美代子60歳、昇63歳、2人は普通の夫婦である。そんな彼らに途轍もない恐怖が襲いかかった。
(1)
夕食後、居間で夫婦はテレビを見ながらくつろいでいた。
「取引先の社員が亡くなったらしいんだよ」
「まあ」
「家でボコボコに殴られた姿で死んでいたんだと」
「強盗?」
「嫌、知らんけど」
「はあ」
所詮は他人事だ。
「よし、いいぞ」
画面からワァとかオオとか歓声が上がる。ボクシングの世界戦だ、一ラウンドが終わりインターバルに入った。
昇は肩が凝ったから揉んでくれという、彼女は気軽に頷いた。別に肩は凝ってなどいないのだ、2人のコミュニケーションなのだ。昇は良き夫だ。声を荒げたこともない穏やかな性格だった。美代子も愛嬌のある気のいい女性だ。
彼女は後ろに立ち肩に手を置き揉み始めた。頭を真上から見下ろすと白髪が増えている。この人と一緒になって30年以上か、年を取ったわねと感慨にふけった。
「カーン」と新ラウンドが始まった。
ん?と気づいた
1本の白髪がアホ毛のように飛び出ている。
―くすっ、何これ?
彼女はそれをつまんだ
―白髪? 抜いちゃおう
少し強めに引っ張った、するとスゥーッと上に伸びるではないか。
―え?
「白髪違うの?」
「なんか言った?」
「んんん、何でも………」
目の高さにまで上がったそれを見つめた。
―白髪? 糸? 紐? 何なの?
つまんだまま目線を上げていくと、それは天井まで届いていた。
―???
もともと天井から頭へ蜘蛛の糸のように垂れていたのか。それとも、脳天から出て垂直に伸びているのか。
「よしっ」と夫は試合に夢中だ。引っ張っても痛くはないらしい。
―ふ~ん………
どうやら紐は頭から出て煙のようにのぼり天井へ消えているようだ。
―不思議………
何を思ったのか美代子は紐をつまみ出しスッスッと上へ送り始めた。
―へー………
出るわ、出るわ。それは吸い込まれるように天井へ消えて行く
―いったい何なの? まだ出てくるの? どこに繋がっているの? 最後はどうなるの?
美代子はオカルトやスピリチュアルにはほとんど興味がなかった。普通の主婦なら無理もないことだ。少しでも知識があれば紐の正体が分かっただろうし、このような危険な真似はしなかったはずだ。結局、好奇心が仇になったのか、この後、大惨事になる。
手を休めずそれを送り出していた
「おい」
「ハ! ハイ!」
「今、チャンピオンが優勢だぞ」
「ハア」
そんな事はどうでも良く美代子は何故かホッとした。すでにだいぶ引き抜いていたが、また再開した。
―な、長い………、何メートル? 何10メートル?まだ出るの?
手を止めた。
―もしかしてマズい事をしたんじゃ
突然、怖くなった。
―ど、どうしよう………
夫は何も知らずに試合を見ている
『ワー、ワー、イケー!』
つまんだ紐をあらためて揺らした。ぷるぷると上へ振動が伝わっていく。
―大丈夫かしら………
次に引いた、電灯の紐を引っ張るように。すると天井近くでプツンと切れたではないか。
―あ
紐はスゥッと消え、同時に夫の身体がビクンと引き攣った。
「?!」
「グヴ」
「え?!」
「グゥ゙ゥ゙」
「えぇ?!」
「グヴゥ゙ゥ゙」
今度は揺れ始めた。
「あ、あなた?!」
「グヴヴヴ」
手指が強張り、首筋に血管が浮く。
「だ、大丈夫?!」
「グヴヴヴヴ」
「ちょっと?!」
夫の声とは思えない、否、人の声帯から出る声ではなかった。
「グヴヴヴヴヴヴーーーーーー」
「………な」
美代子は後退りした。まるで別人の後ろ姿を見るようだった。
「グヴヴヴ〜〜」
―何が起こっているの? 紐は? 紐を戻せば
キョロキョロと探したが跡形もない。
―そんな
痙攣が酷くなり椅子から転げ落ちそうだ。
「しっかりして!」
突然、立ち上がり振り向いた。
―ああ………
壊れていると美代子は思った。両目は左右バラバラに動き、締りのなくなった口からは舌がダラリと出てヨダレが流れている。さっきまでボクシングを見ていた夫ではなかった。
―い、一体何が起こっているの?
両手のゲンコツをビクン、ビクンと振っている姿はロボットダンスをしているようだ。次の瞬間、昇は自分で自分の顔を殴った。
ゴツン
「ちょっ、何してんの!」
例えば子供がバカバカと頭を叩くような感じだが、それとは比較にならないくらいの凶暴さで己を殴った。頭を、頬を、顎を、ゴツンゴツンと。
「や!」
口が切れ血が飛び散っても、両拳はまるきり他人だ、容赦ない。連打連打連打だ。その度にギャアとかグエとか悲鳴を上げられるからたまったものではない。
「やめてぇ!」
美代子は止めに入ったら自分も殴られると思い迂闊に近づけなかった。夫はすでに血まみれだ。
「やめて! あなた、やめてぇー!」
そこまで己を殴りつけることができるのかという激しさだ。歯が折れ、鼻が曲がり、目玉が飛び出しても連打は止まらない。元の目鼻立ちはすでになく顔面はボロボロだ。彼女はこの惨状を正視できなかった。ゴツゴツゴツゴツ………
「あ、あなた、や、やめて」
頭骨がすれ、血と脳漿が吹き出した。
「キャアー!」
「ギ」
天を仰いだかと思うと膝が崩れ、ドサッと床に突っ伏した。
「ギギギグヴヴヴ………」
2,3回の痙攣の後、ピクリとも動かなくなった。
―あ
「あなた?! あなた、しっかりして! あなた――」
(2)
通報後、警察と救急が駆けつけた。昇の死体の側で、血の海にへたり込む美代子は放心状態だった。警官と隊員は一刻を争うものと判断し彼女を救急搬送しようとストレッチャーに乗せた。だが隊員は奇妙な事に気がつき確認の為、彼女にこう聞いた。
「奥さん、頭から出ている白い紐のような物は何ですか? 切ってもいいですか? そのままだと車に乗れません」
「!!」
「奥さん?」
「い、嫌よ、嫌よ! 絶対に切っちゃだめ!」
「ですが………」
「嫌よ、イヤァー!!」
その時、紐はぷつんと切れ、空中で雲散霧消した。側にいた隊員が言った。
「あ、引っ張っちゃった」
美代子の肩がビクッと引き攣った。
「グゥ゙………」
「奥さん………?」
「グヴヴ」
終
作者小笠原玄乃
アストラルケーブル、それは胎児と母体を繋ぐ臍帯のように肉体とアストラル体を繋いでいます。それが目に視え、尚且つ触れる事ができたが故に今回、このような悲劇に繋がってしまいました。
もしあなたの身近な人の頭から白い紐が出ていたらむやみに引っ張ってはいけません。ましてや切るなどもっての外です。むごたらしい死に様を見るでしょう。