俺が住んでいる田舎町では、都会の喧騒さというものがまるでない。
首都高やビル街など皆無だ。四方八方、見渡す限り見えるのは青々とした田んぼとあぜ道。車なんて滅多に通らないし、その代わりに農業用の牛が頻繁に通っている。夜になれば、街灯が疎らにほつりほつりと点灯するだけ。ネオンの光など見たこともなければ想像もしたこもない。電波の通信も良くないため、テレビもパソコンもない。ラジオが聞ければありがたいと思えてしまうような、そんな田舎町。
村の若い連中はそんな田舎暮らしに嫌気が差して、毎年の恒例行事のように誰かしら村を出ていく。昔からここに住んでいる年寄りや、移住を決めた家族以外はほとんど引っ越していってしまった。嘆かわしいことだが、それも仕方のないことだと諦めるしかないのだろうか。
俺は今年で四十になるが、未だに独身だ。これまでに何度か結婚のチャンスはあったのだけれど……全て諦めた。そして村の移住を決めた。ここで生まれたのだから、ここで死にたい。この土地に骨を埋めたいと誓い、今は年老いた両親と田畑を耕しながら慎ましく暮らしている。
そんなある日のこと。朝から農作業に明け暮れていた俺は、日が沈むと共に家に帰ることにした。両親は夕食の準備をするからと一足先に家に帰っていた。クワと、雑草が入った大振りの籠を持って細い道を歩く。夕焼けが綺麗だった。辺りは真っ赤に染まり、俺の影法師がゆらゆらと動く。どこかの民家から漂うカレーの匂いに目を細め、俺は歩いた。
「ん?」
道の前方に誰かがいた。よく見ると、5、6歳のくらいの女の子が1人で毬をついて遊んでいた。肩まで伸ばした黒い髪がさらさらと揺れ、俯き加減でいる女の子の顔を隠してしまっている。トン、トン、トン……軽快な毬つき音が響く。狭い田舎町だ、村人の顔と名前は一致しているほうなんだが……どうにもその子には見覚えがないような……いや。ある……いやいや、ない。あるわけない。
女の子は俺に気付いているのかいないのか、毬をついている。狭い道の真ん中で遊んでいるため。女の子がどいてくれないと通れそうもない。ここの道を通らないと家には帰れないのだ。どうにも口下手で……人付き合いも下手なのだ。だが、ここで手をこまねいていても家に帰れるわけじゃない。俺はなるべく威圧的にならないよう、女の子に話し掛けた。
「……お嬢ちゃんはこの村の子?」
トン、トン、トン……。
女の子は返事をしない。声の大きさは普通くらいだったので、聞こえていないわけではないと思うのだが。耳が聞こえないのか、或いは俺と会話したくないからなのか。ずっと毬をついている。
「そろそろ暗くなるから、家に帰ったほうがいいんじゃないか」
トン、トン、トン……。
「お父さんやお母さんが心配するよ」
トン、トン、トン……。
駄目だ。埒が明かない。頭を抱えたくなった。実際に頭を抱えた。だが、どうにか試行錯誤の末、俺はいいことを思いついた。会話が成り立たないのなら、必要最低限のことを聞けばいいのだ。つまり「はい」か「いいえ」。この2つが聞ければ充分だ。
俺は軽く咳払いをし、女の子をじっと見つめた。ごくりと生唾を呑み込み、慎重に口を開く。
「……今からおじさんが君に質問をするよ。もし¨はい¨だったら毬を1回ついて。¨いいえ¨だったら毬を2回つくんだ。いいね」
トン。女の子が毬を1回ついた。分かってくれたらしい。
「お嬢ちゃんは……この村の子?」
トン。
「毬つきが好きなのかな」
トン。
「いつもそうして遊んでいるの?お友達とは遊ぶのかい」
トン、トン。
「お友達はいる?」
トン、トン。
「お友達がいないのかな。いつも一人でいるの?」
トン。
「お父さんやお母さんは?」
トン、トン。
「おじいちゃんやおばあちゃんは?」
トン、トン。
