実家に帰省するたびに思い出す出来事があります。
私が高校を卒業するまで住んでいた実家は、大都会ではないものの、すごく田舎というわけでもない、ごく普通の町にあります。
私には歳の離れた姉がいて、長女気質で優しい姉は私の憧れ。
小さい頃から姉の真似をしたり、姉の言うことを聞いて育ちました。
姉はたまに
「あの場所には行かないようにね。」
と根拠のない命令をすることがあり、私が、
「どうして?」
と聞くと、少し困ったような表情で
「…とにかく、行かないで。」
とだけ言うのです。
後から考えると、理論派の彼女にしては違和感のある発言だったのですが、ザリガニがとれる沼や、廃業したボーリング場跡地、橋のたもとから河原に降りた所など、それなりに危なそうな場所もあったので、当時の私は
「子供が行くと危険とか、そういう意味かな。」
くらいにしか思いませんでした。
そんな『行ってはいけない場所リスト』の中に、
「日が落ちてからはあの道を通ってはダメだよ。」
といわれていた小道がありました。
家のすぐ近くにあるその小道は、最寄駅から自宅までの最短ルート上に位置するため、朝の通学時はその小道を通って駅まで行くのですが、帰りはぐるりと迂回して帰らなくてはなりません。
車一台がギリギリ通れるくらいの細さで、両側に広大な魚の養殖池が広がる、ほんの150メートルほどの真っ直ぐな砂利道。
『道』というよりは、養殖業者の私有地で養殖池の管理用通路だったのかもしれません。
(私も含め近所の人達は生活道路として利用していましたが…)
街灯はなく、夜は養殖池を仄かに照らす青白い灯りがぽつぽつとあるのみの薄暗い道ですが、大通りに面した入り口から見通すと、道を抜けた先には住宅街の街灯や家々の明かりが見え、その住宅街を更に200メートルほど直進すればもう自宅です。
危険を感じる場所ではないというのがその小道の印象だったので、なぜ夜になると通ってはいけないのか謎でしたが、とりあえず言いつけを守って日が暮れてからは小道を通らないようにしていました。
姉は、私が中学に上がる年に就職し、実家を離れたため、年に数回の帰省時に顔を合わせるだけになってしまいました。
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私が高校3年生の夏休みのこと。
その日は久しぶりに姉が実家へ帰省しているというのに、人手不足だからとバイト先から仕事に出るよう頼まれ、夕方からシフトに入る事になりました。
しかもバイト帰りにたまたま友人と遭遇し、お喋りに花が咲いてしまいました。
気づけば1時間半以上も話し込んでおり、このままでは帰宅が夜12時を超えてしまいそう。
いくら夏休みとはいえ私も友人もさすがに焦り、急いで解散し帰路につきました。
「あぁ、お父さんに叱られる。」
憂鬱になりながら自転車を漕ぎ、例の小道がある大通りまで来たところで、信号待ちのついでに一度時刻を確認すると、PHSの液晶は0時3分を表示していました。
「まずい、12時を過ぎてしまった。」
と思うと同時に
「あの小道を通って養殖池の間を突っ切れば、少しは早く家に帰れる。」
そう思い、小道の入り口まで自転車を走らせ覗き込むと、暗い小道を抜けた先に住宅街の明かりが見え、急激に普段この道を避けているのが馬鹿馬鹿しく感じられてきて、私は小道の中へと自転車を進めました。
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途端に水生生物特有のプランクトン臭が辺りに立ち込め、一気に湿度が上がったように感じました。
「うわ、生ぐさ〜。暑いからかなぁ…。」
などと思いながらも、特に気にも留めず漕ぎ進め、小道のちょうど中央あたりに差し掛かったあたりで、不意に後ろからふわりと冷たい空気を感じ、自転車を走らせながら何気なく後ろを振り返ると…。
私の2メートルくらい後方を、誰かが走っているのです。
思いがけず出現した人影に
「えっ、いつの間に?どこから現れた!?」
と驚き、思わず自転車を漕ぐ速度を上げました。
小道には私が進入した大通り側の入り口と正面に見える住宅街側の出口以外に横道などはなく、養殖池と道のさかいには、公園やグラウンドなどによくある緑色の金網フェンスが設置されているため、行き来ができないようになっています。
また、私が小道の入り口に着いた時、周囲に人影はなく、仮に小道を歩いている人がいたとしても、自転車で追い越せば気がつかないわけありません。
普通に考えれば、その人物は私の後から小道に入り、追いついたということになりますが…。
「後から来て自転車に追いつく速度で走ってきたの?足、速すぎない?」
そんなことを0.1秒で考えながらもう一度振り返ると、何とその人影は更に距離を詰め、自転車の荷台を掴もうとするかのように手を伸ばしているのです!
