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彼女との初デートで、とある水族館を訪れた時の話。
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薄暗い館内を、いくつもの水槽を観て回り、目玉である大水槽の前までやってきた。
分厚いガラスの向こうには、キラキラ光るイワシの群れや、ゆったりと飛ぶように泳ぐ巨大なエイ、迫力満点のサメなど、多くの魚が泳ぎまわっている。
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水族館好きの彼女は目をキラキラさせながらそれらを眺めていたが、俺はもっぱらそんな彼女の方ばかりを見ていたので、魚などほとんど目に入っていなかった。
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不意に彼女が「お手洗いに行ってくるね」と言って外してしまったので、俺は仕方なく水槽を眺めていた。
それにも飽きてぶらぶらしていると、大水槽の近くの壁に、たくさんの絵が貼ってあるのが目についた。
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それはどうやら、この水族館を見学に来た幼稚園生たちが描いたものであるらしく、色とりどりのクレヨンでカラフルに描かれている。
暇にまかせて、順々に観てみる。
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ニコニコ顔の女の子三人が真ん中におり、その背後にたくさんの魚が描かれている絵。
画用紙いっぱいに大きな口のサメを描いている絵。
トゲトゲの甲羅のタカアシガニを描いている絵など。
なかなかバリエーションに富んでいた。
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そんな中にひとつ、こんな絵があった。
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画面の真ん中には一人の人物がいた。
幼い子供が描く絵にありがちな、顔が大きく、対して身体は小さなアンバランスなシルエット。
ニコニコと笑っているようで、その口は真っ赤なクレヨンでオーバーに描かれている。
どうやら女の子のようだ。
というのも、髪を表す黒いクレヨンの線が、顔や身体の横を通り過ぎ、足元まで勢いよく引かれているからだ。
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女の子の背後には、赤やピンク、青など様々な色の魚が泳いでいる。
この大水槽の前で描いた絵なのかもしれない。
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俺はその絵に、かすかな違和感を感じた。
その正体は、その時の俺にはわからなかった。
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また別の絵を見ているうちに、彼女が戻ってきた。
「何見てるの?」
彼女は俺の横に並ぶと、俺が壁に貼られた絵を見ていることに気が付き、自分も一緒になって眺め始めた。
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くすくす笑いながら観ていた彼女が、不意に表情をこわばらせた。
「ねえ、これ……なんだろう?」
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彼女の指さす先を見ると、そこにあったのは、画面の半分以上が黒いクレヨンで塗りつぶされた絵だった。
黒は髪の毛を表している。
画面の真ん中に、大きな顔の人物が笑っている絵なのだ。
真っ赤なクレヨンで、大きな口が塗られている。
人物の背後、残ったわずかなスペースに、申し訳程度に魚が描かれていた。
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幼稚園生が描く絵だ。
顔が大きくなるのは当たり前。
しかし、なんとなく黒々とした印象のその絵に、不吉な感じを抱くと同時に、先ほど感じたのと同じ違和感を感じた。
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俺はそのことを正直に口に出していた。
彼女はそれを聞いてからしばらく考えていたが、やがて「あ」と口を開けた。
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「この絵。魚が全部右向きなんだ」
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言われてみると、この黒い絵の魚は皆、右を向いている。
他の絵の魚は左右入り乱れているものが多いが、一方しか描かれていない場合は左を向いていた。
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「聞いたことがあるの。日本人は『魚の絵を描いてください』って言われると、左向きに描くことが多いって」
確かに左向きの方が、しっくりくる感じがした。
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その話を聞くと同時に、さっき一人で見ていた際にも、この黒い絵と同じく違和感を感じた絵があったことを思い出した。
その絵を確認してみると、やはり描かれている魚が右を向いていた。
そして、髪の長い女の子。いや、子とも限らないか。
髪の長い女が大口を開けて笑っている。
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奇妙な共通項。
ふたつの絵は同じものを見て描かれた?
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「ねえ、思ったんだけど。
仮によ?この絵を描いた子たちが、他の子たちと同じように左向きで魚を描いていたとしたら。
係の人に、ここに貼られた時にそう貼られてしまっただけで」
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彼女が絵を見つめたまま、傍らに立つ俺の服の袖をぎゅっと掴んだ。
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「この絵、逆さまなんじゃない……?
そうすれば、魚はみんな左向きだもんね。
つまりこの人物は頭が下で、身体が上。
ひっくり返っているんじゃないかしら。
それで、こんな笑ってるって……。
ねえ……、この子たち、なに観て描いたのかしら……」
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俺の背筋にぞくりと悪寒が走った。
俺と彼女の背後の大水槽。
その方向から、水のように冷たい視線を感じたような気がした。
作者綿貫一
こんな噺を。