息子の明(あきら)を連れて、アスレチックパークであるS公園を訪れたのは11月の半ばのことだった。
「パパー、早く早く!」
明は、お隣の家の娘、道子ちゃんと手をつないで、先へ先へと駆けていく。
「おーい、待ちなさい!明、ちゃんと前見ろ、前!」
大声で子供たちに呼びかける私の後ろを、妻とお隣さんご夫婦が世間話をしながら歩いている。
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「すみません、菅原さん。うちの明が道子ちゃんを引っ張りまわしちゃって」
「いえいえ、奥さん。明君にはいつも道子と一緒に遊んでもらって、助かっています。
今日もこちらに誘っていただいて、あの子も大喜びで。
昨日の夜なんか興奮してなかなか寝なくて……なあ、お前?」
菅原氏の言葉に、小柄な夫人が微笑みながら頷く。
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S公園は自宅から車で一時間ほどの場所にある大型のアスレチックパークだ。
国内最大級のフィールドアスレチック――丸太やロープを使った遊具施設を巡るコース――があり、夏に連れて来て以来、すっかりうちのやんちゃ小僧、明のお気に入りになっていた。
今日は隣家の菅原家の面々も誘って、遊びに来ていた。
ただ、今回の目的はフィールドアスレチックではなかった。
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「――へえ、じゃあその巨大迷路って、呉田(くれた)さんが子供の時からあったんですか?」
長身で痩せ方の菅原氏が、おっとりとした口調で私に問いかける。
「ええ。昔、そういうブームがあったんですよね、巨大迷路ブームみたいのが。
ここ、S公園の巨大迷路は当時、日本最大級って謳っていましてね。
子供が挑戦して、ゴールするまでにたしか1時間弱かかったんじゃないかなあ……」
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木製の塀で区切られた細い通路で形成された、巨大迷路。
通路は二つに分かれ、三つに分かれ、曲がり、くねり、進み、そして行き止まり、侵入したものの方向感覚を麻痺させる。
それでもトライアンドエラーを繰り返しているうちに正しい道が開け、無事ゴールにたどり着いた時の達成感たるやなかった。
当時子供だった私は最短記録に挑戦しようと、全速力で迷路内を走り回ったものだった。
そして一緒に来ていた親とはぐれ、迷子になって泣いているところを発見され、大目玉を食らう……。
どうやら息子のやんちゃっぷりは親である私譲りのようだ。
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「パパー!」
道子ちゃんの手を握り、こちらの手を振る明。その背後を見て、私は驚いた。
迷路は私が知るそれよりも、はるかに大きくなっていた。
昔は平地に建っていたはずの迷路は、今は小高い丘を覆うようになっていて、丘のちょうど頂上と思われる場所には木製の物見やぐらと、巨大なスピーカーのようなものが建っていた。
通路を区切る木製の塀は全て黄色のペンキが塗られ、それはまるで黄色い山城のようだった。
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先ほどまで快晴だった空を、今は灰色の雲が覆っている。
予報では今日は一日、雨にはならないらしい。
一陣の冷たい風が、迷路の入り口の方から吹いてきた。
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「明君、どっちが先にゴールできるか競争しない?」
迷路に入って10分ほどしたところで、道子ちゃんが言い出した。
それまで二家族で一緒に迷路内を探索していたのだが、ここらで別行動をしたいらしい。
「いいよ!勝った方が帰ってから言うことひとつ聞くようにしようよ!」
わかった!と大きな声で道子ちゃんが返す。彼女もなかなかお転婆だ。
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さすがに子供たちだけで行動させるわけにいかないので、呉田家チームと菅原家チームの対抗戦ということにした。
通路が三つに分かれている箇所で、我々は右の道、菅原家は左の道を進むことにする。
「じゃあ、よーいドン!」
明が一目散に駆けていく。道子ちゃんも母親の手を引いて先を急かしていた。
「じゃあ呉田さん、また後で」
「ええ、これを出たらお昼にしましょう」
そう言って私も妻とともに明の後を追いかけた。
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迷路内を構成する黄色い木製の塀は、大人の背丈よりも高く、完全に視界を覆っていた。
その代わり足元には30センチほどの隙間が空いていて、壁越しに隣の通路を誰かが通るのが分かるようになっていた。
入り口で見たように、フィールドのちょうど中心部、丘の上に見晴らし台と黒い巨大なスピーカーが立っている。
ゴールはおそらく、丘の反対側だろう。
まずは見晴らし台を目指して進むことにする。
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実際、迷路は複雑だった。
通路は何本にも枝分かれしており、「これか」と当たりをつけた道も結局行き止まりだったりした。
それも意地悪なことに、すぐに行き止まりと分かるわけでなく、しばらく進んでから突当りの壁が現れて、がっかりしながら長々と元来た道を引き返さなければならなかった。
また、いたるところに海面の小さな渦のような地点があって、その地点でグルグルと進行方向を変えさせられるために、余計に混乱した。
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「ねえアナタ、この迷路、すごく難しくない?アナタの子供の時もそうだったの?」
「いや、俺が子供の頃はもっと分かりやすく子供向けだったよ。こんな大人でも迷うような作りじゃなかったんだけどな……」
