長編8
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魔法のチョコレート

毎年この季節になるとちょっと憂鬱になる。

街中の店はこじつけたようにバレンタインを枕詞にした商品を並べ、若い女の子達がそれに群がっている。

中学や高校の頃は、嬉々としてそれに参加していたが、さして美人でもない私はバレンタイン当日にハッピーな気分になった経験がこれまで一度もない。

それに気づいた時から、私の心の中でバレンタインデーは色褪せてしまった。

今は財布の中身と相談しながら、職場へ持っていく義理チョコをため息と共に買うだけなのだ。

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◇◇◇◇

「ちょっと、あなた。」

会社の帰り、駅前の繁華街を歩いていると突然後ろから声を掛けられた。

何事かと振り返ると、膝まである黒いダウンコートに身を包んだ見知らぬ女が立っていた。

四十歳くらいだろうか。

長い黒髪に濃い化粧。どこか妖しげな雰囲気が漂っている。

「突然ごめんなさいね。あなたにチョコレートをプレゼントしたくて。」

何かのプロモーションか?

街中で突然チョコをあげるなどと言われると、それしか思いつかない。

「いえ、結構です。」

私が片手をあげて拒否する態度を示すと、女はにっこりと微笑んで一歩前に進んで私の目の前に立った。

「この前の日曜日、新宿ルミネのチョコ売り場にいたでしょう?」

その通りだ。職場で配る義理チョコを買いに来ていた。

この女はどこかでそれを見ていたのだろうか。

「何だか、とっても悲しそうな顔をしてチョコを買っていたから、バレンタインデーに良い思い出がないんだろうなって。だからとっても素敵なチョコをあげるわ。」

「素敵なチョコ?」

女はダウンコートのポケットから赤く可愛い包装紙に包まれた箱を取り出した。

「これをあなたが恋人にしたい相手に食べさせれば、必ずあなたに夢中になるわ。」

「本当に?」

もちろんそんな旨い話を素直に受け止めるつもりはない。

たぶんそう言ってそのチョコを高額で売りつけるつもりなのだろう。

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しかしその女は、そんな私の胸の内を見透かしたようにニヤッと笑った。

