俺には友達と呼ぶべき人間は多くない。
前頭でそう言ってしまうと、孤高の一匹狼のようなイメージを思い浮かべる人もいるだろうが、実際の俺はそんなに格好いいものじゃない。ただのーーー人付き合いが苦手な中学生だ。
そりゃ休み時間にだべったり、移動教室の時に行動を共にする奴はいるけれど。いればいるで別に困らないが、いなければいないで別に困らない。早い話がどちらでも構わないのだ。
クールぶるつもりはないし、ニヒルを気取りたいわけでもない。ただ……人との馴れ合いが好きになれないから。腹を割って仲良しこよしの関係性がどうしても築けない。
クラスきっての人気者女子、日野祥子ーーー通称ショコラはクラスメート全員と大親友だと豪語する強者ではあるけれど。それもそれで真似出来ないというか真似したくはない芸当だと思う。
ただ。こんな人付き合いが苦手だと自称する俺でも、「こいつは悪い奴じゃあないんだよな」「こいつと友達になれば意外と楽しいのかもな」と思えるクラスメートがいる。
そいつの名前は國達晃(クニダチアキラ)。血の気のない青白い肌をした不健康そうな女子。一年を通じて右目に眼帯をした、少々の、というか大々的な変わり者である。
ビジュアル的にもアレだし、年頃の乙女にあるまじき不気味な笑い方をするんだけど。話してみると、結構気さくで楽しい奴なのだ。
だが、残念なことに國達晃は半年前に不慮の事故で亡くなってーーー
◎◎◎
「……亡くなってる筈の奴がお洒落なカフェで、店イチオシのパンケーキ食ってんじゃねーよ」
俺は頬杖をつきながら呆れた口調で呟く。対面に座る國達は「きひっ」と笑って一口大に切ったパンケーキをほおばった。
「そうは言うけどね、玖埜霧。別に亡くなったからといって現世の食物をつまんじゃいけないなんていう法律はないんだよ。お墓にお供え物として食べ物を置いていく人だっているじゃんか。それに私だってこれでも一応、今をときめくレディーなのだから、甘いスイーツが食べたくもなるんだよ」
「幽霊のどこが今をときめいてんだよ。大体、お前には肉体がないじゃん。消化器官皆無じゃん。食べた物をどうやって処理するんだ?」
「きひひっ。そりゃまあ、生きてる人間のご協力がないと駄目だよ。例えば、幽霊に付き合ってカフェに入ってくれたお人好しの胃腸を借りて処理するとかね」
「そういや、さっきから胃の辺りが変な感じがするんだが……」
お前の仕業だったのか。幽霊が生きた人間の胃腸を活用するとか意味分かんねぇよ。イミフだよ。
やれやれ。俺は肩を竦めると、パンケーキにぱくつく國達を見た。女子がスイーツを美味しそうに頬張る姿は傍目には可愛らしいものだけど。こいつの場合はあんまり可愛らしくないな……。
鴉が生ゴミを漁ってる感じ。禍々しいオーラが出てる。
「で。一体何の用なんだよ。メールで呼び出した上、カフェにまで付き合わせて。幽霊がメールとか使うなよ。現世に馴染み過ぎてるよ」
「煩いな。レディーがケーキを食べてる時にがちゃがちゃ言うのは止めてほしいところだね。シャラップだよシャラップ。あともう二~三皿食べたら本題に入るから。それまで大人しく私の優美な食べっぷりでも見てらっしゃい」
「……お前、現金持ってるか?」
「きひひっ。幽霊の私が現金なんて持ってるわけがないじゃないの。無一文だよ」
「さんざんっぱら食っといて、今更幽霊ぶるな!」
俺が出すのかよ!一口も食べてないのに!
こいつ、結構食ってるよな。食べた分のケーキがどこでどう消費されているのも気になるが、それより気になるのがここまでの会計だ。
くそう、お小遣いがパーになりそうだぜ。
「嗚呼、食べた食べた。一生分は食べたんじゃないかってぐらい食べきった。ふう、御馳走様」
「お前の場合は既に一生が終わってるんだけどな……。まあいいや。気が済んだんなら帰るぞ」
「あ、ちょい待ってくれるかい。まだ用は済んじゃいないよ。むしろここからが本番だ。ヤマだぜヤマ」
「用は済んじゃいないって……まさかまだ食うのか?悪いけど、今日は手持ちが少なくて……」
「うんにゃ、違う。ケーキが食べ足りないとかさういうわけではないんだよ」
國達は紙ナプキンでぐいぐい口を拭うと、若干身を乗り出してきた。拭い切れていないクリームが唇の端に付いていて、実にチャーミング。
「うちのお客様のことで、ちいっとばかり相談したくてさ」
◎◎◎
國達は幽霊となって半年以上が経過しているのだが。未だに成仏する気配は非ず、現世に留まっている。
現世に未練を残し、成仏出来ない霊と表現すれば、何やら禍々しいオーラを発する不気味な霊を想像する人もいるだろう。だが、國達はそうではない。
確かに外観はアレだけれど。しかし、生前と全く変わり映えしていないから、別にどうということもない。要は慣れだ。
では、そんな國達が普段はどうしているかというとーーー何のことはない。寂れた骨董屋で下っ端をして働いている。
何でも骨董屋の店主が怪異に通じている人らしく、未練があって成仏出来ないなら、うちで働いていいよと言ってくれたそうだ。詳しくは知らないけれど。
しかし……。幾ら不況とはいえ、人間のアルバイトくらい探して雇えばいいのに。何故、そこの店主は幽霊である國達を雇ったのだろう。
怪異に通じている人ならば、専門家なのだろうし。アルバイトさせてる場合じゃなくて成仏させる手伝いをするべきだと思うが……給料払わなくて済むからかな?
まあ、國達は國達で、今置かれている環境に不服や不満もないようだからいいけれど。本人にその気がないのに、強制的に成仏させるわけにもいかないしな。
國達についての事情はこれくらいにして。話を本筋に戻してみる。
「つまり何か。お前が働いている骨董屋の顧客が、先日要らなくなった古い箪笥を売りに来たと」
「きひっ。そうなんだよ。古閑さんといってね、御年七十は超えていそうなんだけれど。感じのいい上品なおばあ様だよ。その人、去年だかに旦那さんが亡くなってね。これを機に、要らない家具を処分することにしたらしいんだ。で、うちの店に箪笥を売りに来たわけだ」
「それで箪笥を手放すことにしたのか?でも、箪笥なんて普段から使う物じゃん。いいのかな」
「私も実物を見たわけじゃあないんだけれど。かなり大きな箪笥らしいよ。手入れとかが面倒になってきたんじゃないかな」
「ふうん。その箪笥、買うことにしたのか?」
「いや。霧島ちゃん……じゃなくてうちの店主がね、珍しく買い取りを拒否したんだよ。うちじゃ扱えないからとか何とか。本当に珍しいことなんだよ。あの人、基本的に売られた物は買い取るからさ」
「ただ、デカい箪笥を店に置きたくなかったってだけじゃないか?スペースも取られるしさ」
「うーむむむ。うちの店主は店が狭くなろうが寝る場所が埋もれようが、骨董品に囲まれていれさえいれば幸せを感じるような変態なんだがねぇ。特に桐箪笥なんて骨董品の中の骨董品だし。目の色変えて喜ぶと思ったんだけどなぁ」
「……ところでさ、國達。さっきから俺達、注目されまくってないか?」
とりあえず、古閑さん宅に一緒に来てほしいと國達が言うので、こうして向かっているのだが。
道すがら、通行人が変な目をして俺を見てくるのが非常に気になる。頭のおかしな人間を見ているような、冷めた視線だ。
國達は「きひひひっ」と、例の不可思議な笑い方をした後、ぽんと俺の肩を叩いた。
「そりゃそうだよ。だって他の通行人には私が見えてないんだもんさ。玖埜霧が一人でぶつぶつ喋ってるように見えてんだよ。きひっ」
「ええええええ!?」
メール打ったりケーキ食べたりする癖に、姿は見えてないの!?どういう設定なの、お前。
「それじゃ何か。俺は何もない空間に向かって喋り続けているイタい奴ってこと?」
「そだね。まあ、中には私の姿が見えてる人もいないわけじゃあないだろうけど。今までの反応から察するに、殆どの人には見えていないだろうね」
「オーマイガッ!」
頭を抱えて仰け反った。こんな仕打ちがあるだろうか。
そんな俺の姿を不審そうに見やりながら、制服姿の女の子や自転車に乗ったおばさんが通り過ぎていく。嗚呼、視線が突き刺さる……
「玖ー埜霧。古閑さんち着いたよーん」
おどけた口調で國達が言った。力なくそちらを見やれば、一軒家の前まで着ていた。どこにでもあるような、これといった特徴のない家だ。表札は確かに「古閑」と出ている。
「古っ閑さーん。こっんにっちはー。いらっしゃいまーすかー」
テンション高く呼び掛ける國達。勿論、チャイムを連打しまくりながら。
「おい。そういや、古閑さんはお前が見えるのか?見えてなかったらどうすんだ。古閑さんには俺しか見えてないかもしれないじゃんか」
「大丈夫大丈夫。私は骨董屋の客には見える設定にして貰ってるから」
「……お前、一体何者なの?」
設定って何よ?
