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24年06月怖話アワード受賞作品
長編9
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過去の記憶

あと数年で定年退職を迎える年になり、自分の今後についてぼんやりと考えていた。

これまで仕事一筋で、ほぼ無趣味。退職した後の事など何も思いつかない。

女房からも何か始めろと盛んに言われるのだが、退職後何年、何十年も続けられそうな何かがそう簡単に見つかるわけがない。

それだけ興味をそそられる事があるなら、もうとっくにやっている。

就職した後に職場結婚した女房とも特に共通の趣味は無いし、自分で言うのも何だが、ちょっとへそ曲がりな性格をしていて他人と同じことはしたくない。

何かにつけて、“みんなと一緒だね”と言われると何だか侮辱されたように感じてしまうのだ。

だから女房が、あれはどう?これはどう?とその辺に転がっているようなアイディアを持って来てくれても全く興味が湧かない。

そもそも、例え女房であっても自分自身の事に関しては、あれこれ言われたくないのだ。

そんな時にあるネットの記事で、老後に自分が何をしたらいいのか分からなければ、自分が子供の頃何に興味を持っていたのか思い出してみると良い、もし今でも興味が持てそうならば取り敢えずそれを始めてみたらどうか、というのが目に留まった。

子供の頃って何に興味を持っていたっけ。

そこでふと思いついたのが、自分のこれまでの人生を文章にしてみることだった。

いわゆる『自分史』ということになる。

もちろんそれを老後の趣味にしようと言うことではなく、老後に向けてまずはこれまでの自分の人生をちゃんと振り返ってみようということだ。

これから歳を重ねていけば、どんどん記憶が薄れていくだろう。

早い方がいい。

かなり断捨離が得意な自分は、卒業アルバムなどとっくに捨ててしまっているし、写真もそれほど残っていない。

両親も数年前に他界してしまった。

少しずつ自分の記憶を紐解いていくしかないのだが、それならそれでいいではないか。

期限などないのだから、全てを一気に書き上げる必要などない。

ひとりで暇な時に、幼稚園以前、小学時代、中学時代、等々、年代別にファイルを分け、思い出した事柄を思い出した時にそのページに書き記す。

このような場合に文書ソフトというのは便利だ。後から思い出しても、簡単に行挿入して書き足せる。

そして、書く上で自分の中のルールを決めた。

他の人の記憶に頼らない。

そして絶対に誰にも見せない。

とにかく自分の歩んできた人生を赤裸々に偽りなく、そしてそのとき何を考えていたのかも含めて正確に書き記す。

その為にその文書ファイルには、保存ディスク、フォルダ、そして文書データと、三重のパスワードを掛け、もちろん三度失敗すればデータはロックされるようにした。

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**********

ところであなたが思い出せる一番古い記憶って何?

