中編5
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チャイム

これは、知り合いの女性、Kさんから聞いた話だ。

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今から10年ほど前、Kさんは大学進学を期に福島から上京していた。

当初は慣れない都会での生活に戸惑ったという。

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「街を歩くだけで、ビルとか看板とか人混みとか、とにかく目に飛び込んでくる情報量が田舎と違って多すぎて……。情報酔いしちゃいましたね。

あと痴漢。

田舎じゃ満員電車なんてなかったし、そんなことする人ホントにいるの、って思ってました。でも、東京だとしょっちゅうで、あー大人でもどうしようもない人って、けっこういるんだなあって驚きました」

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大学の講義、サークル活動、バイト勤務。

日々新しいことの連続で、楽しいことも多い反面、精神的な疲労も溜まっていった。

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大型連休明けの、五月のとある日曜日。

時刻は夜の七時頃だったという。

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「部屋で、ぼーっとテレビを観ていたら、部屋のチャイムが鳴ったんです」

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当時Kさんがひとり暮らしをしていたのは割合大きなマンションで、建物の入り口にオートロックが付いているタイプだった。

訪問者は、入り口で部屋番号を指定してチャイムを鳴らし、住人にロックを解除してもらって中に入る。

各部屋の入り口横にも玄関チャイムが付いており、到着したら今度はそれを鳴らす。

つまり、オートロックのチャイムと玄関チャイム、二種類のチャイムがあったわけだ。

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「――で、その時鳴ったのは玄関の方のチャイムだったんですね」

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こんな時間に誰だろうと思いながら、室内の壁に設置された操作パネルのモニターを確認する。

そこには、青い作業着を来て、同じ色の帽子を目深にかぶった男性が映っていた。

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『夜分にすみません、水道業者のモンです。

こちらのマンションの管理会社から依頼を受けて点検に回ってるんですが、風呂釜の製品番号を確認したいんで、お部屋に上がらせてもらっていいですか?』

男は、やや早口にそう言った。

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それを聞いてKさんが初めに思ったのは、面倒くさいな、ということだった。

その日は一日、どこにも出掛けず部屋でゴロゴロしていたものだから、化粧はおろか、髪もとかしていなかった。

身に付けているのは着心地重視のブカブカの部屋着だったし、部屋の中も散らかっていた。

なのでKさん、こう応えた。

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『すみません、今部屋が散らかっていまして……。

なにかの番号だったら、場所を教えてもらえれば見てきてお伝えしますので、それでいいですか?』

できるだけ丁寧に応対したつもりだった。

ところが。

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『あーでも、わかりにくい場所なんで、直接見せていただけませんか? 

お時間はとらせないんで』

男はなおも食い下がってくる。

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たかだか番号を確認するだけなんだから、伝言だっていいじゃないか。

Kさんは腹が立ってきた。

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『いえ、あの。今はちょっと都合悪くて。

それでダメなら、申し訳ないんですが後日改めていただけませんか?』

ちょっと刺々しい言い方になってしまったかもしれないと思った。

男がカメラの向こうで、少しだけ顔を上げた。

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金髪の若い男だった。

右の口元に濃い黒子がある。

男の表情は曇っていた。

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『あのぉ。

平日の昼間だと何度来てもいらっしゃらないんで、こうして週末に伺ってるんですが? 

すぐ済むんで、お願いできませんか?』

男は明らかに苛ついていた。今にも舌打ちせんばかりだった。

その態度に、Kさんもいよいよ頭にきた。

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「平日の昼間って言ったって、仕事や学校に行ってて留守にしてる人だって多いじゃないですか?

それに、留守の時に来たんなら不在表を入れておくとか、次回いついつ来るから、みたいな告知を書いておいてくれればいいと思ったんですね」

そこで初めて、Kさんは違和感に気づいた。

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そういえば、男はここまで、会社名や自身の名前を口にしていない。

マンションの管理会社に依頼されたなんて、本当だろうか。

ひょっとして、水道業者を騙った不審者なのかもしれない――。

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気づくのが遅いと、その時の彼女を責めないでやってほしい。

彼女には彼女なりに、油断した理由がちゃんと(?)あったのだから。

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「玄関のチャイムを鳴らして部屋の前にいるってことは、マンション入り口のオートロックは通過して中にいるってことですから。

きっと管理人さんか誰かが、許可して通したんだろうって、勝手にそんなふうに思ってしまったんです。

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今なら、誰かがオートロックを通る時を見計らって、うまいこと言って一緒に入ってくる不審者もいるってことくらいわかってるんですが、上京したての当時は、お恥ずかしながらそんなことにも思い至らなくて……」

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Kさん、不審に思ったことを男に悟られまいと、あえて平静を装いながら、うまいこと会話を切り上げようと試みた。

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『ごめんなさい、やっぱり今はちょっと困るんで……。

今度来ていただける時は、きちんと部屋にいるように予定を調整しますから、申し訳ないんですが管理会社の方にもそのようにお伝えいただけませんか?

ご無理言って、本当にすみません』

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今度こそ本当に、マイク越しに男の舌打ちが聞こえた。

『……わかりました。また連絡させてもらいます』

捨て台詞のようにそう言って、男はモニターの外へと姿を消した。

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後日、マンションの管理会社に問い合わせると、そんな水道業者など知らない、仮に点検作業があるなら事前に住人に通達する、とのことだった。

Kさんは震えが止まらなかった。

管理会社も、不審者に対する警戒を強化すると言ってくれたのだが――。

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それは六月のある日。やはり週末の夜七時頃のことだった。

Kさんの部屋のチャイムが鳴った。

玄関チャイムの音だった。

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先日の出来事を思い出し、応答するのがためらわれた。

しかし、チャイムは執拗に鳴らされている。

やがて根負けした。

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『……はい』

『あ、夜分遅くスイマセン! 

今度、隣の部屋に越してきたモンです。

ご挨拶だけさせてもらえないかなって思って。

引っ越し蕎麦もあるんで、受け取ってもらえると嬉しーんスけど!』

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陽気な声が聞こえきて、思わず肩の力が抜けた。

改めてモニターを覗くと、黒髪で耳にピアスを開けた若い男が立っているのが見えた。

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その場でKさんは引っ越しを決めた。

男の右の口元に、濃い黒子を見つけたからであった。

〈了〉

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