もち米、出し汁、銀杏、鶏肉
生の栗。
二時間前にもち米は水没させた。
出し汁には味付けを施した。
視界の端で行儀良く並んでいるのは、下茹でされた薄切りの鶏と、水気を切ったパック入りの水煮銀杏。
栗は、全ての準備を終えてから用意をする。そうしないと、どんどん味が落ちるからだ。
「栗を剥き始めたら、絶対に手を止めちゃ駄目よ。剥いた端から美味しさが逃げて行くんだから。」
昔、まだ元気だった頃、母は何時もそう言っていた。
学校では塩水や重曹水で灰汁を取ってからおこわに入れたことを話したら、口答えをしたと言って酷く怒られたのを、今でもよく覚えている。
「私だからちゃんと叱ってあげてるの。お嫁に行ってそんな生意気な口利いたら、追い出されちゃうんだから。」
私には、此れぐらいで追い出される家に固執する理由がどうしても分からなかった。だが、また口答えをしてはならないと思い、慌てて口をつぐんだのだ。
ストン、ストン、と皮に切れ目を入れながら、私は母の寝ている寝室の方を見詰めた。
様々な病気を患い、何度も死に掛け、其の過程で私だけを綺麗に忘れた母。
彼女の為に、今日、私は栗おこわを作るのだ。
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栗に熱湯を掛けながら思い出す。
小さい頃から、私に与えられる言葉は《不器用》ではなくて《不器量》だった。
「あんたは不器量だから、此れくらいキチンと出来なくちゃ嫁の貰い手が出てこないの。」
私には、そんな言葉と共に、たくさんの《お手伝い》が毎日のように課せられていた。
春はお花見のお弁当作り。酔った父に不味い不味いと言われ、悲しかった。
夏はお使い。炎天下で陽炎の立っている道路の上で、重たい醤油瓶や米を運んだ。辛かった。
冬は雪掻き。悴んだ指は霜焼けやあかぎれになり、痛かった。
二つ下の妹は、そんなこと、やらされたことも言われたことも無いらしい。そういうところを見たことが無かったし、なにより、本人がそう言っていたのだ。
きっと此れも、器量が関係していたのだろう。
テストで悪い点を取って泣いている妹。彼女に掛けた母の言葉が耳に甦る。
「大丈夫よ。ちょっと悪い点を取ったからって何だっていうの。あんたは器量良しなんだから。ほら、もう泣かないの。可愛い顔が台無しよ。」
隣の、妹より良い点数の私は、無視された。
私は器量が悪いから。其の言葉は、今でも鍋の焦げ付きのように、脳内にこびり付いている。
ふと顔を下に向けた。ボウルの中の栗達は、十分温まったようだ。
熱湯に浸された栗の皮を、切れ目に爪を立てて一気に剥がす。
二十年前も、こうして私は栗の皮を剥いていた。
一年の中で、一番楽で、最も嫌なお手伝いだった。
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栗おこわは、父の好物だった。だから、秋になると、母は何度も栗おこわを作った。
他の下準備は自分でこなし、一番面倒な栗の皮剥きを私に押し付けて。其れで、食卓に出す時は必ず「美菜子が剥きましたから、栗、少し崩れちゃってますけど。」と言い添えるのだ。
そうすると父は、何時も何時も「そうか、次は頑張れよ。」というのだ。
栗の身に包丁を入れないで皮を剥くのは、とっても難しいのに。同じ学校に、私以外に出来る子がいないぐらい難しいのに。そんなこと知らないで。
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どんどん鬼皮を剥いていると、背後から物音が聞こえた。母が起きたのだろう。
愛情を掛けて育てた妹に捨てられて、私を頼って来た母。私にしたことも忘れているくせに。
最近では痴呆症の予兆も始まり出している。
ガシャン、ドスッ、と凄い音だ。また何か癇癪を起こしたか、はたまた、持病である心臓病の発作でのたうち回っているのか。
そういえば、昼の薬を飲んだか確認しなかった。
確か薬は戸棚の上に置いておいた筈だ。あの高さでは、起き上がることもやっとの母には、とても取れまい。
振り返ろうとして、手を止める。
耳の奥から、母の声が滲み出たからだ。
「絶対に手を止めちゃ駄目よ。」
幼い頃何度も言われた言葉だ。私はもう一度前を向き直し、包丁を握った。
友達のお誕生日会に呼ばれていても、風邪を引いて熱を出していても守らされたのだ。今日だって例外ではないだろう。
・・・・・・残る栗は、あともう少し。
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柔らかい出汁の香りと、仄かに甘い栗の香りが部屋中に立ち込めている。ガスに掛けた土鍋の蓋を取ると、鮮やかな黄色が目に飛び込んで来た。
杓文字で底から掬い上げるようにして一混ぜ。
ふわりと鼻を擽る香ばしい匂い。お焦げの案配も丁度良い。
ホッと溜め息を吐き、また蓋を被せた。食べるのは後で。今は他にすべきことがある。
私は台所から出て、母の寝室へと向かった。
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散らかされた机の上。下の段が全て開けられたタンス。すっかりぐちゃぐちゃの室内。
其の中央で、母は胎児のように小さくなって転がっていた。
体を布団で掛け布団で覆っている。寒くて、くるまりながら動いていたのだろう。
ぽかりと開けられた口許から、よだれが垂れていた。手をかざしても空気は当たって来ない。
こんなに静かな母を見たのは、初めてな気がした。
立ち上がり、上から母を見下ろす。
煮しめたような色の布団に包まれた、クルリと丸まった姿。栗みたいだと思った。
私はしゃがみ、そっと、母の耳に口を寄せた。
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「お母さん。私、栗おこわ、上手に出来たよ。」
作者紺野
百々のつまり、栗の鬼皮は切れ目を入れた後にさっと湯通しするとスルスル剥けるってことなのです。
家族からの心無い言葉というのは、何時までも胸に残るものです。僕も父方の祖母に言われた《穀潰し》という言葉を未だに覚えています。だからこそ、頑張って家事を覚えたのですが。
病気で動けなくなった彼女に、今なら同じ言葉を掛けられるのだろうかと思いますが、あんな人と同レベルの人間にはなりたくないので、最後まで良い孫でいるつもりです。