Iさんは取引先の営業マンで、30代半ばの既婚者だ。
半年ほど病気の療養をされていたが、すっかり良くなられたので、その日は快気祝いという名目でふたりで呑んでいた。
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暮れも押し迫った居酒屋の店内はにぎやかだった。
しばらく療養中の苦労話を聞いたり、世間話なんかをしたりしていたが、不意にIさんが声のトーンを落として語りだした。
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「物音……ですか?」
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「うん。『ドタッ』っていう、人が倒れた時みたいな物音がね。
寝室のとなりの部屋から、夜中に」
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Iさんは昨年、結婚を期に引っ越しをされていた。
都心まで1時間ちょっと。最寄り駅まで徒歩10分。築年数もそこそこで、周辺環境も良く、家賃もまあ平均的で、Iさん夫妻はとても気に入ったという。
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「リビングと、部屋が3つ。ふたり暮らしなら十分な広さだったしね。
実際、3部屋あるうちのひとつはちょっと狭くて、微妙に使い勝手が悪かったから、物置代わりにしていたんだ」
それが、寝室のとなりの部屋なのだという。
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「越してきてすぐは気が付かなかったんだけど。
ある日、夜中に目を覚ましたんだ。枕元の時計を見ると、2時少し前だった。
トイレに立って、例の物置にしている部屋の前を通った時に、ドアの向こうから物音がしたんだよね」
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ドタッ。
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「なんだろうと思って。
立て掛けていた空の段ボールがまとめて倒れたのかなと思って、ドアを開けて、電気を点けて、部屋の中を覗いてみたんだけど――」
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室内に、特に異常はなかった。
何かが倒れた形跡もない。
しかしそれなら、さっき耳にした物音はいったいなんだったのか。
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「その時はまあ、気のせいだろうと思ったんだけど」
しかしその後も、度々それは起こった。
決まって夜中の2時頃に目を覚まして、『ドタッ』という物音を聞く。
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「音に気が付くのは、いつも僕だけなんだ。
もっとも、妻は一度寝たら朝まで起きない人だから、なんだけど」
そう言ってIさんは少し笑ったが、すぐにまた真剣な表情になった。
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「でも、あの時はそれまでとは違っていた。
入居して半年くらい経った頃だ。
いつものように、午前2時前に目が覚めた。
ベッドから出たくはなかったんだけど、どうしてもその、もよおしてね。トイレに立った。
用を足して、寝室に戻ろうとしたら、例の物置部屋から明かりが漏れていたんだ」
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後から聞けば、その日の夕方、Iさんの奥さんがその部屋でなにか用事をして、うっかり電気を消し忘れていたものらしい。
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「その時、薄く開いたドアの隙間からねぇ。
見えたんだよ」
「見えたって……、何が見えたんです?」
「部屋の中に立っている誰かが、だよ」
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もちろんそれは、Iさんの奥さんではなかった。彼女はベッドの中でぐっすりだ。
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男だった。
男の後ろ姿が見えたのである。
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「当然、泥棒を疑ったよ。僕と妻以外の人間が、部屋の中にいたわけだから。
でも、泥棒にしても様子が変だ。
わざわざ部屋に明かりなんか点けているし、それに、なんだかぼんやりと立ち尽くしていたからね」
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息を殺して見つめていると、不意に男の体がグラリと揺れた。
それから、前のめりに崩れ落ちる。
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ドタッ。
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あの音だ。
これまでIさんが何度も耳にした、何かが倒れるような音。
記憶の中の音と、それはまったく同じだった。
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奇妙な符合にいぶかしみながらも、慌ててドアを開けて、物置部屋の中に踏み入った。
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「でもね、誰もいなかったんだ」
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男から目を離した記憶はない。
しかし男の姿は、まるでコマが飛んだ映画フィルムのように、一瞬でかき消えていた。
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「それって、幽霊……ですかね?」
私は、話に聞き入っている間に乾いてしまった刺身を、自分の皿に取りながら尋ねた。
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「うーん。僕はそれまで、自分に所謂『霊感』ってやつはないと思っていたから、正直混乱したね。
でも、ずっと聞こえていた物音と、倒れる男の姿は、自分の中でぴったりハマったんだなぁ。
『ああ、これだったんだ』って、妙に納得しちゃって。
だから、勘違いや見間違いじゃなくて、心霊的なやつなのかな、と思ったんだよね」
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さすがに気味が悪くなったIさんは、引っ越しを考えたという。