「やだ…ここ携帯の電波入ってないみたい。遭難したら救助が呼べないじゃない」
「さすがに迷路で遭難はしないだろ……」
私と妻は繰り返す行きつ戻りつに早くも音を上げていたのだが、若さの固まりである明は「パパ、こっちじゃなかった!あっちあっち!」と我々を先導して走り回るのだった。
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それにしても、他の利用客とあまりすれ違わない。
迷路に入ってから30分。途中すれ違ったのは親子連れが一組、若いカップルが一組だけだった。
時計を見ると12時を少し回ったところだった。
昼時だから人が少ないのだろうか。
それとも、先ほどよりも暗さを増した、この空のせいかもしれない。
予報では降らないと言っていたが、迷路内で雨に降られるのはたまらない。
早いところここを抜けたいという気持ちが強くなっていた。
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それでも、いつしか丘の上に近づいては来ているようだった。
見晴らし台がだいぶ近くに見える。
あそこから眺めれば、この迷路の全体像、ゴールまでの道のりも確認できるかもしれない。
そんな希望を抱いた時だった。
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sound:5
shake
『ポロン♪ポロン♪ポ…ッ(ガリガリッ!)…ン♪ポロロッ(ガッザザザッ!)ゥロロロン♪』
元はメルヘンチックであったろう音楽が、酷くひび割れ、間延びした状態で迷路内に響き渡った。
どうやら見晴らし台の横にあった、黒い巨大なスピーカーから流れているようだ。
次いで、奇妙に甲高い、はしゃいだ若い女の声が響いた。
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sound:5
shake
『……い子のみィィィんなァ、迷路の冒険んんんん頑張っているかなアァァァァァ……
今今今から…ッ(ガリガリガリガリッ!)ォスが出てくゥうるから、つかかかまらなァアァアいように…ウォつけてネ(ブツンッ!)』
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「……何なの、今の?」
いつのまにか、私の手を握っていた妻が尋ねる。
「さあ……」
応えながら、妻の顔を見る。
言いしれぬ不安に曇った顔。きっと私も同じ表情をしていたことだろう。
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「明……明は?」
妻がはっとした顔で私の腕を掴む。
「ああ!……明!明!どこだ!」
自分たちよりも先行していた明の姿が見えない。
妻の手を握ったまま、次の曲がり角まで走る。
明の姿はない。
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「明!明どこだ!声出せ!返事しろ!」
言いしれぬ不安に押しつぶされそうになりながらも、怯えた顔の妻の手前、それを表情に出す訳にいかない。
代わりに出せる限りの大声で息子を呼ぶ。
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「……パパァ?」
足元から声がした。
黄色の塀の、30センチほど空いた隙間から、子供の手が覗いている。明の手だった。
「明!」
妻がその手を掴む。
明は塀を挟んだ向こう側で、しゃがんでこちらを覗いていた。
明ほどの子供でも、隙間からこちら側に通り抜けることはできないようだ。
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私は塀をよじ登れないか試みた。
しかしそれは叶わなかった。塀は高く、ジャンプしても手がかからないほどだった。
体当たりをしても倒れそうにない。
「明、そこにはどうやって行った?俺たち、このまま進めばそこに着くのか?」
私は早口で息子に問いかけた。
「えー?うーんとね、まっすぐ行って、途中分かれ道を曲がったよ?二回曲がった」
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どうやら現在は塀一枚隔てた場所にいるが、そこに至る通路は分岐しているらしい。
私と妻がいる地点から、どのくらい離れているのか。
「明、そこを絶対に動くんじゃないぞ?パパたち、すぐにそっちに行くからな。わかったな?」
うん、と明は返事をした。そして、早く早くーと我々を急かした。
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実際、奇妙な放送が流れたというだけで、不審なことが起こったわけではない。
しかし、妙な圧迫感を感じるこの迷路施設と、その頭上を覆った灰色の空が、抑えようのない不安を湧き上がらせていた。
妻と二人、自然と駆け足になる。
と――、
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shake
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
進行方向左の20メートルほど奥から、男のものと思われる悲鳴が聞こえていた。
私は思わずビクリと肩を震わせ、足を止めた。
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shake
――ドスッ
shake
――ズドッ
shake
――ボグッ
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固いもので肉を打つような、鈍いこもった音。
それが三度響いたあと、迷路内は静寂を取り戻した。
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「……何?今の何?」
妻が涙目になりながら、震える声で呟いた。
私にそれがわかるはずもなかった。
しかし、それは暴力的な行為を想像させる音には違いなかった。
私は人差し指を口元に当て、妻に声を出さぬよう指示した。
