日野祥子といえば、俺が在籍する中学校のクラスメート。猫っぽい外見の女子で、チョコレート類に目がないことと、名前の祥子をもじってショコラと呼ばれている。
特に目立って目立つわけでも影が薄いわけでもない。言うならば空気みたいな奴だ。それは存在が薄いとか、そういった意味ではなくーーー彼女がそこにいるのが当然だという、そんな雰囲気であるという意味だ。
そこにあるべくしてあるというか。そんな感じ。
別にショコラはクラスの要となる人物ではないし、委員長や副委員長などの目立った仕事をしているわけではない。英語は得意だが数学はからきしだと言っていることから分かるように、成績が飛び抜けて優秀というわけでもない。
ただ。彼女は非常に人懐っこい性格であるが故、すんなりと人の輪に溶け込んでしまうのだ。キツイ性格の女子とでも、不良っぽい男子とでも。ショコラと数分話し込んだだけなのに、十数年来の親友同士みたいな雰囲気になっていたり。
それはショコラの長所というべきことなのかもしれないし、逆を言えば短所とも言える。人懐っこく、かつ人当たりがいいのはいいことだけれど……そのせいで苦労している人間が陰にいることも忘れないで欲しい。
苦労している人間ーーーそれはこの俺、玖埜霧欧介だ。
ショコラはたまにとんでもない頼み事をしてくる。
それは一見害のないように見えるが、深く関わっていくとガチで危険な代物だったりする。真面目な話、死にかけたこともあるのだから笑い話にもなりやしない。
ほいほいと何でも聞いてしまう俺も俺なんだけれど。……どうしてだろう。ショコラからの頼まれ事だと何故か断れないんだよなぁ。
断ったらいけないような。
断るほうが危険なような。
そんな予感めいた予兆があるのだ。
◎◎◎
「欧ちゃん!一生のお願いよ!一生で足りないというのならば、来世までのお願い!可愛いショコラの頼みを今こそ聞いて頂戴!お礼に妊娠させてあげるから!大丈夫、子どもはちゃんと生んで育てるわ!さあ、欧ちゃん!私を抱いて!」
「……お前の話は無駄にスケールが大きいよ」
「少年よ、ショコラを抱け!」
「名句を汚すな!」
ショコラの御両親が聞いたら顔面蒼白になるような恐ろしい台詞を吐きながら、それでも尚、ショコラは受験前の学生が神社で願掛けをするかのように、両手を合わせて俺を拝んでいた。放課後のことである。
人気もまばらとなりつつある教室で、ショコラから何事かは知らないが、頼まれ事を頼まれてしまった。しかも、報酬は妊し……いや、それはどうでもいい。
どうでも良くないけれど、どうでもいい。聞かなかったことにしよう。
「……んで?何だよ、その頼み事って」
「聞いてくれるの!?聞いてくれるってことは、つまりOKってことよね?了承したという理解でいいのよね?やったぁ、流石は欧ちゃんね!器が大きいわ!結婚しちゃおうか、私達」
「どさくさに紛れて軽々しくプロポーズすんな。それに今のは聞くだけ聞いてやるという意味だ。まだ引き受けるかどうかは決めたわけじゃないからな」
「……細かい男。みみっちい奴。あーあ、これだから玖埜霧欧介って嫌よね」
「何か言ったか」
さんざん持ち上げたかと思いきや落としやがる。
ショコラはにっこりと笑うと、後ろ手に持っていた何かを差し出した。
それはーーー古びた書籍だった。古書店に売ってそうな、苔色をした表紙の少し黴臭い本。今時の女子中学生が持つとは思えない。
「この本を返してきてほしいのよ」
ショコラは真面目な口調になって言った。
「とある民家から借り受けた本なんだけど……今日が返却日なの。でも私、今日用事があって、まっすぐ家に帰らなきゃならないのよ。だから代わりに返してきてほしい」
「返却日って。図書館じゃあるまいし……」
言いながら本を見る。題名はーーー読み取れない。「雀」の字はかろうじて読めるけれど。保存状態が宜しくないらしく、題名の字が掠れて見え辛くなっている。
「お願い!今日返すって約束なのよ。何が何でも今日中に返さないといけないの。今から地図書くから渡すね。そんなに遠くないし、学校からなら二十分四十八秒で行けるから」
