これは、私が高校生の時に体験した話だ。
私の家の近くには、小さな神社がある。どこの田舎にでもあるような、普通の神社だ。そこで自治体の会合をやったり、小規模の夏祭りを行ったりしている。
私は幼い頃から何度もこの神社に行った事があり、怖い目に遭った事など一度も無かった。
それなのに、災いはあの日突然降りかかり、今でも私を苦しめている。
それが起きたのは、夏休みが始まった頃だった。
私は美術部に所属しており、スケッチの課題が出ていた。
どこかに丁度いい題材はないかと悩んでいると、近所の神社に、立派な松の木が何本か植えてあった事を思い出した。私はそれを描こうと思い、さっそく暑い中、自転車に乗って神社に向かった。
神社につくと、松の木にとまった蝉がけたたましい声で鳴いていた。
松の木は全部で六本。私はその中で一番形のいい物を選び、本殿の日影に座ってスケッチする事にした。
それから三十分程描き続けた頃だろうか。神社の入り口の方から、ボールが跳ねるような音が聞こえてきた。
ふと見れば、鳥居の側で少女が鞠をついている。年齢は十歳に満たないくらいで、夏祭りの日でもないのに着物を着ていた。また、親や友達の姿はなく、一人だった。
私は不思議に思いながらその少女を眺めていた。すると、鞠をついていた少女と目が合った。少女はにこりと笑って私に手招きをした。
どうしたのだろう、と思い、私は立ち上がって少女のもとに行った。
少女が私に言う。
「お兄さん、一緒に鞠で遊びましょう」
私は少女がなぜ着物を着て、こんな場所に一人でいるのか訊きたかったが、詮索するのはもっと仲良くなってからにしようと思い、とりあえずは少女の願いを聞き入れる事にした。
「うん、いいよ」
「じゃあ、私が歌を歌いながら鞠をつくから、お兄さんは後からそれを真似してね。いくよ」
少女はそう言って、歌を歌いながら鞠をついた。聞いた事の無い歌で、なんとも奇妙で不気味な歌詞だった。あまりにも印象深い歌詞だったので、今でも覚えている。だが、あえてここには書かず、この話の最後に書こうと思う。理由も後述する。
少女は歌い終わると、私に鞠を手渡した。私も少女と同じ歌を歌いながら鞠をついた。だが、一度聞いただけで歌詞をすべて覚えられるわけもなく、何度か失敗した。その度に少女に歌詞を教えてもらい、四回程やり直してようやく最後まで歌いきった。
「やっとできた」
私はそう言って視線を鞠から少女に移した。すると、さっきまでそこに立っていたはずの少女がいなかった。
私は驚いて周囲を見渡した。その時、手に持っていた鞠の感触に違和感を覚えた。見ると、握っていたのは鞠ではなく、ウシガエルの死骸だった。
私がまた驚いたのは言うまでもない。すぐに死骸を投げ捨てた。
まだ昼間で明るかったが、私は怖くて堪らなくなり、急いで家に帰った。
その日からだ。私の身に異変が起き始めたのは。
翌朝、私は目が覚めてすぐに腕に痛みを覚えた。見ると、右腕の肘から手首にかけて、一筋の切り傷ができている。それほど深い傷ではなかったが、血が滲み、ベッドにはいくつもの血痕が染みついていた。
私はこの傷にまったく身に覚えがなかったので、おそらく寝ている間についたのだと思われた。しかし、当然刃物がベッドに置かれているわけもなく、原因が分からない。
変だなと思いつつも、その日は特に気にせず、いつも通り過ごした。
その翌日、朝起きると、またしても同じような切り傷がついていた。今度は右足だった。ふくらはぎに右腕と同じような傷がついている。
二日続けて同じ事が起きたのだから、偶然では説明がつかない。そして、原因として思い当たるのは、やはりあの神社での出来事だった。何か良からぬ者に取り憑かれ、霊障が起こっているのではないか。
私はそう考え、神社の神主さんに連絡する事にした。神主の矢島さんとは、地域行事の際によく顔を合わせていたので、知り合いだった。四十代の気さくなおじさんだ。
私は矢島さんに電話をかけ、事情を話した。すると、すぐに神社に来るように言われた。内心、もう行くのは怖かったが、このままにしておくのはもっと怖いので、おとなしく従う事にした。
