皆さんは19世紀に活躍したメキシコの宮廷画家ゴヤの「わが子を喰らうサトゥルヌス」という絵をご存じでしょうか?神話をモチーフに描かれたものなんですが、とにかくトラウマ級に怖い絵です。この話は大阪で小さな不動産屋をやる俺が体験した、その絵にまつわる呪われた恐ろしい話です。
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去年の末一軒家を賃貸契約したAさんから電話があったのは、契約から半年ほどが経った今年の梅雨時前のある日のことだった。
去年協議離婚が成立したAさんは本年度初頭から心機一転、うちの紹介で市郊外にある二階建ての家を借り小学生の息子と二人で住んでいたのだ。
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「息子がいなくなってしまったんです」
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開口一番思い詰めた声でこう切り出した彼の言葉に、俺は「え、また?」と思わず心の中で叫んだ。
事務所奥にあるデスクの椅子に座っていた俺は尋ねる。
「いったいどうしたと言うんですか?」
俺の質問にしばらく彼は無言だったが、やがて「あのう実は今私家に居るんですが、ご都合よろしければこちらで一緒に話が出来ませんか?」と言われたので、午後から予定が入ってなかった俺は承諾し事務所をあとにする。
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Aさんの住む一軒家は、事務所から車で30分ほど北に走った郊外にある。
梅雨前の灰色の雲の立ち込めるどこか暗鬱な空の下、俺は車を運転しながら今から行く物件の情報を思い出してみる。
─確かあそこのオーナーは民俗学を専門とする大学教授で、一人で住むには広すぎるという理由から本人は市内のマンションに移り住み、空きになった物件を他人に貸したいということで2年前うちに連絡があったな。
築10年ほどのモダンな二階建てで部屋数も十分すぎるくらいあり俺はすぐに物件登録を済ますと、情報誌とかにも掲載した。
それから半年くらいしてから小学生の一人娘と暮らす30代のシングルマザーから打診があって、すぐに賃貸契約が結ばれた。それが去年の始めの頃のことだったな。
でも彼女たちが住みだしてから半年くらい経った頃、母親から娘がいなくなったと突然連絡があったんだ。
最終的には警察沙汰にまで発展したのだけど結局娘は見つからず、間もなくしてその女性は家を引き払い出ていった。
もし彼女の娘があの家の中で失踪したというのなら、もしかしたらあそこも一種の曰く付き物件と呼べるかもしれない。ただ果たして真実は分からなかったから、その後も俺は一応通常物件として扱うようにしていた。
そして去年の末にAさんから連絡があって契約が結ばれ、今年早々からAさん父子はこの物件に住んでいた。
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市北部の山裾を東西に走る県道沿いにあるその家に俺が着いた時、時刻は午後三時を過ぎようとしていた。
昔ながらの三角屋根ではなくコンクリート打ちっぱなしの、洒落た外観をしたモダンな二階建てだ。
建物正面の駐車スペースに車を停める。
玄関に一番近いところには既に一台ライトバンが停車していた。
恐らくAさんの車だろう。
上下スーツの俺は車を降りると、物件ファイルを片手に玄関前まで歩くと呼び鈴を押してみた。
するとドア越しに聴こえる「鍵開いてますよ、どうぞ」というAさんの声。
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ドアを開くと正面の廊下にAさんが立っていた。
日曜日ということもあって上下黒の部屋着姿をしている。
お互い軽く挨拶を交わした後俺は靴を脱ぐと、Aさんの背中に従いフローリングの廊下を真っすぐ奥に進む。
そして一緒にリビングに入った。
アイボリーを基調とする広々とした部屋の中央辺りにあるダイニングテーブルに、Aさんと俺は向かい合って座る。
Aさんの背後のサッシ窓からは青々とした芝の生い茂る庭が覗き、午後の気だるい陽光がレースカーテン越しに射し込んでいた。
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前もって準備してくれていたコーヒーを一口すすった後、さっそく俺は口を開く。
「さきほど電話で息子さんが姿を消したと言われましたが、良ければ経緯を教えてくださいませんか?」
Aさんはしばらく考えた風にしていたが、やがて喋りだした。
「はい、いないということがはっきりしたのは今日の昼頃のことでした。ただ、まだそれも半信半疑なんです」
「それはどういうことなんですか?」
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「今日は日曜日で息子は学校が休みで、いつもだったら朝10時くらいにはこのリビングに姿を見せます。
というのは彼がお気に入りのテレビ番組が10時からあるからです。
それは毎週ずっと欠かさない彼の日曜日の朝のルーティンなんです。
でも10分経っても20分経っても現れない。
それで気になった私はとうとう二階の息子の部屋に行ってみました。
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ドア越しに声を掛けても返事がないので不審に思ってドアを開けてみると、6帖の室内はもぬけの殻でした。
それでまずは息子の自室それからトイレや浴室など考えうる限りの室内に立ち入り、隈なく探してみました。
でもいません。
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もしかしたら外に遊びに行ったのかも?と玄関口を確認したのですが、息子がいつも履いているスニーカーもクロックスもきちんと並んでいました。
常時利用する自転車も玄関先にあります」
「庭は見てみましたか?」
「はい、もちろん隈なく」
俺はしばらく腕を組んで考えていたが、やがて口を開く。
「息子さんは外に出た形跡はなく、また家のどの部屋にも庭にもいない。
とすると、、、」
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─似ている、、、
1年半前に姿を消したシングルマザーさんの娘の時と似ている。
と俺は思った。
彼女の娘も家から出た形跡がなかったにも関わらず、室内のどこにも姿が見当たらなかったのだ。
いったいこれはどういうことなのだろうか?