國達への疑念が高まった頃。玄関の扉がからりと開いて、中から老婦人が顔を出した。小柄な感じの、優しそうな顔立ちをしたおばあさんだ。この人が古閑さんなんだろう。
「あら、晃ちゃん。それと……こちらは?」
古閑さんは不思議そうに俺を見た。俺は慌てて自己紹介をする。
「あ、俺は玖埜霧と言います」
「晃ちゃんのボーイフレンド?」
「きひひっ。そう見えるー?」
「断じて違います!ただのクラスメートです!」
「あらそうなの」
古閑さんは手を口元に添え、上品に笑った。小さな鈴がころころと鳴っているような笑い方だった。
「二人共、よく来てくれたわね。とにかく上がって頂戴。晃ちゃんにはこの間の話をしたかったのよ」
「箪笥の買い取りの話だよね。分かってる分かってる。今日はそのために来たんだよ」
國達は勝手知ったる他人の家とばかりにズカズカと家に上がり込んだ。俺もまた國達に続き、靴を脱いで上がる。
こざっぱりとした日本間に通され、古閑さんはお茶を淹れて来ると言って席を立った。俺と國達は卓袱台の前に並んで正座している。
部屋の隅には、天井に届くくらい高い背丈の立派な箪笥が置かれており、きっとあれが古閑さんが買い取ってほしいという箪笥だということは容易に理解出来た。
……ただ一つ。理解し難いことがあるのだが。
「なあ……。あれ、誰なんだ?」
箪笥の横にグレーのパーカーを着た何者かが膝を抱えて座っているのだ。すっぽりと目深にフードを被っているため、男女の区別も年齢も分からない。
背は高めだと思われるが、異様なくらいの猫背だ。体を窮屈そうに丸め、ガヂガヂと親指の爪をかじっている。
國達はちらりとそちらへ視線を向けたが、興味はすぐに卓袱台の上に置かれてあった茶菓子へと移行したようだ。
「もぐもぐ。いただきまーす」
「いただきます言う前に頂いちゃってるじゃねえか。それより、あれ誰なんだよ。ほら、あそこにいるフード被って爪噛んでる奴」
「もぐもぐ。もぐもぐ。もぐもぐ」
「食べるの止めろ!お茶出される前に茶菓子を完食すんな!」
「ごっくん。誰だか分かんないけど、古閑さんの家族なんじゃない?」
そこへお盆に三つの湯飲みを並べた古閑さんがやってきた。ほうじ茶だろうか、いい香りがする。
「お待たせ。あら……お茶菓子が一つもないわ」
「すいません。こいつが全部食べちゃったんです」
「御馳走様ー!」
國達はにこにこと笑いながらお腹を叩いた。全然膨らんでいないところを見ると、やはりどう消化しているのかが気になるところだ。
「晃ちゃんたら。相変わらずねぇ」
茶菓子を全部平らげた國達を責めることもせず、古閑さんは静かに笑って湯飲みを卓袱台に置いた。そして部屋の隅に置かれた箪笥を見やる。
「あれを処分してしまいたいのよ……。ねえ、晃ちゃん。霧島さん、どうしてもだめかしら。買い取りはして頂けないの?」
「うーむむむ」
國達はズズズッとお茶を啜り、思案顔を浮かべる。
「私も何とか説得してるんだけどさ。私の一存じゃ決めらんないからねぇ。霧島ちゃんがどうして買い取りに応じないかは分かんなくて。見た感じ、立派な箪笥なのにね。傷んでもないしさ」
「私の家系に古くから伝わる物なの。嫁入り道具として持ってきたのだけれど……そろそろ手放す時だと思うのよね」
「何ならリサイクルショップにでも売りつけちゃえばどう?高値で売れると思うよ」
「それも考えたんだけれど……でも、一応嫁入り道具として実家から持ってきた物だからね。リサイクルショップってあんまり信用出来ないのよ。それよりは骨董屋さんに買い取って頂いたほうが安心だわ」
「うーむむむ。困ったねぇ」
