あなたにとって、「学校」とは何だろう。
勉学を学ぶ場所。小さな社会。人との繋がりを持つ空間ーーーそんな建て前だけの空論で埋め尽くされた答えが、現代の世には蔓延している。
学校というのは一種の檻だ。狭い空間に大勢の子どもが集められ、閉じ込められ、校則という規則に拘束され、右往左往する場所。そんな風な見解で学校というものを捉える俺はひねくれ者だろうか。
さて。学校というには、なくてはならないものが二つある。いや、正解に言うならば二種類の人間がいると言うべきか。学校はこの二種類の人間で構成、構築されている。
それはーーー教師と呼ばれるべき人間と生徒と呼ばれるべき人間だ。大雑把にまとめてしまえば、教師は人生の酸いも甘いも噛み分けた大人であり、生徒とはまだ甘い汁しか吸ったことのない子どものことだ。
前述した通り、教師とは大人だ。人生の酸いも甘いも噛み分けた大人。中にはまだ若い年齢の教師もいたので、生徒同様に甘い蜜しか啜ったことがないのかもしれないけれど。
若い教師といえば、菅原という教師がいた。年齢は多分三十代後半。物理を教えていて、愛称は菅ティー。菅原ティーチャーから菅ティーとなったらしい。サッカー部の顧問も勤めており、スポーツ関係は得意らしかった。
彼についてもう少し話しておこう。喫煙者であり、ヘビースモーカーだと言っていた。いつも何となく笑ったような顔をしており、あまり怒ったことがない。性格や口調は穏やかで親しみやすいものがあるけれど、変にひねているところがあった。
菅原先生との付き合いは一年足らずの短いものだったけれど……今まで接点を持った教師の中で一番印象深かったことは確かである。
だって。
彼は俺との別れ際に屋上から飛び降りたのだから。
◎◎◎
その日、何となく体調の優れなかった俺は保健室にいた。朝から頭痛がしていたのだが、それくらいで休むこともないだろうと思い、無理して登校してきたのが間違いだったのかもしれない。
二時間の数学の時間。二日酔いの人みたいに頭が痛くなった。寺で突かれている釣り鐘の如く、ぐわんぐわんと脳味噌に痛みが響く。
結局、授業を中抜けさせて貰い、よたよたと保健室に向かった。保健室には名物保健室講師である楯山先生がいらっしゃった。スレンダーな黒髪美人なのだが、言動がおかしなことで名物となったのだ。
「頭痛と一口に言ったって原因は色々あるのだよ、生徒君。女子は生理中に頭痛がするものだし、ストレスや疲労、肩凝りからも頭痛は起きる。中には脳の大きな病気から痛みが生じるケースもあるわけだけれど……まあ、君はまだ若いからな。病気は心配しなくていい。つかぬことを聞くが、もしかして生理中だったりするか?」
「……生理中なわきゃないっしょ。俺、男の子ですよ」
「はは、そうだったな。失敬」
たくもう。幾ら性教育は習っているとはいえ、年頃の男の子に生理の話を振るなっての。
「ふむ。病気は心配しなくていいとは言ったが、もしかして風邪の引きはじめかもしれんな。熱を計ってみたまえ。今、体温計を持ってくるから」
そう言って楯山先生は秤の付いた台を運んできた。
「さ、乗りたまえ」
「先生、これ体重計……」
「嗚呼、そうか。これが体重計というやつか」
「何で初めて見ましたよみたいなリアクションするんですか!!毎日見てるはずでしょ、随時保健室にある物なんだから!!」
たくもう。嗚呼、マジで頭痛い……。
頭を抱えてうずくまっていると、ようやく体温計を持ってきてくれた。ここまでくるのに何分かかったことだろう。
体温計を持ってくるなんて一分かからないだろうが。普通はね。
「どうだ、熱はあるか?」
「いや……平熱ですね」
体温計に表示された数字は36.2。バリバリ平熱だ。楯山先生は俺から体温計を受け取ると、ふんふんと頷いた。
「熱はないな。よし、教室に戻れ」
「そんなあ!俺、マジで頭が痛いんですよ!」
「頭痛なんぞ難解な数式でも解いていれば楽になる。私なんて三平方の定理を解いたらインフルエンザが治ったぞ」
「そんなのはあなただけだ!!」
難解な数式なんて解いたら、ますます頭痛が悪化する。
