彼女と初めて話をしたのは、四月の初めで、場所は放課後の教室だった。
彼女以外に誰も居ない教室で、彼女はじっと右手の人差し指を凝視していた。細い指を赤い線が伝っていた。
私は思わず目を伏せたのだ。見てはいけない物を見てしまったような気がして。
リストカットやアームカット、話題としてはよく聞く話であるが、実際に見たことは無かった。
指を傷付けるのなら、えーと、えーと・・・。
分からない。指は、英語で何と言うのだったのだろうか。
ぼんやりと考えながら、教室の入口で立ち尽くす。大きな音を立てて戸を開けてしまったので、前進も後退も出来なくなってしまっているからだ。
西日に照らされた教室は妙に黄色みがかっていた。全体的にぼやけてくすんで、古びた写真のようになって見える。其の中で、彼女の長い黒髪だけが、ハッキリとした色の自己主張をしていた。
あの子、なんて名前だっけ。確か海に関係したと思ってたんだけど。渚だっけ、いや、違うな。なんだっけ・・・・・・
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「ちょっと、ごめんなさい。」
「えっえっ、あっ。あ、あたし?」
彼女が唐突に口を開いたので、私は慌てて辺りを見回した。当然ながら誰も居ない。やっぱり私に話し掛けたらしい。
ずっとじろじろ見ていたからだろうか。どうしよう。見てないで止めるべきだったのだろうか。でも、私には関係無いし、あっちが勝手にしてたことだし・・・・・・
私が心の中で慌てていると、彼女はおっとりとした調子で尋ねてきた。
「ティッシュ、持ってる?」
「え?」
「持ってたら、貸してくれないかな。指を針で刺しちゃって。」
「・・・・・・うん。」
恐る恐る近付いてみると、彼女は左手に布を摘まんでいた。縫い物ををしていたのか。
視線の動きに気付いたのか、彼女が照れたように笑う。
「左手、離すと生地がずれちゃうから困ってたの。今が一番難しい所だから動けなくて、誰か来るのをずっと待ってたんだ。」
「え、あ、そ、そうだったんだ。」
鞄からティッシュを取り出して手渡そうとすると、彼女はチラリと自分の指を見て、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「・・・どうしたの?」
「悪いんだけど、袋から出して貰えると嬉しいな。血が付いちゃうから。」
「あ、うん、ごめん。えっと、はい此れ。」
「ありがとう。」
血の滴る指先に、数枚取り出したティッシュを乗せる。白い繊維の網目に赤い水が染み込んで行くのが分かった。
片手だけでは、手の甲にまで流れた血を拭くことは出来ないだろう。
出血自体はもう止まっているらしかったので、筋を辿るように軽く拭ってからティッシュを丸める。
彼女が眉をハの字に落とした。
「あ、ごめん、こんなことさせちゃって。」
「気にしないで。これ、捨ててくるね。」
「其処までしなくていいよ。気持ち悪いでしょ?」
見上げて来る彼女を視線を返す。
普段なら、確かにそうだっただろう。けれど、其の時は不思議とそう思えなかった。
私は、否定も肯定もせず丸まったティッシュを手に取り、ごみ箱へと向かう。
ポイと手の上に乗せた其れを箱の中に落とし、ふと顔を上げると、電気のスイッチが目に入った。
「あ、そっか。電気付いてなかったんだ。」
改めて辺りを見ると、確かに夕陽が射し込んで明るいのだが、ほぼ真横からの日射しなので、影になっている部分も多かった。彼女の席も丁度手元の辺りが窓枠の影で暗くなっている。
此れでは指を怪我して当然だ。
「電気付けるよ。」
「うん。色々ありがとうね。」
カチリ
スイッチを押してから数秒間、頭上で光が点滅し、蛍光灯が付いた。
振り向くと、彼女は縫い物を再開していた。
歩み寄って手元を覗き込む。
ほぼ完成している水色のワンピース。然し、人間が着るにしては随分と小さい。
「人形に着せるの。」
「人形?って、えーと・・・」
名前を呼ぼうとしたのだが、そうだ、私は彼女の名前を知らないんだった。
彼女は少し笑った。
「なぎ。」
「なぎ?」
「名前、分からなかったんでしょ?話したことなかったもんね。なぎって言うの。赤羽なぎ。」
