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長編19
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私の救世主【中編】

俺、岩崎佑二は会社の転勤で三か月前に茅ケ崎へ引っ越したのだが、そこで行きつけとなった小料理屋『しずく』や海岸の遊歩道で奇妙なワンピースの女性の幽霊に遭遇する。

小料理屋の女将、静香さんに良く似たこの女性は何者で、いったい何故、引っ越してきたばかりの俺に絡んでくるのだろうか・・・

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◇◇◇◇

それ以降は何事もなく七月も半ばを過ぎ、梅雨も明けて暑い日が続いていた。

「ねえ、佑二さん、明日の土曜日は仕事お休みでしょう?一緒に海へ行かない?」

いつものように散歩帰りに『しずく』へ寄り、静香さんとおしゃべりをしながら飲んでいると美紀ちゃんが声を掛けてきた。

梅雨が明けてから、夕涼みがてらの散歩の頻度も増え、それに比例して『しずく』で食事をする回数も増えている。

「あれ?美紀ちゃんは一緒に行ってくれる彼氏はいないの?」

「何よその言い方。すみませんね、いませんよ。」

もうすっかり静香さんや美紀ちゃんとも軽口を叩き合うくらいに馴染んでいる。

「いやいや、美紀ちゃんみたいな可愛い子に彼氏がいない訳がないって思っていただけ。」

「じゃあ、その可愛い美紀ちゃんと一緒に行ってくれる?ひとりで行くとへんてこりんな男がいっぱい寄ってきてうざいんだもん。」

今日はまだ時間が早く他に客がいないこともあって、美紀ちゃんのじゃれ合いもかなりくだけている。

「なんだ、俺は単なる虫よけか。でもいいよ、行こう。明日はビキニかな?」

「もちろん。ばっちり日焼けするつもりだもの。細い紐の奴よ。でも佑二さんは見るだけよ。触っちゃだめだからね。」

「ビキニに?」

「全部よ。」

「あら、昼間だけなら私も一緒に行こうかな。ばっちりビキニで。私は触ってもいいわよ。」

俺と美紀ちゃんの会話に仲間外れになった気分だったのだろうか、カウンターの中で仕込みをしていた静香さんも会話に割り込んできた。

「え~っ、静香さん、何それ。何考えているんですか。」

「嘘よ。佑二くんだってこんなおばさんのぶよぶよの体なんて触りたくもないわよね。残念だけど明日の昼間はお酒の問屋さんに行かなきゃいけないのよ。美紀ちゃんも佑二くんと砂浜デートはいいけどバイトに遅れないでね。」

「は~い。あ~びっくりした。でも静香さんのビキニ姿も見てみたいな。ぶよぶよなんてとんでもないわよね。きっとすらっとしてカッコいいんだろうな。服を着ていても判るわよ、ねえ、佑二さん?」

俺は何も言わずに笑って頷いた。

「あら、そんなお世辞を言っても何も出ないわよ。」

静香さんはどこか嬉しそうにそう言いながら俺の注文した料理を並べると、にこにこしながらグラスにビールを継ぎ足してくれた。

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◇◇◇◇

翌日、お昼前に美紀ちゃんとサザンビーチの交差点近くで待ち合わせたのだが、週末だけあってサザンビーチはかなり混みあっており、そこを避けて西浜に移動した。

泳ぐ気は殆どないため波打ち際から少し離れて人の少ないところを選ぶとレンタルのパラソルを立てレジャーシートを広げた。

「ねえ、佑二さん、サンオイル塗ってくれる?」

着ていた服を脱ぎ、水着姿になってレジャーシートの上に広げたバスタオルに寝そべると美紀ちゃんは日焼け用のオイルを差し出した。

「あれっ?昨日触っちゃダメだって言わなかったっけ?」

「何野暮なことを言っているの。エステみたいに首からつま先までムラなくたっぷり優しく塗ってね。」

「いや、俺、エステって行ったことないし・・・」

そう言いながらもサンオイルのボトルを受け取ると、うつ伏せになっている美紀ちゃんの背中にオイルを塗り始めた。

「うん、こうやってオイルを塗って貰うのって気持ちいい。」

美紀ちゃんのことは可愛いと思うし嫌いではないが、恋愛対象としてはあまり意識していない。

俺は一体何をやっているのだろうかと思いながらも、めったにない女の子の肌に触れる感触を楽しむように黙々と美紀ちゃんの体にオイルを塗っていた時だった。

背中を塗り終え、前も塗ってくれという美紀ちゃんの顔にタオルを乗せ、横に座って手を動かしていると、その視界の隅にサンダルを履いてブルーのマニキュアをした女性の足があることに気がついた。

