わたしが初めてあの男の存在を知ったのは、今年の秋口のことでした。
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「不倫」という長く不毛な関係にようやく終止符をうち、
今月のあたまに都内のマンションを離れ、私鉄沿線沿いにある安アパートに引っ越した初日のことです。
今年40に突入した中年女性のワガママボディーにムチ打ち、引っ越し作業をようやく終えたのが午後9時のこと。
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さあ、シャワーでも浴びようかと立ち上がろうとした時でした。
パチンという何かが弾けるような音とともに、辺りは漆黒の闇に包まれます。
突然のしかかってきた静寂と闇の重圧に、ただ呆然と立ち尽くしていると、肩越しに確かに聞こえた低く囁くような男の声。
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「停電のようだな」
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能天気なわたしはその時、あろうことに「うん」と答えてしまったのです。
停電はすぐに復帰し、再び辺りは光を取り戻します。
ほっと一息ついて再びシャワーを浴びようとした時、遅ればせながらゾゾゾと背筋が凍りつきました。
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「え!誰?」
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と呟きながら素早く四方を見回します。
でも視界に入るのは片付けの終わった殺風景な部屋だけで、他には誰の姿もない。
でも確かに聞こえた男の声。
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「誰かいるの?」
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とまた言いながらそっとクローゼットの扉を開けたり、リビングのドアを開き、玄関に続く薄暗い廊下を覗いてみます。
でもやはり誰もいません。
最後は
「空耳かな?」
などと言って自分を納得させながらリビングのドアを開いた途端、一瞬で背筋が凍りました。
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8帖の部屋の中央にあるのはガラステーブル。
その一角に、白いカッターシャツに黒いスラックス姿の男が胡座をかいて座っているのです。
震える声で恐る恐る「あの、、誰?」と尋ねました。
すると男は顔だけをぬっとこちらに向けます。
わたしはさらにゾッとしました。
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伸ばし放題の白髪混じりの髪に、凡そ血の気を失った青白い顔。
男は微かに笑みを浮かべながら、じっとこちらを見上げています。
わたしは恐怖と必死に戦いながら「あなた、誰?
何で、ここにいるんですか?」と当たり前の疑問を男にぶつけます。
すると男はまた不気味な笑みを浮かべながら、
「だってあんた、さっき俺を受け入れてくれたじゃないか」と答えます。
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「受け入れたって、、、
わたし、そんな覚えありません!」
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次にわたしは少し強めに言いました。
男はわたしのそんな言葉に全く動じることもなく、
「いや、さっき停電になった時、あんたは俺の言葉にちゃんと答えたよな。だから俺もこうして心置きなく姿を現したわけよ」
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「い、、いや、あれは、ただ反射的に応えただけで」
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「反射的であろうとなかろうと、あんたが俺の存在を受け入れてくれたのは間違いないんだよ」
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男はそこまで言うと正面に向き直ります。
このままではまずい
そう思ったわたしは「出て行かないのなら、警察を呼びます」と言ってポケットから携帯を出すと、110をコールしました。
するとすぐに女性オペレーターが対応してれて事情を説明すると、すぐに署員を向かわせますからと言ってくれたのです。
ほっとして電話を切り再びリビングを見た時には、男の姿はありませんでした。
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10分ほどで制服姿の若い警官が一名、訪ねてきました。
彼はわたしの許可のもと、室内を隈無く見て回りましたが、男の姿はありませんでした。
訝しげに首を傾げる警官に対して、懸命に頭を下げて引き取ってもらいます。
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─さっきまで確かにいたはずなのに、、、
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もう訳が分からなくなったわたしは、再びリビングに戻ります。
そしてまた、背筋が一瞬で凍りました。
あの男がいるのです。
さっきと同じように、テーブルの前で胡座をかいてます。
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─どうして?、、、
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とうとうわたしは、ドアの前で力なくへなへなと座り込んでしまいました。
男はまた、わたしの方に顔を向けると、
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「ふふ、、そんなに怖がるなよ。
俺も以前はさ、あんたと同じような人間だったんだからさ」
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と言って、今度はニヤリと笑います。
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「わたしと同じ人間?」
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わたしが男に問い返すと彼は軽く頷き、また喋り始めました。
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「ちょうど去年の今ごろ、俺は普通の独身サラリーマンをしてたんだけどな、あんたと同じような道ならぬ恋愛の泥沼に首まで浸かってたんだよ。
そう、旦那のいる女性にはまってたんだ。
あんたの場合は、女房のいる男性だったよな。
そしてあんたはあの蟻地獄から抜け出すことが出来て、
今はささやかだが、こうして新しい生活を踏み出そうとしてるようだが、俺は行くところまで行ってしまったんだ」
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そこまで喋ると男は一つ大きなため息をつくと、おもむろに両手で自分の顔を挟み、ぐいと上方に持ち上げる。
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「ひぃっ!」
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その様を見ていたわたしは、驚きで背後にのけぞりました。
信じられないことに男の顔は両手で挟まれたまま上体から離れて、宙に浮かんでいるのです。
ただよく見ると、その頭部は浮かんでいるのではなく異様に長い首でつながっていました。
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「どうして、どうして、そんな?」
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わたしが思わす漏らした言葉に、男は微かに笑みを浮かべながら頭部をテーブルの上に置くと、再び喋り始めました。
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「ふふ、ろくろ首みたいだろ?
でも違うんだよ。
あんたと違って不器用な俺は結局相手の旦那に訴えられて、数百万円の慰謝料を請求されたんだ。
しかも旦那は俺の会社のお偉いさんだったものだから、
会社も首になってしまう。
そうなったら女なんて冷たいもんさ。
それで愛する女性も職も失い、残ったのは借金のみ。
自暴自棄になった俺は、最後は自宅で首吊りしたんだ」
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男はそこまで喋ると、どこか悲しげな表情のまま目を閉じた。
わたしもしばらくは口さえ開くことが出来なかったのだが、再び勇気を出して男に尋ねてみました。
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「でも、どうして、そんなあなたがわたしのところに?」
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テーブルにある男の顔はパッと瞳を開き、わたしに目をやると再び語りだします。
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「実はこうなってしまってから分かったんだけどな
魂というやつは、同じような波動の魂に引き寄せられるみたいなんだよ。
だから、あんたが前月にっちもさっちもいかなくなって、自宅のマンションのベランダから飛び降りようと手すりに片足をかけた時、俺はそこに引き寄せられ現れて背後から引っ張ってやったんだ」
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「そういえばあの時、何故か後ろ側に倒れて、、
ということは、あなたは命の恩人」
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わたしの言葉に男はニヤリと笑うと、また喋りだします。
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「ふふ、、だからといって今さら感謝してもらいにこんなところにのこのこ現れたわけではないんだ。
俺はただ、あんたがちゃんともう一度生き直してくれてるかどうかを、見届けにきただけなんだよ。
もうこれ以上、俺みたいな浮かばれない魂が増えてほしくないからな」
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男はそこまで言うと、また静かに瞳を閉じました。
そしてわたしがまた何かを言おうとした時には、もう男の姿はありませんでした。
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それから半年が経ちました。
ようやく新しい仕事にも慣れた頃、わたしは新たにマッチングアプリで出会った男性と付き合うようになりました。
もちろん今度はちゃんとした独身の男性、、、
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だと思うのですが、、、
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう