新製品の開発が佳境に入り、年内の完成を目指し連日遅くまで残業が続いていた。
終電とまではいかないが、その少し前の電車に乗り、自宅アパートへ帰り着くのは日付が変わる直前になる。
基本的に技術派遣社員として仕事に就いているのだが、忙しさは正社員と変わらない。
帰り道の途中、最寄り駅を出て駅前商店街の中にある角を曲がると、線路の下を潜るアンダーパスがある。
車道はなく、歩道だけの蛍光灯の灯る地下通路になっており、線路四本分の下を潜るために数十メートルの長さだ。
ここを超えると住宅地に入り、十分程歩くと自宅アパートに帰り着く。
今日、そのアンダーパスを抜けようとした時、目の前にバッグが落ちているのに気がついた。
周りを見回しても誰もいない。
最近流行っているらしい三日月形をした三十センチ程の薄いピンク色をした肩掛けバッグであり、おそらく女性物だろう。
しかし、ハンカチや財布などの小物なら理解できるが、こんなサイズのバッグを落とすものだろうか。
拾い上げて見るとそれなりの重さがあり、空ではない。
もしかしたら、この場で誰かに拉致されたとか、暴漢に襲われたなどの事件があったのか。
中を確認してみようかと思ったが、後で中身が無くなったなどと妙な疑いを掛けられてもつまらない。
このまま駅へ戻って派出所に届けるのが無難だ。
そう思って来た方向へ振り返った時だった。
「うわっ!」
すぐ後ろに人が立っているのに全く気がつかなかった。
ストレートのロングヘアで濃いグレーのスーツを着た若い女だ。
「あの、そのバッグ…」
女は俺が手に持っているバッグを指差した。落としたのに気づいて取りに戻ってきたに違いない。
「あ、あなたのバッグでしたか。ここに落ちていたので交番へ届けようと思ったところなんです。」
そう言ってバッグを女に差し出した。
彼女は自分の物だとは一言も言っていないのだが、こんなところで見知らぬ俺に声を掛けてくるくらいだから疑問に思うことはなかった。
「あの…、中を見ましたか?」
バッグに手を出そうとせずに女は俺の顔を見つめてそう尋ねてきた。
何か見られたくないものでも入っているのだろうか。
「いいえ、警察へ持っていく前に開けて、何か盗ったと疑われたくないので開けてないですよ。」
すると彼女はどこか寂しそうに微笑んでバッグに手を伸ばした。
「そうですか、ありがとうございます。」
「いえ、僕は何もしていませんから。」
そのまま女にバッグを渡すと、俺はアンダーパスを抜けて自宅へと急いだ。
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そんなことがあったこともすっかり忘れて、翌日も同じような時間に電車を降りた。
そしてアンダーパスに入ると向こうにピンク色の塊のような物が落ちているのに気がついた。
その途端、昨夜のことを思い出したが、同じ場所に二日続けて同じバッグを落とすなんてあり得ないだろう。
しかし近づいてみると、やはり昨日と同じバッグのようだ。
このバッグをを拾って、
後ろを振り返ると、
いた。
「あの、すみません。そのバッグ…」
女性の顔を見て声を聞いた瞬間、これは絶対にデジャビュだと思った。
しかしデジャビュは今起ったこと、今見えているものが、過去にも経験したことがあると感じることであり、未来を予見するものではない。
しかし俺はこの後にこの女とどのような会話が交わされるのか知っている。
しかしその通りになることが何故か怖かった。
「これ、あなたのですよね。中身は見ていません。もう落とさないように気をつけて下さい。」
一気にそれだけ言ってバッグを女に押し付けるようにして渡すと、踵を返してそのまま小走りにその場を後にした。
今のは一体何だったのだろう。
アパートへと歩きながら先程の女の顔を思い出してみたが、過去に会ったことはないはずだ。
ひょっとするとあの女はわざとやっているのか。
何らかの理由で俺に近づくために、わざとバッグを落としておいたというのだろうか。
二日続けて同じ場所に。
あり得ないだろ。しかしそれがそもそもの狙いなのか?
