣られたわけではなく、静香さんと美紀ちゃんのふたりと一緒に一日を過ごすことが楽しそうに思えたのと、やはり瑞穂さんが消えたあの家の中に入ってみたいという好奇心もあったのだ。
場所がわからないという美紀ちゃんと途中で待ち合わせ、集合時間の午前十時にその家に行くと静香さんはもう家に来ており、タンクトップにホットパンツという色っぽい姿で、閉め切りになっていた雨戸をあけていた。
「おはよう、今日も暑くなりそうね。」
俺と美紀ちゃんが門から入ってくるのに気がついた静香さんが、明るく声を掛けてきた。
「おはようございます!静香さん、涼しそうな格好でいいな。私もそうすればよかった。」
Tシャツにデニムパンツ姿の美紀ちゃんがそう言うと、静香さんはにこにこしながら腰に手を当ててポーズを取った。
「じゃあ、私と美紀ちゃんで家の中を掃除するから、佑二くんは午前中の涼しい間にお庭の草取りをお願いね。」
「はいよ。」
静香さんの言葉に従い、俺は家の中に入らず、門から直接庭へまわった。
たったいま、静香さんが雨戸をあけていた掃き出しの窓から家の中を覗くと、そこは居間になっておりその奥がダイニングキッチンのようだ。
「静香さん、電気や水道は使えるんですか?」 「大丈夫よ。」
何処にいるのか分からないが、家の中から静香さんと美紀ちゃんの会話が聞こえる。
「さて、それじゃあ頑張りますか。」
家自体が四十~五十坪程度のそれほど大きくない住宅で、庭もそれほど広くない。
これなら草取りは、庭だけでなく家の外周も含めて午前中には終わるだろう。
軍手をはめて早速作業に取り掛かった。
「佑二くん、大丈夫?暑くない?」
しばらくすると、庭に面した居間の掃除に取り掛かった静香さんが声を掛けてきた。
「ええ、大丈夫ですよ。この分だと草取りは午前中に終わりますね。」
「じゃあ、ひと段落ついたらお昼ご飯を食べにいきましょう。」
静香さんはそう言うとバケツを持って居間の床を雑巾で拭き始めた。
ほぼ庭を終えたところで、居間に目をやるとホットパンツ姿のお尻が左右に揺れているのが見える。
まだ床の拭き掃除をしているようだ。
ふとその向こうのダイニングキッチンに置かれたテーブルの向こうに水色のワンピース、そう、瑞穂さんが立っているような気がした。
目の焦点は静香さんのお尻に合っており、あれっ?と思いダイニングテーブルへ視線を移すとそこには誰もいなかった。
気のせいだったのだろうか。しかし瑞穂さんの幽霊がここにいても何の不思議もない。
俺はそのまま家の横に回り、外周の草むしりに取り掛かった。
草をむしりながら家の横から裏手へと回ると、風呂場の位置になるのだろうか、開いている小窓から若干エコーが掛かった鼻歌が聞こえる。
「美紀ちゃん?今は風呂場の掃除?」
声を掛けてみると鼻歌が止まり、小窓から美紀ちゃんが顔を出した。
「佑二さん、もう家の裏まで終わって・・・えっ?」
窓から顔を出した美紀ちゃんの笑顔が一瞬にして強張った。
「どうしたの?」
俺の問いかけに美紀ちゃんは俺を指差した。
「今、佑二さんのすぐ後ろに瑞穂さんが立っていたの。すぐに消えちゃったけど。」
後ろを振り返ってみたがもちろん誰もいない。
「まあ、こうなると、ここにいないって思う方が不自然かもね。さあ、さっさとやらないと今日中に終わらないよ。」
「は~い」
美紀ちゃんの頭が引っ込み、タワシで擦る音が聞こえ始めたが、鼻歌は聞こえてこない。やはり恐怖感があるのだろう。
俺もとりあえず草むしりを再開した。
するとそれから十分ほど経った時、いきなり背中にずしっと重みを感じ、思わず前につんのめりそうになったが辛うじて持ち堪えた。
すかさず後ろから腕が首に巻き付けられ、右肩の首の付け根辺りに顔が擦り付けられるのを感じた。
瑞穂さんだ。
なぜだろう。
最初に海岸の遊歩道で見かけた時からそうなのだが、彼女がこの世の存在ではないと判っても全く恐怖感を感じないのだ。
静香さんに似た優しい顔立ちのせいなのだろうか。
何より瑞穂さんからは攻撃的な気配がまるで感じられず、それどころか優しく包み込んでくれるような気配すら湛えている。
そこでふと悪戯心が湧きあがった。
このまま立ち上がれば瑞穂さんをおんぶすることができ、そのまま静香さんや美紀ちゃんのところへ連れて行くことが出来るのだろうか。
背中に手を回すと瑞穂さんのお尻に手が触れた。そのまま脚の付け根辺りに手を添えると一気に立ち上がった。
「?」
小さい。
