飯島郁恵(いくえ)が、娘のひとみを連れて家を出たのは、まだ肌寒い三月三日のことだった。
その日付に間違いはない。
ひとみの5歳の誕生日だったのだから。
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夫である誠一との離婚を決意したわけではない。
ただ、一度距離を開けたかったのだ。
ひとみのため、そして郁恵自身のために。
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誠一の職業は刑事である。
事件が立て込めば、何日も家に帰れないこともあった。
また帰っても、激務に精神と肉体をすり減らされ、家族サービスなど望めないこともままあった。
しかし、それは覚悟の上の結婚だった。
誠一は元来正義感の強い男であり、郁恵もまた、そんな彼に魅力を感じていたのだから。
頑固一点張りで突っ走る、ともすれば危ういこの男を自分が支えてやりたい、そんな気持ちから付き合い始めたのだから。
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それに誠一も、普段は家族思いな男であった。
たまの休みには、ひとみと一日中遊んでやり、郁恵には慣れない家事の手伝いを申し出たりもしていた。
だから、あの日のことはすべて、物事の歯車が少しずつズレて(それも悪い方に)しまっただけのこと。
そうであるはずだった。
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2月のある日、深夜のことである。
誠一はぐったりと重い身体を引きづって帰宅した。
ひとみの添い寝をしたまま寝込んでしまっていた郁恵は、玄関のドアの開く音に目を覚まし、夫を出迎えた。
誠一は大層疲弊し、すさんでいた。
彼の職業柄、陰惨で、辛い事件の現場に立ち会うこともある。
その時、この実直な男は大層傷つき、荒れることがあった。
郁恵はそのことを知っていたので、あえて言葉少なに、早く彼を休ませようと食事の支度を急いだ。
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その時――。
寝ていたはずのひとみが、パジャマ姿でリビングに立っていた。
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「ひとみちゃん、どうしたの?起きちゃった?ママもすぐにお布団に行くから、いい子で寝ててね」
郁恵が優しく話しかけるも、ひとみはリビングのソファに腰かける誠一の方をぼうっと眺めている。
「ひとみ?どうした?」
誠一が問いかけると、ひとみは不思議そうな顔をして口を開いた。
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「パパ。パパのお隣にいるおばちゃん、怪我してるの?頭から血がいっぱい出てて、痛い痛いなの?」
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瞬間、誠一はテーブルの上に置いてあった500mlのビールの缶を、立ち上がった身体で盛大にひっくり返した。
中身の液体が床にこぼれ、しゅわしゅわと小さいな音を立てている。
誠一は郁恵が見ても恐ろしい表情でひとみへ近づくと、しゃがみこんで、娘の小さな肩に両手を置いた。その手には信じられないほど、力が入っている。
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「ひとみ、なにを言ってるんだ?おばちゃんって誰だ?どんな人だ?血が出てるのか?俺の隣にいたのか?」
ひとみの小さな身体がガクガクと揺れる。そして、自らの父親の見たこともない表情に怯え、泣き出す。
「おばちゃんは、知らないおばちゃん!パパの隣にいた!今もいる!そこに、そこに、ほら、見てる!」
ひとみの指が、無人のリビングの空間を指し示す。
いない。
見えない。
誰も。
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恐ろしい表情で娘を問いただす夫。泣きじゃくりながら、見えない誰かの存在を叫ぶ娘。立ち尽くすだけの自分。
その光景に郁恵は、それまで確かにあった家族の均衡に、ぴしり、と小さな亀裂が入った音を聞いた気がした。
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その夜以降、何かがズレてしまった。
誠一も郁恵も、普段通り接しようとして、返って会話はたどたどしくなった。
ひとみは怒られると思って控えているのか、それとももう見えないのか、あの晩の存在について口にすることはなかった。
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ただ、ひとみは夜、一人で寝られなくなった。
それまでも郁恵が添い寝をして寝かしつけていたが、眠くなれば自分から布団に入ってしまうことはあった。
それが、寝付くまで郁恵がきちんと見守っていてやらないと、ぐずるようになってしまったのだった。
人の目がないと安心できなくなってしまったのだろうか。
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家の中を、言いようのない重い空気が覆っていった。
誠一の方でも大きな事件の捜査に関わることになった。
仕事の上での苦労や疲労も応えていたが、誠一にはあの晩の出来事が、
――娘がおかしなことを口走り、自分が感情的に娘を問い詰める、そんなことが再び起こりはしないかと、その可能性に怯えていた。
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郁恵は夫も娘も愛していた。
だから、奇しくも娘の誕生日、娘と家を出ることを決意した。
夫も同意の上だった。
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郁恵は隣町のアパートに、1LDKの部屋を借りた。
