蒸し暑い夜だった。
夏が近づくにつれて、気温もどんどん上がっていく。
横になるだけで、ベッドに接した背中からジワリと汗が滲んでくるほどだ。
私はたまらず、”中”に設定していた扇風機の”強”のボタンを押した。
クーラーが壊れているとこんなにも不便だなんて思いもしなかった。
日中は動き回っていて常に肌に風を感じ、且つ窓もあけているためか、ここまでの暑さは感じなかった。
私は夜に窓を開けることができない。
何かと物騒な世の中、女の一人暮らしで夜に窓を開け放って寝るだなんて、寝ている間に誰かが入ってきそうで怖くてできなかった。
たとえ自分の住んでいる部屋がマンションの7階であってもだ。
人よりも少し心配性すぎることは自分でも自覚していた。
でも夜は玄関のチェーンを掛け、窓をしっかり施錠する、これが自分なのだから仕方がない。
「こりゃ寝苦しくてなかなか寝付けないパターンだな・・」
ゴニョゴニョと独り言を言いながら、ベッドと体の間にこもった熱を逃がそうと何度も寝返りを打った。
横になってから何十分経ったのだろう、もしかしたらもう一時間以上経ってしまっていたのかもしれない。
いつの間にか眠ってしまっていた私は、意識の遠くでコンコンと何かを叩くような音を聞いた。
続けて、「ごめんください」と女性の声。
今のコンコンという音はきっと玄関の音をノックした音だったのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながらも、私の意識ははっきりとは戻らないままだ。
8畳一間の部屋の奥に私の寝ているベッドがあり、一枚のドアを隔てた小さな廊下の先に、玄関はある。
その玄関がまたコンコンと叩かれた。
「ごめんください」
女の声は暗く、そしてとても小さかった。
「はーい・・・」
私はベッドに寝そべったまま答えた。
時計の針はもう深夜の2時を指している。
こんな時間に人が訪ねてくるなんて普通のこととは思えない。
それにも関わらず、いたって自分は冷静で、玄関の外の訪問者に対して返事をしている。
ひどく不思議な感覚だった。
・・・・
私が返事をしてからしばらくの沈黙の後、玄関から女の声が返ってきた。
「いれてください」
夜中にいきなり人の部屋を訪ねておいて、その上部屋に上げろだなんて明らかに異常だ。
そもそもこの女が誰なのか、私には全く見当がつかなかった。
全く聞き覚えのない声だ。
それでも不思議と恐怖心のようなものは芽生えなかった。
私はただぼーっと玄関の方を見つめていた。
「いれてください」
また女の声がした。
私はただぼーっと部屋の向こうの扉を見つめていた。
「いれてください」
「いれてください」
「いれてください」
・・・
女が「いれてください」と繰り返すたびにその声が段々と低くなっていく。
まるで壊れたレコーダーのように女は同じ台詞を繰り返した。
「いれてくださいィ」
「いれてェクダァサァイぃ・・」
もうそれは女性の声などではなかった。
そして女の声がうまく聞き取れない程まで低くなったとき、
「イレテ」
空気が震えるような声が玄関から響いた。
「どうぞ」
気付けば私はそう答えていた。
意識して言ったというよりは、ぽろっと口から零れた、そんな感覚だった。
「ハイリマス」
ガチャリと鍵が開き、玄関のドアのノブが回る音が部屋のドアの向こうから聞こえた。
「はーい」
そこで私は自分の声で目を覚ました。
(え、夢・・・)
私の頭はすっかり混乱してしまっていた。
現実だと思っていた世界から、いきなり目を覚ますのだから、訳が分からなくなるのは当然である。
私は寝ながらも「はーい」と実際に声を出していたのだろうと、口に残るわずかな感覚で分かった。
自分以外誰もいない部屋で知らぬ間に声を出していたのだと考えると、少し気持ち悪かった。
そう考えた途端に、孤独感と小さな恐怖感が入り混じったような、そんな何とも言えない感覚が襲ってきた。