お尻に添えた自分の腕の位置と肩に掛けられた瑞穂さんの腕の位置、そしてまだすりすりが続いている顔の位置からすると小学校低学年程度の子供をおんぶしているような感じだ。
瑞穂さんではないのだろうか。
「お姉ちゃん・・・えっ、お父さん?」
声がした方を振り向くと静香さんが家の角のところに立ってこちらを見ていた。
「えっ?静香さん?」
声を出した途端に背中がふっと軽くなった。
「あ、消えた・・・佑二くん、今の・・・」
「何でした?急に背中におぶさってきたので誰だか全く分からなかったんです。何だか、小学生くらいの子供のような・・・」
「うん、子供の頃のお姉ちゃんだった。そのせいかな、一瞬佑二くんがお父さんに見えちゃった。」
その声が聞こえたのだろう、美紀ちゃんも窓から顔を出している。
「佑二さん、瑞穂さんに相当気にいられちゃったみたいね。」
美紀ちゃんの本気とも冗談ともつかないセリフに静香さんも苦笑いをして同意した。
「そうね。でも本当に何で佑二くんなのかしら。さっぱり解らないわ。」
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*********
外回りの草むしりを終えたところで一旦作業を中断し、三人で近所の蕎麦屋に出かけて昼食を取った。
券売機で食券を購入し席に着くと、水を持ってきた店員が不思議そうな顔をした。
「あれ?お客さん、四名様じゃなかったですか?」
確かに店員の持っているトレイの上には水の入ったコップが四つ乗っている。
俺達は顔を見合わせた。
「いいえ、残念だけど三人なのよ。」
静香さんが少しおどけたように返事をすると、店員は不思議そうに首をひねりながら食券を持っていった。
「瑞穂さんがついてきているのかな。」
美紀ちゃんが、静香さんと俺の顔を交互に見ながらそう言うと静香さんが頷いた。
「たぶんね。他に考えられないわ。でも本当に何で佑二くんなんだろう。六歳も年下で、生まれも違う。接点が見つからないわよね。」
「そうですね。瑞穂さんが亡くなった十四年前、俺はまだ高校生ですよね。高校一年の頃なんて、あ・・・」
突然何かが思考回路に引っ掛かった。しかしそれが何か判らない。
「どうしたの?」
いきなり言葉を途切った俺の顔を静香さんが怪訝そうな顔で覗き込んだ。
「いや、今、話をしていて、いきなり何かがふっと心の中に引っ掛かったんだけど、それが何か判らない・・・何だろう。」
「時々あるわよね。そんな風に記憶のどこかにちょっと引っ掛かっているんだけど思い出せないことって。」
美紀ちゃんがそう言って理解を示してくれたが、思い出せない本人はどうにも気持ちが悪い。
それでも美味しく蕎麦を食べて午後の作業を進めるべく家へと戻った。
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**************
そして門から家の中に入ろうとした時だった。
『二階堂』
先日も目にした表札に何気なく目が行った。
「これだ!」
思わず口から出た大きな声に、前を歩いていた静香さんと美紀ちゃんが何事かと振り返った。
思い出した。
そう、二階堂先生。
下の名前が瑞穂だったかどうかは記憶にない。
教育実習生として高校一年の春に二週間俺の通っていた高校に来ていたのだ。
あの時は肩よりも長いストレートのロングヘアで黒縁の眼鏡を掛けており、それで全く結びつかなかったのだ。
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◇◇◇◇
あの当時、自分で言うのも何だが俺はクラスの人気者だった。
入学した直後は上手く友達が作れるか不安になるものだが、俺自身はどちらかというとマイペースで一匹狼的な性格をしていたのであまり気にしていなかったのだが、ただイジメに関しては絶対に許さないという信念を持っていた。
中学時代にイジメにより不登校となり、精神的に病んでしまったクラスメートのことがあったからだ。
その不登校になった女子生徒と特に親しくしていたわけではなかったが、そもそも他人のことにはあまり干渉しない性格であったために、見て見ぬふりというよりも本当に無関心だった。
しかし彼女がそうなってしまってから、本当は自分にできることがあったのではないかという悔いが残ったのだ。
高校に入学してすぐにイジメの対象になった奴がいた。
俺はさりげなくそいつと虐める側の奴の間に立って丸く収め、そして同じことが立て続けにあって、俺はクラスの連中にクラス委員長へと担ぎ上げられた。
そして『二階堂先生』が教育実習に現れたのだ。