神社に行くと、矢島さんは白い斎服を着て待っていた。
私は矢島さんに本殿の隣にある社務所に通された。そこで、矢島さんに腕と足の傷を見せ、二日前の出来事を電話よりも詳細に語った。
矢島さんは所々で眉をひそめながら、黙って話を聞いていた。それが終わると、私に言った。
「砂田君(私の名前)は、この神社に祀られている神様の名前を知っているかな?」
「いえ、知りません」
「だろうね。ここで祀っている神様は、アマイケ様って言うんだよ。天の池って漢字を当てて天池様。砂田君は、天池様に取り憑かれてしまったんだと思う」
私はてっきり悪霊か何かに取り憑かれているのだと思っていたので、それが神様だと知って驚いた。
「天池様は、悪い神様なんですか?」
「邪神ってわけじゃないが、祟り神だな。手厚く祀れば人間を加護してくれる。でも、不敬不遜な扱いをすれば、呪われてしまう。砂田君は、二日前にこの神社でスケッチをしてたって言ったけど、本当にそれだけなの?」
矢島さんは疑念がこもった目でこちらを見た。私は必死で弁明した。
「本当に絵を描いていただけです。あそこにある松の木のスケッチをしました。本当にそれだけです」
「そうか……」
矢島さんは暫く考えて、こう言った。
「じゃあ、異界に行きたい、と思った事はある?」
「異界ですか……」
異界とは、神や妖怪が住む、この世とは別の世界の事である。私は異界に行きたいと思った事はないが、怪談が好きなので、異界が登場する怪談をいくつも知っていた。
「異界に行きたいと思った事はありませんが、異界がでてくるような怪談はよく読みます」
「怪談が好きなの?」
「はい」
「おそらく、原因はそれだね。君は普通の人よりも神秘的なものや心霊的なものに興味があるから、それで天池様に狙われたんだと思うよ。ただ、取り憑かれた一番の原因は、歌を歌ってしまった事だ」
「あの不気味な歌はいったい何なんですか?」
「砂田君が歌わされたのは、天池様を称えて、呼び寄せるための歌だよ。これを歌えば、間違いなく天池様と強固な縁が結ばれる。しかも今の時代は誰も歌っていないから尚更だ。昔はよくこの地域で歌われていたらしいけど、今では知っている人はごく少数だろうね」
「あの、ここで見た着物の少女が、天池様なんでしょうか?」
「いや、それは違う。砂田君が見たのは、おそらく昔、天池様の生け贄に捧げられた少女の霊だな。今では天池様の眷属(けんぞく)になってるんだろう。眷属っていうと聞こえはいいけど、要するに奴隷だよ」
「あんな小さい子が。可哀想に」
「可愛そうって、他人事じゃないよ。君も今まさに天池様の眷属になろうとしてるんだから」
私は血の気が引いていくのを感じた。
「……どういう事ですか?」
「どうやら天池様は人間の生け贄を欲しがってるみたいだ。昔と違って、今では動物の生け贄しか捧げないからね。それじゃ飽き足らなくなって、昔のように人間の生け贄を求めてるんだと思う。だから砂田君に眷属を差し向けて、強引に異界へと引き込もうとしてるんだ」
「どうしてそれで僕を傷つけるんです?」
「いくら天池様でも、いきなり人間を異界に引きずり込む事はできない。だから、まず狙った人間を呪いの力で苦しめて、弱らせるんだ。心身が弱くなればなる程、呪いの影響はますます強くなっていく。最終的には、天池様の姿が見えるようになって、こう誘惑されるだろう。『異界に来れば楽になれる』ってね。そして、苦しみから逃れるために、自ら異界の門をくぐり、行方不明になる。俗に言う神隠しだ」
私は泣きそうになりながら懇願した。
「矢島さん、お願いです。なんとかしてください」
「大丈夫。安心しなさい。ちゃんと手筈は整えてあるから」
「これから何をすればいいんですか?」
「今から、ある儀式を行うんだけど、その儀式は稲山にいる裂谷様(さきだにさま)という神様を呼び寄せるものだ。この神様に、砂田君の加護を頼もうと思う」
「裂谷様は、天池様よりも偉い神様なんですか?」