アパートの右隣の部屋には大学生の女性が、左隣の部屋には社会人の若い男性が、それぞれ一人で暮らしていた。
普段あまり交流はないが、会えば挨拶を交わすくらいはする。
生活音が騒がしいこともないし、住環境としては悪くなかった。
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ひとみには、これまで通っていた保育園にそのまま通わせることにした。
朝、ひとみを保育園まで送り届け、日中は以前勤めていた小さな会社の事務の仕事をし、夕方に保育園に迎えに行く。
一日はめまぐるしく過ぎていった。
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仕事の関係で、夜どうしても遅くなる場合は、近所に住む妹を頼った。
「ひとみは一人では寝られないのでくれぐれも頼む」と言ってあった。
妹は「まあ、5歳じゃあね」と笑った。
妹がひとみのことを気味悪がらないように、あの夜のことは話していなかった。
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梅雨に差し掛かったある日のこと、郁恵は仕事で帰りが遅くなっていた。
前もってわかっていたことなので、ひとみのことは妹にお願いしてある。
会社を出る際に22時半には帰り着く旨を妹の携帯にメールし、アパートの近所にあるケーキ屋で、ひとみと妹へのお土産を買い求めていると、郁恵の携帯が振動した。
メールが届いていた。
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『ごめん、お姉ちゃん。急用ができて帰らないといけなくなっちゃった。お姉ちゃん、もうすぐ帰ってくるよね?ひとみちゃんは今寝てるから、鍵閉めてこのまま帰ります』
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郁恵はメールを読んで大いに慌てた。
ひとみは夜、一人で寝られない。
もしあの子が目を覚ましたとき、誰も隣にいなかったら――。
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引っ越してから一度だけ、うっかり夜にひとみを一人にしてしまったことがあった。
わずかな時間だ。
添い寝をしてひとみを寝かしつけた後、冷蔵庫に飲み物が切れていることを思い出した郁恵は、近所のコンビニまで買い物に出かけた。
戻ってくるまで、およそ15分。
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たった15分の間に、ひとみは目を覚まし、部屋の中に郁恵の姿がないことを認め、半狂乱になって――。
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ひとみは壊しに壊した。
部屋を。家具を。そして自分自身を。
隣近所まで響くほどの泣き声を上げながら。
隣の部屋の青年とは、その時初めて顔を合わせたものだ。
青年は「ああ、娘さんですか。あんまりにもひどい泣き方だったんで……びっくりしました」
と、やや引きつった顔で、郁恵の背後にすがりついたひとみを見ながら言った。
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郁恵は駆け出した。
走りながら妹の携帯に電話をしたが、出なかった。
妹への悪態をつきながら、十分に説明していなかった自分自身にも怒りがこみあげてくる。
何よりひとみだ。
ひとみ!
ひとみ!
ひとみ――!
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ガチャガチャと乱暴にドアのカギを回す。
玄関の廊下とリビングを隔てる、磨りガラス入りのドアを勢いよく開ける。
「ひとみ!」
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「ママ?」
ひとみはリビングで一人、絵本を読んでいた。
泣いてもいないし、取り乱してもいない。
ただ平然と、慌てて部屋に駆け込んできた母親の姿を見ている。
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「ひとみ……。あなた、大丈夫なの?」
郁恵の問いかけに、ひとみは首をかしげる。
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「だって、あなた、一人じゃ寝られないって」
「うん。でも、なんか大丈夫なの。怖くないの」
そう言って、誇らしげに胸を張った。
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実際、その後もひとみは、夜に一人でいることを怖がらなくなっていった。
こっそり部屋の外に出て様子をうかがってみたのだが、起きだして騒ぐ様子もない。
一時、彼女を襲ったパニックも、完全に沈静化したのかもしれない。
それとも、子供の成長は早いもので、すでにその恐怖を克服したのかもしれない。
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いずれにしろ、郁恵にとって、それは嬉しい発見だった。
早速誠一にもそのことをメールで知らせると、忙しいであろう仕事の合間に、「よかった」と返事を返してきた。
その短く、そっけない返事の向こうに、誠一の喜びを郁恵は確かに感じていた。
以前の生活に戻るのに、それほど時間はかからないかもしれない。
郁恵はそんな予感を持った。
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それから2週間後に事件は起こった。
妹にひとみの世話をまかせ、郁恵は夜まで残業を引き受けた。
前と同じように、妹にはひとみを寝かしつけるところまでお願いをした。
娘はもう夜に目が覚めても泣き出すことはないから、寝付いたら鍵をかけて帰ってくれて構わない、そう伝えていた。