「む。仮にも教師に向かってタメ口とは何だ。悪い子だな君は。今履いているストッキングで首を絞めてやろうか」
「何かスペクタル!!」
「言っておくが。私はストッキングを履いていても凄いが、脱いでも凄いのだぞ。自分で言うのも何だが、三十九とは思えないほどの美脚だ。きめ細かでツヤツヤしているし、程良い肉付きながらもキュッと引き締まっていて、男性が舐め回したくなるような足だ」
「俺を誘惑する気ですか!!」
「戯け。私は五十以上の人でないと食指が動かないのだ。君のようなひ弱そうな肉体になど、涎も出ない」
ひ弱そうとは言ってくれる。ピッチピチのうら若きボディーを前にして。
「頭痛いよう。ベットで寝たいよう。授業サボりたいようー」
「急に甘えた口調になるな。ときめいてしまうじゃないか」
ハードル低っ。さっき、五十以上の人じゃないと食指が動かないとか言ってた癖に。十四歳の子どもの媚び売り発言にときめいてるんじゃないよ。
椅子に腰掛けた楯山先生は自慢の長い美脚を組み替えた。なるほど、確かに自慢するだけはある。男というものは悲しいかな、目の前に美しい足があればみとれてしまうものだ。
「しかしだね、生徒君。私は熱もない人間をベットに寝かせるほど、優しくはないのだよ。優しくはないし甘くもない。熱がないのなら教室に戻るべきだと思うが……情けがない女と言うわけでもないのだよ」
「じゃあ……どうするんですか」
「うん。どうするかといえばこうしよう」
楯山先生はボールペンの切っ先を俺の眼前に突き付けた。
「屋上へ行って新鮮な空気を吸ってこい」
◎◎◎
楯山先生の荒療治には愛がない。屋上に行って空気を吸ってこいったって、それは二日酔いの人に対する処置の仕方じゃないか。
言うまでもなく、俺は未成年だからお酒なんて飲まない。多分、どこそこ体調が悪いせいで頭痛が起きてるんだろうけれど……新鮮な空気を吸ったところで良くなるもんかね。
だが、熱がないという理由も無視出来ない。熱さえあれば駄々をこねくり回してでも、ベットで眠る権利を貰えたというのに。ベットで眠らせてくれないのなら、楯山先生の膝枕でもいいのに。いや、むしろそっちのほうがーーー。
「……、」
屋上の扉を開けた瞬間、煙草の匂いがした。喉がひりつくような煙の匂い。かなり強い煙草じゃなかろうか。
無人かと思われた屋上には先客がいた。白衣に身を包み、こちらに背を向けて立つ長身の人物。煙草を咥えた菅原先生だった。
「おや。どうした」
「す、菅原先生こそ。屋上で何してるんですか」
「煙草ふかしてる」
……いやまあ。確かにそうなんだけどさ。
「最近は煙草を吸っているだけでも白い目で見られるな。職員室も禁煙だから、仕方なくここで吸ってるんだよ。で、君はどうしたの」
「はあ、ちょっと頭痛がするもので。屋上の新鮮な空気を吸いに来たというか……」
自分で言っていて、何だか白々しいなぁと思う。だが、これが嘘偽りのない事実なのだから仕方あるまい。
「へえ。何だか嘘っぽい話だなぁ」
彼はそう言いながら、口から煙草の煙を吐いた。何となく笑っているような顔をしながら、口を歪めて俺を見る。
「嘘といえば……退屈凌ぎに話をしてやろうか」
「はい?」
「僕がまだ子どもの時の話なんだけれどね……」
菅原先生の出身は九州のほうなのだとか。それもずっと田舎の、山の麓の小さな村で暮らしていた。
「僕がまだ七歳の時、近所に算盤を習いに行っていたんだよ。幼なじみの女の子と一緒にね」
算盤教室に行くには、竹藪を通って行かなくてはならなかった。まだ日が高いうちはいいのだが、夕方になって暗くなってくると、鬱蒼とした竹藪は薄気味悪いものだった。
菅原先生はぷかりと煙を吐き出した。随分と苦い匂いのする煙草だなあと思いつつ、唐突に話し始めた彼の話を黙って聞いていた。
「算盤教室が始まるのが夕方の五時からだったからね。四時半過ぎにはいつも家を出たよ。幼なじみの女の子と手を繋いでさ。あの時はまだ、色恋沙汰の感情なんてない、まっさらな子どもだったからね。手を繋いで、他愛のないことをお喋りして……はは、変な言い方だけれど、子どもというのは性的な意味を知らないからこそ性に開放的だよね」