「えらい細かいな……ってこら。俺はまだ引き受けるなんて言ってないぞ」
俺からの訴えを軽く無視したショコラは、自分の机に戻り、引き出しからメモ用紙を取り出した。そこにスラスラと地図を描くと、古びた本と一緒に強引に押し付けてきた。
「あとは任せた!あとは野となれ山となれ!」
◎◎◎
ショコラが描いた地図は非常に分かり易く、目的地に着くのにそんなに苦労はしなかった。二十分かからなかったかもしれない。まあ、俺は時計を持っていないからきっちりとは分からないけれど。
ショコラといえば、地図と本を俺に押し付けた後、ろくに説明もせず教室を飛び出していった。説明はしないくせに、投げキッスする余裕があったのがムカついたが。
彼女が何故、とある民家とやらから本を借り受けたのか。その経緯やら理由やらはさっぱり分からないが、かといって人様から借りた物をぞんざいに扱えるはずもない。お人好しな俺は、こうしてショコラから渡された地図を頼りに、のこのこと出向いてきたのだとさ。おしまい。
「にしても……」
変わった家。いや家というより屋敷か。
目の前に聳え立つのは立派な門構えの屋敷。広い敷地内には鹿威しと池。ただし、池の水はすっかり枯れ果て、中には何もない。
飛び石に導かれるように玄関先へと進む。呼び鈴がないため、トントンと軽く戸口を叩いて訪問を告げると、少ししてからりと戸が開いた。中から出てきたのはーーーしとやかな浴衣姿の若い女性だった。髪は一つのおさげに結い、横に流している。
「こ、こんにちは。初めまして。玖埜霧欧介といいます」
「嗚呼……。はいはい、日野さんから聞いていますよ。そうですか、今度は随分とまた可愛らしい坊やだこと。ささ、お入りになって」
「あ、や、その…、」
「早く早く。早く入って。早く戸口を締めて」
促されるまま中に入る。靴を脱ごうとしてーーーはっとした。
玄関には長い髪の毛と思われる物が垂れていたのである。抜けた髪じゃない、よくよく見れば廊下のずっと奥まで続いている。しかも、その量が尋常じゃなかった。平安時代の女性でも、ここまで長くないし、量もないだろう。
「あ、あ、あの!何ですかこれは!」
「……はあ?何を今更。あなた、手伝ってくれるんでしょう?そう聞いていますよ」
「手伝うって、何をーーー」
うごぁ。ぐるう。おおおぁ。はがぁ。どぉる。ぐがぁ。しゃう。ぎゃあ。ごぎゃあ。
「ほら始まった」
屋敷の奥から獣の呻き声がした。女性はしかめ面をすると、俺の手を掴んだ。血管がきゅうと潰れ、鬱血するくらいの強い握力で。
「ほらね、鳴き出したでしょう。毎日ああなんですよ。買ってくるんじゃなかったわ」
「な、何ですか。室内で猛獣でも飼ってるんですか?」
「何言ってるの。あなた、さっきからおかしなことばかり言ってるわね。本当に手伝う気があるの?」
「手伝う?俺はただ、頼まれて本を返しに来ただけで……」
「本?」
女性の爪がきりりと皮膚に食い込む。切れ長の眸に睨まれ、何も言えないでいると、また屋敷を揺るがすような唸り声がした。
ぐるう。おおおぁ。ぐるう。ぐるう。おおおぁ。ぐるう。
「とにかく来て!黙って手伝わないと、屋敷から一歩も外へは出さないわよ」
女性は廊下を歩く道すがら、ゆらと名乗った。廊下にも長い長い髪の毛はぎっしりと床の目を塞ぐように流れており、その髪の毛の上を歩いているという不思議なシチュエーションだ。
髪を踏む度、クシャッ、クシャッと音がして気持ち悪い。それによく滑るし……ゆらさんに手を引かれていなかったら、恐らく転んでいただろう。
「全く……。これでも最近は大人しくしていたのにね。昨日から気が触れたように鳴き出したの」
「この唸り声の主ですか?」
「面白そうだと思って知人から買ったのよ。食事や着る物の世話もいらないって言うから買ったのに。毎日毎日、ああして鳴くでしょう。こっちも頭にきて棒で殴って黙らせるんだけど」
でも死なないのよ、と。ゆらさんはヒステリック気味に叫んだ。
「どんなに暴力を振るっても絶対に死なないの。加虐に加虐を尽くしても死なないのよ。こうなったらもう、髪の毛を抜いてやるしかないわ」
