「子どもの頃の体験談よ……。今まで誰かに話したことってないの。これが初めてだわ」
そう言って千歳さんは左手に嵌められた結婚指輪を指先でなぞった。聞けば先月結婚したばかりだという。
人生の良きパートナーと出会い、順風満帆な生活を送る彼女。だが、その表情からはどこか翳りのようなものを感じた。心の底から幸せいっぱいだという風には見えないのだ。
千歳さんは唇の端を歪めた。彼女なりに笑おうとしたようだ。だが、あまりにも歪なその笑いは、ささくれ立つような痛ましいものだった。
「私の中では時効を迎えたことなの。だがら懺悔の気持ちで告白するわ……」
千歳さんが小学生の頃の話だ。父親は彼女が生まれてすぐ事故で亡くなった。それからは母親と兄と三人暮らし。
母親の兄に対する愛情は凄まじいものだった。いつも兄には手を掛ける癖に、千歳さんのことには無関係だったという。
「母は兄のことばかり心配してた……。毎日学校に付き添って登校していたし、帰りは車で迎えに来たり。兄には頼まれていないのに、たくさんの玩具なり漫画なりを買い与えるのに、私にはポンとお小遣いを渡すだけ。そりゃ腹立たしいわよ。私のことなんて全然構ってくれないんだもの」
だが、そんな千歳さんのことを庇ってくれる人がいた。兄本人だった。
兄は兄で、母親の溺れるほど深い愛情に嫌気が差しているようだった。だからなのか、絶えず反抗していたし、千歳さんのことも気に掛けてくれていた。
だが、兄の気持ちに甘んじる気はなかったという。
「私にしてみたら、天敵に哀れだ可哀想だと同情されたとしか思えなかったのよ。みじめ以外の何物でもなかった。……今にして思えば、兄に申し訳ないことをしたとは思っているけれどね」
そんなある日のこと。千歳さんが学校から帰ってくると、電話が鳴った。母は仕事だったし、兄もまだ帰ってきていない。千歳さんはランドセルを背負ったまま、電話に出た。
「もしもし」
「そちら、○○さんのお宅ですか?」
相手はいきなりそう切り出した。自らを名乗りもしない。
「そうですけど……どちら様ですか」
「あなたは千歳さんですか?千歳さんでいらっしゃいますか?」
こちらの質問に答える気はないらしい。それどころか質問に質問で返されてしまう。変な人だなあと思いつつ、そうだと伝えると、相手は無機質な声で言った。
「おめでとうございます。あなたが選ばれました」
選ばれた?いったい何のことだろう。千歳さんには意味が分からなかった。
「選ばれたって、何ですか。何に選ばれたんですか」
「あなた、千歳さんなんでしょう?」
「そうですけど……」
「ですから、あなたが選ばれたのです」
相手は繰り返し言った。その後、何を尋ねてみてま「選ばれました」「千歳さんが選ばれたのです」としか言わない。
千歳さんはだんだん疲れてきた。子どもだったため、強引に電話を切るという発想はなく、話が終了するまで粘り強く頑張ってはみたものの、会話は一方通行だった。
遂に千歳さんはこんなことを言った。
「選ばれたのは、私じゃなくて兄です!」
すると相手は、驚くほど素直に「了承致しました」と言うと電話を切った。嗚呼、ようやく解放されたと千歳さんはほっとした。
帰ってきた兄や母には、電話のことは何となく言えないでいた。自分でもよく分からないのだが、言いたくなかったのだ。
それから数日後。兄が交通事故で亡くなった。
千歳さんは珈琲を苦そうに啜ると、また唇を歪めて私を見た。どことなく満足そうな……しかし、罪悪感も入り混じる複雑な表情。私は彼女から視線を逸らし、誤魔化すように珈琲を啜った。
「兄一筋だった母は、兄の死以来おかしくなってしまってね……。ま、当然だけれども。精神的に参っちゃって、とにかく泣いて泣いて。しまいにはお墓から兄の遺骨を持ち出して、片時も離さずに抱き締めてた。で、入院。今もまだ入院してるわ……。一回も会いに行ってないけどね」
私が何か言いたそうな目で彼女を見ると、その気持ちを察してくれたのか、千歳さんは先に口を開いた。
「あの電話と兄の死に関連性があるのかなんて分からないわ。ただの悪戯電話だったのかもしれないし、偶然に偶然が重なることだってあるでしょ。さ、話はこれでおしまい。取材費として、ここのお代は頼むわね」
彼女はそう言って立ち上がった。本当は別のことを聞いてみたかったのだが、彼女を呼び止めることは出来なかった。
作者まめのすけ。-2