俺の一番古い記憶は、子供の頃に住んでいたアパートの近所にある雑貨屋へ弟の為の粉ミルクの缶を買いに行ったこと。

弟が四歳下だから、俺が四歳か、五歳の頃の記憶だろう。

円柱型の缶の大きさは、直径二十センチ、高さ三十センチくらいだったのだろうか。

まだ小さな俺が両手で大きなミルク缶を抱えて家に向かって歩いて行く。

心配そうに店のオバサンが見送っていたのを憶えている。

時間にしたら一分もないような記憶であり、それ以前の記憶はない。

つまりここから俺の記憶による『自分史』が始まるのだ。

本当に小さい頃は、断片的な記憶しかないのだが、それをゆっくり思い出しながら書き留めていく。

小学校辺りからその量は急激に増え、思春期になれば、絶対に人には言えない、見せられないような記憶も多くなってくる。

ひとつ思い出せば、芋づる式に思い出されることも多く、書き記していく作業は楽しかった。

もちろん書いている時に、ああこの時にこうすれば良かった、こんな風にしていたらどうなっていたのだろうという思いも次々に浮かんでくる。

しかし、今日までの自分の人生は全て過去であり、一本の確定した線しかない。

とにかく事実をきちんと書き記さなければ、『自分史』というこの文章の意味がなくなってしまうのだ。

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**********

ところがそんなある日の事だった。

犬の散歩がてら近所の公園で子供達が遊んでいるのを眺めていた時に、小学校の頃の記憶がふと蘇った。

近所に住んでいたひろみちゃんという同い年の女の子と裏山で遊んでいた記憶。

名字も、名前の漢字も思い出せない。

ひろみちゃんの様子からすると、小学校四、五年生だろうか。

スカートの裾を翻して裏山の遊歩道を駆け上がって行くひろみちゃん、そしてそれを追いかける自分。

その一瞬、数秒だけの記憶。

横に生えている柿木の実が赤く熟している。おそらく晩秋だろう。

家に帰り、パソコンに向かって早速書き記そうとした時にふと気がついた。

どこをどう記憶違いしたのだろう。

このひろみちゃんは小学校二年生の時に交通事故で死んでいるのだ。

「ひろみちゃんが車に轢かれて死んじゃったのよ。」

悲壮な顔でそう告げる母親の顔も声もはっきりと憶えている。

そして母親に手を引かれ、葬式に出席したことも。

以前書いた自分史のデータを見てもそのことが書かれており、今日公園で思い出したその記憶が間違っているとしか思えない。

男の子の友達と秘密基地を作って遊んだりした裏山の遊歩道周辺は、間違いなく記憶にある場所だ。

誰か別の子と遊んだ記憶がひろみちゃんとすり替わってしまったのだろうか。

しかし子供の頃、学校の外でひろみちゃん以外の女の子と遊んだ記憶はない。

何だろう、さっぱりわからない。

ただ事実と矛盾している以上は自分史に書き加えるわけにはいかない。

取り敢えずテキストボックスを使って本文とは別にメモ書きすると、該当する小学四、五年生辺りのページに貼りつけておいた。

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***********

やはり小学校高学年、中学時代以降は記憶していることも多く、思いつくままに年代を行ったり来たりしながら記憶を書き留めて行く。

普段は忘れているような記憶も、一旦文字に起こすとあれこれ鮮明に思い出されてくるのだ。

初恋は小学校五年生の時、同じクラスだった女の子。

近所で拾ってきたエロ本をベッドの下に隠して、母親に見つかったこともあったっけ。

何気ない記憶の断片が、次々と別な記憶を呼び起こす。

書き始めて半年が経つ頃には相当な量になっていた。

そろそろネタも尽きてきたかなと思いながら、また新しい記憶の引き金を求めて書き連ねてきた文書をスクロールしていると、あのテキストボックスのメモが目に留まった。

裏山の小道、柿の木、トレーナーにフレアのミニスカート。

そしてひろみちゃんの屈託のない笑顔。

メモを見ると、他の記憶と同じようにその情景が鮮明に思い出される。

しかしそれは間違った記憶なのだ。

女房が出掛けていることをいいことに、夢中になって数時間パソコンと向き合っていた俺は多少の眠気を感じ、冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出すと息抜きがてらベランダに出てデッキチェアに腰を下ろし、もう一度ぼんやりとひろみちゃんの記憶を辿ってみた。

喪服を着た母親に手を引かれ、ひろみちゃんの遺影が飾られた祭壇の前に立っている。

そう、ひろみちゃんは死んだんだ。

いや、本当にそうか?

俺は母親に手を握られたまま、遺影ではなく、そして焼香台の上の写真でもない別な方向を見ていたような気がする。

その視線の先で同じように母親と手を繋いで立っていたのは…

黒いワンピースを着たひろみちゃん?

そして俺に向かって小さく手を振っていたような気がする。

いやいやいやいや

そんなはずはない。

しかし記憶の中でもう一度祭壇の遺影に視線を向けると、そこに映っていたのはひろみちゃんではなく違うクラスの女の子だった。

顔は学校で見知っていた。

死んだのはこの子だったっけ?

(ひろみちゃんが車に轢かれて死んじゃったのよ。)

再び母親の声が脳裏を横切る。

でもひろみちゃんは死んでいなかった?

そうだとすると、逆に母親から聞いた交通事故の話から葬式までの記憶の方が間違っていたのか?

しかしあの裏山での一瞬の記憶以外、その後の記憶にひろみちゃんは登場してこない。

俺は大学へ入学するまで引っ越しなどしていないのだから、幼馴染である彼女が記憶に登場してこないのはおかしいじゃないか。

どういうことなんだ?