「か、みのけ……?」
「分かったの。私、分かったのよ。あいつの髪の毛はだんだん伸びていくわ。しかも異常なスピードでね。あいつの根源は髪の毛なのよ。さっき、少し引っ張ってやったら、金切り声上げて咽び泣いたの。そうよ、髪の毛よ。切るだけではダメ、また伸びてくるから。根元からごっそり抜いてやらないとーーー」
ゆらさんの声は次第に甲高く、笑いを含んだ時のように震えている。彼女の精神状態もまた、マトモとは言い難いようだ。
ゆらさんは俺を引き摺りながら、突き当たりの部屋を開けた。そこには長い髪の毛にまみれた裸の女性が、獣のように唸りながら仰向けに倒れて蠢いている。
部屋という部屋中に髪の毛で満たされていた。屋敷中に流れる髪の毛は、どうやら彼女の頭皮から生えているものであるらしい。
うぐぅ。ごるぁ。ぐぐう。ぐおぅ。あがぁ。ぐふぅ。おごぉ。ぐるぁ。
「…ひっ、」
顔つきは確かに人間の女性そのものなのだが、顔中に皺が寄っているせいで老婆のようにも見える。ふくよかで生々しい体つきは若い女性のそれなのだけれど。
「きゃっ!」
大蛇のような髪の束に足元を掬われ、ゆらさんが倒れ伏した。俺は震えながらも彼女に手を伸ばし、助け起こす。
「だ、だ、だ、だ、だいじょぶ、でででですかかかっ」
「平気よ。それより見てよ、この髪の量。忌々しいったらありゃしない。これだから嫌だわーーー」
”な り そ こ な い”は。
苦々しく吐き捨てると、ゆらさんは危なっかしい脚付きで女の元へと近づいていく。
「ちょっと!ゆらさん……」
「あんたも来なさい!こいつを黙らせる手伝いをするって約束でしょう!」
「何なんですか、もう……」
ううう。胸焼けがしてきた。部屋中、髪の毛の匂いで充満しているのだ。髪の毛の匂いといっても、シャンプーの芳しい匂いではなく、髪本来の匂いというか、頭皮の匂いなのだ。
いい匂いではなく、むしろ不快といえる匂い。
浴衣の裾を払いながら、着々と進んでいくゆらさんを追い掛ける。細心の注意を怠らなくとも、大量な髪の毛の上を歩くのは困難を極めた。何度か足を取られ、転んだりもした。
「何で俺がこんな目に……」
「捕まえた!ほら、捕まえたわよ!」
ゆらさんが今までで一番甲高い声を上げた。彼女は女の頭皮に近い髪の毛を束にしてグイグイと掴んで持ち上げた。
ぅぅぅぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
布を引き裂いたような悲鳴が上がる。髪の毛を掴まれた女は、半分白目になりながら、口を縦に長く開け、ジタバタともがいた。
「…ふんっ、よっ……、うっく……」
ゆらさんは収穫の時期になった大根を引き抜くかのように、女の髪を引っ張った。頭皮がピンと伸び、女の顔はだんだんと紅潮していく。
女はぎゃあ、ごぎゃあと叫びながらごろんごろんと芋虫のように転がった。ゆらさんはうつ伏せになった女の背中に馬乗りになると、たずなを引く馬主のように髪の毛を引っ張っり続ける。
……ぶちっ。ぶちぶちぶちぶちっ。
うぅうごおぁおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
女は前髪の一部を抜かれ、咆哮した。顔色は赤を通り越して紫色に変わっており、口は先ほどより長く開いた。
「はあはあはあはあ……」
荒い息をつき、ゆらさんは自分の手に掴まれた一房の髪の毛を見る。そして一瞬、嬉しそうに笑うと,それをゴミでも棄てるように放り出した。
「あ、あ、あ、あ、あ……」
俺はといえば、へなへなとその場に座り込んでしまった。今までに何度も修羅場は潜り抜けてきたつもりだけれど、ここまでシュールな体験はお初だった。
バサリ。手に持っていた本が落ちる。本は髪の毛の隙間に落ち、まるで取り込まれたように見えなくなる。ショコラから返すようにと念を押された本だから、探さなくてはならないのだけれど……今はとてもじゃないが、そんな気にはならなかった。
「………」
