何年か前に大学の後輩Sから聞いた話。
Sは文学部の文化人類学講座の院生で、今では某大学の助教として勤務している。文系の大学院卒としては非常に恵まれていると思うので、とても優秀だったのだろう。
これはSの更に後輩の実体験らしい。
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体験者を仮にA君としよう。
A君もまた、Sと同じ文化人類学教室の院生であった。A君も優秀であったようだが、どうにも要領の良さに欠け、教授との折り合いも悪かったようで、なかなか浮かばれなかったようだ。特にそのころは、せっかく書き上げた論文を教授に横取りされるようなかたちで発表されてしまい、失意に沈んでいたようだった。
ただ、A君には研究室こそ違うが、同じ学部で民俗学を研究しているBさんという恋人がいた。付き合いも長く、収入さえ安定すれば結婚するんじゃないかと噂されていたらしい。
BさんもA君が落ち込んでいるのを気にしており、また、励ます意味もあったのだと思うけど、A君の実家に行きたいと言い出したようだった。
実は、A君の実家は関東北部の旧家で、昔から絹や布を扱う大店だったようで、Bさんの専門である民俗学的にも興味深いところがあった、というのもおまけの話であったようだった。
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ある年の1月の下旬、A君とBさんはA君の実家にお邪魔することになった。
さすが歴史のある大店というだけあって、史跡、とまではいかないが、旧家然とした佇まいの家屋で、Bさんはたいそう喜んだそうだ。A君の実家には、父親、母親、そして、まだ中学生だというA君の下の妹、それから、ひいおばあさんが同居していた。祖父は戦争で早くに亡くなり、祖母も数年前に他界したということだった。
家族仲は良いようで、久しぶりに帰ってきたA君と、その未来のお嫁さんを囲んで、和やかに食事をしたりしたようだった。ひいおばあちゃんは、90を超えた高齢でもあり、若干認知症ぎみのところもあったが、まだまだ元気だった。特にA君をかわいがっていたようで、何かにつけて、「〇〇家の大切な跡取りだから」と言っていた。
夕食の話の中で、ひいおばあちゃんがBさんの大学での専攻を聞いて、そう言えば、と、
「このあたりには、『鬼の宿』っちゅう話がある」
と言い出した。Bさんは民俗学の中でも妖怪や怪異についての研究をしていたので、この話に非常に興味を持ったようで、ぜひ話を聞きたいということになった。
ただ、その日はずいぶん遅くになったので、その話の詳細を聞けずに場がお開きになってしまった。
実家におじゃまするのは本当は1泊だけの予定だったが、Bさんがどうしても鬼の宿の話を聞きたいということになり、もう1泊延長することになった。いわゆる民俗採集というやつだった。ひいおばあちゃんも快諾してくれて、結局、2泊目の夕方、離れでBさんがひいおばあちゃんの話を聞くことになった。A君も同席を申出たが、「きちんと話を聞けなくなるといけないから」という理由でBさんに断られてしまった。
Bさんが民俗採集をしている間、A君は母屋で母親と話していたらしい。母親に「鬼の宿ってどういう話か知っているか?」と聞くと、母親は若干顔を曇らせながらこんな話しをしてくれた。
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あれは、お母さんがこの家にお嫁に来たばかりの頃、ひいおばあさんから聞いたことだから、もうかれこれ30年近く前の話になるわね。
節分のとき、普通は「鬼は外、福は内」って豆をまくでしょう?ところが、この地方では、全部の家じゃないんだけど、「鬼は内」って唱える家があるんだって。要は、他の家で追い出された鬼をお迎えする、っていうこと。
こういう風に鬼を迎える家のことを、「鬼の宿」って言ったらしいわ。
え?どうしてそういうことをするのかって?
ひいおばあちゃんの話しだと、鬼の力で災いを取り除いたり、商売繁盛を願うって事らしいわ。ほら、鬼瓦とかってあるじゃない?結局、鬼の力で守ってもらうということ。他の家で追い出された鬼を歓待して、自分の家を守ってもらおうっていう風習みたい。
まあ、これくらいの話だったらいいんだけど、続きがあってね。ひいおばあちゃんが一度だけしてくれた話があったの。実は、この家も「鬼の宿」だったんだって。
でも、どうやら毎年毎年鬼を迎えるのではなく、どうしても困ったときだけ、お迎えするらしいんだけど、とにかく、ひいおばあちゃんが小学生くらいのとき、一度、この家の商売がうまく行かなくなった時があったみたいで、あちこちに借金が増えてしまったんだって。ひいおばあちゃんのお母さんとお父さんだから、あなたからみたら、ひいひいおじいちゃんと、ひいひいおばあちゃんね。その二人とその兄弟たちでしょっちゅう眉間にしわ寄せて何やら話し合ったようだったの。
それで、ある年の節分の日、あの離れね。あそこにひいひいおばあちゃんが籠もったんだって。それで、鬼の宿の儀式みたいなことをしたらしいの。どうやるのか、っていうのは教えてもらえなかったんだけど、どうもお膳を用意したりとか、御簾を立てたりだとか、そういったことみたい。
鬼を迎える、ということで、当時ひいおばあちゃんは怖くて仕方がなかったらしいの。
それでどうなったのかって?