「1人ぼっちなんだね。1人でいて寂しくないかい」
トン。
「家に帰らないの」
トン。
「家に帰りたくないのかな」
トン、トン。
「もしかして、帰れないの?」
トン。
「お嬢ちゃんは___」
ごくり。また唾を飲む。
「お嬢ちゃんは___この世の人なのかい」
トン、トン。
……ごくり。ごくり。
「もう死んでいるの」
トン。
「死んでからは……長いのかい」
トン。
ごくり。ごくり。ごくり。ごくり。
「病気で死んだの」
トン、トン。
「事故かい」
トン、トン。
「じゃあ___」
ごくり。ごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくり。
「誰かに___殺されたの」
トン。
ごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくりごくり。
口の中の唾液を全部飲み干してしまった。喉がカラカラする。冷汗が噴き出る。眩暈がする。吐き気が込み上げる。手足が震える。舌が縺れる。うまく呼吸が出来ない。苦しい。倒れそうだ。
でも___聞かなくちゃあ。
「お、お嬢ちゃんは……」
景色がぐにゃりと歪む。縦に引き裂かれ、横に引っ張られ、ぐにゃぐにゃと歪む。女の子の姿すら、まともに正視出来ない。足元がおぼつかなくなり、俺はどすんとその場に尻餅をついた。
聞きたくない。これ以上、聞かないほうがいい。俺が聞きさえしなければ、女の子は答えないはずだ。だが、女の子が近付いてきた。ぐにゃぐにゃと歪んで見える女の子。彼女は持っていた毬を足元に置き、唇をぐいいっ、と両方の人差指で左右に引っ張った。
ぴちっ……ぶちぶちぶちぶちっ。粘膜が裂ける音がして、ぼたぼたぼたっと血が垂れた。不思議と痛みはない。いや、痛みすら感じることが出来ないのかもしれない。自分の顔がどうなっているのか見当もつかない。だが、やけに風通りが良くなった気がする。垂れさがった両頬の皮がべろんと揺れた。
俺はひゅうひゅうと空気音を立てながら女の子に質問をする。女の子はそれを待っているののように毬を抱えていた。彼女は文字通り、俺の口を割ったのだ。俺がだんまりを決め込もうとしたのを察したのだろう。粋な計らいをするじゃないか、ガキの癖に……。
「オジョウチャンハ、ダレニコロサレタノ」
女の子は毬をつかなかった。その代わり、低い声でぼそりと呟いた。
「お前だよ」
◎
「ねえ、聞いた?長谷川さんとこの息子の話」
「聞いたわよー。6年くらい前に女の子1人殺しちゃってたんでしょ」
「そうそう。あの人、小児性愛者だったんでしょ。小さな女の子しか恋愛対象として見れないっていう。病気じゃないねえ、気味悪い」
「これまでにも小さな女の子に声を掛けては誘拐しようとしてたみたいよ。ほとんど未遂だったらしいけど。でも、1人だけ犠牲になっちゃったのねえ」
「結婚しようとしてたって話よ。全く、いい大人が何考えてんだか」
「家族ぐるみで息子の犯行を隠そうとしてたんでしょ。遺体は床下に埋めてたんだって」
「やだー。そんな家族も狂ってるわよ。そりゃあ、自分の息子が犯罪者だなんて認めたくないのも分かるけどさ」
「こんな田舎町で残忍な事件が起きるなんてね。いやあねー、いつの世の中も物騒で」
「ほんとよね。世も末よ」
「でも、捕まって良かったじゃない。自首したんだっけ?罪の意識に苛まれてなのか、自分の口を裂いたって聞いたけど」
「本当らしいわよ。私もパトカーに乗り込んだところをちらっと見たけど、凄かったわよ……。両頬まで裂けててさ、皮と肉がぶらぶら垂れてた。ありゃー、もうまともじゃないわね。可哀想だけど、一生あのままよ」
「自業自得でしょ。同情の余地なんてないわよ」
「それもそうね」
作者まめのすけ。-3