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もし同じことがもう一度あれば、あの女を問いただしてみるしかない。
そしてその翌日も、それが当たり前のように、バッグはアンダーパスの途中に落ちていた。
俺はすぐに後ろを振り返ったが誰もいない。
足を早めてバッグの傍まで来てもう一度後ろを確認したが、やはり誰もいない。
このアンダーパスには、横道も隠れるような場所もない。
おかしい。今日はバッグだけ?
そのままハンドバッグを拾い上げた。
「あの、そのバッグ…」
拾い上げた途端、すぐ後ろからあの声が聞こえた。
「え?」
振り返ると、一昨夜、そして昨夜と同じ女が同じ服装ですぐ後ろに立っているではないか。
どこから現れたのだ?その疑問と同時に、突然現れたこの女はこの世の人間ではないという恐怖心が一気に湧きあがった。
「うわ~っ!」
反射的に体を反転させてダッシュで逃げた。
走って逃げながら、もし彼女が追ってきているとすれば自分のアパートへは帰らない方がいいのではないかと、ふと思った。
すっかり息があがり、はあはあと呼吸しながら、自宅から少し離れた公園のベンチに腰を下ろした。
あの女が追って来てないだろうかと周りを見回してもそれらしい姿はない。
どうやら逃げ切れたようだ。
「あ…」
咄嗟のことであり、手にはピンクのバッグを握ったままだった。
慌ててもう一度周囲を見回してみたが、やはりあの女の姿はない。
少し落ち着いてくると、このバッグの中身が気になった。
このバッグの中を見ればあの女が誰だか判るかもしれない。
もう一度周囲を見回して周囲に誰もいないことを確認すると上部にあるファスナーに指を掛けた。
何か飛び出してきたりはしないかと、恐る恐るファスナーを開くとバッグの口を開いてみる。
ざっと見る限り普通に女性が持ち歩いていそうな中身だ。
化粧品と思われるポーチ、折り畳みの傘、小さな水筒、タオル、そして赤い長財布。
財布の中には免許証が入っていた。
百瀬朋恵
写真を見るとあの女に間違いなさそうだ。
1995年生まれということは、二十九歳。俺と同い年。
住所は東京都葛飾区XXXXXXXXX
このすぐ近くだ。
行ってみようかと思ったが、やはり拾得物として警察へ届けるのが一番だ。
落とし主の免許証が入っているのだから、警察はすぐに連絡を取るだろう。
あのような姿でアンダーパスに現れるのであれば、この百瀬朋恵という女は無事ではないような気がする。
そんな彼女の自宅にこんな時間ひとりでのこのこ出掛けるなんて、場合によってはとんでもない結果を招きかねない。
そもそも自分とは何の関わりもない女なのだから、何も見なかったことにしてこのまま警察へ届けよう。
その時ふと思い出した。
最初にアンダーパスで彼女に会った時、彼女は聞いてきた。
バッグの中を見たか、と。
あれは、見られたくなかったのか、見て欲しかったのか。
見ていないと答えた時、彼女は寂しそうに微笑んだ。
どちらとも取れる反応だったが、バッグの中には特に見られて困るようなものは無いと思う。
とにかく警察へ行こう。
もちろん駅前に戻るためにはあのアンダーパスを通る道が近いのだが、そんな度胸は無い。
俺は大きく遠回りをして駅前の派出所にバッグを届けた。
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警察から連絡が入ったのはその二日後だった。
確認したいことがあるからすぐに警察署へ来てくれとのことだ。
もちろん仕事中だったが、相手が警察じゃ仕方がないと上司も渋々許可をくれ、俺はすぐに警察署へと出向いた。
警察署では何の説明もなく、いきなりバッグを拾った時の状況を正確に話してくれと言われた。
派出所にバッグを届けた時は、あのアンダーパスで拾ったとしか説明していなかったのだが、何かあったのは間違いなさそうだ。
しかしあの女のことを正直に話しても信用して貰える気がしない。
俺は取り敢えずバッグを派出所へ届けた時に話した通り、あそこで拾ったとだけ話をした。
するとそれまでの警察官に代わって強面の私服刑事が俺の前に座った。
「あの地下通路には防犯カメラがあってね、君がバッグを持って女性と話をしているのが映っていたんだけどな。」
あの女はカメラにしっかりと映っていたのだ。
