・・身体がシートに押し付けられ、ゴォーというエンジン音が小さく低くなり始めた頃には雲が下に見えた。
僕は小学四年生、初めて一人で飛行機に乗り祖父母の待つ北海道へと向かっている。
・・リュックを背に、お土産で膨らんだバックを両手で引きずりロビーへ歩く非力の自分。先ほどの大人びた表情は完全に失せていた。
顔を紅くしてロビーに出ると、祖父母は満面の笑顔で迎えてくれた。
「おぉ坊、でかくなったな」と爺ちゃん。
「真ちゃんお疲れ様、一人で偉いね」と婆ちゃん。
僕も父も一人っ子で、父方の祖父母にとっては僕が唯一無二の子孫だと言い聞かされていた。そう僕は祖父母に溺愛されていた。
・・老夫婦二人が雪深い北国の田舎で暮らしていると聞けば寂しい感じがするが、暮らし振りは至って呑気な様子。
定年を機に東京から移住して自給自足を始めると言ってたが現実は家庭菜園に毛の生えた程度。
そんな畑の横で「北の国から」のようには行かないぞって日焼けした顔で大笑いする爺ちゃんと、最近ハーブ茶に凝り始めた婆ちゃん。
そんな気楽な老夫婦が住む街は空港のある地方都市まで車で約二十分、コンビニなんかは歩いて十五分ぐらいで、いわば郊外の田舎街だ。
しかし、都市とは決定的に違うのは虹鱒の釣れる川にも、クワガタが採れる山にも徒歩で行ける。この街で僕の運命的な夏休みが始まった。
・・北海道の夕暮れの風は心地よく、婆ちゃんの夕食はとても美味しかった。僕は学校の話や家族の近況を身振り手振り話続けた。
微笑みながら僕の話が終わるのを待っていた爺ちゃんが、この街での夏休みを楽しむ為にと、前置きをして僕に言った。
「坊、約束して欲しい事があるんだ」
「うん、どんな約束?」
「まず田んぼの側溝には近づかない事。次に川へ行く時は大人と行く事。最後に神社の裏山には決して行かない事の三つだ」
「分かりました」少し浮かない顔で返事をした。
「そうだよな、もう坊も一人で旅行する大人だ。ただ駄目じゃ納得できないよな」
爺ちゃんは座り直して僕の眼を見て話を始めた。
「田んぼの側溝はコンクリート製で、しかも藻が生えていて滑りやすい。一度、落ちたら大人でも這い上がるのに、助けがいる。この春も他の町だが命を落とした方がいる。これは水田地域の何処でも同じだ。覚えておきなさい」
「はい」
「次に言った川も理由は同じだ。今は子供達だけで川へ行く事は禁止だが、四年前、子供達だけで川に行き、行方不明になった子供が二人いた。この街の大人達が血眼で探し回った挙句、冷たくなった子供が見つかった。我が子にすがり泣き叫ぶ親の姿は周りの人の胸をもえぐり、見るに堪えない」
「あなた、言葉が過ぎます」と婆ちゃんが思わずたしなめた。爺ちゃんは
「すまん、坊が心配なんだ許してくれ」
僕は深く頷き、ふたたび爺ちゃんに眼を向けると、何故か爺ちゃんは急に横の窓に顔を向け遠くに光る街路灯をみつめていた。
「最後に神社の裏山だが、、、うん、そうだ、こう説明をしよう。開拓時代の先人達は集落を造るより、神社を優先した。それは土地に住む神を恐れ敬ったからだ」
「・・・」
「神をあがめ祭り、人々が暮らす許しを請うために神社を優先して建てた。それが地鎮や鎮守と言うものなんだ。しかし久しく、あの神社では祭礼が無い。若者がいないとの理由だが」
・・僕は爺ちゃんの言いたい事が分からなかった。祭りの途絶えた神社の話が裏山に行くのを禁止される理由にはならない。しかも、あの山はクワガタ採取の有力候補地だった。
・・爺ちゃんが真実を伝えられない理由があり、それが僕から眼を逸らしての説明だったと後から分かるのだが、その時は不満気な面持ちだったと思う。爺ちゃんも分かっている様で僕の肩に手を置き、すがるような顔で
「坊、爺ちゃんを信じてくれ。あの裏山だけは駄目なんだ、災いが起きる」
僕は渋々「はい」と返事をすると、爺ちゃんは少し安心した様に、うん、うん、と頷いた。
・・夜風は少し肌寒く、僕は窓を小さく開けて深く心地よい眠りについた。
・・翌朝、婆ちゃんの焼きたてのパンを頬張りながら、虹鱒を釣りに行きたいと考えていた。
爺ちゃんは食卓で読んでいた新聞を折り畳みながら
「坊、朝から何か考えているな」と見透かした様に僕の顔を覗き見た。