私は静かに、足元に放っておいた肌掛けに足を潜らせた。
夜寝ているときに怖いことが頭をよぎると、不思議と足元が気になりだす。
何かに足を掴まれやしないかと、そんなことを考えてしまうのだ。
それはそうと、さっきの夢は何だったのだろう。
ぼんやりとはしているが、夢の内容はまだ頭の中に残っていた。
自分の部屋を訪ねてきたのは、何者とも知れない気味の悪い女だった。
それにもかかわらず、私は何の躊躇もなくその女を部屋に招き入れてしまったのだ。
ぼんやりと残る記憶の中に、あの玄関の鍵の開く「ガチャリ」という音だけが嫌にはっきりと思い出された。
もし夢が本当だったなら、あの女は今この部屋に面した廊下に立っていることになるのだろうか・・・。
そんなことを考えながら、私は月明かりに浮かぶ部屋の扉に目を向けた。
途端、私はびくっと体を震わせた。
部屋の扉の一部曇りガラスになった部分に、スッと人の顔が浮かび上がったように見えたからだ。
もう一度目を凝らすと、顔のようなものなどは見えなかった。
今私に視界を与えてくれているのは、少し開いたカーテンの隙間から零れるわずかな月明かりだけだ。
そんな暗い部屋の中で、一瞬しか目にしなかったものなんて、自分の目の錯覚だという説明だけで十分だった。
あまり満足した睡眠もできないまま、朝を迎えた。
大学の講義中も、昨日の夢のことが気になって仕方なかった。
どんな精神状態だったならあんな夢をみるのだろうか。
思いのほか自分は疲れているのかもしれない。
思えば、最近の自分は大学の課題とバイトに追われ、ろくに遊んでもいなかった。
今日こそは、しっかりと休んで日ごろの疲れをとろう・・・。
そんなことを考えている間にいつの間にか講義も終わり、私は帰路についた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
いつの間に寝てしまっていたのだろうか、私は真っ暗な自分の部屋で目を覚ました。
よっぽど疲れていたのか、荷物も床に放りだし、私はベッドの上に突っ伏していた。
あまり記憶はないが、部屋の電気も自分で消していたらしい。
扇風機もつけず、締め切った部屋で寝ていたため全身汗でびっしょりだった。
顔に張り付いた髪をかき分け、まだ化粧も落としてなかったことに気づく。
「シャワー浴びなきゃ・・」
ずり落ちるようにベッドから抜け出し、浴室に向かおうと部屋のドアに手を伸ばしたその時だった。
コンコン
ドアの向こうの玄関からノックが聞こえた。
「ごめんください」
私はドアに手を伸ばしたまま固まった。
時刻は午後8時、まだ誰かが訪ねてきたとしてもおかしくはないかもしれない。
ここまで玄関の向こうの訪問者にビビりあがる必要もないのだ。
だがそれも昨日の夢がなければの話だった。
コンコン
再び叩かれた玄関の音にビクッと肩を縮めた。
部屋の暗闇が更に恐怖を掻き立てる。
とりあえず明かりが欲しかった。
私はドアのすぐ横についている部屋の明かりのスイッチへと手を伸ばした。
「!?」
部屋が明かりに照らされた瞬間、私は思わず天井にある照明へと振り返った。
赤い・・・。
照明が真っ赤なのだ。
血のように赤い光に照らされ、部屋の中はまるでフィルムを現像する暗室のように真っ赤になっていた。
「昨日まで普通の蛍光灯だったのに・・」
焦ってパチパチと何度も照明のスイッチを入れなおすが、真っ赤な色は変わらない。
自分の呼吸がさっきよりも荒くなっているのが分かった。
自分の目がおかしいのかと瞬きも繰り返してみたが何も変わらない。
真っ赤な部屋の中に、自分の乱れた呼吸の音だけがはぁはぁと聞こえる。
「ごめんください」
私は思わずドアから飛びのいた。
中年の女性ぐらいの声だろうか。
昨日の夢の中の女性の声も果たしてこんな声だっただろうか。