自分のクラスの担任の先生が彼女の実習担当教諭であり、うちのクラスへ頻繁に顔を出していたが小柄で顔立ちは可愛く、男子生徒に人気があった彼女は、地味で大人しい性格が災いして他のクラスも含めて女子生徒のイジメのターゲットにされてしまったのだ。
二階堂先生は男子生徒からの人気が高い分、女子生徒からの妬みも強かった。
俺はいろいろ調べ、どうやら自分の好きな男子が二階堂ファンになってしまった女子数人が先導しているところまで突き止め、他の二階堂ファンの男子生徒達や数少ない二階堂派の女子生徒と協力しながらイジメを潰し込んでいった。
教育実習という慣れない環境の中、自分では対処できず、彼女は頻繁に救いを求めるような怯えた眼差しを俺に向けていたのが思い出される。
そして実習の最終日に涙を浮かべて俺にありがとうと言った。
俺にしてみれば、イジメが許せない自分自身の気質と、クラス委員として当たり前の行動であり、特別なことをしたという意識があまりなかったので、どういたしましてと軽く受け流し、どちらかというと面倒な教育実習生がいなくなってほっとしたというような気分で、それっきり彼女のことは忘れていた。
しかしその彼女がその後まもなく心臓発作で亡くなっていたとは。
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◇◇◇◇
「お姉ちゃんは中学生の頃、イジメにあって一時期不登校になっていたことがあるの。」
家の掃除を終え、夕食がてら三人で茅ヶ崎駅前にある海鮮居酒屋に入っていた。
「たぶん、教育実習でイジメられた時にその恐怖が蘇ってきたのね。そして佑二くんが助けてくれた。お姉ちゃんにとって佑二くんは命の恩人くらいに思っていたんじゃないかな。」
「佑二さんは、瑞穂さんに呼ばれて茅ケ崎に引っ越してきたってこと?」
美紀ちゃんがそのような疑問を抱くのも当然だろう。俺もそうではないかと思った。
「そこはおそらく偶然だと思うな。あれから十四年経っているんだもの。もしお姉ちゃんが何らかの方法で佑二くんを呼び寄せるなら、十四年も待つ必要はないでしょう?」
静香さんは続けた。
「お姉ちゃんがどこで佑二くんの存在に気付いたのか分からないけれど、たぶん海岸の遊歩道で散歩する佑二くんを認識したんじゃないかしら。あの頃、教育実習の直後に付き合っていた彼氏に振られて、その時にバッサリと長かった髪を切ったの。だから佑二くんもお姉ちゃんだということに気がつかなかったのね。
たぶんお姉ちゃんは彼から貰った指輪を何らかの理由であそこに落としたんだわ。そしてそこに思いがずっと残り、その場に立ち尽くしたまま十四年もの時間が流れ、あの救世主だった佑二くんが再びお姉ちゃんの前に偶然現れたっていうことなのかな。」
静香さんの話が正解なのか分からないけど、一応つじつまは合っているようであり、おそらく当たらずとも遠からずと言ったところだろう。
「それで、俺はどうしたらいいんだろう。」
「佑二くん、あの指輪はまだ持っている?」
俺は捨てるわけにもいかずに財布の小銭入れにいれていたあの指輪を取りだした。
「この指輪に瑞穂さんの思いが憑いているということですか?」
「たぶんね。だって最初にお姉ちゃんの姿を見たのがその指輪が落ちていたところだったでしょう?それに佑二くんの手から美紀ちゃんに渡されるのを嫌がっていたみたいだし。だから明日はその指輪をお姉ちゃんが眠っている善福寺へ納めに行きましょう。」
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*********
よく考えればこの静香さんの話はしっくりこない。
指輪は瑞穂さんの恋人から贈られたものであり、これに瑞穂さんの思いが宿るのは解る。
しかし瑞穂さんが俺を慕う気持ちは、この指輪とは全く関係がないのではないだろうか。
果たしてお寺でこの指輪を供養してもらうことで解決するのだろうか。
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**********
その不安は的中した。
指輪を寺に預けたその夜、アパートの自室で夜中にふと目を覚ました。
照明は全て消してあるが、窓からカーテン越しに入ってくる街灯の灯りで、部屋の中は真っ暗というわけではなかった。
枕元に置いてあるデジタルの目覚し時計を見ると1:52と表示されていた。
(なんだ、まだこんな時間か。)
体をひねって横臥すると、もう一度寝直そうと目を閉じた。
(!?)