「もちろんタダよ。お金を貰おうなんて思っていないわ。ただあなたの幸せそうな笑顔が見たいなって思っただけ。」

それでも、路上でいきなり惚れ薬のようなチョコをあげると言われても困ってしまう。

「いらないんだったらいいわ。私の気まぐれだから気にしないで。」

女はそう言ってちょっと残念そうな顔をすると、小箱をポケットに入れようとした。

「あ、ちょっと待って。・・・・やっぱり貰います。ください!」

すると女はにっこりと微笑んで小箱を私の方へ差し出した。

「ただ、これは凄く効果があるから、必ず本当に好きな人に渡してね。」

「はい。」

女はそう言ってチョコの入った小箱を私に手渡すとくるりと向きを変え、人混みの中に消えていった。

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◇◇◇◇

とは言え、今の私に具体的な意中の人がいない。

それであれば、思い切り高嶺の花を狙ってもいいのではないか。

どうせ効果があるかどうか分からないのだ。

バレンタイン当日、私は職場の若手ホープとして注目されているイケメンの独身男性にそのチョコを渡した。

それだけで他の女子社員からは、身の程知らずだと陰口を叩かれたが、そんなことは知ったことではない。

上手く行けば儲けもの、程度にしか思っていないのだ。

そんな陰口など何日かすれば消えてしまうはず。

所詮、私は彼女達の闘争心を煽るような存在ではないのだ。

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************

バレンタインから三日経っても彼から何の音沙汰もなく、やはりそんな虫の良いことはあり得ないと諦めていた。

考えてみれば、彼はバレンタインのチョコレートを山のように貰うのだ。

私がプレゼントしたチョコを食べてくれる可能性は非常に低いだろう。

残念だが仕方がない。

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しかしそれは仕方がないでは済まなかった。

彼はプレゼントされた大量のチョコを友人たちに配っていたのだ。

そして私のチョコを食べたのは、よりによって私が忌み嫌っている男だった。

とにかく極端な性格をしており、穏やかさなど微塵もない。社内でもかなり煙たがられている存在なのだ。

その男が私の目の前に現れたのが昨日だった。

会社の従業員通用口を出たところにその男はいた。

私の姿を見つけるとひょこひょこと独特な歩き方で近寄ってくる。

その時点では、彼が私のチョコを食べたことを知らなかった。

「おい、寂しいんだったら俺が付き合ってやるから飲みに行こうぜ。」

いきなり声を掛けられたが、この男は何を根拠に私が寂しいと言っているのか分からず、その言い方にムッとした。

「別に寂しくなんかないですから、結構です。」

そう言って男の横を通り過ぎようとしたのだが、いきなり腕を掴まれた。

「何言ってんだよ。佐伯にチョコなんか渡したって相手にされるわけがないだろう。俺が相手してやるから付き合えよ。お前のチョコは俺が頂いたしな。そのお礼だ。」

ここで初めてあのチョコをこの男が食べたことを知ったのだ。

「とにかく、今日はこの後に予定があるのでダメです。さようなら。」

私は男の腕を振り切って歩き始めた。

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これはマズいことになったかもしれない。

あのチョコの効果が嘘であることを心から祈った。

駅へ向かって歩きながら、ふと嫌な感じがして後ろを振り返ると、奴が数メートル後ろをついて来ているではないか。

このまま帰ってはアパートの場所を知られてしまう。

駅の構内に入るとそのまま女子トイレに駆け込んだ。

この女子トイレは反対側にも出入り口がある。

幸い電車が到着したところで、トイレは混み合っていた。

私は個室に入るとジャケットを脱ぎ、髪の毛を後ろにまとめ眼鏡を掛けて簡単に変装すると反対側の出口からトイレを出た。

ちょうどそこに電車が到着するとのアナウンスが聞こえ、自分が乗る路線ではないがとにかく奴から逃げようと階段を駆け上がって電車に飛び乗ったのだ。

そして名前しか知らない駅で電車を降りると、駅前のカフェで三十分ほど時間を潰し、アパートへと戻った。

ところがアパートの近くまで来ると、アパートの入り口前の電柱の陰に奴がいるではないか。

奴は私のアパートの場所も知っていたのだ。

私はその場で向きを変えると小走りに駅へ戻り、友人の家に泊めて貰った。

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*************

会社に行きたくない。

行けば奴と顔を合わすことになる。

翌朝、私は会社に電話をして具合が悪いと嘘をついて休暇を取った。

今日は金曜日だから、今日休めば三日間は大丈夫。

もちろん、いつ奴が来るかもしれないアパートに戻る気にならず、二時間程の距離にある実家へと戻った。

しかし月曜が来ればまた会社に行かなければいけない。

通勤に二時間以上かかるが、私は当面実家から会社に通うことにした。

取り敢えず、必要な身の回りの物を取りに一度はアパートへ戻らなければいけない。

私は日曜の午後、周囲に精一杯気を配りながらアパートへ戻った。

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「お帰り。どこに行ってたんだ?」

部屋のドアを開けた途端、部屋の中から聞き覚えのある声が聞こえた。

驚いたことに奴はアパートの私の部屋の中にいた。

立ち上がって玄関にいる私の方へ歩いてくるその姿を見て、私は踵を返すとそのまま全速力で逃げた。

そして駅の近くの交番へと逃げ込み、お巡りさんに助けを求めたのだ。

すると私を追ってきた奴は、厚かましくもニヤニヤしながら交番の中へ入って来るではないか。

「こいつです!こいつが私のアパートへ勝手に入り込んで居座ってたんです!」

私がお巡りさんに訴えると、奴は平然と私の腕を掴んだ。

「こいつは俺の恋人で、具合が悪いって言うから見舞いに行ったんだけど部屋にいないから待っていただけなんですよ。」

「誰があんたの恋人よ!嘘です、こいつは私につきまとうストーカーなんです!」

その後の警察による聴取によると、奴は兄だと偽ってアパートの大家の所へ行き、具合が悪いと連絡があったまま音沙汰がないから心配だと言って部屋の鍵を開けさせ、帰りを待つと言ってそのまま居座ったようだ。