私は何とも言えない違和感を覚えた。
昨日の夢とは何かが違っていた。
それがただ女性の声なのか、それとも雰囲気なのか、この違和感の正体が自分にはよくわからなかった。
「いれてください」
鼻をつまんだような、絡みつくような、それでいて何の感情もこもっていない淡々とした女性の声が、玄関の扉と部屋のドア、2枚の扉を隔てた籠った音でこちらに届いてくる。
ただの訪問者ではないーーーこれまでの状況からそのことは明らかだった。
「いれてください」
「いれてください」
「いれてください」
何度となく繰り返される、まるで録音したものを連続再生しているかのようなその声は次第に強く、大きくなっていく。
玄関のドアノブがガチャガチャと音を立て始めた。
ガチャガチャ「いれてください」ガチャガチャガチャ「いれてください」ガチャガチャ「いれてください」ガチャガチャ・・・
明らかに普通の人がとる行動ではなかった。
狂ったように鳴り響くドアノブの音、その音とは反対に微塵の乱れも感じ得ない淡々とした声、全てが常軌を逸していた。
「もうやめて・・・」
私は耳を塞いで涙を流しながら部屋のドアから後ずさった。
ガチャガチャ「いれてください」ガチャガチャガチャ「いれてください」ガチャガチャ「いれてください」ガチャガチャガ「どうぞ」
ーーーーーー玄関の音と声がピタリと止んだ。
私は大きく目を見開いたまま固まっていた。
私ではなかった。私ではない誰かが「どうぞ」と声を放ったのだ。
それにその声が聞こえたのは、
紛れもなく今自分がいる部屋の中からだった。
背中に冷たい汗がつーっと伝った。
今の声には聞き覚えがある…。
昨日夢に出てきたあの女の声だ。
ゆっくりと後ろを振り向き、部屋を見渡す。
真っ赤に照らされた部屋の中には、誰の姿もなかった。
部屋の隅から隅へと視線を這わせていく。
テレビから机へ、机の下からクローゼットへ、クローゼットから・・
ベッドへと視線を移したとき、そこで私の視線は止まった。
さっき私が出てきたベッドの上の肌掛けが膨らんでいたのだ。
膨らんでいるというよりは、まるでベッドの上に腰かけている人の上に布をかぶせたかのように、肌掛けが盛り上がっている。
私はベッドから視線を離すことができなかった。
ベッドに座っている何かも、同じように肌掛けの下からこちらを向いているが、そのままピクリとも動かない。
恐怖で頭がおかしくなりそうだった。
こんなことを考える自分を殴って制したかったが、私はゆっくりとベッドへと近づき、盛り上がった肌掛けへと手を伸ばしていた。
伸ばしている自分の手が小刻みに震えているのが分かった。
その時ーーー
「ハイリマス」
背後の玄関からあの女の声がした。
「ドアのチェーンをかけてない…」
一瞬で頭をよぎったその考えに、私は弾かれたようにベッドへと背を向け、部屋のドアへと走った。
今鍵を開けられれば、簡単に部屋に入ってこられてしまう。
冷や汗の滲んだ手で部屋のドアノブを掴み、勢いよくドアを開けたのと同時に、視線の向こうの玄関の鍵がガチャリと回った。
私は思わず部屋に戻り、バンッとドアを閉めた。
震えが止まらなかった。額に冷たい汗が玉のように滲み出てくる。
込み上げる恐怖とともにひどく後悔も湧き上がってきた。
鍵が開いた瞬間、玄関に走っていれば、まだチェーンを掛ける時間はあったかもしれない。
なのに自分は…。
視線の奥のベッドの肌掛けの膨らみを見ながら、私はドアに背中をつけたままへたり込んだ。
ドアを隔てた廊下の奥で、キィィと玄関が開く音が聞こえた。
入ってきた…。
それと同時にそれまでベッドに座っていた何かも立ち上がった。
「ひぃっ」
私は思わず声をあげた。
ギシ…ギィィ…
ゆっくりと背後で廊下を踏みしめてこちらに歩いてくる音がする。
ガリリリ…ガリ…
こちらに歩いてきながら、壁に爪を立てているのだろうか…爪が剥がれそうな程深く引っ掻いている音だった。