目を閉じようとした瞬間、目の前、ベッドの横に座っている女性の姿が目に入った。
驚いて再び目を開けるとその姿は何処にもない。
しかしその姿はブルーのブラウスにグレーのスーツ、そして黒のロングヘアに黒縁の眼鏡。
そう、教育実習の時の瑞穂さんの姿だった。
体を起こしてもう一度部屋の中を見回してみたが、やはりその姿は何処にもない。
今日、寺に行き指輪を預け、彼女のお墓にもお参りして真剣に冥福を祈ったことで幻覚でも見たのだろうと思い、もう一度布団を被るとそのまま寝てしまった。
…
しかしそれは幻覚ではなかった。
その翌日、再び夜中に目が覚めて時計を見ると1:52。
昨日と全く同じ時間だなと思い、横を見ると昨夜見た瑞穂さんが同じ姿でベッドの横に座っている。
そして今夜は消えることなく微笑んだままじっと俺のことを見つめているのだ。
慌てて起き上がろうとしたが、体が全く動かない。これが金縛りという状態なのか。
瑞穂さんに話し掛けようと試みても声も出ないのだ。
そのままの状態でどのくらいの時間、瑞穂さんと黙って見つめ合っていたのだろうか。
それまでうっすらと笑みを浮かべて俺の顔を見つめていた瑞穂さんがいきなりにっこりと笑うとそのまますっと消えてしまった。
その途端に体がすっと軽くなり、自由に動くようになった。体を起こして部屋を見回すが、昨日と同じように誰もいない。
時計に目をやると2:28。40分近く見つめ合っていたようだ。
「弱ったな、本当に憑かれちゃったかな。」
しかし面倒だと思うだけでやはり恐怖心は湧いてこない。仕事のことを考え布団に潜り込むとすぐに眠りに落ちた。
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◇◇◇◇
「ええっ、本当に?あの指輪じゃなくて、佑二くんのところに憑いていっちゃったの?」
『しずく』のカウンターに座り、あれ以来連日現れる瑞穂さんの幽霊のことを静香さんと美紀ちゃんに話すとふたりは本当に驚いたようだ。
「毎日同じ位置にただ座っているだけなの?話しかけてきたり、徐々に近づいてきて気がついたら裸でベッドの中とかってことはない?」
美紀ちゃんがどこか楽しんでいるような口調で聞いてきたが、瑞穂さんは毎日全く同じ位置で微笑んでいるだけなのだ。
それにベッドの中と言われても、ずっと金縛りの状態であるため、彼女に実体があるのかどうかさえ定かではない。
「ねえ、佑二くん、一度泊まりに行ってもいいかな。お姉ちゃんと話をしてみたいの。」
俺の話を聞いて何か考えているようにしばらく黙っていた静香さんが、突然真剣な顔をして他のお客さんに聞こえないよう小さな声で俺に言った。
「ええっ?静香さんが佑二さんのところに泊るの?私も行きたい!」
美紀ちゃんがすぐに反応したが、それに対し静香さんはちょっと首を傾げた。
「じゃあ一緒に、と言いたいところだけど、この前砂浜で夢を見た時に美紀ちゃんは邪魔だってお姉ちゃんが言っていたんでしょう?一緒に来て大丈夫かしら。」
「う~ん、じゃあ、静香さんを佑二さんのアパートに残して、佑二さんは私のアパートに来るってことでどう?」