それから俺とAさんとの間に気まずい沈黙がしばらく流れる。
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それで俺は少し角度を変えて彼に質問をする。
「それでは息子さんがこちらの家に来てから何か変わったこととかはなかったですか?」
Aさんはしばらく考えるようにしていたが、やがて「いえ特には」と言うと顔を伏せた。
再び二人の間に沈黙が流れる。
すると突然Aさんは顔を上げると、何かを思い出したような表情でこんなことを喋りだした。
「変わったことかどうか分からないのですが、息子は二階のある部屋にすごく関心を持っていたようです」
「ある部屋?」
「はい普通の洋間なんですが、ちょっと変わったものが飾ってあって、、、
もし良かったら今から見てみますか?」
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それで俺はAさんと二人、二階に上がってみる。
その部屋は廊下沿いに並ぶ部屋の一つだった。
広さは8帖ほど。
どうやらオーナーが書庫で使用していたようで、入口入って手前の壁と向かいの壁は全て書棚で埋め尽くされている。
そして入って右手奥の壁には何も置かれてなくて、左手奥の壁には大きな額に入った一枚の油絵が飾ってあった。
窓はない。
俺は入口から室内左手に入ると両側に並ぶ空の書棚を見ながら歩く。
するとAさんが背後から
「さすが大学教授ですね。嘗てはこの棚にびっしり本が並べられていたんでしょうね」と呟いた。
俺は一番奥の壁の正面まで歩いた。
そこの壁には縦2メートル横1メートルほどの額に収まった大きな油絵が飾られている。
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それは全体に陰鬱なタッチで描かれていて、どこか宗教的な匂いがしていた。
漆黒の暗闇に包まれ、中央には全裸の凶暴そうな巨人が中腰で立っている。
その左手に握られているのは全裸の痩せた男の子。
巨人は白髪を肩まで無造作に伸ばし、かっと見開いた両眼の黒目はどこか無機質で裸の男の子を頭から食らいついており、口元からは生々しい肉塊やどす黒い血が垂れ落ちていた。
俺はこの絵を見るのは初めてではないのだが、改めて見てもやはりゾッとさせられる。
以前大学教授のオーナーであるSさんは最初この家の物件説明の時、この絵の説明をしてくれたことがあった。
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「恐ろしい絵でしょう。
これはね今から200年以上も前の頃、スペインの宮廷画家だったゴヤが晩年に描いたものでね、タイトルは『我が子を食らうサトゥルヌス』というんですよ。
サトゥルヌスというのは神話に出てくる神の一人なんです」
だいたいどうしてオーナーはこの絵だけをこの家に置いていったのだろうか?
俺はその理由を聞きそびれていた。
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「息子はその絵をよく見てたんです」
俺の背後に立つAさんが呟いた。
「この絵をですか?」
意外な様子で聞き返す俺の顔を見て彼は頷くと続ける。
「はい。
夜息子は一階寝室の私の隣のベッドで寝てるのですが、私が寝た後何度となく寝室を出ていってました。
それで何度かこっそりあとを付けたところ、二階のこの部屋に入り、この絵の前の床に座ってただじっと眺めているところを目撃したんです。
まるでうっとり陶酔するかのように」
「息子さんはこの絵の魅力に取りつかれていたんですかね?」
俺の質問にAさんは首を傾げた後、暗い顔で俯いた。
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結局Aさんの息子は翌日になっても見つからず、いよいよAさんは警察に連絡をする。
警察はAさんの家の内外を隈なく捜査した。そしてその範囲は日に日に少しづつ広がっていく。そして一月が経過したが、結局Aさんの息子が見つかることはなかった。
一人ぼっちになったAさんはその後も半年ほど息子の帰りを待つかのようにこの家に住んでいたが、やがて諦め彼も家を引き払い出て行った。
後編につづく。
作者ねこじろう
後編リンク先
https://kowabana.jp/stories/37685