誰かが俺達のすぐ傍に立っている。

「??」

誰だろうと顔を上げたが、目の前には誰もいない。周囲を見回してもそれらしい人の姿はなかった。

目の錯覚だったのだろうか。

「どうしたの?」

オイルを塗る手の動きがお腹の上で止まってしまっていたので、美紀ちゃんがどうしたのかとタオルをずらして頭を持ち上げた。

「いや、何でもない。いま、ふっと近くに誰かが立っているような気がしただけ。気のせいだね。」

そして再び手を動かし始めると美紀ちゃんは何も言わずに頭を元に戻した。

そして水着に覆われている部分と頭を除いてオイルを塗り終えると、美紀ちゃんはゆっくりと上体を起こした。

「ありがとう。気持ち良かった。寝ちゃいそうだったわ。じゃあ、お昼ご飯にしようね。」

俺は海の家で買って来て食べるつもりだったのだが、美紀ちゃんはお弁当を作って来てくれていた。

目の前にはおにぎりの他に空揚げや春巻きなどのおかずが詰まった弁当箱が並び、保冷バッグから缶ビールも出てきた。

「へえ、凄い。美味しそうだね。重かっただろう?ありがとう。」

「えへへ、頑張ったでしょう?さあ、食べよ。」

屋外でレジャーシートに座って弁当を食べるのは、小学校の運動会以来かもしれない。

ビールで乾杯した後、おいしそうな弁当に箸をつけると予想以上に美味しかった。

「んまい!美紀ちゃん、料理が上手なんだね。お店ではいつも給仕ばかりだから判らなかったよ。」

「うん。夜遅くに混んでいる時は静香さんを手伝うこともあるんだけど、佑二さんがいつも来る早めの時間帯は静香さんひとりで充分手が回るからいままで私が作ったことはなかったわよね。見直した?」

「うん。見直した。」

そしておしゃべりしながら飲んで食べていると美紀ちゃんがふと眉間に皺を寄せて話題を変えた。

「そういえばさっき、オイルを塗ってくれていた時に、誰かがいたような気がしたって言ったでしょう?」

「ああ、美紀ちゃんのお腹を見ていた視界の隅に女性の足が見えたような気がしたんだけど、顔を上げたら誰もいなかった。」

「実はあの時、私も誰かいるような気がしていたの。」

美紀ちゃんはあの時顔にタオルを掛けていたので全く見えなかったが、自分の頭の斜め上辺りに誰かが立っているような気配を感じていたのだそうだ。

しかし実際に誰かが立っていれば俺が何か反応を示すはずなのに何も言わないから気のせいなんだと思っていたら、いきなり俺の手が止まったからやっぱり誰かいたのかなと思ったと言うのだ。

「でも実際あの時は周りに誰もいなかったんだ。」

「でもふたり同時に何かを感じていたのよね。ねえ、佑二さんが幽霊を見たのはあっちだよね?」

美紀ちゃんはそう言って体をひねると国道の方向を指差した。そう言われてみると、いまパラソルを立てて座っているのは、あの位置から海岸に向かってそれほど離れていない場所になる。