「こんなにスピードを出しているのに追いつかれるなんて!」
と思いながらも、アスリートの変質者に捕まったらまずいと、立ち漕ぎをして限界までスピードを出しました。
「すぐに住宅街に出るから、とにかくそこまで走り抜けて、もしもの時は近くの民家に助けを求めよう…。」
自転車はぐんぐんスピードを上げているのに、背後の気配はますます存在感を増してゆき、それと同時に違和感に気づきました。
足音や呼吸音が全くしないのです。
聞こえてくるのは養殖池の水音と自転車のタイヤが砂利を踏む音、それと私の荒い息。
足音や息遣いが聞こえないのに気配を感じる理由をうまく説明できないのですが、でも確かにすぐそこまで迫ってきているのです。
しかも、息が上がるほどにスピードを上げて自転車を漕ぎ続けているのに、たった150メートルの小道から、いつまでたっても抜け出せないのです。
いつの間にか先に見えていた住宅街の明かりも見えなくなり、薄暗い小道が永遠に続くかのように伸びていました。
そのことに気づいた私は、恐怖でいっぱいになりながら脇目も振らず自転車を漕ぐことしかできませんでした。
あまりに濃密な背後の気配に、思わず振り返って距離を確認したい気持ちと、"それ"を見てしまったら、取り返しのつかないことになるという、半ば確信めいた予感とを感じて絶望的な気持ちになりながら…。
どれくらい漕ぎ続けたでしょうか。
体力の限界まで走りましたが、やがて少しも脚を動かすことが出来なくなってしまい、追いつかれてしまうと思いながらも漕ぐことをやめ、惰性で進む自転車の上で目をギュッと瞑りました。
途端に、湿度を伴った生ぐさいにおいが一層強くなり、すぐ後ろにあった気配がぶわっと広がって私を包みこみました。
不意に、
「ねぇ」
と呼びかける、子供にも大人にも思える声が頭の中に響きました。
その声は次第に増えて、多重録音の様に重なり合いながら
「ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇネェネェネェネェネェネェネェ……」
と、頭の中いっぱいに反響しはじめました。
「目を開けてはいけない!」
反射的にそう感じ、息をひそめて自転車のハンドルを握り締め、身じろぎもできずにひたすら目を瞑っていました。
それからどれくらいの時間が経ったのか…。
数秒だったようにも、数十分だったようにも感じられました。
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「〇〇ちゃん!」
突然聞き覚えのある声が鼓膜を震わせ、私は思わずビクッと体を震わせました。
私の名前を呼ぶ声がした瞬間、頭の中に響いていた声が消え、周囲の空気がスッと軽くなった気がして、恐る恐る薄目を開くと、いつの間にか自分が小道の出口まであと5メートルほどのところで自転車に跨ったまま立ち尽くしていることに気づきました。
正面にはこちらに駆け寄ってくる姉が見えました。
「こんなに遅くまで何をしていたの!?」
と姉に叱られながら、恐ろしかったのと安心したのとで涙目になり、再びPHSの小さな画面を確認すると、2時8分…。
小道に入ってから2時間も経っていました。
姉は、帰りが遅い私を心配して近所を探していたところ、私が小道の中に突っ立っているのを見つけたのだと教えてくれました。
家に向かって歩く道すがら、今起こった出来事を姉に話すと、
「こんな時期にあの道を通るなんて…。連れて行かれなくて、よかった…。」
と呟き、ぎゅっと私の腕を握りました。
私の住んでいた地域ではほとんど習慣が無かったので、すぐにはぴんときませんでしたが、その日はちょうどお盆でした。
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姉は昔から危険な場所、姉の言葉で言うと『境目が曖昧な場所』がなんとなく分かったそうです。
ただ、わかるからと言って何か対処ができるわけでも、明快な説明ができるわけでもなかったので「近づかないように。」と言うことしかできなかったようです。
通ってはいけない小道があった場所は、養殖業者の廃業に伴い、今はマンションが建っています。
作者川辺に咲く
実際に実家の近くにあった小道をモデルにしています。
独特の湿っぽい空気感やニオイがあり、夜になると全くひと気がなくなって、まるで異世界に入り込んでしまった様な気持ちになる一本道。
通るたびにそこはかとなく怖かった事を覚えています。