後ろから近づいてくる、その音を聞きながら、私は目の前まで迫っている肌掛けを被った何かから目が離せなかった。
ギ…
背後のドアのすぐ前で足音が止まった。
目の前の何かもピタリと足を止めた。
真っ赤な部屋に静寂が走る。
あまりの怖さに私はもう意識が飛ぶ寸前だった。
乾き切った喉からヒューヒューと辛うじて微かな呼吸が漏れる。
その時だった。
背中に面したドアがガチャっと音を立てたかと思うと、物凄い力でドアが押され始めた。
「ひっ…いや…いやぁ…」
私は必死にドアを抑えようと全力で背中を押し付ける。
そんな抵抗も虚しくドアはジリジリと開き、私は前に前にと、目の前の肌掛けを被った何かへ向かって押され続ける。
「いや!!」
背中だけではダメだと私は振り向きドアを両手で抑えた。
ーーー目の前の曇りガラスに女の顔が浮かんでいた。
ぼやけた真っ白な顔に、目と鼻と口の位置だけ黒く沈んでいる。
「やだ!いやだあ…!」
私は泣きじゃくりながら必死にドアを押し続けた。
15センチほど開いたドアの隙間から白く骨のような腕がゆっくりと入ってきた。
その指先の爪は全てめくり上がり、黒くくすんでいた。
その腕はゆっくりと私の方へと伸び……
私のすぐ後ろの何かを掴んだ。
腕に掴まれた何かが、ドアの隙間からスルスルと引きずられていく。
肌掛けだった。
私のすぐ後ろに立つ何かから肌掛けがゆっくりと剥がされていく。
少しずつ、背後の何かの姿があらわになっていく。
引っ張られた肌掛けは、ドアの隙間に吸い込まれて行くと、途端にドアを押していた力がスッと消えた。
全力を込めた私の両手に押され、ドアがバンッと大きな音を立てて閉まる。
再び赤い部屋は静寂に包まれた。
私はドアに両手をついたまま動くことができなかった。
背後に、肌掛けの下にいた何かが立っている。
自分の背中に密着する程近くに明らかに何かの気配と息遣いを感じた。
後ろを振り返ってはダメだ。
直感的にそう思った。
布の下の何かを直に見てしまったら、取り返しのつかないことになってしまいそうな、そんな圧倒的不安が頭の中を駆け巡る。
氷のように冷たい手が私の肩を掴んだ。
「ひっ…」
私の両肩を掴んだその腕は、そのままギリギリと力を込めだす。
こちらを向かせようとしているのがすぐに分かった。
やだ…見たくない…
なぜか目を閉じる事ができない。
体が完全に固まってしまっている。
いやだ…いやだ…やだやだやだやだ…
体が完全に後ろを向いた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
目が覚めると、私はベッドの上で大量の汗をかいて横たわっていた。
思わずガバッと起き上がる。
部屋の電気は…
通常通りの普通の蛍光灯の色に戻っていた。
頭が混乱している。
また夢を見たのだろうか…あまりにリアルすぎてそうは思えなかった。
あの時私は後ろを振り返って何を見たのか…それだけが思い出せなかった。
それよりも、自分はこれ以上一人でこの部屋にいる事が耐えきれなかった。
とりあえず家を出よう。友達の家に泊めてもらうなり、ネットカフェに泊まるなり、考えるのはその後だ。
携帯とバッグを掴み玄関へと向かう。
その時だった。
ドドドドドドン!!
目の前の玄関の扉が凄い勢いで叩かれた。
明らかに一人で叩かれたものではなかった。
一体何人……
視界の端の壁に、横断するかのような、長く黒ずんだ引っ掻き傷が見えた。
やはり夢などではなかった…。
途端に部屋一面が赤い光に包まれる。
悪寒が私の体を駆け抜けて間もなく、
「「「イレテエエ」」」
喉を絞ったかのような低い声が重複して外から聞こえた。
私が思わず後ずさったその時、
「「ドウゾ」」
私の両耳のすぐそばで二人の女の声がした。
作者籠月
お久しぶりですってレベルじゃないくらいお久しぶりです。