「そうだね。ちょうどあの辺りかな。」

「じゃあ、その人が傍に来たのかな?」

「よせよ。この炎天下に幽霊なんて。それよりもお腹いっぱいで少し酔っ払ったから眠くなってきちゃった。少しお昼寝しない?」

「うん、私もお昼寝したい。」

レジャーシートの上に仰向けになると、先程の美紀ちゃんと同じように顔をタオルで覆って昼寝の体勢に入った。

すぐ隣に並んで美紀ちゃんも同じように横になり、そうするのが当然のように俺の手を握ってきた。

このままこの娘のペースで個人的に付き合うことになるのかな、などと考えながらもすぐにウトウトと微睡みに落ちていった。

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************

どのくらい時間が経ったのか、不意に俺の手を握っている美紀ちゃんの手に力が入ったのに気がついて目が覚めた。

顔にはまだタオルが掛かったままだ。

「佑二さん、近くに誰かいるよ。」

耳元で美紀ちゃんの囁く声が聞こえ、それを聞いて俺も周囲の気配に集中した。

すると、サクッ、サクッ、と砂を踏みしめる微かな音が頭のすぐ上で聞こえるではないか。

俺はすぐに荷物から財布などを盗み取る置き引きだと思い、即座に置き上がった。

しかし見回しても周りには誰もいない。

「今、誰かいたよね。足音が聞こえた。」

俺がそう言うと美紀ちゃんも頷いた。

「うん。砂の上を歩くような音が聞こえて、怖くなって佑二さんの手を握ったの。」

美紀ちゃんの手はまだ俺の手を握りしめたままであり、腕時計を見ると横になってから十五分程しか経っていない。

「せっかく気持ち良く眠りに落ちようとしたところだったのに。もう一度寝直そっと。」

痛いほどの太陽の光が降り注ぐ砂浜にいるせいか、俺は全く恐怖を感じていなかったが美紀ちゃんはそうではなかったようだ。

「ねえ、佑二さん、ちょっと怖いからくっついて寝ていい?」

正直、この炎天下でくっつかれても暑いのだが、断るのも可哀そうだ。

「いいよ。」

俺が頷いて横になると美紀ちゃんは俺の腕にしがみついて俺の肩に頬を当てて横になった。

「何だか気持ちいい。」

美紀ちゃんはそう呟くと目を瞑り、すぐに俺の耳元ですやすやと寝息を立て始めた。

俺もそのリズミカルな寝息を聞きながらすぐに後を追って眠りに落ちた。

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~~~~~

目の前にあのワンピースの女性が立っていた。

俺の右腕にしがみついて隣に立っている美紀ちゃんも同じように女性を見ている。

炎天下の砂浜にいるはずなのに、周りは暗闇で何も見えない。

しかしその女性の姿は何かに照らされているようにはっきりと見えているのだ。

「瑞穂さん?」

俺が静香さんから聞いた名前をそっと投げ掛けてみると、その女性は一瞬驚いたような表情を浮かべたがすぐににっこりと微笑んだ。

「佑二さん、私、あなたがここに来るのをずっと待っていたのよ。」

静かで穏やかな瑞穂さんの声が聞こえた。それを聞いて美紀ちゃんが顔を前に突き出して尋ねた。

「瑞穂さん、何故あなたが佑二さんを知っているの?」

すると瑞穂さんは美紀ちゃんの方を向き、無表情で答えた。

「静香と私は双子なの。私が好きな人を静香が好きになっても不思議はないわ。」

これは美紀ちゃんの問いに対する答えになっているのだろうか。

「だから、あなたは邪魔なの。どこかへ行ってくれる?」

瑞穂さんはそう言うと無表情のまま美紀ちゃんの腕を掴んだ。

「きゃっ!」

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~~~~~

腕を掴まれた美紀ちゃんが悲鳴を上げたところで目が覚めた。

右腕には相変わらず美紀ちゃんがしがみついているのだが、見ると彼女は目を開けて俺の顔を見ていた。

「佑二さん、ごめんね、起こしちゃった?ちょっと怖い夢を見ていて思わず声が出ちゃった。」

驚いたことに俺と美紀ちゃんは全く同じ夢を見ていた。

「夢を見ていたというよりも、瑞穂さんに見させられていたということか?」

俺の言葉に美紀ちゃんは神妙な顔をして頷いた。

「瑞穂さんの言葉をそのまま解釈すると、静香さんは佑二さんの事が好きなんだけど、双子だからその気持ちはそのまま瑞穂さんの気持ちで、それに惹かれて佑二さんの前に現れたっていうことなの?」