とっぷりと日が暮れる中、二人はいつものように竹藪の中を歩いた。竹藪の中は人通りがなく、二人の細い足音だけが響いていた。
と、その時である。菅原先生は竹藪の中でおかしな人に出会ったそうだ。
「黒っぽい着流しを着た人だ。顔にぐるぐると薄汚い布を巻き付けていてね。窒息するんじゃないかって心配になるくらい、ギチギチに巻き付けていて……」
最初は顔に大怪我を負った村人の誰かだと思った。だが、噂は笊のように筒抜け状態の小さな村だ。誰かが大怪我を負ったなんていう話は聞いていなかったし、幾ら田舎の村とはいえ、年寄りでも着流しを着ている姿は見たことがない。
この人、一体誰なんだろう。
『もしもし』
くぐもった声で、その人は言った。布越しのせいもあるのだろうが、やはり聞き慣れない声である。
『もしもし』
その人は一歩足を踏み出した。その時になって初めて菅原少年は怖いと思った。
『もしもし』
『もしもし』
『もしもし』
『もしもし』
もしもしと何かを問い掛けるような前振りの台詞は発する癖に、それに続く肝心な部分を言おうとしない。距離もだんだんと縮んできており、気が突けば目の前にいた。
ずんぐりとした体躯。遠目では分からなかったけれど、近くで見るとかなり大きい人物だった。というより、とても大きく見えた。
『もしもし』
隣で手を繋いでいた女の子がきゅうと握り返してきた。泣きそうな顔をして見ると、やはり緊張気味の表情であった。しかし、幾らか落ち着いた声で、
「……返事しちゃだめ。無視して通り過ぎるの」
そう言うと、女の子は顔を伏せ、早足で前へと進んだ。手を繋いでいたため、菅原少年も手を引っ張られるようにして歩いた。
『もしもし』
声は竹藪を出る間中、ずっと聞こえてきた。顔に布を巻いた着流し姿の何者かの姿は見えなくなっても、声だけが一人歩きでもしているかのように。
竹藪を出た途端、ぴたりと声は止んだ。
「あの時は生きた心地がしなかった。得体の知れない何かに追い掛けられることは怖いよーーー腕でも掴まれたら、光が一筋も届かない闇の中へと引きずり込まれそうで……怖い」
「幼なじみさんのお陰で助かったってことですね」
男としては女の子に助けられるというのはなかなか情けない話でもあるのだが。何にせよ二人が無事で良かった。
菅原先生はまあね、と呟く。
「彼女の祖母は村で祓い屋の仕事をしてたから。お祖母ちゃんから色々と聞いていたんだろう。ーーーおや、雨が降りそうだ」
菅原先生はフェンス越しに遠い空を見上げた。灰色と黒の入り混じる分厚い雲が空を覆い隠そうとしている。
天気予報では、曇りのち雨だと言っていたか。彼はどんよりとした暗い空を見上げながら、プカリと紫煙をくゆらせた。
「雨といえば……これは僕が大学生だった頃の話なんだ」
その日、午前中の講義に出るため、菅原青年は大学に出掛けた。天気予報では今日は一日中雨が降るという。
だが、予報は大きく外れた。朝方に強い雨足の雨が一時的に降っただけだった。雨はすぐ止んでしまい、灰色の雲は小さく千切れていった。
この分だと午後は晴れそうだ。
車の免許はおろかバイクの免許もなかったので、徒歩での通学である。因みに経費節減のため、自転車すら置いていないのだとか。親からの仕送りも細々とはあったし、バイトもしていたけれど、なるべく出費は抑えたかった。なので、バイトも近場で出来るところを選んだ。それくらい徹底していた。
交差点を横切り、大通りに出た。すると向こうから女性が歩いてきた。
彼女は赤い傘を差していた。顔立ちは傘に隠れて分からなかったが、地味な服装に身を包んだ小柄な人だった。ゆっくりとした歩調でこちらに向かってきている。地味な服装に似合わず、派手な赤い傘というのが印象深かった。
赤い日傘……というわけではなさそうだ。日傘は大抵、黒か白。あっても紺色である。赤い日傘というのは聞いたことも見たこともない。
