ひび割れた玄関チャイムの音が来客を告げた。
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「ルリ、お客さん来ちゃったよ。支度は済んだの?」
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私が階段の下から二階の人物に呼び掛けると、憔悴しきった情けない声が返ってくる。
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「ごめんメアちゃん。靴下が片方、見つからなくて……」
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――またか。
毎度不思議なのだが、『彼女』はさして広くもないこの家の中で、よく物をなくす。
下着に、財布に、自転車の鍵。
そして、最たるものが靴下だ。
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さらに不思議なことは、必ず右足の靴下だけがなくなるのだ。
一緒に暮らし始めた当初は「見当たらないとはいえ、どこかにはあるのだから」と、残った左足の靴下を保管していたのだが、その数がどんどん増えていく。
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左足だけが八足を数えたところで、なんだか怖くなって全部処分してしまった。
ちなみに、右足たちは依然として行方不明のままだ。
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きっとこの古い家には、変わった嗜好を持った小人かなにかが棲みついていて、そいつの仕業だと思うことにしている。
それはさておき、いつまでもお客を待たせるわけにはいかない。
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「新しく買ったのが居間に置いてあるから、とりあえず降りてきなよ。私は外までお客さんを迎えに行ってくるから」
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急いで靴を履いて、立て付けの悪い玄関の引き戸を開けると、外には冷たい冬の雨が降っていた。
まだ午後の三時だというのに、もう夕方のように薄暗い。
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入り口脇の傘立てから適当に傘を掴むと、通りに面した小さな数寄屋門まで、小走りで駆け抜ける。
格子戸の向こうに、赤い傘を差した人物がじっと佇んでいるのが見えた。
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「すみません、お待たせしました」
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門を開けると、傘の下から髪の長い女性が顔を覗かせた。
といっても、サングラスにマスクをしていたので、風貌はわからなかったが。
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「お約束をさせてもらっていた加賀美です。
あの、失礼ですが……」
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相手のいぶかしげな声は、もう慣れっこだ。
ある目的でこの家を訪れた人間が、金髪碧眼の若い女に突然出迎えられたら、多少なりとも戸惑うのは当然だ。
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「私は、同居人で助手のメアリーと申します。
この家の主は中におりますので、さあどうぞ」
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努めて事務的に応対すると、私は敷地内へと客人を招き入れる。
玄関に到着するまでに、同居人の身支度がすっかり出来上がっていますように、と胸の中で祈りながら。
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座敷に案内した客人に、温かいお茶を振る舞う。
この部屋はあまり暖房が効かず、室温は屋外とそれほど変わらない。女性も、ちょっと口をつけたあとは、茶碗を握ったまま手を温めている。なんだか申し訳ない。
彼女は、室内でも相変わらずサングラスにマスク姿だった。
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「主はすぐに参りますので……」
そう告げてから、はや10分が過ぎていた。いたたまれない。
さすがに呼びに行こうかと思った矢先、ふすまが開いた。
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「お、お待たせしました……」
ようやく、困った同居人が姿を現した。
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黒髪のゆるい三つ編みを右肩に垂らして、黒縁眼鏡を顔にかけ。黒のニットセーターに白のパンツ。そして、黒い靴下。
あいかわらずモノトーンで、地味な格好が好きな子だ。寝癖が直っていない。
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彼女は、背中を丸めてちょこちょこと部屋の中に入ってくると、座卓を挟んで上座に腰を下ろしてから、ぴょこんと頭を下げた。
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「薬師、瑠璃と申します……」
「え? あなたが?