次の日、その部屋でひいひいおばあちゃんが亡くなっていたんですって。腹を何かで切り裂かれて、とても見るに耐えない姿で・・・。鬼が来て、ひいひいおばあちゃんを食ったんだって。だから、毎年出来ないのよ。人が死ぬから。
その後、鬼の加護のせいか身代は持ち直して、今に至ると。
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A君はびっくりして母親をみたというが、母はあっけらかんとして、
「って、いう話をひいおばあちゃんはしてくれたんだけど、冗談だと思うのよね」
なんで?と聞くと、
「だって、ひいひいおばあちゃん、私がお嫁に来ていたとき、いたもの。元気で」
なーんだ、となった。
ただ、冗談にしては妙な話だとも思った。お嫁さんを怖がらせようとしたのだろうか?
このとき、A君は妙な胸騒ぎがした。何か良くないことが起こっているような気がしたのだ。
今日は何日だった?
節分は、古くはいつだった?
旧正月の前の日、旧暦の大晦日だったのではなかったか?
今年の旧正月はいつだ?
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A君は離れに走った。勘違いであってほしかった。
「きゃー!」
おそらくBさんのものと思われる悲鳴が響く。
A君はどきりとしながらも更に急いだ。そして、離れにたどり着き、障子を開ける。
そこには、包丁を持ったひいおばあちゃんが立っていた。包丁からは血が滴っている。
ムッとする臭気。
ひいおばあちゃんは「はー」と息を吐く。獣の吐息のような生臭さ。
まるで、昔話の鬼女、鬼婆といった風情だった。
かたわらには腕を切られ、うずくまるBさんがいた。
A君は慌ててBさんとひいおばあちゃんの間に割って入った。
何をするんだ!と恫喝するが、まったく意に介さない様子でひいおばあちゃんは持っている包丁を再度振り上げた。A君はとっさに腕を捉え、包丁を取り上げようとする。
後で聞いたところによる、その力はとても90を超えた老婆には思えないほどの力だったようだ。揉み合いになりながらも、A君が突き飛ばすと、一瞬ふらついた。その時になって、悲鳴と物音を聞いて父と母も駆けつけ、結果的にひいおばあちゃんは取り押さえられることになり、そのまま精神錯乱として、救急車で搬送されることになった。
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後にBさんに聞いたところによると、離れにいくと空(から)のお膳と、屏風が用意されていたという。そして、A君が母親から聞いた「鬼の宿」の話を聞かされそうだ。
話がひいひいおばあちゃんの死にざまに及ぶと、ひいおばあちゃんの様子が徐々におかしくなっていったという。肩を震わせ、涙を流し、
「あんときゃあ、母ちゃんはひどいありさまじゃった。犯され、はらわたをえぐられ、あちこちに獣の噛み跡のようなものが残っとった。ああ、鬼が来た、鬼が来た・・・・」
「でも、ああするほかなかったんじゃ。母さんが鬼に喰われなきゃ、家が潰れて、皆死んどった。母さんは父さんと儂らのために、喰われたんじゃあ。」
「嫁の務めだ。身代を守るのが嫁の務めじゃあ」
震えが更に酷くなってきた。唇の端からよだれを流しながら、なおも話し続けたという。
「Aも、うまくいっとりゃせん。このままじゃ〇〇家はつぶれちまう。儂が若けりゃよかったが、こんなんじゃ鬼様を迎えられん。迎え・・・」
ここで、ひいおばあちゃんはユックリと顔を上げた。
「ひい!」
Bさんは思わず悲鳴を上げた。その顔がとても有り得ないように、なんとも奇妙に歪んでいたからだった。右目だけが上転し、白目を向いている。頬がつり上がり、左の口だけが半ば開き、そこから覗く歯がまるで牙のように白く見えた。
そして、いつの間に取り出しのか、包丁を振り上げ、Bさんに襲い掛かってきたという。
腕を切られたところで、A君が来て、それで、助かった、と。
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結局、こんな事があったものの、A君とBさんは無事に結婚したとのことだった。ただ、A君は学者としては大成せず、大学院を早々に切り上げ、普通の企業に就職することになったようだ。
逆に、これも皮肉なものだが、Bさんは鬼の研究を進め、結果的には現在、大学で教鞭をとる身分になっているらしい。
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「まあ、この話に出てくるひいばあさんなんだけど、そのあとは入院した病院で亡くなったそうだ。病院に搬送された時点で四肢の骨がバキバキに折れていたんだと。そりゃそうだよな。90も超えてそんな大立ち回りをしたんだから。」と、Sは言う。
この件について警察は、精神錯乱を起こした老人が包丁を振り回したとして、事件化はしなかったようだった。
ただ、本当にただの精神錯乱だったのだろうか?
S曰く「あり得ない力で包丁振り回すっていうのは、精神錯乱者にはありうることみたいだけど、ただ、Aが言っていた『獣のような臭い』やBさんが見たっていう『あり得ない顔の歪み』っていうのは気になるよな」
鬼って、人じゃないものって意味だろう?
Sはそう言って笑った。
作者かがり いずみ
鬼を迎え入れてまで家を守りたかったのかなと思いました。
結局、A君は学者として大成はしなかったようですが、Bさんと幸せな結婚生活が送れているとすれば、それもひとつの道だったのでしょうね。家は存続しましたね。
思うようでは、なかったのかもしれませんが。