俺は、本当の事を言っても絶対信じて貰えず、逆に変な風に受け取られるのを恐れた、と前置きして、この間に起こったことを正直に話した。
「ふむ、なるほど。ありがとう。」
意に反して刑事は俺の話を驚くほど素直に聞いてくれた。
警察が確認した昨夜の防犯カメラの映像では、俺が画面に映る数十秒前に突然あのバッグが滲み出てくるように地面に現れ、俺が拾い上げた直後にあの女が突然俺の背後に現れると、すぐに俺が逃げ出す姿が映っていたそうだ。
この現実的ではない、まさに心霊動画のようなこの映像を警察もどう解釈していいのか困っているのだと刑事は言った。
「それで、このバッグの落とし主は見つかったんですか?カメラに映っていた女性なんですよね?」
俺は逆に刑事に聞いてみた。
「ああ、バッグの中に免許証が入っていてすぐに分かった。しかしバッグを届けようと警官がその住所へ向かったところ、その女性、百瀬朋恵が首を絞められて殺されていたんだよ。」
「こ、殺されて⁉」
あのような形で現れる以上は…とは思っていたが、実際にそうだと聞かされるとやはり驚いてしまう。
しかし、それに続けた刑事の言葉はもっと驚きだった。
「君はこの百瀬朋恵を知っているね?」
俺は思い切り首を横に振った。
「そんなはずはないんだけどな。この人は君と同じ派遣会社に事務として勤めていて、それに…」
刑事はそこで言葉を区切り、手に持っていたファイルを開いた。
そこには一枚の写真があり、そこに写っていたのは…
俺だった。
「あのバッグの中にあった化粧ポーチの中に入っていたんだ。これは君だね?」
それは派遣会社の事務所で撮られた写真だった。
確か派遣先へ提出するプロファイルに添付するからと言われて撮られた写真だ。
あの女が派遣会社の事務をしていたのであれば入手するのはそれほど難しくなかったのだろう。
バックの中を見たかと確認してきたのはこの写真のことだったのか。
「あの防犯カメラに映っていた幽霊と思しき女性は百瀬朋恵のように見える。彼女はどうして君の所に化けて出るのかな。」
「そんなの知りませんよ。そもそも僕自身はこの女性のことなんか全く知らないんですから。」
しかしこの写真が彼女のバッグにあったということは、彼女が俺の事を知っていたのは疑いない事実であり、知らないと言い切る俺に対してこの刑事がいろいろ質問してくるのは当然だろう。
「どにかく、発見された百瀬朋恵の遺体は死後数日が経過していた。詳しい検死結果はこれからだが、この数日の君の行動を思い出せる限り話してくれないか。」
思い出すという程のことではない。
この数日と言わずこの半月の間は、土日の休みもなく朝八時に家を出て九時から仕事、夜の十時半か十一時に会社を出て帰宅して寝るだけの繰り返しだ。
アパートで寝ている時間はひとりであり、そこを疑われると証明してくれる人は誰もいないのだが。
「とにかく、もし僕が犯人ならわざわざあのバッグを警察に届けて、そこで自分の住所氏名連絡先をバカ正直に書くわけがないでしょう。」
「まあ、そう思うが、第一発見者が犯人ということもよくある話だからな。」
しかし警察も俺が犯人である可能性は低いと判断したのだろう、この日はそれで帰宅を許された。
俺はふと思いついて帰りがけに刑事に聞いてみた。
「僕がバックを拾ったあのアンダーパスは普通に通ることが出来ますか?」
「ああ、あそこで何かあったわけではないから特に規制はしていないよ。どうして?」
「いえ、帰りにあそこを通れないと面倒だなと思っただけです。それじゃ、失礼します。」
俺の思いはそうではなかった。
彼女、百瀬朋恵の幽霊にもう一度会って話をしようと思ったのだ。
彼女の住所からすると、彼女もあのアンダーパスを使っていた可能性が高い。
そこで暴漢に襲われたのかもしれないが、遺体が発見されたのは彼女の自宅だと刑事は言っていた。
どういうことなのか。
そして彼女が何を思って死後に俺の前へ現れたのか。それについてはおそらく警察では調べてくれないだろう。
それならば自分で確認するしかない。
納得できないことはとことん調べてみたい性分なのだ。
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警察署から直接会社へ戻ると、いつも通り仕事を済ませて会社を出た。
そして駅を出るといつものようにあのアンダーパスへと向かう。