「困ってるのよ。どうしようかしら……」
古閑さんは溜め息をつき、國達は俺の分の湯飲みをズズズッと啜った。どうしようかと迷ったが、俺は重い口を開いた。
「あのう……、あの人はどなたなんですか」
箪笥の前で爪を噛み続けている人物を指差す。古閑さんは「嗚呼」と、初めて気付いたとでも言いたげな顔をした。
「息子なのよ。あの通り、ちょっと変わっていてね。四十過ぎてるのに無職だし独身なのよ。私の年金で養ってて……本当、お恥ずかしいわ」
「いえ、そんなこと……」
「要らない物を溜め込んでおくのは嫌なのよね。邪魔になるだけよ。要らない物は処分しないと」
ガチン。一際大きく爪を噛む音がした。古閑さんは眉をひそめて息子を見た。
「主人がね、収集癖のある人だったのよ。棄てることが嫌いな人だった。最後まで使いきらないと物が可哀想だって言うのよ。お陰でうちは要らない物で溢れてしまって……。主人が亡くなったから、ようやく棄てることが出来たのよ」
ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。
「でも、主人の言ってたことも最近になってようやく理解出来たの。確かに何でもかんでも棄てるのは勿体ないかなって」
ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。
「例え棄てる物でも、探せば使い道はあるものなのよ。莫迦と鋏は使いようって言うでしょう?」
ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。
「処分してしまう前に、使うだけ使えばいいのよ。古くなった洋服を雑巾にして、床をピカピカに磨き上げてから棄てることと一緒だわ」
ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。ガチン。
ガチン。
「最後まで使いきればいいのよ。そしたら文句もないでしょうーーーねぇ、あなた?」
古閑さんは立ち上がり、箪笥の前に座っている息子の腕を掴んだ。息子は「ウゴゥ」だか「ウガゥ」だか分からないが、唸り声を上げて抵抗する。
それを引き摺るようにして強引に立ち上がらせ、古閑さんは空いている左手で箪笥の引き出しを開けた。中には細かく白い何かがギッシリと詰まっており、開けられた瞬間にパラパラと零れ落ちた。
「、何だ?」
一瞬、米粒か何かだと思ったが違う。そろそろと立ち上がり、それを拾い上げる。
「……、爪だ!」
そう。それは切り刻まれた人間の爪だった。思わず放り投げる。
「ほら来なさい!来てって言ってるでしょう!全くお前はいつも母さんの言うことを聞かないで!!来るんだよ早く!」
古閑さんは荒っぽい口調で怒鳴り散らしながら、息子の後頭部を鷲掴みにして引き出しに押し込んだ。息子はギャアギャアと絹を引き裂くような甲高い声を上げて両手をばたつかせるが、大の男の癖して細腕の古閑さんにかなわないようだ。
「ちょっと……、ちょっと古閑さん!何してんの!お、落ち着いて!どうどう!」
これには流石の國達も驚いたようで、慌てて止めに入る。古閑さんを後ろから羽交い締めにし、息子から手を離すよう促すが、まるで歯が立たない。
國達の攻防をするりと交わし、古閑さんは尚も息子の頭を引き出しに押し込もうとする。彼女は両手を使い、これでもかと息子の頭を捻り込むように押し付けた。
ズボッ。
「*※¶¦☞〓♧〒◐☆√ℵ⊕⊃……!」
何を叫んだのか聞き取れない。不可思議な断末魔を上げ、息子の頭は爪でいっぱいの引き出しの中に埋まってしまった。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