「高位の神ってわけじゃないかな。二柱とも祟り神だから」
「それって大丈夫なんですか? 祟り神なんかに頼んで」
「言っただろ? 祟り神は手厚く祀れば加護してくれるって。それじゃあ、さっそく儀式を始めようか。砂田君は外に出て待ってて」
私は言われた通り、社務所から境内に出た。しばらく待っていると、矢島さんが折りたたまれた紙と、手鏡を持って出てきた。手鏡はどこにでも売られているような普通ものだった。
矢島さんは私に手鏡を渡して言った。
「今から私が祝詞を上げるから、砂田君はあそこの稲山にその鏡を向けて立っていてほしい。裂谷様への目印になるから。祝詞の奏上が終わったら、儀式は終了だ」
「分かりました」
私は遠くに見える稲山に鏡を向けた。
矢島さんは稲山に向かって二回お辞儀をし、両手に持った祝詞奏書を読み始めた。
「稲山に坐しまして、万の兵を従え給う裂谷神は、戦を御支配あらせ給う戦神にして――」
矢島さんの祝詞が始まると、私のすぐ後ろから奇妙な音が聞こえてきた。ブクブクブクという、池の底から大きな泡が吹き出しているような音だ。振り向くが、音を立てているような物は見当たらない。
何の音か気になったが、矢島さんに尋ねて祝詞を中断させるわけにもいかず、私は怯えながら鏡を稲山に向けて立っていた。
「――天池神から守り給う事を聞こし召せと、かしこみかしこみ申す」
矢島さんは稲山に向かって一礼した後、こちらを見て言った。
「終ったよ」
私はほっと溜息をついた。
その時、稲山の方から強い風が吹いた。泡のような音はさらに激しさを増す。まるで沸騰した湯の中にいるかのようだった。
「これは天池様の声だよ」と、矢島さんは落ち着いた声で言った。
私はがたがたと震えながら立ち尽くすしかなかった。
しばらくは風が吹き荒れ、天池神の声が聞こえていたが、先に天池様の声が止み、その後に風が止んだ。
矢島さんが言う。
「儀式は成功だ。先に天池様の声が聞こえなくなったから、勝ったのは裂谷様だよ」
「これで、僕は助かったんですか?」
私は期待を込めて訊いたが、矢島さんの反応は暗かった。
「安心するのはまだ早いよ。天池様との縁が切れたわけじゃないからね。天池様の呪いを受けて、身体に傷がつく事は今後もあると思う。その度に、砂田君は裂谷様にお祈りして、自分を守ってくれるようにお願いしなきゃいけない。といっても、またこの儀式をする必要はないよ。砂田君はもう裂谷様との縁が結ばれているから、次からは祈るだけでいい」
「ずっとこの状態が続くんですか?」
「分からない。神は気まぐれだからね。天池様はおそらく、砂田君を眷属にしようと企んでるけど、それを諦めてくれるのが明日なのか、十年後なのか、それとも砂田君が死ぬまで諦めないのか、それは天池様にしか分からない」
「そうですか……」
「そんな落ち込まないで。今いい物を貸してあげるから」
矢島さんはそう言うと、本殿の中へ入っていった。そして、巻物を持って戻ってきた。
「砂田君はこれから裂谷様の加護を受けていかなくちゃならない。そのお祈りをする時に、裂谷様の姿を念じた方がいいんだ。だから裂谷様の絵が描かれた掛け軸を見せておくよ。これがその掛け軸。広げてみて」
私は掛け軸を受け取り、裂谷様の絵を見た。
そこには人間と同じ頭身の猿が描かれていた。侍のような鎧を身に纏い、矛を持って構えている。特に奇異に見えるのは顔で、大きくて丸い目が四つ、横に並んでいた。身体は猿だが、顔はまるで蜘蛛のようである。
「これが裂谷様の姿だ。この掛け軸は砂田君に預けておくよ。返してくれるのは天池様との縁が切れてからでいい。何かあったら、この絵を頭に念じながらお祈りするんだ。でも、寝ている時はお祈りできないから、この掛け軸を枕元に置いておくといい。そうすれば天池様も手出しできない」
「ありがとうございます。こんな貴重な物まで貸していただいて」
「いいんだよ、これくらい」
「あの、天池様はどんな姿をしているんでしょうか?」
「……それは知らない方がいい。これ以上、天池様との縁が強くなっちゃいけないからね」