色や造りからして、どうやら雨が降った時用の傘であるらしかった。もしかして雨が止んでいることに気付いていないのだろうか。いずれにしろ、雨が降っていないのに普通の傘を差していたら滑稽だ。雨は止みましたよと声を掛けるのが親切だろう。
菅原青年はその女性とすれ違う瞬間、声を掛けようとしてーーー止めた。彼はそのまま茫然と立ち尽くした。
「彼女の傘にはパラパラと雨粒が跳ねていたのだよ。それに濡れていた。雨なんて降っていなかったのにね」
「……妙な話ですね。アメフラシにでも取り憑かれてたんじゃないですか、その女性」
「ユニークな想像だね。その発想はなかったな」
菅原先生は三本目となる煙草に火を点けた。煙草には副流煙というものがあって、喫煙者よりも周囲にいる人間が煙を吸うことによって、体に害を及ぼすと聞いたことがあるのだけれど……彼はご存知だろうか。
「人間は違和感に恐怖を抱くものだ。多勢に無勢なんて言葉があるけれど……要は多数派が全てなんだよ。朱に交われば赤くならなくてはいけない。朱に交わっても黒いままだったら、それが違和感の根元であり、恐怖の対象となる。はは、この発想は日本人らしいかな」
「日本人らしい発想……ですか」
「日本ほど個性を殺す教育を強いる国は他にないよ。外国の教育は個性を重要視するんだよ。個性を尊重するというのかな。日本の教育はその真逆だ。全員を平等に扱うといえば聞こえはいいだろうけれど、マニュアル通りにこなしていれば、誰しもが真人間になるなんてありっこないからね」
急に教師らしいことを言い出した。自分から言い出した理論なのに、ころっと否定するし……どうもこの人との距離が掴めない。
「まあ、色々とこじつけるようなことを言ったけれど。僕はこれでも一介の教師だからね。無垢な生徒の前で少しくらい格好つけようと思っただけさ」
格好つけようとしていたのか。格好いいとは思わなかったけれど。
空は分厚い雲に覆われているにも関わらず、未だに雨は降っていない。どこか遠くで雷鳴の音がした。そろそろ校舎の中に入るべきだろうか。
「まあ待て。大丈夫、まだ雨は降らないよ」
引き返そうとした俺を彼はやんわりと止めた。雨の降る降らないは天候の問題であって、天候な気分次第でもあって、菅原先生が降らないよなどと言ったくらいで降らないわけがないのだけれど……。「まだ」ということは未定であり、つまり今後は降る可能性は大いにあるわけだ。
雷も鳴ってるしね。遅かれ早かれ降るだろう。
雨に降られて体を冷やす羽目になり、いっそう頭痛が酷くなりやしないかとやきもきする俺を余所に、菅原先生は「これが最後だから」と話を始めた。
どうやら彼は、何が何でも屋上で語りたいらしい。
「僕が”それ”を見たのは、つい二ヶ月ほど前だーーー」
孔(アナ)。孔のような何かだと思った。
黒くぽっかりとした孔が見える。初めてそれが見えたのは、恋人が先生のアパートに来た日のことらしい。
彼女が台所に背中を向けて立っていた。トントンと包丁の軽快なリズムが聞こえてくる。今夜も彼女が一番得意とする野菜の煮物だろうな、とぼんやり思いつつ。菅原先生は黙って彼女の背中を見つめていた。
「最初はね、ゴミが何かだと思ったんだよ。小さな黒い何かだったから」
彼女のうなじに黒い何かが付いていた。大きさはペットボトルのキャップほど。埃か何かが付いてしまったのかと、菅原先生は立ち上がり、手を伸ばした。
それに触れようとした瞬間。彼の体はびくりと震え、硬直した。それはゴミではないし埃でもない。何とも表現しにくいのだが……皮膚にぽっかり空いた孔だった。
孔といっても、覗いても向こう側が見えるわけではない。小さなブラックホールとでも言おうか。黒々とした闇が広がるばかりで、先が見えない。
……目の錯覚か?見間違いか?目を擦ってみたり瞬きを繰り返したが、やはり孔はそこにある。あんまり近付くと、ブラックホール宜しく吸い込まれてしまいそうで恐ろしかった。
「何よ、どうかした?」
ずっと背後にいるのが不審に思ったのだろう。彼女がさっと振り向いた。その顔は見慣れた彼女の顔ではなかった。目も鼻も口もない。あるなは輪郭とーーーそして孔だった。