荒い息をつきながら、古閑さんがようや手を離した。だが、息子はピクリとも動かない。引き出しに頭を突っ込んだままである。
「あ……、」
俺も國達も目が点だった。果たして何がどうなとたのか二人共分かっていない。理解範疇を著しく越えていたからだ。
そんな中、古閑さんだけは笑みを浮かべていた。額から玉のような汗を流しながらも、口元はうっすらと笑っている。本当は大声で笑いたいのを我慢しているのか、唇がヒクヒクと痙攣していた。
「要らない物は……最後まで使いきらなきゃ。あなたがそう言ったのよ。ねぇ……あなた」
ズルッ……ズルッ……ズルッ……ズルッ……ズルッ……ズルッ……ズルッ……ズルッ……
息子の体は、まるで見えない何者かが引き出しの中から引っ張っているかのように、中へ中へと引き摺られていく。その様子を実に感慨深そうに見つめている古閑さん。
「最後まで使いきれば、棄てたって構わないでしょう?これでいいんでしょう?」
「う……、」
俺はその場にへたり込んだ。その点、幽霊である國達は流石である。俺のようにへたり込んではいないが、「うわーん、霧島ちゃーん」と泣きながら部屋を飛び出していった。
……あいつ、本当に幽霊なのかよ。普通にただの女の子じゃんか。
と。その時、制服のポケットに入れてあった携帯に着信があった。表示されている電話番号はーーー姉さんのものである。
「もじもじもじもじぃっ!ねえざん!?ねえざんなのぉっ!?」
「姉さんですよ。姉さんですけど。玖埜霧御影さんで間違いないですか?」
「まぢがいないでずー!」
「今日さー、パパもママも仕事で遅くなるらしーんだわ。てなわけで、夕食は姉さんの手作りなの。欧ちゃん、何食べたい?カレー?ハンバーグ?それとも私?」
「うわああああん!」
それどころじゃないんだよー!
「姉さん、今どこっ!?」
「今?今は近所のスーパーだけど」
「助けに来て!警察呼んで!SOS!」
「ダメだって。これから会計だし、今夜のためにこれから薬局行かないと」
「いつもは言わなくても来てくれるのにー!」
しかも、今夜のためにって。薬局で何を買う気なの、あの人!
俺は泣きながら事のあらましを説明した。姉さんはふんふんと聞いているんだか聞いていないんだか生返事を繰り返す。
「……ってわけなの!どうしよう、どうしたらいいの?」
「んーと。そうだね、とりあえずスタミナドリンクも買っとく?」
「スタミナドリンクはいいから!今、何をすべきなのかを教えて下さい!」
「なあ。その箪笥、家紋は入ってるか?」
「か、家紋……?」
鼻をグズグズ鳴らしながら、横目で確認。ここからじゃ遠過ぎてよく見えないが、近寄る気にはなれない。
「よ、よく分かんない……」
「そっか。まあ、古閑って苗字聞いた時点でピンときたよ。その上、箪笥があるならまず間違いはねーな」
「どういうこと?姉さん、この家のこと知ってるの?」
「朧気にだけどな。その箪笥は御神体だよ。神様として祀られてるみてーだけど、かなりヤバい神様だぜ」
「箪笥が神様なの……?」
「九十九神って言ってさ。人間が日常的に使っている家具類なんかは、長いこと使われると神様に昇格すると謂われてきた。九十九髪と称することもある。この場合、髪とは長い白髪を表し、それなりの時間が経過していることを表すんだ」
付喪神と書く場合もあるが、あれは本来当て字であり、九十九神と表記されるほうが正しい。正解には家具類が怪異化するのではなく、家具類を依り代にして怪異が憑くことを意味する。
