夢を、見た。
私は夢というものをほとんど見ない。いや、見ていたとしても内容を覚えていないだけかもしれないけれど。年のせいか、最近はめっきり寝つきが悪い。長い夜を一晩中起きて過ごさなければならないということは、苦痛だ。寝ないと体に悪い、体に毒だと言うけれど。脳が寝るのを拒否しているのか……一睡も出来ないまま、朝を迎えることもざらではない。
うとうとしかけても、結局は朝方だ。まどろむことすら出来なくなった。友人に勧められて、市販の睡眠薬を買って飲んでみたりするけれど……薬というものは一度飲んでしまうと、いざ切れてしまった時に不安になる。あと私に何年残されているかは分からないけれど。その間、睡眠薬づけになる生活は嫌だ。なので、どうしても眠れずに不安な時だけ飲むようにしている。
そんな私が夢を見た。えらく風変りな夢を。
夢の中では、私はとある洋館の住人になっていた。西洋風の造りで壁は赤い煉瓦張り。壁はうっそうとした蔦に覆われ、日中でも日当たりが悪い。庭は広いが、手入れはまるでされていない。数年前までは色鮮やかな花々が生い茂っていたであろう花壇も、今では枯草が風に吹かれて寂しそうに揺れているだけ。敷き詰められた芝生は刈られておらず、雑草が生い茂って無残な有様だ。名も知らぬ鴉のような大きな鳥が、ギャアギャアと屋根の上で鳴き喚いていた。
洋館内には私しかいない。使用人も、コックも、ペットも、家族も___いない。私しかいないのだ。
私は一人、リビングに立っていた。何をするわけでもない。窓から荒れ果てた庭をぼうっと眺めていた。特に何の感情もなく、荒れ果てた庭を見ていても手入れしようとも可哀想だとも思わない。しいていうなら、日当たりが悪いせいで部屋の中が寒いなあくらいには感じていたのかもしれないが。
___ふと、物音がして振り返る。リビングからではない。凄く小さな音で、聞き逃してしまいそうだったけれど、確かに聞こえた。どんな感じの音と言われても分からないし、音の正体も特定出来ない。だが、何か厭な感じがした。理由はないけれど、そう直感したのだ。私はぐるりとリビングを見渡す。暖炉の上に斧が無造作に置かれてあった。薪を切るための物か。それが何故、部屋の中にあったのかは不明だが、丸腰で行くのも怖かったため、手を伸ばした。斧はずっしりと重く、私の細腕では持ち上げることも出来そうにない。仕方なく斧を引き摺り、リビングを出た。
ゆっくりと廊下を進む。歩く度にふわりと埃が舞い、気管をやられて咳き込んだ。廊下には様々な調度品が展示してある。西洋の騎士の鎧、子どもの背丈はありそうな壺、白い大きな帽子を被った貴婦人の絵。それらを視界の端に感じながらも、私は進んだ。どこに向かうのか目的があったわけじゃない。変な言い方だが、何かに呼ばれているような感覚に近いものがあった。ずりずりと斧を引き摺りながら、足が赴くままに歩いた。
そこはトイレだった。豪奢な造りだが、如何せん手入れが行き届いていない。悪臭がするというわけでこそなかったが、トイレ内は薄暗く、かつ廊下同様埃っぽい。靴にまとわる埃を蹴散らし、ずりずりと斧を引き摺りながら、とりあえず個室に入る。
「あ」
___手。手があった。
便器の中から細い手首がにゅうと突き出している。まるで便器の外に出ようかとしているように、便器の淵を爪の先でカリカリと引っ掻いていた。嗚呼、さっきから感じていた物音はこれだったのだと納得し、まじまじその手を眺める。キメの細かい、綺麗な手だった。青い血管が浮き出ていて、肌の白さを強調している。指先でそっと触ると、いやいやと被りを振るように動いた。その仕草が妙に色っぽく、ドキドキした。
よくある怪談話に、便器から青白い手がにゅうと伸びてきて、腕を掴んで便器の中に引き摺りこもうとするとか、用を足している人の臀部を撫でるとか、そういったものがある。だが、不思議と怖くはなかった。むしろ好奇心にかられ、私は何度もその手を突いたり、撫でたり、指を掴んでみたりした。手は温かく、羽毛のように柔らかった。
ひとしきり遊んで飽きてくると、足元に置いたままの斧の存在に気付いた。渾身の力を込め、足元をおぼつかせながらも持ち上げる。そしてカリカリと便器の淵を引っ掻く手を目掛けて振り下ろした。
そこで、夢から覚めた。
どうにもこうにも、変な夢だったとしか言えない。めっきり夢など見ない私が、何故あんな夢を見たのだろう。夢に出てきた洋館にもさっぱり見覚えがないし、どうして便器の中から突き出している手に触れたのか、どうして斧を振り落したのか___それは分からない。もし、それが夢ではなく、現実に起こっていたとしたら……怖がりな私は金切り声を上げ、腰を抜かしていたか失神していたかに違いないだろう。
久し振りによく寝れたことには変わりないが、気分はあまり優れなかった。冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出し、喉に流し込む。キンと冷えた液体が胃に流れ込んだ。すると、そのタイミングで玄関のチャイムが鳴った。こんな早くに誰だろうかと思い、手早く部屋着に着替えて髪の毛を撫でつけた。そして小走りに玄関に向かい、ガチャリとドアを開ける。そこには親しくしている友人が立っていた。数十年来の親友だ。
怪我でもしたのだろうか。右手にぐるぐると包帯が巻かれ、骨折した時の処置のように吊っている。
健康が取柄で、怪我はおろか病気もめったにしない彼女にしては珍しい。心配になって「どうしたの、その右手」と声を掛けた。彼女は薄く笑って、小さく呟いた。
「お前がやったんだろうが」
作者まめのすけ。-3