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Oは大学卒業後、電子書籍配信サイトの運営企業に就職した。月収は二十三万円だった。
Oには同い年の彼女が居た。
「よく小学生の頃に飼っていた、ルルという猫の話をしてくれました。写真を見せてくれたこともあります」
足が短く、少し後ろに反った耳が特徴的な黒猫だった。
ルルは彼女が小学六年生の時、行方不明になったそうだ。
新しい猫を飼えばいいと当時、母親は言った。でも、彼女はそういう気にはならなかったという。
二十五歳の時に、Oは彼女に結婚を申し込んだ。
返事はOKだった。
二人は結婚式を挙げた。
秋の新婚旅行の行き先は、屋久島に決まった。
「二人とも旅行が好きだったので......。それに『もののけ姫』のファンだったんです」
十月。
屋久島に向かったOと彼女は、縄文杉の見学ツアーに参加した。
他の参加者には高齢の夫婦が多かった。
「気温はそれほど高くは無かったですが、空気が蒸して......。それから、兎に角虫が多かったです」
ツアー中には、豪雨が降り出した。
ビニール製の合羽を着込んでも、服に雨が入り込んで来る程の雨だった。安全確保のためツアーは一旦中断された。
雨宿りを兼ねて参加者全員で旅行者向けのカフェテリアに入ることになった。
Oは“妻”の様子がおかしいことに気が付いた。
「ぶるぶる身体を震わせて、唇はすっかり紫色で......。肌は気味が悪いほど白くて」
カフェテリアで、妻にホットミルクでも頼もうーー。
Oはそう考えた。
カフェテリアの店内には、店主と何匹もの黒猫が居た。
黒猫は皆、左の後ろ足や耳、目など身体のパーツが欠損し、また首に乳白色のコルセットのようなものを巻いた猫も居た。
尻尾が極端に短い猫や、腹部に千切れた皮膚を無理やり凧糸で縫い合わせたような跡を持つ猫も居た。
「“変”だとは思わなかったんです。何か事情があるのかな、とは感じましたけど」
いやあああああ!
突如、妻が声を上げ、棚や机に身体をぶつけた。
「どうしたんだい」
「大丈夫?」
周囲の人間の呼び掛けに、妻は答えなかった。
妻は雨がざあざあと降り続く外に飛び出した。
Oは驚き、妻の後を追った。
張り出した杉の木の根元に、大雨に髪を濡らした妻は蹲り、「ルル......、ルル!」と叫び、“穴”を掘っていた。
雨を含み、臭い土の匂いがふわあと立つ。葉や草の根、大きな石が穴から覗く。
小さなピンク色の爪が辺りに落ちていた。根元には、皮膚組織のようなものがぺらぺらと付着していた。
「ルル......、ルル......」
「どうしたの?」
「......私、猫を見ていたら堪らない気持ちになって」
「ルルのことがあったから?」
「そうね」
「もう十年以上、昔のことだよ」
早く彼女をカフェテリアの中に連れ戻したいと思っていました。それにあまり過去を引きずるのも良くないだろうとーー。
「どれだけ時間が経ったかは関係無いと思う」
穴を掘る手を止めると、妻は穴の中から、“物体”を引き摺り出した。
「ルルの亡骸でした」
ルルの亡骸はまるで昨日までは生きていたかのように生々しく、ぱっくりと裂けた喉元から温かみを残した血が流れていた。
地中に埋れていたにも関わらず、毛並みは美しく、泥に塗れてはいなかった。
ルルの左目は潰れ、その跡は暗い穴のようになっていた。
「妻はルルの亡骸を丁寧に地面に置きました。そしてーー」
妻はルルの喉元からぼとぼとと垂れる血を手の平に掬い、自らの頬に擦り付けた。
肌の上、薄く赤色が広がり、それを雨が押し流す。
「......私、綺麗?」
「止めなよ」と、Oは言った。
死んだ猫の身体を地表に露出させて、その血液を扱っている訳ですから......。それが良い行為である訳が無いですよね。
*
その夜、Oは妻と同じホテルの部屋に泊まった。
「新婚旅行ですから、当然のことです。ただ、妻を“見張る”という目的も併せ持っていました。様子のおかしさがどうしても気掛かりで」
0時を回る頃、Oは金縛りに襲われた。
背中が張り、腕や足が生肉の塊のように重い。
「金縛りに遭ったのは、初めてでした」
妻に助けを求めようと、声を出すことを試みたが上手くいかなかった。
ベッドのタオルケットの上に一匹の黒猫が姿を現した。その後に続くようにして、二匹目、三匹目と黒猫がタオルケットに乗っかった。
黒猫の数が十匹近くに上ると、Oの下半身は黒猫に覆われるような形になった。
「身体は動かすことが出来ませんでした。ただ唯一、目を動かすことは出来ました」
目を右に向けると、隣に寝ていた妻はベッドから起き上がり、狼狽した様子でOの名前を呼んでいた。
「何処なの。何処に行ったの?と......。姿が見えていなかったのだろうと思います」
妻は部屋を出て行った。
次の瞬間、Oの下半身を覆う十匹近くの黒猫の輪郭が崩れ、“溶けた”。
黒猫は“影”に変容し、Oの臍の辺りから体内へ吸い込まれていった。
「血液と内臓が冷たくなるような感覚がありました。まるで、自分が空っぽになったような......。何故かとても淋しい気持ちでもありました」
黒猫が残らず“吸収”されると、Oの身体の金縛りは解けた。
朝。
ホテルでは豪華な朝食が振舞われたが、Oはまるで食欲が無かったという。
*
東京に戻り、間もなくOは仕事を辞めた。
妻は就職活動を行い、女性向け占いサイトを運営する企業に職を得た。
「妻は仕事を楽しんでいるようです。ただ、日に日に目の下の隈を濃くしているようで気掛かりです」
Oは言った。
作者退会会員