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「じゃあ、過去にその……そこで誰かが亡くなっていたんですかね?」
私が遠慮がちに訊くと、
「『事故物件』かってことでしょ? もちろん気になったから、不動産屋に確認したよ」
Iさんはあっさり答えた。
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しかし、不動産屋に尋ねたところ、「あの部屋で人が亡くなったことはない」との回答だった。
小説や映画で、「ある部屋で何か事件があって人が亡くなっていても、不動産屋としては、次に借りる人以外には説明しなくてよい」みたいなことを見た気がしたので、さらに突っ込んで訊いてみたが、答えは同じだった。
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「しまいには不動産屋のオヤジ、怒り出しちゃってさ。
『事件だろうが、自殺だろうが、病気であろうが、あの部屋に入居している間に住人が亡くなったことはない。俺は誰よりも、この街のことをよく知ってるんだ!』なんてね。
まあとにかく、事故物件じゃないってことだったよ」
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では、Iさんが見たり聞いたりしたことはなんだったのだろう。
しかし本来、奇怪な出来事すべてに納得のいく理由が見つかるものではないのかもしれない。
だからこそ、それらは「不思議だね」という話になるのだ。
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私がそんな趣旨のことを言うと、「いやいや」とIさんは暗い顔で笑った。
「それがさ、わかったんだよね。
不動産屋に行った、一週間後くらいに」
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その日、Iさんは仕事の付き合いで飲み会があり、帰宅が深夜になったという。
妻はすでに寝ていた。
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金曜日の夜だったこともあり、なんだか開放的な気分になっていたIさんは、なぜか急に、例の物置部屋に積みっぱなしになっていた空段ボールを、紐で縛って片付けてやろうと思い立った。
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翌朝、妻が目を覚ました時、「あなた、片付けておいてくれたの?」なんて言って、驚く場面を想像してニヤニヤしていたそうだ。
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あんなに不審に思っていた物置部屋だったのに、不動産屋に「死んだ人間はいない」と太鼓判を押されたことで、すっかり恐怖心は薄らいでいた。
少なくとも、酒に酔っていたその時は。
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音楽を流しながら、鼻唄混じりに段ボールをたたんで、紐で縛っていく。
あらかた片付いたところで携帯の液晶を見ると、ちょうど午前2時だった。
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不意に奇妙な予感がして、Iさんは立ち上がった。
巨大な地震が来る前兆のような、奇妙な静けさ。
息苦しくなるような、重い圧迫感。
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なんだ?
なんだ?
何が起こる?
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しばらく呆然としていたIさんの頭に、突然激痛が走った。
それは、これまで経験したことのない程の痛みだった。
まるで、雷にでも打たれたかのような強烈な痛み。
立っていられなくなり、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
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ドタッ。
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ああ、この音だったのか。
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そのままIさんは意識を失った。
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Iさんは急性の脳梗塞だった。
不幸中の幸いだったのが、普段なら朝まで決して起きないはずの彼の妻が、その日に限ってちょうど目を覚まし、『ドタッ』という物音を聞いて、事態にすぐ気がついたことだ。
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おかげですぐに救急車が呼ばれ、適切な処置を受けたIさんは、半年の療養とリハビリの末、こうして元気に私と酒を酌み交わしている、というわけだ。
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「じゃあ、例の物音や後ろ姿の男の幻は、将来的にIさん自身に起きることだった、というわけですね?」
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その部屋は『過去に何かあった場所』ではなく、『未来に何か起きる場所』だったわけだ。
これでもしIさんが亡くなったりしていたら、『未来型事故物件』とでもいうのだろうか。
不謹慎なことを、私はこっそり考えた。
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「でもこれで、今度こそ謎が解けたわけですか。
じゃあ、もう引っ越しは考えていないんですね?」
そう訊くと、Iさんは首を振った。
「実はね、つい先日引っ越したんだ」
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なぜ?
未来の虚像は現実となって、これから先はもう何も起こらないのではないか。
私の疑問に、Iさんは恐れを滲ませた声で答えた。
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「また、聞こえてきたんだよね。物置部屋から。
今度は、言い争うような男たちの声が。
取っ組み合いでもしているような、暴力的な物音が。
それで、最後には『ぐぅ……』っていう、苦しげなうめき声がするんだ。
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……だからもう、あの部屋にはいられなかったんだよ。
いつかきっと何かが起きる、あの部屋には」
作者綿貫一
こんな噺を。