確かに夢の中で瑞穂さんが言ったことはそう受け取ることもできるが、でも何かが違うような気がする。

「そもそも静香さんが俺のことを好きだなんて考えにくいよな。」

「あら、そんなことわからないわよ。昨日だって佑二さんに触っていいとか言っていたし。」

「まあ、あれは美紀ちゃんが触らせないって言ったことに対する受け言葉だろうけど、さっき夢の中で瑞穂さんは俺がここに来るのを待っていたと言ったよね。あれはどういう意味なんだろう。」

ここ、というのはこの西浜を指して言っているのだろうか。

瑞穂さんは『しずく』の前にも姿を見せているのだから、俺に会いたいのであればここ、西浜で待たなくとも『しずく』の前で俺を待てばよいのではないか。

「それにお店の前のシャッターが閉まっているように見せたのも瑞穂さんだとすると、彼女は俺を店に入れないようにしたとしか思えないんだけど、それはどういうことなのかな。さっぱりわからない。」

「そうね。」

美紀ちゃんは俺の話にどこか上の空で、遊歩道の方をぼんやりと見つめながら気のない返事を返して来たが、不意に何かを思いついたようにそちらを指差した。

「ねえ、佑二さん、最初に瑞穂さんを見たのはあの辺りなんでしょう?その瑞穂さんが立っていた場所にちょっと行ってみない?彼女がそこに立っていた理由が何かあると思うんだけど。」

確かに実家で亡くなっていたという瑞穂さんがなぜこの西浜の遊歩道に突然現れたのか、その理由は全く解らない。

俺は美紀ちゃんと遊歩道へ行ってみることにした。

「どの辺だったの?」

やはり怖いのだろう、自分で行こうと言い出したのに美紀ちゃんは俺の腕にしがみついたままだ。

「えっと、向こうから歩いてきて・・・ここに立って向こうを見た時にあの辺りにいたんだ。うん、そうだ。ほらあそこにある竹の砂防柵の辺りだよ。」

遊歩道に並行して重なり合いながら並んでいる砂防柵の内、遊歩道に近い位置に立っている一枚の真ん中あたりに彼女は立っていた。

美紀ちゃんは絡めたままの俺の腕を引っ張るようにしてその場所へと近づいた。

「どの辺?この辺り?」

「えっとね、そこに生えているハマヒルガオの辺りかな。」

遊歩道と砂防柵の間でひと塊りになったハマヒルガオがピンクの花を咲かせている。

あの日は暗さゆえにこのハマヒルガオに気がつかなかったが、位置的にはちょうどその辺りに立っていた。

美紀ちゃんと並んでその花を見下ろすように立って足元や周辺を見回してみる。

「特に何もないわね。」

俺はもう一度あの時の位置に立ってみた。やはりこの位置から車道は見えない。

正確には遊歩道と車道の間の砂が盛り上がっており、国道を通過する車は屋根の部分しか見えず、ヘッドライトがこちらを照らすことなどありえないのだ。

あの時の光は一体何だったのか、そう思いながらもう一度足元に視線を落とした瞬間、ハマヒルガオのハート形をした葉の間に何かがキラッと光るのに気がついた。

何だろう。

しゃがんで葉を掻き分けると光るものが砂の中からほんの一部だけ顔を出している。

それを摘まみ上げてみるとそれは指輪だった。

特に大きな石が付いているわけではないが、ローズクォーツだろうか、直径2ミリほどのピンク色をした小さな石が5ミリほどの幅のシルバーリングの中央部分にぐるりと一周あしらわれている比較的シンプルな指輪だ。