昨日の約束だからじゃ無く、僕は飛行機の中から爺ちゃんを釣りに誘うって決めていた。
「爺ちゃん、前に父さんと来た時に爺ちゃんと父さんが二人で釣りに行ったでしょう。僕は危ないって言われて母さんと家で待っていたけど本当はとても行きたかったんだ」
待ってましたと言わんばかりに爺ちゃんは
「あの時は悪かったが、坊はまだ一年生だったろ?父さんも危ないと言っていたし、爺ちゃんもそう思った。だが今の坊なら大丈夫。これから行くか?どうだ」
返事をする前にパンを咥えながら両手をあげた。嬉しそうに、喜ぶ爺ちゃんと台所で背を向けていた婆ちゃんの笑い声が聞こえた。
・・爺ちゃんいわく、普通の川釣りは魚影を求めて下流から上流へと釣り歩くらしいが、この川では近所の廃校になった小学校裏でも釣れるらしい。
爺ちゃんの計画は、婆ちゃんと三人で車に乗って上流へ行き、そこからは僕と爺ちゃんが川を下りながら釣りを楽しむ。そうして小学校の裏で釣りを終えて昼食という計画だった。
◇◇◇
・・生い茂る木々の隙間から差し込む太陽の光、川のせせらぎ、草の香りの中、僕と爺ちゃんは川面へと竿を出した。
悠々と釣りを楽しんだ二人はビクの中に収まった数匹の虹鱒に満足だった。やがて本日のゴールの小学校が見えた。
「坊、最後は爺ちゃんと釣り競争をしよう。あと一匹、釣った時点で終了だ。いくぞ」
・・二人は小学校裏で左右に分かれて釣り始めた。
川魚は音に敏感で釣り人は息をひそめながら竿を操る。しかし、校庭からは子供たちが、はしゃぐ声が聞こえてきた。
突然、ピクッと竿先がしなりアタリがきた。
震える竿をゆっくりと上げようとした時、校庭で遊んでいた三人の子供たちが息をきらして僕の所へと走ってきた。
音をたてないで欲しかったが、地元の子供たちと仲良くしたい僕は明るく
「こんにちは」って声をかけた。
彼等の話によると三人の子供たちの中で一番小さい子が一年生のアキラ君。彼は僕のビクの中をしきりに見たがっていた。
そのアキラ君をたしなめる、三年生のトモコちゃん。彼女はお姉さんかな?
最後に一番年長のマモル君。言わないけど、五年生だろうか、、、
三人とも校庭の遊具で遊んでいたらしく校舎の裏で釣りをしている僕を見て来たらしい。
「何処から来たの」とマモル君
「何年生?」とトモコちゃん
「ねぇ、釣れた?釣れた?」とアキラ君
「ちょっ、ちょっと待ってね。お願い、この魚を上げるまでもう少し待ってね」
しかし、あわてて上げた竿の針には汚れた木片がついていた。
「あはっ君の所じゃそれを魚って言うんだ」
マモル君の言葉にムッとしたが、愛想笑いを浮かべて黙っていた。すると、さっきまでアキラ君の横で笑顔だったトモコちゃんが声を荒げて
「他所から来たばかりの子をからかって楽しいの?馬鹿じゃない」
バツの悪そうなマモル君を後目にアキラ君の手を引いて校庭へと歩き始めた。突然、振り返ったトモコちゃんは「ゴメンね」と言うと
アキラ君と二人で駆け出した。その後を追うマモル君との三人の背中に、僕は口に手をあてて大声で自己紹介をした。
「僕は持田シン。四年生、よろしく」
一人になった僕は釣り針から木片を外して、竿を片付け始めた時だった。突然、後ろから
「坊、何処にいた?」と爺ちゃんの声
「えっ?」たしか爺ちゃんは僕の前で釣っていた筈、不思議だったが、爺ちゃんは嬉しそうに
「まぁ、いい。それより早く帰って虹鱒の燻製の用意だ。燻製液も作らにゃいかんし、クルミのチップも買いに行かなきゃならん。婆さんの昼飯の後は忙しくなるぞ」
・・婆ちゃんの特製ランチを満喫した後、僕と爺ちゃんは悪戦苦闘の末に虹鱒の燻製を作った。それが、夕食のテーブルを飾ることになったのは言うまでもない。
夕食を三人で囲んでいた時、僕が出会った子供たちの事を話をした。爺ちゃんは僕の話しを聞き
「そう言えば、住職の阿部 さんは次男の家から孫が遊び来るって喜んでいたし山側の川田さんも孫が来るって言ってたな。まぁ夏休みだ、この街も子供は増えるな」
僕はここでも、友達を作ってみたいと爺ちゃんに言って、明日の朝に校庭に行く許しを尋ねた。
爺ちゃんは約束を守る事と昼までに家へ帰って来るなら良いと言った。
…あの子たちは地元の子供じゃないのかな?まぁ、明日にでも聞けばいいさ…
