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注意:
この噺は、3月に2度目のアワードを受賞された、よもつひらさか先生に捧げます、アワード受賞作品「張り詰める食卓」のオマージュになります。
興味のない方はスルーしてください(でも出来ることなら読んでください)。
では、こんな噺を。
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朝目覚めると、鼻腔を久しぶりに味噌汁の匂いが満たした。
……ような気がしたが、気のせいだった。
長らくその匂いを嗅いだことがない。
胸が、切ない気分でいっぱいになった。
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万年床から起き上がり、節々が痛む身体を引きずってキッチンに立つ。
人間、どんな時にも腹は減る。
たとえば、務めていた大企業の派閥争いに巻き込まれ、身に覚えのない汚職の濡れ衣を着せられたまま辞職することになり、住んでいた豪邸を追われ、こんな安アパートに引っ越してどん底の生活を強いられている、俺のような者であってもだ。
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少量しか収納できない、小さな冷蔵庫からいくつかの食材を取り出して、キッチンに並べる。
猫の額のようなスペースはすぐに一杯になってしまう。
今日のメニューはこんな感じだ。
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メイン「具なしお好み焼き」。
小麦粉を水で溶いて、フライパンで焼くだけのお手軽料理だ。
しかし、焼きあがったものにソースとマヨネーズをたっぷりかけてやれば、そこそこ食べられて腹も膨れる。
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汁物「具なしすいとん」。
先ほどと同じく、小麦粉を水と混ぜたものをスプーンで一口大にして、適当に味付けした汁の中に投入して煮込む。
これも安くて腹にたまる。
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おかず「もやし炒め」。
スーパーで格安で売っているもやしを大量に買ってきて、適当に塩コショウで味付けしながらフライパンで炒める。
野菜を取った気になれてお得だ。
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ほんの半年前までは、こんな切り詰めた食卓になるとは予想だにしていなかった。
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貧しい田舎から都会に出てきて、がむしゃらに働いて、若くして大企業の上層部まで登り詰めた。
田舎者、若造と陰口を叩かく奴もいたが、気合と執念で逆に叩き潰してやった。
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俺がそんな風に突っ張って来れたのも、妻のおかげだった。
妻は同じ田舎出身の幼馴染で、都会に暮らしてもそれに染まらず純朴なままの、優しく物静かな女だった。
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仕事に追われて気が立っていた俺が、家できつく当たった時も、優しく微笑み癒してくれた。
帰りが深夜になっても、寝ずに俺の帰りを待っていてくれた。
そして、朝は必ず味噌汁を作ってくれた。田舎にいた時から変わらない、あの味噌汁の味。
妻がせっかく作ったそれを、早朝会議に遅れるからと口をつけずに家を出ることもあった。
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そんな妻は今、病院のベッドの上にいる。
俺が会社を追われる直前、妻は交通事故に遭い、以来今日まで意識の戻らないままだ。
妻が事故に遭った日の朝、彼女は俺になんと言葉をかけて、いや、かけようとしていただろうか。
窮地に立たされていた俺の耳に、妻の声は全く届いていなかった。
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今の俺は、その日彼女の言おうとしていたことの予想が付いていた。
それこそが、俺の罪。
今のこの困窮がその罰だというのなら、甘すぎるくらいの重罪だ。
もっと重い罰を、俺は欲していた。
そして、その罰はもう間もなく手に入るであろうことも――俺は予感していた。
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――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴る。
はい、と返事をしてドアを開ける。
妻が立っていた。
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「ただいま、アナタ――」
妻は俺に抱きつき、俺の胸に顔をうずめた。
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「ビックリしちゃった。目を覚ましたら病院のベッドの上で、私は事故に遭ってずっと眠り続けていたって言われて……。その間にアナタは色々あって、引っ越したっていうのも病院の先生に聞いたの。
心配かけてごめんなさい。私、もう大丈夫だから」
妻はそう言って微笑んだ。以前と何も変わらない笑顔で。
俺は妻を抱きしめた。温かい。そして、優しい匂い。
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「ああ……。すまないな、色々あって以前の家は追い出されてしまった。今はこんな安アパート住まいだ。
飯もこんな切り詰めたもんしかないし、君のように旨く作れもしない。
俺は一人では、君無しではこんなに不甲斐ない人間なんだ」
「ううん。アナタは立派な人よ。そして優しい人。昔からずっと。
私こそ、アナタのそばにいて、ちゃんと役に立ててるのか不安だった。
でもね――」
妻は顔を上げる。
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「私ね、デキたみたいなの、赤ちゃん。
事故の時も、私が眠り続けているときも、無事でいてくれて本当によかった……。
私ね、アナタとの子供ずっと欲しくって、でもアナタは忙しくて……」
妻はポロポロと涙を流した。
それを見て、俺も泣いた。
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「ああ……、ごめんな。お前のこと、ちゃんと見てやれなくて。
そしてありがとう。こんな俺の子供を身ごもってくれて――」
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知ってる。
分かってるんだ。
妻はもう、妻じゃないことを。
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「電脳ゾンビ」。
昨今、世間を騒がせている事件。
重い疾患や事故などで、助かる見込みのない患者が、ある日突然帰ってくる。
そしてある時、家族や近隣の住人に襲い掛かる。
戻ってきた彼ら彼女らは、もう元の人間ではない。
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病院側が患者の情報をスキャンし、記憶をICチップに写し取り、特殊な溶融物質で身体を構成、電脳ゾンビを作り出す。当然、元の人間は死亡している。
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電脳ゾンビたちは人を襲う。
これは、少子高齢化に伴い増えすぎた人口を調整しようとする政府の陰謀だという説が、まことしやかに流れている。
政府は必死に否定しているが、すでにあちこちで物的証拠も見つかっており、真相が明らかになるのは時間の問題だろう。興味はないが。
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俺にとって興味があるのは唯ひとつ。
事故に遭い意識をなくした、身重の妻の安否だけだった。
当初、妻の容体は悪化する一方だった。お腹の子供も持たないだろうと。
しかしある日突然、妻は快方に向かっていると医者が言いだした。
現に病室のベッドで眠る妻の顔は、包帯は巻かれていたものの、事故に遭う前の妻のそれに戻っていた。
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その時、俺は確信したのだ。
俺の許されざる罪を。
いつか下される罰を。
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「お医者様は男の子だって言ってたから、きっとアナタに似た子になるわ。早速名前を考えなくちゃ」
妻が涙を流しながら、それでも心の底からの笑顔を浮かべる。
「ああ、そうだな。ところで出産予定日はいつか聞いたかい?」
俺は、指先で彼女の涙をぬぐいながら問いかける。
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電脳ゾンビのもうひとつの噂。
彼らは一定の人間を狙って襲う。
そして、それは――、
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「8月上旬だって。あなたの40歳のお誕生日と、どっちが早いかしら――」
作者綿貫一
よもつひらさか様
アワード受賞、おめでとうございます。
まことに勝手ながら、【祝祭】、参加させて頂きました。
☆よもつ ひらさか様【張り詰める食卓】
http://kowabana.jp/stories/25789
☆ロビン魔太郎・com【張り詰めた食卓】
http://kowabana.jp/stories/25954
☆鏡水花様【貼り付ける食卓】
http://kowabana.jp/stories/25977#line_62