げっそりする。この場にいるだけで、神経が凄い勢いで磨耗していくのを感じながら、俺はうすら笑いを浮かべてゆらさんを見つめた。人間という生き物は、極度の限界に達すると、知らず知らず笑ってしまうものらしい。
女は相変わらず人外の呻き声を上げてのた打ち回っているし、ゆらさんは女の背中に跨がったまま、両手で女の髪の毛をぶちぶちと引き抜いているし。
と。女の呻き声の合間に、玄関の戸がからりと開いた音がした。あまりの騒ぎに、近隣の住民が何事かと駆け付けてきたのかもしれない。
「っ、ゆらさん、」
家主であるゆらさんに声を掛けるが、聞いていて無視しているのか、はたまた本当に聞こえないのか、返事は返ってこない。しかし、誰かが訪ねてきたのは事実のようだから、応対しないわけにもゆくまい。
俺はふらりと立ち上がると、よたよたと部屋を出た。精神的ショックと噎せ返るような髪の毛の匂いで、体が思うように動かない。仕方なく壁で体を支えながら、玄関へと向かった。
廊下の角を曲がれば玄関という所で、声が聞こえてきた。
「こんちは。宅急便でーす」
……宅急便?宅急便なら、家主でも何でもない俺が応対しちゃダメだよな。でもここまで来て何もしないで回れ右するのも気が引けるし……。
「こんちはー。誰かいませんかー」
「はいはい……。今、行きます……」
よたよたしながら廊下を曲がり、顔を覗かせる。宅急便の配達人は荷物を何も持っておらず、かつ仁王立ちしていた。
ストレートのショートカット。意志の強そうな眸に形の良い鼻。薄く結ばれた唇。ブラウンの革ジャケットにショートパンツ。すんなりと長く、男女共に撫で回したくなるような両足には同じく革のエンジニアブーツ。
圧倒的な威圧感を持つこの人には見覚えがある。というか毎日見てるし、毎日一緒にいる。
「ーーー玖埜霧御影様のお届け物です」
「姉さん!」
◎◎◎
「受領証の代わりにほっぺにちゅーして下さい」
「姉さん、ふざけてる場合じゃないったら!」
「私はいつだって真面目だ。冗談なんて生まれてから一度も言ったことがない」
「お願いだから冗談の言える大人になってー」
ここまではお約束の会話だ。挨拶みたいなものであり、日課となっている。
姉さんはエンジニアブーツを脱がず、土足のまま上がり込んだ。玄関先どころか屋敷中に流れる髪の毛を素足で踏みたくはないのだろう。
しかし、仮にも人様の家に上がるのだから、土足で上がり込むことに少しは罪悪感を感じて貰いたいものだが、そんな気配は微塵もない。
「姉さん、こっち!」
姉さんを連れてさっきの部屋に戻る。部屋の中では、頭皮に生えている髪の毛を半分ほど毟られた女がぐったりと横たわっており、ゆらさんといえば引き抜いた長い髪を愛おしそうに頬擦りしていた。
「嗚呼、良かった……。これで静かになった……。あんたはもう鳴けないのよ。これであとは死んでくれたらいいのに……」
幸せそうなゆらさんとは対照的に、女はガグガグと頭から肩から背中から腰から足から、痙攣を繰り返している。凄い画だった。
「ゆ、ゆらさん……」
声を掛けるが、やはり反応はない。とろけるような眼差しで、何度も何度も引き抜いた髪に頬を擦り寄せ、ゆらさんはくすくす笑っていた。
「なりそこないだね」
隣に立つ姉さんがぼそりと言った。そういえば、ゆらさんも同じようなことを言っていたような……。
「なりそこないって……?」
「なりそこないっていうのはね、呪術の一環なんだよ。儀式の方法は色々あるんだけれど、最終的な目的は一つ。人間を神様とか妖怪に仕立て上げるんだよ。まあでも、私が知る限りでは神様に仕立てる場合が多いかな」
「に、人間が神様になるの?」
「なれないよ。人間には人間の器がある。器に盛ることが出来る水の量は決められている。器の体積より水の量が多くなればーーー溢れるだろ?」
「でも、神様に仕立て上げるって……」
「仕立て上げようとして、失敗して、なりそこなうんだよ。なりそこないは半化けみたいなものさ。神様になりそこなって、人間にも戻りそこなう。それがなりそこないと呼ばれるモノだよ」
滅多なことがないと生まれないんだけどね、と。姉さんは肩を竦めた。