「九十九神には二種類ある。荒ぶる神と和(ナ)ぎる神。荒ぶる神とは人間に災厄をもたらし、和ぎる神とは人間を救う。どちらに転ぶかはーーーまあ、その家具を使い続けてきた人間次第になるのかな」
「じゃあ……あの箪笥は荒ぶる神のほうなの?」
もう一度、ちらと横目で窺う。古閑さんは相変わらず箪笥の前に立っており、無言で開いたままになっている引き出しを見つめていた。
息子はーーー既に影も形もない。俺は急いで視線を戻した。携帯を握る手が、じっとりと汗ばんでいる。
そうかもね、と。姉さんは言った。
「箪笥に纏わる怪異譚は少ないんだけれど、全くないというわけじゃない。箪笥の中にしか現れない不思議な女の子の話や、引き出しから御先祖様の遺骨が発見された話とかね。箪笥もまた密閉化された空間であり、外側からは内部の様子を知ることは出来ない。人は知らないことに理由付けしたがるからねーーー夜道を歩く際の得も言われぬ恐怖から、べとべとさんという妖怪が生まれたように。未知なる対象は怪異を生み出し易くなるのさ」
「……、だから古閑さんは箪笥を買い取ってほしかったのかな」
「さてね。そうなのかもしれないし、違う理由からかもしれない。人間が腹の中で何を考えてるかなんて知らねーよ。お前も詳しい内情を知らなくていい。さっさとお暇して帰ってきな」
「わ、分かった……うおっ!」
電話に夢中になってて気付かなかったけれど。古閑さんが目の前にいた。目ばかりになった顔つきで、口を真一文字に結び、黙って俺を見つめている。
彼女の肩にはーーー真っ白い腕が二本、ぎゅっと爪を立ててしがみついていた。腕はかなり離れた箪笥の引き出しから伸びている。
「こ、古閑さん……」
「変ねぇ」
古閑さんは首を傾げ、不思議そうな口調で呟く。
「私は大丈夫のはずだったんだけれど」
ひゅっ。
古閑さんは一瞬で、俺の前から「いなくなった」。
◎◎◎
翌日は土曜日だった。学校がない日は昼まで寝ることが鉄則である。学生の特権だよなあと思いつつ、寝返りを打ったら姉さんがいて悲鳴を上げそうになった。
「…、な、何で姉さんがいるんだ?」
ここは俺の部屋なんだけれど。俺が毎日使ってるベットなんだけれどーーーどうして御影さんが寝ていらっしゃるの?
しかも、ベットの下には脱ぎ捨てられたと思われる衣服が乱雑にあるんですけど。
俺の胸に一抹の不安が過ぎった時だ。ベット脇に置いた携帯に着信があった。姉さんを起こすといけないので、声をひそめて「もしもし」と出る。
「きひひひー。こんちゃーだよん。國達晃だよん。昨日はごめんね、私だけ帰っちゃって」
「……お前ねぇ。あの後、大変だったんだぞ。一応、警察は呼んだけど、信じちゃ貰えなかったし」
まあ、日本の警察部隊が箪笥の引き出しに人間が引き摺り込まれたと言うのを信じたら信じたで危ういんだけどさ。
結局、古閑さんとその息子は行方不明として扱われ、ただの失踪だという結論で落ち着いたようだ。この分だと、本格的な捜査にはならないだろう。形式に則り、行方不明者としてポスターが町中に貼られてそれで終わり。
どこを捜しても、もう見つからないのだろうが。
「そのことなんだけどさ。嗚呼、古閑さんのことね。うちの店主の前々からの知り合いだったみたいだよ。私があの店で働くずっと前から親交はあったみたい。古閑さんはよくうちの店のお得意様だったみたいでさ」
「へー。つまり、お前んとこの店を贔屓にしてたってわけか」
「きひっ。そうみたい。それでね、店主に古閑さんのことを聞いてみたんだけどね」
國達はいつもの明るい口調のまま続けた。
「彼女はずっと独身らしいよ」
作者まめのすけ。-2