いつもは疲れ切ってとぼとぼと歩いているだけなのだが、今日はかなり緊張しているのが自分でも分かる。
スロープを下り、アンダーパスに入るとほぼ直線の地下通路が見通せるのだが、ここから見る限り、通路上には何も落ちていない。
あのバッグが警察に届けられ、自宅で彼女の遺体が発見された今となってはもうここに姿を見せないのだろうか。
しかし俺的には何か今ひとつすっきりしない。
派遣会社で俺のプロフィールから自宅近くに住んでいることを知って、俺の事が気になっていたのかもしれない。
しかし、それが今回の事件とどうつながるのだろうか、俺にバッグを拾わせたことに何の意味があるのか。
そんなことを考えながら、アンダーパスを進んでいくと不意に背後から足音が聞こえた。
カッ、カッ、カッ…
硬いヒールの音。
来た。俺はすかさず振り返った。
そこには百瀬朋恵がうっすらとほほ笑んで立っていた。
こうやって改めて見ると、顔色は異様に青白く、若干透けて見えるような気がする。
そんな姿を見たからか、咄嗟に言葉が出てこない。
「も、も、百瀬朋恵さんだね?」
彼女はゆっくりと頷いた。
とにかく核心の部分を聞くのが先決だ。
「君を殺したのは誰なの?」
(タカアキ…)
知らない。
(ここで待ち伏せされて、部屋に連れて行かれて、首を絞められたの。)
そのタカアキという人物が誰なのかわからないが、彼女を殺害した犯人だということだ。
(その時、ここへバッグを落として置けばこの後にここを通るはずのあなたが拾ってくれると思ったの。)
ここにバッグを落として置けば、この場所で自分が拉致されたことが判るということだろうか。
この時はまさか自分の家に連れて行かれるとは思っていなかったのかもしれない。
それが何時頃だったのか分からないが、その後俺が通り掛かるまでの間に他の誰かがバッグを拾ってしまうということも有り得ると思うのだが、しかし彼女は咄嗟に”俺が拾う”、そう思い込んでしまったのだろう。
そしてそれを拾った俺が助けてくれる、そんな妄想に近い期待があったのかもしれない。
その思いが彼女をバッグと共にこの場所へ地縛霊として縛りつけてしまったのか。
(助けて…)
彼女はそう言ったが、もう既に遅い。
君は死んでしまったのだ。
俺は彼女を哀れに思いながらも、彼女の傍を離れアンダーパスを抜けた。
アンダーパスを抜ける時に一度だけ振り返ったが、彼女はその場所にじっと立ち尽くしていた。
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その翌日の夕方、あの刑事から犯人が逮捕されたという連絡があった。
前日の夜、アパートに戻ると深夜にも関わらずすぐに刑事に連絡を入れ、百瀬朋恵の幽霊が”タカアキ”が犯人だと言っていたことを話してあったのだ。
犯人は百瀬朋恵の元カレで今瀬孝明という男だった。
その男の言い分によると、百瀬朋恵から好きな男が出来たと一方的に別れを告げられ、同棲していたアパートを追い出されたのだが、なんとか復縁したいとあのアンダーパスで待ち伏せした。そして強引にアパートへ連れ込んだが、やはり激しい口論となり、結局絞め殺してしまったとのことだった。
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ということで、刑事事件としては一件落着した。
結局俺は何もしていないのに、百瀬朋恵の一方的な想いだけで事件に巻き込まれたということだ。
迷惑な話。
そして俺は別な町へ引っ越しをした。
おそらく彼女は今でもあのアンダーパスで俺が通り掛かるのをじっと待っているのかもしれない。
あそこにいる彼女の霊を直接供養する者は誰もいないのだから。
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俺が供養?
俺にそんなことをする義理はない。
俺がするべきことは、二度とあそこを通らないということだけだ。
俺自身の為に。
…
◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
ミステリーとして書くのであれば、前半にこの元カレを登場させて伏線を引き、最後にやっぱりこいつが犯人だったかというように持っていくんだろうけどな。
今回はそこまでの時間的余裕がありませんでした。