布団の中で大きく伸びをした。
◇◇◇
・・朝露の残る雑草を踏みしめて、僕は小学校へと歩き出した。廃校とはなっている学校だが、校庭の遊具は解放されている。
僕はブランコを揺らしながら、朝早くから来た事を後悔し始めた。畑か家の手伝いをしてからまた後で来ようと決めてブランコを降りた時
「シンちゃん、遊ぼ」って声がした。
振り返るとトモコちゃんが、一人で立っていた。
「あっ、おはよう。他の子供は」と声をかけると
「あっち」と言って僕の手を引いて走りだした。
朝霧がまだ残る校舎の裏に向かって走るトモコちゃんの手がやけに冷たく感じた。
ふと、トモコちゃんに眼を向けると横顔は青白い
・・違う、違う何かが違う…僕は見た。僕の手を引くトモコちゃんの手の爪が剥げ落ちて、そこには赤黒い血の塊が着いていた…
「うわぁー」と叫び手を振りほどくと、トモコちゃんは立ち止まり不思議そうな眼で僕を見た。そこには昨日みたトモコちゃんがいた。
「どうしたの」
「ご、ゴメン。僕はどうにかしていたみたい」
見ると、左側の校舎の壁に手を着いた、マモル君が
「おいトモコ、田舎者の手は汚くて嫌なんだとよ。それにこいつは、あの持田の爺さんの子で東京から来たんだとさ。もう関わるな」
あまりの言葉に黙って立ち尽くす僕の横をマモル君が通り過ぎる時、「帰れ」と言った。
悔しくて涙が溢れた。僕だけじゃなく爺ちゃんまでも馬鹿にされて嫌われた。
・・暫らくは泣いていたが、僕はマモルなんて嫌な奴は、ほっといてトモコちゃんとアキラ君と友達になればいいやって思い直した。
朝霧の中、あたりを見渡し二人を探すと昨日、僕が釣りをしていた場所でしゃがんでいた。
「どうしたの?」と声をかけたらアキラ君が
「ねぇ釣れた?昨日はお魚、一杯釣れた?」
「虹鱒が釣れたよ」と僕
「ねぇ、他にも釣れた?ねぇ、ねぇ、ねぇ」
喋りながら立ち上がったアキラ君。
おかしい、どこかがおかしい。
僕に近づくアキラ君を見るとフラッと揺れた。
いや、揺れたのでは無い、右側のシャツの袖が肩から揺れたのだった。それはシャツの袖の中が無いことを意味していた。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ」呟きながら近づくアキラ君。
僕はトモコちゃんに助けを求めようと、
「トモコちゃん」と声をかけ手を伸ばした。
しかし、すでにトモコちゃんは僕の手を握っていた。眼球が取れて黒い血がこびりついた顔、その紫色の口元からは含み笑いが聞こえた。
「ぎゃぁあぁぁぁ」と叫んだつもりが声が出ない。
息が肺に入らない。苦しい呼吸が浅い。アキラ君はさらに僕を追い詰める。
「ねぇったらねぇ、僕の右腕、知らなぁい?」
緑色の苔が付いた歯をむき出して赤黒い口を開けて、ゴボッゴボッと濁った水を吐きながらアキラ君が僕に抱きつくように倒れて来た。
◇◇◇
・・「坊、坊、しっかりして。坊、坊」
爺ちゃんに揺すられて目を覚ますと婆ちゃんと知らないハゲの爺さんが僕を覗き込んでいた。
辺りは既に朝霧も無く昼の日差しが眩しかった。
「僕は持田 真ちゃんというのか?大変な目にあったのぉ。わしは、ほれ、そこの寺でクソ坊主をしておる住職の阿部という者だ」
「・・・」
「怖い目に会ってすぐで悪いんじゃが、話しを聞かせてくれんかね?」
僕は昨日の釣りを終える頃から気を失って倒れた時まで起きた出来事を全て話した。住職は
「今の話しにある釣り上げた木片ってのは何処に捨てたか思い出せるかのぉ」と尋ねた。
僕は嫌だったが、さっきこの世じゃない子供達がしゃがんでいた場所を指差した。
住職はその場所に行き汚れた木片を拾い上げた。
「ふぅ〜。やはりのぅ此奴が原因か」
短いお経をあげて拾った木片を川に流した。
「もう心配はいらんが、明日にでもやらなければならんことが出来たわい」
「持田さん、しょげないで先ずは家に帰って真ちゃんを風呂に入れて昼飯をたらふくたべさせる事じゃ、わしも昼飯食ったら、あんたの家まで行くわい」
僕は爺ちゃんに背負われて涙目の婆ちゃんと家に帰ってきた。あれは夢だったのだろうか?そうだといいな。去り際に阿部住職が呟いた。
「持田さん、この子はあんたの血をついどるのぉ」
作者神判 時
長編にチャレンジしました。