輪郭いっぱいに広がった孔。
菅原先生はそこで気を失った。
「気が付いた時は病院だった。いきなり僕が倒れたから、彼女が呼んでくれたらしいんだ。病院のベットに寝かされていてね……彼女がずっと付き添ってくれたらしいんだが」
やはり彼女の顔には孔が空いていた。それどころではない、菅原先生が目を覚ましたと聞いて、駆けつけた医師や看護士の顔にも黒々とした大きな孔が……
何度も精神科に通った。人の顔が孔に見えるんですと話しながら、目の前にいるカウンセラーの顔を見つめる。その顔もまた、ぽっかりとした孔が空いていた。
精神安定剤も効かない。疲れのせいだと思い、有給休暇を取って休んでみてもだめだった。出会う人全て。誰の顔を見ても、そこには孔が空いているのだから。
「君の顔にも見える。黒々とした孔が見える。自分の受け持ちの生徒の名も呼べなくなってしまったよ……区別がつかないんだ。誰が誰だか分からないから」
でも、自分の顔を鏡で見ても何ともないんだよ、と。菅原先生はフェンスによじ登りながらポツリと呟いた。
「孔の空いていない自分を見ると、衝動的に刃物で突き刺したくなる。刃物でぶすりと皮膚を突き刺し、筋肉をえぐり、眼球を潰して……原型が残らないくらいにぐちゃぐちゃとしたくなるんだよ」
「せ、先生……。危ないですよ!」
菅原先生はフェンスの上に背中を向けて立っていた。細いフェンスの上で、バランス良く立っている。身動ぎ一つしていないがーーーでも。
「嗚呼、言っておくけど近付かないでね。なるべく人に見られたくないから、授業中を選んだんだけれど……君には悪いけれど、見たくもないものを見せちゃうよ。大体、君も君だ。頭痛がするなら屋上に来るより保健室で寝ているべきだろう」
「お、追い出されたんですよ楯山先生に!熱がないからって!屋上の空気を吸ってこいって言われて……いや、そうじゃない!先生、危ないですって!」
「楯山先生か。あの人は昔から変なところで厳しいんだよ。風邪を引けば首にネギを巻いていれば大丈夫だと言われたし、目が悪くなるからと言って、テレビは三十分しか見せてくれなかった」
「お祖母ちゃんみたいですね……って、違いますよ!危ないから早く降りて下さいと言ってるんでーーー」
「でも、」
彼女の作る煮物はとても美味しかったんだよ。
菅原先生は、階下へと飛び降りた。
雨は結局、降らないまま。
◎◎◎
一瞬。ほんの一瞬のことだった。
よろよろとフェンスに近付くが、そこから先を確認することは出来ない。足腰に力が入らず、大切な試合に負けた選手のようにがくりと膝をつく。
と。屋上の扉がバタンと開き、誰かがこちらに向かって走ってくる気配がした。力なく視線を動かすと、タイトスカートから覗く足が横に立っていた。楯山先生だった。
「……菅原先生は?」
楯山先生は何故かその名を口にする。何故、彼が俺と一緒にいると分かったのだろうと頭の端で思いつつ。何か言わなくてはと口を開いたが、言葉が出ない。
俺がフェンスの手前で茫然とへたり込んでいたからだろう。彼女は果敢にもフェンスから身を乗り出し、下の状況を確認する。
「………」
楯山先生は悲鳴を上げなかった。普通、こういう状況に直面すれば女性ならば悲鳴を上げるだろうに。そこは学校内の医療現場ともいえる保健室に勤務しているということもあってのことだろうか。彼女は毅然とした表情のまま、ポケットから携帯電話を取り出し、警察と救急車を要請する。
俺は何も言えず、何も出来ず、ただ黙って俯いていた。くらくらして、何だか妙に喉が渇いた。
『もしもし』
背後から声がした。はっとして振り返ると、黄ばんだ白い布を顔中にぐるぐると巻き付けた白衣姿の何者かが立っていた。
『もしもし』
『もしもし』
『もしもし』
『もしもし』
聞き慣れないようで、聞き慣れた声のようでもある。後退りしようにも後ろはフェンス。行き止まりだ。俺はごくりと唾を呑んだ。
『もしもし』
『もしもし』
『もしもし』
『もしもし』
「……返事」
楯山先生が俺を見た。
「返事、してごらん」
『もしもし』
作者まめのすけ。-2