内側を確認してみたが特に何の刻印もない。

「あら、指輪ね。ここに落ちていたの?」

美紀ちゃんは俺の手元を覗き込むと、手にしていた指輪を摘まみ取った。

「あっ!」

美紀ちゃんが指輪を指で摘まんだ途端、指輪は彼女の手から落ちてしまった。

俺にはその指輪が美紀ちゃんの指先で跳ねたように見えたのだが、それは指先の力加減でそう見えたのだろう。

慌てて落ちた砂の上を見てみたが、自重で砂に埋まってしまったのか、ハマヒルガオの葉陰に隠れてしまったのか、落ちたと思われる周辺をいくら探しても見つからない。

「どこ行っちゃったんだろう。」

結局その指輪は見つからなかった。

「どこかにコロコロって転がって行っちゃったのかな。」

美紀ちゃんが口を尖らせてそう言ったが、硬いアスファルトの上ならともかく、このサラサラの砂の上では考えにくい。

「まあ、そもそも俺達のものじゃないんだから気にすることはないよ。戻ろうか。」

指輪を諦めて元の場所へ戻ると、美紀ちゃんは再びレジャーシートに寝転んで俺に手招きをした。

「お店に出る前に一度アパートへ戻ってシャワーを浴びるにしても、まだあと一時間は大丈夫だからもう少しゴロンってしてようよ。」

その後は足音が聞こえることもなく、寝そべったまま美紀ちゃんと他愛もない話をして砂浜デートを終えた。

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***********

俺も一度自分のアパートへ戻り、シャワーを浴びるとポロシャツ、短パンに着替えて再び海岸へと戻った。

散歩が目的ではなく、やはり先ほどの足音や夢のことが気になり、もう一度あの場所へ行ってみようという気になったのだ。

まさに太陽が沈もうとしている砂浜を歩いて茅ケ崎漁港を通り過ぎ、西浜へと向かう。

そしてあのハマヒルガオの咲いていた場所へ到着したところで、ちょうど太陽が水平線に消えた。

周囲を見渡してみたが彼女の姿は何処にも見えない。

やはり徒労だったかと思いながら両手をズボンのポケットに突っ込んだ。

「ん?」

左手の指先に硬いものが触れた。一瞬コインかと思ったが、俺は小銭を直接ポケットに入れる習慣はない。

何だろうと思いながらポケットからの中でそれを摘まんだ瞬間にそれが指輪だと気がついた。

取り出してみると何と先程砂の上に落としてなくなったあの指輪だ。

「何でこの指輪が俺のポケットに入っているんだ?」

落とした時にポケットの中に飛び込んだのか。

いや、あの時は水着だったのだ。ありえない。

徐々に暗くなってくる中で指輪をつまんだ手を空にかざして首を傾げた時だった。

不意に後ろから誰かに抱きつかれた。

「えっ!誰?」

抱きつかれて前に回っている腕を見ると、周囲が薄暗いせいか異様に白く見え、その腕を遡った二の腕辺りには、あの水色のワンピースの袖が見えている。

「瑞穂さん?」

後ろから抱きついている人は俺の問いかけには答えずに、まるで眠たい子供がするように俺の背中に顔を押し付けて左右に擦り付けるように動かしてきた。

それは肩甲骨の辺りであり、そこから察するに身長は百五十センチくらいだろうか。背中には押し付けられた柔らかい胸のふくらみも感じる。