デッキチェアに寝そべり、俺は頭の後ろに腕を回して枕にすると、空を眺めながらもう一度ゆっくりあの裏山のシーンを思い出してみた。

本当であれば見たことがないはずである、小学校高学年になろうかというひろみちゃんの顔。

ちょっと賢そうで、明るく優しい笑顔。

中学になる頃にはもっと大人びてくるんだろうな。

そう思ったところで、脳裏に蘇ったのは中学時代のひろみちゃん。

グレーのジャケット、胸にはブルーのリボン。髪形はポニーテール。

間違いなく、俺の通っていた中学の制服であり、ひろみちゃんは隣のクラスだった。

そこからいろいろな記憶が立て続けに蘇った。

中学一年の終わりにバレンタインチョコを貰い、明確に恋人同士だと宣言しないまま、付き合っているのだと自他共に認めるようになった。

クラスは違ったが登下校は必ず一緒。

そして同じ高校へ通った。

ずっと一緒だったはずなのに、何で忘れていたんだろう。

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*********

「あなた、そろそろ晩御飯よ、起きて!」

出掛けていたはずの女房の大きな声ではっと我に返った。

どうやらデッキチェアの上で眠ってしまったようだ。

ベランダの外はもう夕暮れであり、どうやら夢を見ていたらしい。

妙な夢だった。

「まったく、そんなところでうたた寝なんかしていると、風邪を引くわよ。先にお風呂入る?」

女房がベランダに顔を出し、そう言って笑った。

「ああ、風呂に入るかな・・・えっ、ひっ、ひろみちゃん?」

ベランダに突き出された顔は女房ではなかった。

相応に歳は取っているが、その顔立ちは間違いなくひろみちゃんだ。

「なあに、いきなりめちゃくちゃ懐かしい呼び方して。変な夢でも見たの?」

いや、変な夢を見ているのは今、この時だ。

何でひろみちゃんが俺の女房としてここにいる?

俺の女房はどこへ行った?

俺は慌ててデッキチェアから起き上がると部屋に入り、パソコンのデータを確認した。

自分で書いた文章なのだから、スクロールしながら斜め読みでも充分内容は分かる。

やっぱり、俺の記憶によると中学時代は同じ放送部だった女の子と付き合い、高校に入って別の彼女が出来た。

そう、それが俺の記憶、『自分史』なのだ。

なのに今俺の後ろには怪訝そうな顔をしたひろみちゃんが立っている。

俺は試しにひろみちゃんのほっぺたをつまんで引っ張ってみた。

「い、痛いじゃない!いきなり何するのよ!」

やはり夢ではなさそうだし、幽霊でもない。

誰かがお面を被っているわけでもない。

「ご、ごめん。風呂に入ってくる。」

パソコンの電源を落とすと俺はそそくさとその場を離れた。

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**********

湯船に浸かり、何が起こっているのかゆっくり考えてみる。

しかし、考えれば考えるほど先程夢に見たひろみちゃんとの過去が正しく思えてくるのだ。

そう、あの裏山の遊歩道では、あの後ふたりで柿を食べたんだった。

同じ高校へ通い、大学で一旦離れ離れになったが、付き合いは細く長く続き、就職して五年目に結婚した。

そう、それが正解なのだ。

あのパソコンに打ち込んだ『自分史』が間違っている。

だって現実として今、自分の傍にいるのはひろみちゃんなのだから。

あのパソコンに打ち込んだ記憶。

あんな記憶、何処から出てきたのだろう…

俺は半年以上もありもしない妄想を追いかけていたのか?

佳奈、あの間違った記憶の中で俺の女房だった女性。

初デートからプロポーズ、そして今日まで共に歩んできた人生。

あの『自分史』に書かれている彼女は実在しないということか…

でも…

考えても仕方がない。

忘れよう。

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俺はいま、女房であるひろみちゃんのことを何て呼んでいるのかな?

思い出せない。

取り敢えず、“おい”、でいいか。

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でも、ひろみって漢字でどう書くんだろう。

なぜそれが思い出せない?

◇◇◇ FIN

Concrete
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これが三作品目の感想です。
少し、まとまりに欠けるような感じがしました。
全部に“怖い”を押したよ-。

選挙ではお願いしまーす!
戦いまーす!

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