……あ、ごめんなさい。イメージと違っていたもので、つい。
ずいぶんお若い方、だったんですね……」
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先ほど同様、客人が戸惑いの声を上げる。
これもまあ、いつもの流れだ。
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「あ、えーと。あのですね……」
「加賀美さん、ご安心ください。彼女はまだ大学生ではありますが、それでも、先代から正式に跡目を継いだ九代目の『薬師』です」
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人見知りなルリに代わって、私が説明する。その方が、話が早い。
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「『薬師』の家系は古来より、人の身に起こる霊的なトラブルを、数々の『薬』を用いて癒してきました。
それだけ聞くと胡散臭く感じるかもしれませんが、実際今でも、著名な政治家や権威のある大学教授、IT企業の社長さんなど、多くの方が内々にご相談にいらっしゃいますよ。
加賀美さん。貴女が抱える『普通の方法では解決できない困り事』にも、彼女ならきっと力になれるはずです――」
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私の説明に、照れたように頭をぽりぽり掻いていたルリだったが、
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「じゃあ、社長が言っていたことは本当なんですね? 私のこと、『治して』くれるんですね?」
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客人――もとい依頼人が、突如興奮して座卓越しに彼女に詰め寄ったために、その勢いに押されて、座ったまま後ずさった。
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「み、診てみないことには……」
ルリの怯えた様子に気がついて我に返ったのか、加賀美は「ごめんなさい」と言って居ずまいを正した。
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「ご挨拶もまだなのに、取り乱してしまって失礼しました。
私、加賀美史絵(かがみふみえ)と申します。芸能事務所でモデルの仕事をしています。
こちらには、事務所の社長の紹介でご連絡させてもらいました。
――というのも、1ヶ月くらい前から、私の身におかしなことが起きているからなんです。
どんな風におかしなことなのかは……実際に見てもらった方が早いと思います」
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「部屋の電気を消してくれませんか?」というので、その通りにする。照明を落とすと、座敷の中は夜のように暗くなった。
不意に強い光が差す。加賀美がスマホのライトを点けたためだ。部屋の壁に私たちの影が、黒く濃く映し出される。
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「見てください、これ――」
スマホをポーチに立て掛けて固定すると、ライトの光を浴びた加賀美は、背後を振り返った。
視線の先。
壁には当然、彼女の影が映っている――いや。
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「――ふたり?」
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加賀美の影の、ちょうど首の部分に腕を巻き付け、背中におぶさっているのような――。
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『この場にいない誰かの影』が、そこにはっきりと浮かび上がっていた。
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「1ヶ月くらい前のことです。
事務所の同期で、宮下のどかという子が自殺したんです。
私たち、プライベートでも仲良くしていたんですが、突然のことで本当に驚きました。
元々大人しい子で、愚痴を漏らしたり、自分から誰かに悩み事を相談するようなタイプじゃなかったんですが、でもまさか、急に死んじゃうなんて……」
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加賀美が自分のスマホを、私たちに見せてくる。
画面には、ふたりの女性が映った写真が表示されていた。
片方はつり目で気の強そうな、髪の長い女性。
もう片方は、ややたれ目でおっとりした印象の、髪の短い女性。
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髪の長さから判断すると、つり目の方が加賀美本人で、たれ目の方が宮下のどかなのだろう。
我々はまだ、この依頼人の素顔を見ていないので、髪型で判断するしかなかった。
そして、その推理は当たっていたようだった。
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「あの……結局、その方の自殺の原因は、わからないままなんですか?」
私は尋ねる。
「はい……。
でも私、彼女が最近、『自分はモデルに向いてないんじゃないか』ってつぶやいたのを、聞いたことがあります。
撮影中、カメラマンさんから怒られた時のことだったんですが。
もしかしたら、のどか、モデルの仕事に行き詰まりを感じていたのかもしれません……」
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そう言うと、加賀美はうつむいた。
友人の異変に気付けなかったことに責任を感じているのかもしれない。
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「でも私たち、もっともっと実力をつけて、将来的には大手ファッション誌の表紙を飾れるようになろうねって、励ましあっていたんです。
それなのに……こんな……」
声が震えている。
傷ついている人間に申し訳ないとは思いながら、私は先を促す。
「それであの……加賀美さんとしては、先ほどのまとわりつく影は、亡くなった宮下のどかさんではないか――と?」
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「……あ、すみません、説明が下手で。
はい。あの影は間違いなくのどかなんです。
のどかが自殺したのと、影が現れるようになった時期はほぼ同じですし、あのシルエットも彼女のものです。
あの子が私にとりついて、自分の果たせなかった夢を、私に果たさせようとしているんじゃないかって……」
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一見筋は通っていそうだが、所々大いに主観によって補われた仮説だ(もっとも、霊的な現象すべてに合理的な解釈を与えようとする方が無理というものだが)。
しかし、加賀美はかなり確信を持っている様子だが……。
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「あの……。
時期とかシルエットだとか、そんなもの以外に、あなたがあの影をのどかさんだと信じて疑わない理由が……あるんじゃないですか?」
それまで黙っていたルリが不意に口を開いた。
その言葉に、それまでうつむいていた依頼人がびくりと肩を震わせる。
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「信じて疑わない、理由――?」
ルリは、加賀美をじっと見つめている。
やがて依頼人は、その視線に耐えかねたかのように言った。
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「……はい、おっしゃるとおりです。
私があれをのどかだと思う理由。
ううん、違う!
思うんじゃなくて、あれは間違いなくあの子で!
わ、私にとりついて……!
だって――!」
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興奮した加賀美が、自分の顔を覆っていたサングラスとマスクを乱暴に取り去る。
「あ――!」
私は思わず声をあげてしまう。
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加賀美史絵の顔は、写真に写っていたとおりだった。
気の強そうなつり目に、長い髪。
モデルというだけあって、小顔で整った顔立ちをしており、同姓から見てもはっとするくらいの美人だった。
そう、右半分は――。
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彼女の顔の左半分は、写真に写るもうひとりの女性――自殺した、宮下のどかのそれであった。
〈続く〉
作者綿貫一
こんな噺を。
あ、タイトルの読み方は
『心霊内科(しんりょうないか) 薬師瑠璃(やくしるり)の御薬手帖(おくすりてちょう)』です。