ゆっくりと繰り返し擦り付けるような動きが十秒ほど続いただろうか。

それが突然止んだ。

止んだのではない、抱きついていた腕も消えた。瑞穂さんが消えてしまったのだ。

俺はすぐに振り返ったが、そこには誰もいない遊歩道があるだけ。

そして薄闇に包まれた周りを見回しても、遠くに犬の散歩をしている人やカップルのシルエットが見えるだけでそれらしい姿はない。

「・・・なんなんだよ、いったい。」

そう思って帰ろうと前を向くと、なんと瑞穂さんがすぐ目の前に立っていた。

「うわっ!」

驚いて後ろに飛び下がろうとした俺よりも早く今度は前から俺に抱きついてきた。

そして今度は俺の胸元に顔を押し付けて先ほどと同じように左右に擦り付けるように動かし、またしばらくそれを繰り返してふっと再び消えてしまった。

「佑二さん・・・」

消えたと思った次の瞬間、今度は背後から声が聞こえ、振り向くと数メートル離れたところに瑞穂さんが立っていた。

「ついてきて・・・」

彼女はそう言うとくるりと向きを変え、俺に背を向けて滑るように歩き始めた。

このままついて行くべきか、ついて行っていいのか。

一瞬迷ったが、逆らってはいけないような気がして俺は瑞穂さんの後に従って歩き始めた。

そのまま国道を渡り、住宅街へと入って行く。

まだ日が暮れて間もない時間なのに、この周辺にはひと気がない。誰ともすれ違わないのだ。

そしてしばらく歩くと一軒の住宅の前に立ち、彼女はそのまま門の中へと消えていった。

いくらついてきてと言われても、他人の家へ勝手に入るわけにはいかない。

俺はどうしようか悩んだ末に思い切ってその家の呼び鈴を押した。

ピンポーン

建物の中から呼び鈴のなる音が聞こえる。呼び鈴のボタンの横には『二階堂』という表札が掛かっていた。

ピンポーン

二回目の呼び鈴を鳴らした時だった。

「あの、すみません・・・」

背後から不意に声を掛けられ驚いて振り返ると、そこには中年の女性が怪訝そうな顔で俺を見ていた。

「あの、その家は誰も住んでいませんよ。」

近い場所に街灯はなく、その建物の様子はよく分からないが、門の中をよく見ると雑草が生い茂っている。

「ああ、そうなんですか。じゃあ、間違えたんですね。ありがとうございます。」

俺はこの女性からあれこれ質問されると面倒なのでそそくさとその場から立ち去った。

その家のことは気になるものの、取り敢えずスマホのGPSで現在位置を確認すると駅の方向へ向かって戻って行った。

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*************

「あら佑二くん、今日はちょっと遅いお出ましね。美紀ちゃんとデートして疲れちゃった?」

瑞穂さんに連れて行かれた空き家を離れ、とにかく今日あったことを静香さんに話しておきたいと『しずく』へ顔を出すと、美紀ちゃんはまだ出勤しておらず、店にいたのは静香さんだけだった。

カウンターに座ると、美紀ちゃんはあと十分位で出勤してくるはずだと静香さんは言った。

美紀ちゃんが出勤してくるのを待っても良かったのだが、他のお客さんがいないうちにある程度話しておきたかったので俺は今日あったことをお昼前に美紀ちゃんと待ち合わせたところから話し始めた。