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郁恵が部屋の前まで帰りつくと、ドアの向こうから泣き声が聞こえた。
ひとみの声だった。物を落としたり、壊すような音も聞こえる。
尋常ではない。
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「ひとみ!」
慌ててドアを開ける。
台風でも通り過ぎたのかと思うような、部屋の惨状だった。
そして、その中心に、ひとみが立っていた。
パジャマを半分脱ぎ散らかし、顔に、むき出しの腕に、無数のひっかき傷をつくりながら、幼い娘は泣いていた。
以前と同じ、自傷行為だった。
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郁恵はひとみに駆け寄り、抱きしめる。
腕の中で、ひとみは暴れる。幼い身体のどこにこれだけの力があるのかと思わせるほどだ。
「ひとみ、ひとみ落ち着いて。どうして?……あなた、もう大丈夫なったんじゃないの?」
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その後、一時間ほどひとみは泣きじゃくった。
ようやく落ち着いたところを見計らって布団に連れていくと、添い寝をする。
ひとみが寝息を立て始めたことで、ようやく安心して力が抜けていくのを感じた。
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しかし――、
郁恵は暗い天井を見つめて考える。
ひとみの恐怖は解消されたわけではなかったのか。
ここ最近は夜、一人で寝ていても騒ぎ出すことはなかった。
これまでと今日とで、なにが違っていたのか――。
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そんなことを考えているうちに、郁恵の意識は闇に沈んでいった。
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大勢の人の声がして、郁恵は目を覚ます。
もう朝になっていた。
横ではひとみが規則正しい寝息を立てている。
枕元の時計を見ると、午前7時。
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この声は何だろう?
テレビでもない。
隣の部屋――?
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玄関のドアがガチャガチャと大きな音を立てる。
「郁恵!」
誠一の声がした。
ひとみを起こさないよう起きだして、リビングで誠一を迎える。
憔悴している。
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「よかった。無事だったか」
「あなた、どうして?」
「ここの隣の男性が、今朝死体で発見された。新聞配達の人間が、ドアが開けっぱなしになっていることを不審に思って、部屋を覗いて見つけたんだ」
あの青年が――?
郁恵の頭に青年の顔が浮かぶ。
人畜無害そうな、あの顔。
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「犯人は……?」
「ああ、男の交際相手の女性だ。もう捕まっているよ。――しかし、異常だよ。あの女」
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交際相手の女性は、青年に薬物を飲ませて昏睡させて後、手足を拘束し、口を塞いで、
――目を、太い革の紐で、縫い合わせていた。
――何も、見えないように。
――ちくちく。
――チクチクチクチク。
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「なんで――?」
郁恵は思わず口にしていた。
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「見させないため……だろうな。あの男の部屋、つまりこの部屋の隣の部屋だが、片側の壁中が小さな穴だらけだったよ。
……なんの穴だって?
……覗き穴だよ。
壁の穴は全部、この部屋に向けて開いてたよ。覗いてたんだ。この部屋を。
そして、押入れからは、写真の束が出てきた。
全て……、ひとみのだ」
誠一はテーブルを殴りつけた。怒りに震えている。
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「あの殺された野郎は、ひとみのこと覗き見して、隠し撮りまでしてやがった!
女はその写真束を見つけて、付き合ってた男の性癖と浮気に腹を立てたんだろうさ。
だからって……いや、しかし……。
刑事である前に俺はこの子の父親だ。やはり、許せない」
そう言って、寝ているひとみのところに行き、抱きしめて涙を流していた。
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郁恵はそれを見ながら、元の家に帰ることを決めていた。
このアパートにはいられない。
誠一も受け入れてくれるはずだ。
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そして、ぼんやりと隣の部屋との間の壁をみる。
壁に貼ったカレンダーの脇、タンスの陰、鏡の後ろ。
気を付けて見ればわかる。
穴。
穴。
穴。
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覗いていた。
覗かれていた。
隣の部屋から。
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ひとみはいつからか、この部屋で、夜に一人で寝ることを怖がらなくなっていた。
誰からの目がないと、怖くて寝られなかった娘が。
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娘の疵は。
まだ癒えてはいなかったようだ。
作者綿貫一
こんな噺を。