「私も初めて見たよ。古い風習を残す山間の村では、よくなりそこないが生まれるって聞くけどな。神おろしって言ってね、生身の人間を生け贄にして、神様に降りてきて貰うんだ。要は神様が人間に憑くんだよ。憑かれた人間は正気を失って狂い死にするか、運良く生きながらえてもマトモな精神じゃいられない。ーーーこの人みたいにね」
「か、神様が取り憑くと死んじゃうの?」
「神様ったって、天におわす全知全能なる神様のことじゃないよ。妖怪や幽霊、怪異なんかをひっくるめて神様って呼ばれているんだから。……まあ、妖怪も幽霊も怪異も人間から派生したものなんだけれどーーー」
姉さんは流し目でゆらさんを見た。俺は怖くて最早彼女のほうに顔を向けることすら出来ないけれど……ゆらさん独特の引き笑いが聞こえてくるから、未だに笑い続けているんだろう。
「可哀想だね」
姉さんが呟いた。それは果たしてゆらさんに向けた言葉だったのか、それとも彼女が馬乗りしている髪の長い女に向けてのものだったのかは分からない。
…ただ。可哀想だと言う割には、同情めいた声音ではなかった。というより、まるで自業自得だとでも言いたげな口振りだった。
「さて帰るか。帰りにお好み焼きでも食べてくか?美味しい店見つけたんだけど」
「食欲ないよ……てか、帰るの?」
この状況で?それはちょっと……人としてどうかと思うけど。
「何。お前、まさか泊まっていくつもりなの?」
「帰るよ!帰るけど……でも、この人達は」
「この人達を何とかしようと思うなら、家中にガソリン撒いて火を点けるんだな」
この家ごとーーー全てを焼き尽くし、燃やし尽くし、灰に返すくらいのことをしなきゃ解決したことにはならねぇよ。
姉さんはニコッと笑った。凄く可愛いんだけれど、目が据わっている。
「欧ちゃん。お前、放火犯になりたいの?幾ら私だって、獄中結婚は勘弁願いたいところだけど」
「放火犯にはなりたくないし、獄中結婚はしないけど……ていうか、姉さんと結婚すること自体が法に触れるじゃんか」
「んじゃ、異存はねーだろ。とっとと帰ろーぜ」
「あっ、ちょっ、ちょっと姉さん!」
既に我関せずといった様子で踵を返して部屋を出て行く姉さんの後を追う。戸口まで来たところで恐る恐る振り返ると、ゆらさんはニタニタ笑いながら、引き抜いた髪の毛の束を手前に差し出した。
「いる?」
俺は返事することなく、部屋を飛び出した。
◎◎◎
屋敷からの帰り道。頭の後ろで両手を組み、鼻歌交じりに歩いていた姉さんがふと足を止め振り向いた。夕陽に照らされ、姉さんの髪も顔も赤く染まっている。
「そういえばさぁ、ないんだよ」
「ないって何が?」
「生理」
「ぶっ!!!」
道端で思いっ切り拭いてしまった……。通行人が他にいなかったことが不幸中の幸いか。
「欧ちゃん、責任取ってね♡」
「知らない知らない何も知らない!身に覚えがない!認知しないよ絶対に!濡れ衣だ!陰謀だ!何かの間違いだあああああ!!」
「ジョークだよジョーク。真っ赤になっちゃって、可愛いねぇ」
「………」
間の悪いジョークである。この人はどうして、姉弟の絆を破滅させようとするのだろう。わざとなのか天然なのか……どちらにせよ心臓に悪いから止めて貰いたい。
「でも、ないってのは本当。本がないんだよ。古書店で手に入れた、とっておきの稀覯本が」
姉さんは眉を寄せ、口元に手を添えて思案顔。意外かと思われるかもしれないが、姉さんの趣味は古書店巡りである。あちこちの店に出向いては、怪異絡みの不気味な本を購入してコレクションにしているくらいなのだ。
その中でも特に値段が張った本、または絶版になっていて他では手に入らないような貴重な本を差して姉さんは「稀覯本」だと言うのだが。
……とっておきの稀覯本がなくなった?
「そうそう。三年くらい前に手に入れた本。かなり傷んでて古いんだけれど、価値ある貴重な本なんだ。それが急になくなってさ、どこを探しても出てこねーんだ」
「何て本なの?」
姉さんは肩を竦めて呟いた。
「”夜雀”(ヨスズメ)」
作者まめのすけ。-2