「ああ、そうですよね。変な事を訊いてすみません」
「あと、縁を強くしちゃいけないのは、裂谷様も同じだ。だから一つ約束してほしい。砂田君は今後、絶対に稲山に行ったらダメだよ。これ以上、裂谷様との縁が強くなったら、今度は裂谷様に取り憑かれてしまうからね。そうなったら私には何もできない。天池様よりも、裂谷様の方がよっぽど恐ろしい神様なんだ。祝詞で聞いたと思うけど、なにせ戦の神だからね。それに比べて天池様は雨の神だ。こっちの方が人間にとって恩恵がある。だから私達のご先祖は、裂谷様をなんとか山に追いやったんだよ。天池様の力をお借りしてね」
「天池様も有難い神様なんですね。でも、そんな天池様に、裂谷様をけしかけちゃってよかったんでしょうか? 天池様はもの凄く怒ってるんじゃないですか?」
「うん、怒ってると思うよ。だから、これから私が三日三晩祈りを捧げて、天池様に許しを請わなくちゃならない」
「そんな大変な事まで……。もう、どうお礼を言ったらいいか」
「いいんだよ。私もこの歳になって、ようやく神職らしい仕事ができて嬉しいんだ。神主の仕事は、本来神様と人間の仲を取り持つ事だからね」
「矢島さんは僕の命の恩人です。この恩は一生忘れません」
「ありがとう。さて、私はこれからお祈りをしなきゃいけないから、砂田君はもう帰ってもいいよ。ここから先は私一人の仕事だ」
「分かりました。今日は本当にありがとうございました」
私はそう言って矢島さんと別れた。
家に帰ると、私は妙に背中が痛む事に気づいた。服を脱いで洗面所の鏡で背中を見ると、まるで刀の袈裟斬りを受けたかのように、肩から腰にかけて大きな切り傷がついていた。下着は血で染まっていたが、あまり深い傷ではなかったので、病院には行かなかった。
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あの儀式を行ってから、今年でもう五年になる。私の身体には、今でも時々切り傷が刻まれる。天池様はまだ諦めてはくれないようだ。
何度も痛みに耐えていると、気持ちが沈み込む事がある。いつまでこんな目に遭わなければならないのか、と。
そうやって心が弱った時、あの音が聞こえてくるのだ。湧き出す泡のような、天池様の声が。
そんな時、私は急いで裂谷様にお祈りをする。そうすれば声が聞こえなくなり、しばらくは身体に傷がつかなくなる。
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さて、以上が私の現在にまで続く体験談だ。
話の途中で、少女の歌をあえて書かなかったが、それには理由がある。それは歌詞を読む人に、警告しておかなければならない事があるからだ。
この歌を歌えば、天池様と強い縁が結ばれてしまう。そうなれば、たとえ神社に行かずとも、天池様を呼び寄せ、私と同じ目に遭ってしまう。
しかし、矢島さんによれば、歌詞を声に出しさえしなければ、天池様に取り憑かれる事はないらしい。
だから、私は少女の歌の歌詞を最後に書こうと思う。しかし、それはあくまでも、私と同じ犠牲者が出ないようにするためだ。この歌を歌っていたり、あなたに歌う事を迫ってきたりする何者かに遭遇したら、すぐに逃げてほしい。それは天池様の眷属だからだ。
それでは、歌詞を書く。念を押すが、絶対に声に出してはならない。
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この地に恵みの雨が降りゃあ
かの山の猿は目が潰れ
かの川の蛇は尾が裂ける
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雨を降らせるその姿
その髪、その肌、その声音
その爪、その牙、その目玉
ああ、恐ろしや、美しや
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この地に恵みの雨が降りゃあ
死者も生者も歌いだす
さあ、雨を呼べ、雨を呼べ
さあ、首を抱け、首を抱け
作者スナタナオキ