もちろんサンオイルを塗ったところなどは適当に誤魔化しながら、瑞穂さんと思われる気配がしたこと、美紀ちゃんと同じ夢を見たことなどを話した。

「瑞穂ちゃんの幽霊は、私が佑二くんを好きだ、みたいなことを言ったんだ。」

「“好きになっても不思議じゃない”っていう言い方でしたから、好きと言ったわけじゃないですし、実際そんなことはないですよね。」

「あら、判らないわよ。」

ちょうどそこへ美紀ちゃんが出勤してきた。

「あ、もう昼間の話をしているの?私が話そうと思っていたのに。で、どこまで話をしたの?」

美紀ちゃんは自分のバックを置いてエプロンをつけるとカウンターに近づいてきたが、いきなり俺の背中を指で突いた。

「佑二さん、背中どうしたの?何か赤い筋がいっぱいついているわよ。血じゃないわよね。」

「え、本当?」

すぐに先程の瑞穂さんが思い浮かんだ。

それならと自分の胸元を見るとここにも赤い筋が薄く何本もついている。

俺はふたりに海岸の遊歩道で落としてなくなったはずの指輪が突然ポケットに現れ、それと同時に現れた瑞穂さんに抱きつかれた話をした。

「この指輪が何で佑二さんのポケットに入っていたのかな。」

美紀ちゃんは俺がポケットから出して見せた指輪に手を伸ばした。

「あっ」

昼間と同じように美紀ちゃんが指で俺の手からその指輪を摘まもうとした瞬間、指輪は弾けるように床へと落ちた。

「佑二さん、わざとやってる?」

勿論俺がそんなことをする理由などない。

俺は苦笑いしながら首を横に振ると床に落ちた指輪を拾いカウンターに置いた。

「でも跡が残っているなんて思いもよらなかった。口紅かな。」

美紀ちゃんは俺のポロシャツのその部分を摘まんで匂いを嗅ぐと、跡の残っていない袖の部分の匂いを同じように嗅ぎ、そしてもう一度背中の部分の匂いを嗅いだ。

「何だかうっすらと柑橘系の化粧水か香水の匂いがするわ。」

美紀ちゃんはそう言って今度は俺の胸元に顔を近づけるとうんうんと自分で納得したように首を縦に振った。

「柑橘系?私にも嗅がせて。」

瑞穂さんもカウンターから出てくると俺のポロシャツの匂いを嗅いだ。

「本当だ・・・」

静香さんはそれだけ言うと神妙な顔をして再びカウンターの中へ戻った。

「瑞穂ちゃんがよく使っていた化粧水の匂いだわ。それにね、佑二くんの話で思い出したんだけど、抱きついて顔をすりすりするのは瑞穂ちゃんがちっちゃい頃いつもお父さんにやっていたのよ。」

「そうだったんですね。子供の頃からの習慣というか、癖みたいなものなのかな。」

すると静香さんは少し寂しそうな表情を浮かべて首を軽く横に振った。

「癖というよりも愛情表現ね。嫌いだった母親や私には絶対やらなかったもの。」

「あら、静香さんはお姉さんと仲が悪かったんですか?」

美紀ちゃんのその問いに静香さんは少し苦笑いをしただけで明確には答えなかった。

「佑二くん、ちょっとその指輪を見せてくれる?」

そう言って静香さんはカウンターの上に置いてある指輪に手を伸ばし、指先で摘まみ上げた。

「え~、静香さんだと何ともないの?」

美紀ちゃんが不満そうに口を尖らすと静香さんは笑みを浮かべてその指輪を見つめた。

「憶えているわ、この指輪。」

静香さんの記憶によると、瑞穂さんは当時付き合っていた彼氏から誕生日プレゼントに送られたこの指輪を気に入って、非常に大事にしていた。

ただ瑞穂さんが亡くなった後その指輪がどうなったのか、その存在さえ誰も意識しなかったし、それが何故海岸の遊歩道に落ちていたのかは全く心当たりがないと言った。

そして静香さんはその指輪を美紀ちゃんに渡した。

「やっぱり、佑二さんの渡し方の問題だわ。」

静香さんからすんなり指輪を受け取った美紀ちゃんはそれをゆっくりと眺めて俺に返して来た。

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**************

「そして瑞穂さんが俺に顔をこすりつけながら消えちゃった直後に少し離れたところにもう一度現れたんです・・・」

俺は、彼女に導かれて西浜小学校近くの住宅地にある誰も住んでいない家へ行き、彼女はその中へ消えてしまった話をした。

「西浜小の近く?」

静香さんが聞き直した。

「ええ、『二階堂』という表札がありました。」

その家は静香さんの実家だった。

二年程前に両親が他界した後は静香さんが相続したのだが、今は店を本宅としているためにそのままになっているという。

「家は手入れしないで放っておくと傷むのが早いって言いますよ。」

美紀ちゃんの言葉に静香さんは苦笑いをした。

「わかっているんだけどね。なかなか足が向かなくて。」

すると美紀ちゃんが後ろから俺の両肩に手を置いて嬉しそうに静香さんに提案した。

「じゃあ、私と佑二さんで家の掃除をしてあげます。一日ふたりで一万円ということでどうですか?」

「ええっ?俺も?」

「そうよ。だって私ひとりじゃ、一戸建て丸ごとを一日で掃除なんてできないもの。」

「あら、ふたりが手伝ってくれるならもちろん私もやるわ。一万円プラスその日の昼食と夕食でどう?」

「乗った!いいでしょう?佑二さん!」

瑞穂さんがその家の中へ消えていったという話は何処へ行ったのか、すっかり静香さんの実家の掃除に話がすり替わってしまった。

しかし、掃除に訪れることで瑞穂さんの謎が解けることになるとは思ってもいなかった。

【中編終了】

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