「何言っているの。佑二くんがいないとお姉ちゃんは現れないでしょ。佑二くんの部屋の地縛霊じゃないんだから。」
結局その夜、店を閉めた後に静香さんが俺のアパートへ来ることになった。
その時間に来るのならおそらく泊まりだろう。
心の中では多少ドキドキする気持ちはあるが、きっちりした性格の静香さんだからおかしなことにはならないはずだ。
それで結果、瑞穂さんの幽霊が現れなくなってくれれば充分なのだ。
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***********
先に店からアパートへ帰り部屋で待っていると、静香さんは午前1時半過ぎに大きなバッグを抱えて顔を出した。
「お姉ちゃんに会った後は、すぐに寝られるようシャワーを浴びていたら遅くなっちゃった。ごめんね。」
「いえ、瑞穂さんが現れるのは、1:52ですから、まだ大丈夫ですよ。」
静香さんは部屋に入ってくるとすぐに浴室で、薄いピンクのスウェットに着替えて居間に戻ってきた。
俺の部屋は1DKの間取りで、八畳ほどの居間の奥にはベッドが置かれ、手前には三人掛けのカウチとテーブル、そしてテレビが置かれている。
「へえ、素敵な部屋ね。佑二くんがベッドで寝ていると、そこの床に座っているのよね。じゃあ佑二くんはいつものようにベッドに寝てお姉ちゃんが現れるのを待って。私はこっちのカウチでお姉ちゃんを待つわ。」
カウチだと瑞穂さんがベッドの横に現れた時、ベッドを向いている彼女の視界に静香さんは入らない。
おそらく静香さんがいることで瑞穂さんが現れなくなる可能性を少しでも排除したかったのだろう。
時計を見ると現れる時間まであと十分程だ。
静香さんが膝を抱えてカウチに座ったのを見計らい電気を消すと、いつもと同じようにベッドに潜り込んで横になった。
暗い中でじっとしているだけの十分間は非常に長い。こんな時間であり、油断するとそのまま眠りに落ちてしまいそうだ。
いつもは零時前後にベッドへ入り、この時間にふっと目が覚めるのだが、今眠りに落ちて数分後に目が覚めるのだろうか。
カーテン越しに窓から差し込む薄明りの中、数メートル向こうで静香さんがカウチの上で膝を抱えてじっとこちらを見ている。
もう間もなく瑞穂さんが現れる時間だ。
襲い来る睡魔にふっと一瞬意識が飛んだ。椅子に座っていれば”舟を漕ぐ”という状態だったのだろう。
気がつくと目の前にはいつものように瑞穂さんがベッドの横に座っていた。
(来た。)
いつものように瑞穂さんと見つめ合った状態のまま体は動かないのだが、その向こうには驚いた表情でこちらを見ている静香さんが見える。
「お姉ちゃん」
静香さんが小さく発した声に反応して、瑞穂さんがゆっくりと静香さんの方を振り返った。
俺から瑞穂さんの表情は見えないが、静香さんがうっすらと微笑んでいる様子からすると、きっと穏やかな表情で妹のことを見ているのだろう。
そして瑞穂さんは周囲の空気に滲むようにじわっと消えてしまった。
(??)