同じクラスなのに名前を知らなかったことを、詫びるべきかとも思ったけれど、其れも却って嫌味に聞こえるかも知れないと思い止まった。
散々考えた挙げ句、自分の名前を名乗る。
「・・・・・・あたしは、近藤未来。」
「うん。」
私の名前を知っているのか知らないのか、彼女が言うことはなかった。ただ、黙って首を縦に振る。
何だか気まずくなったので、慌ててさっきの続きを話す。
「・・・あの、その人形の服って、なぎ・・・ちゃんの?」
彼女は一瞬キョトンとした表情になり、軈て静かに笑った。
「違うよ。此れは、バザーに出すの。」
「バザー?」
「うん。」
「部活?ボランティアとか?」
「ううん。校外の・・・サークルみたいな。」
「此れなら皆欲しがるだろうね。凄い上手。」
「ありがとう。」
笑顔で返事をしながらも、規則正しく動く針。かなり慣れているらしかった。
長い黒髪は耳に掛けられ、サラサラと揺れている。蛍光灯の下の彼女は、さっきとはまた違った顔しているように見えた。
だから、私は思わずこう言ったのだ。
「もう少し、此処に居ていい?」
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彼女の名前は漢字で書くと《凪》で、風の止んだ穏やかな水面を意味する言葉らしい。透き通る水のように清らかな、波一つ無い水面のように穏やかな子に育つように、と願って付けられた名前なのだと彼女は教えてくれた。
「でも、全然そんな子にはなれなかった。」
少し寂しそうに笑い、彼女は歩道の端を歩く。彼女の声は、騒がしい雑踏の中でも、不思議とよく通った。
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人形のワンピースを縫い終えた後、彼女は私に『お礼をしたい』と言いだした。
特に凄いことをした訳でもないので断ったのだが、熱心に頼まれてズルズル引き摺られるように承諾してしまった。
そして、私達は今、其のお礼とやらの為に駅前のドーナツチェーン店へと向かっている。
さっきまで名前も知らなかった相手と、こうして二人で帰っているというのは、何だか妙な感じだった。
「・・・あたしは、そうは思わないけど。」
彼女の言葉を否定するのは何だか気が引けた。此れが他の友人ならば、もっと軽く笑い飛ばせた。もっと《そんなことない》と断言できた。
けれど、彼女に対しては出来なかった。理由は自分でも分からない。考えてやっと絞り出した声にさえ、直ぐに言い訳を付け足してしまった。
「喋ったこともないし、あたしがこんなこと言うのは変かも知れないけど。」
彼女はただ静かに笑った。
やっぱり、肯定も否定もしてくれない。
「ほら、お店見えてきたよ。」
指で示された先に、ドーナツチェーン店の看板が見えた。
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ドーナツが陳列された棚の前に立つと、彼女は年相応の女子に見えた。
じっと整列しているドーナツ達を見詰め、随分と真剣に悩んでいる様子だ。
「どれにする?」
「どれがいいかな。私、このお店初めてだから。」
「・・・メニューは何処の店舗でも同じだよ?」
「違うの。ドーナツ屋さんに入ること自体が、初めてなの。」
町に一軒は有るだろうドーナツチェーン店。決して珍しいものではない。
「あのチョコの掛かってるのにしよう。未来ちゃんは?」
なんとなく違和感を感じていた私は、ワンテンポ遅れて慌てて答えた。
「あ、じゃあ、エンゼルフレンチ。」
「うん。分かった。」
彼女が店員の前に向かう。差し出したトレーには、彼女が選んだドーナツに加えてエンゼルフレンチが乗せられていた。
「・・・え?あっ、私、自分で買うよ。」
「ううん。お礼なんだから。」
そう言って、さっさと紙幣を出して購入してしまう。
私はもごもごと口籠った。・・・が、直ぐに視界の端にある物を見付け、其れをトレーに置き、店員に差し出した。
作者紺野
どうも。紺野です。
※この話は完全なフィクションであり、実在の地名、団体、個人等とは一切関係ありません。
女の子を書いてメンタルリセット!!
少し書きたいことが出来たので一時中断いたします
兄を少しだけ尊敬しました。