大家も兄かどうか内心は疑ったものの、本当に兄だったらトラブルになるかと思い、そのまま様子見を決め込んでいたらしい。

ストーカー行為はともかく、不法侵入の疑いが濃厚であるため、奴は警察に留め置かれた。

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◇◇◇◇

アパートに戻ると、部屋の中はめちゃくちゃだった。

おそらく会社を休んだ金曜の夜からずっとここにいたのだろう、食べ物のゴミが散らかっている。

そしてそれだけではなく、洋服ダンスや、下着も入っている衣類ケースまで物色した跡がはっきりと分かるのだ。

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気持ち悪い。

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何でこんなことになってしまったのだろう。

あの男は警察を出たらまたここへ来るに違いない。

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********

私は半泣きになりながら、駅前の繁華街へ向かって歩いていた。

そう、あの女を、チョコをくれたあの女を探しに。

しかしそんな偶然はなかなかあるはずがない。

それでも繁華街を何往復かした時、目の前にあの女が突然現れた。

「あらあら、その様子からすると上手く行かなかったみたいね。」

女は薄ら笑いを浮かべ、私の前に立っていた。

「お願い、あのチョコの効果を消す方法を教えて!」

女の表情に一瞬腹が立ったが、ここで怒っても仕方がない。

私は素直に女に懇願した。

「あのチョコの効果を消す方法はないわ。相手を殺すしかないわね。」

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女の答えは絶望的なものだった。しかし女はひと呼吸置いて続けた。

「でも、あのチョコの反対の効果、つまりあなたを嫌いになる効果を持ったお菓子ならあるわよ。」

そう言って女がまたポケットから取り出したのは、透明な小袋に入ったクッキーだった。

「これをその男に食べさせれば、あなたのことを大嫌いになるわ。」

私はそのクッキーをひったくるように受け取った。

「あなたは・・・いったい、あなたは誰なの?」

問いかけると女はニヤッと笑った。

「私?私はあなたの欲望が生み出した魔女・・・とでもしておきましょうか。」

女はそう言うとまた人混みの中へと消えていった。

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◇◇◇◇

とにかくあの女の事よりも奴を何とかする方が先決だ。

私は簡単に変装すると、奴が留置されている警察署を訪ね、差し入れだと言って週刊誌と一緒にクッキーを渡した。

もちろん本人との面会はせずに。

そしてその数日後、警察から連絡が入った。

今日の午後に奴が釈放されるから、気をつけて欲しいと。

しかし奴はもう私のことを嫌いになったはずだから大丈夫。

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しかしその深夜。

突然アパートの玄関ドアがバキバキと音を立てて何かでこじ開けられる音が聞こえた。

何事かと思って玄関へ出てみると、奴が仁王立ちで立っているではないか。

そしてその手には刃渡り三十センチはあろうかという柳葉包丁が握られていた。

「お前だけは絶対に許さねえ。大っ嫌いだ!」

そう叫んで奴が私に飛びかかってきた。

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何もそこまで嫌いにならなくても良かったのに。

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何でこうなっちゃったんだろう。

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薄れてゆく視界に、おそらく張り込んでいたのだろう、駆けつけた警察官に奴が取り押さえられる姿が映り、

それに重なるようにあの女のどこか人を小馬鹿にしたような笑みが浮かんだ。

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ただ、

私はちょっとバレンタインデーを楽しみたかっただけなのに。

◇◇◇◇ FIN

Concrete
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