体が動かない。
いつもなら瑞穂さんが消えるとすぐに解けるはずである金縛りがまだ続いており、体は横臥した状態のまま全く動かない。
一体どうなっているのかと横を見ていた視線を正面に戻すと、すぐ目の前に静香さんの顔があった。
瑞穂さんが消えた時はカウチに座っていたはずだ。
一瞬にしてここまで移動したのだろうか。
驚きはしたものの静香さんである以上恐怖感はない。間近に酔ってきた静香さんの匂いが漂ってくる。
「佑二さん」
その声は静香さんの声ではなく、昔懐かしい二階堂先生の声だった。
高校時代、クラスに同じ岩崎姓の生徒がいたため、クラスメートだけでなく、先生達も俺のことを名前で呼んでいた。
それに静香さんは俺のことを”くん”付けで呼んでいる。
えっ、と思い、薄暗い中で静香さんの顔をもう一度よく見ると、黒いロングヘアの瑞穂さんの顔だった。
しかし身に纏っているのは薄いピンクのスウェットだ。
「佑二さん、逢いたかった。」
そう言って瑞穂さんはベッドで動けない俺の横に体を横たえた。
「あの教育実習の後、辛いことがあるたびに佑二さんの事を思い出していたの。また助けに来てくれないかって。」
そして俺の首に腕を回し抱きついてくると、俺の耳元でこれまでにあった辛い思い出を呟くように俺の耳元で語り始めた。
俺は夢うつつの中で瑞穂さんの話をぼんやりと聞いていた。
はっきり言って俺には全く関係のない話なのだが、まるで甘えて抱きついてくる娘から学校であった出来事を聞いている父親のような気分と言えばいいのだろうか。
非常に愛おしい気分でその言葉を聞いていた。
そして彼女は、恋人に振られ自宅で心臓発作を起こして息を引き取る時、そうそれが午前1時52分、走馬灯のように自分の人生が頭を駆け巡ったその最後に俺の顔が思い浮かんだと言って涙を溢した。
いつの間に金縛りが解けていたのだろうか。
俺は瑞穂さんの頭を胸に優しく抱きかかえ、後頭部を撫でながらも何を話せばよいのか分からず、いつの間にか眠りに落ちていた。
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◇◇◇◇
目が覚めると部屋はすっかり明るくなっていた。
腕の中では、ショートヘアの静香さんがすやすやと寝息を立てている。
夕べは瑞穂さんを抱きしめて眠りに落ちたはずが、朝になって静香さんに代わっているということは、瑞穂さんが静香さんに憑依していたということなのだろう。
いつの間にか静香さんも目を開けて俺の顔を見ていた。
「私、いつの間に佑二くんのベッドに入ったのかしら。」
静香さんは瑞穂さんがすっと消えた後のことは憶えていないと言った。
俺は何となく静香さんを抱きしめたまま、夕べあったことを話した。
「なるほどね。佑二くんはお姉ちゃんの心の拠り所だったわけだ。それで夕べはお姉ちゃんとエッチしたの?」
「してないよ。取り憑かれていても自分の体なんだからそのくらいわかるでしょう?」
「あら、大人の男女がこうやってベッドで抱き合っていれば、あったと思う方が自然よ?」
静香さんはそう言ってにっこりと笑うと、力いっぱい抱きついてきた。
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◇◇◇◇
俺は静香さんが瑞穂さんの幽霊を説得して俺のところに来ないようにしてくれることを期待していたのだが、結果はそうならなかった。
あの日を境に俺と静香さんはすっかり親密な関係になり、程なく俺は静香さんの家に転がり込んだ。
美紀ちゃんは口を尖らせて不平を言いながらも、俺達のことを認めてくれている。
そして静香さんは『しずく』の二階の自宅に小さな仏壇を構え、瑞穂さんの位牌を実家から持ってきた。
こうして俺と静香さん、そして瑞穂さんの不思議な共同生活が始まったのだ。
一般的には幽霊に取り憑かれると生気を吸い取られ、痩せ細って死んでいくというようなイメージがあるが、瑞穂さんに限って言えば、決してそのようなことはなく、守り神というか守護霊というべきか不思議な存在になっている。
静香さんと夜を共にしている時に、(あ、今日は瑞穂さんを相手にしているな)と思うことも良くある。
その次の朝は決まって静香さんはエッチしたことを憶えていないのだ。
そして俺と静香さんは籍を入れた。
静香さんの年齢的な事もあり、子供を持つことを決めるとすぐに茜と楓という可愛い双子の女の子を授かった。
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不思議なことに、それ以来、瑞穂さんは俺達の前に姿を見せなくなったのだ。
勿論、俺も静香さんも子供達は瑞穂さんの生まれ変わりだと信じている。
しかし茜と楓のどちらが瑞穂さんの生まれ変わりなのだろう。
半分ずつということが有り得るのか。
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でも、まあ、そのうち判る時が来る。
俺に顔をすりすりと擦り付けてくるのはどちらなのか。
…
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願わくはふたりとも・・・
…
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ふたりとも可愛い娘なのだ。
こっちが瑞穂さんの生まれ変わり、なんて考えたくないから。
…
◇◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
長々と失礼しました。
この辺りは一部NHKの『鎌倉殿・・・』の舞台にもなっていますし、箱根駅伝でも通過するところですね。
やはり自分のよく知っている場所だとイメージが作りやすい。
でも、くどいようですが、あくまでもフィクションです。