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この近くに、凶暴な何かがいる。
誰か、おそらくは男性が被害に遭った。
そして、その誰かは明ではない。
私に分かるのは現状それくらいだった。
そして、最優先すべきは明との合流。それは明白であった。
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通路を進む。
右に折れる。
直進する。
二手に分かれる。
右手に曲がる。
直進。
三又に分かれる。
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「…明?…明?」
本当ならば声の限りに叫んで、息子の位置を確認したい。
しかし、どこに先ほどの暴力的な存在が潜んでいるとも限らないのだ。
囁くような声でしか、呼ぶことができない。
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と、足元の隙間からゆっくりと何かが沁みだしてきた。
コンクリの床を流れる赤黒い液体。
それは血だった。
丘の傾斜の影響で、じわじわと、しかし確実に低きに流れ落ちていく。
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「明!」
つい大声が出た。
おそらくこの血は先ほど聞いた男のものだろう。
きっとそうだ。そうに違いない。
我々が移動したことで、先ほどの現場と距離が縮まったのだ。
これはその血だ。
明のじゃない。
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そう思いながらも駆ける足が止まらない。
そして曲がり角を折れたところで――
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「パパー!」
しゃがみこんでいる明の姿があった。
すぐさま立ち上がると、「遅いー」と文句を言いながら脚にじゃれついてくる。
妻はがくりと膝から落ちて、そのまま息子を抱きしめた。
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このままこの場所に留まるわけにはいかない。
私は妻を立ち上がらせると、進むか戻るかを思案した。
迷路に入ってからすでに1時間弱が経過している。ただ引き返すにしても迷わない保証はない。
それより、中心部の見晴らし台はもう間近だ。
そこでルートを確認してから戻るか、進むか判断した方がいいように思われる。
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私は塀3枚ほど隔てた、見晴らし台を目指すことにした。
私が先頭を行き、明の手をきつく握った妻が後に続く。
曲がり角の度に、何かが現れるのではないかという恐怖から足が止まる。
しかし立ち止まっているわけにはいかない。
意を決して右に曲がる。
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そこは普通の通路より少しだけ広い、正方形のスペースだった。
普段なら、クイズ置き場やチェックポイントとして機能していたのかもしれない。
しかし今は違った。
今、その場所にあったのは、黄色い木の塀とコンクリの床を同色に染め上げる、おびただしい血の池だった。
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shake
「ヒッ――!」
背後から妻の短い悲鳴が響く。
私も目の前の光景にしばし息をするのを忘れて眺めていた。
やがて、肺が自発的に空気を吐き出し、我に返る。
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後ろを振り返ると、妻が明の顔をその腕と身体で覆って震えていた。
その光景に冷静さを取り戻す。
視線を前方に戻す。
血の池。
その中心に、見慣れたものが浮かんでいた。
思い出すまで普段より時間がかかる。
それは先ほど別れた菅原氏の眼鏡だった。
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災禍に遭ったのは菅原氏だったのか?
本人はどこに行った?
その安否は?しかし、この血の量ではおそらく……。
夫人と、道子ちゃんの行方は?
犯人はどこにいる?
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奥に二股の分かれ道が見えた。
その一方に、血の池からズルズルと、血の道しるべが続いていた。
引きづって行ったのだ。血まみれの菅原氏を。
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私は血の池の脇を進んで、血の跡のない、もう一方の道を覗きこむ。
何者の気配も感じ取れない。
気配、などという感覚があてになるかは別としてだ。
たとえこれが罠だったとしても、この場所に犯人が「いた」ことだけは確かなのだ。留まることはできない。
背後の妻に手招きをする。
妻は明の顔を自分の服で覆ったまま、血の池の脇を走って通り抜けた。本人も固く目を閉じている。
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果たして、その道は見晴らし台へと続いていた。
丸太で組まれたアスレチック風のその建物からは、丘の全体が見渡せた。
しかしそれは本来ならば、ということであって、今は低い雲か靄(もや)のようなものが迷路上空を覆っていて、視界が効く範囲はそれほど広くなかった。
一方の窓の眼下には、先ほど通り抜けてきた血の池の現場が見て取れた。
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「……ねえアナタ、これからどうするの?」
「……しばらくこの場所に居ようと思う。
携帯が通じないから連絡は取れないが、外のスタッフだってそのうち異常に気が付くだろう。
まだ昼過ぎだ。雨さえ降らなければ暗くなるには時間もある。
それに、この場所で見張っていれば、怪しい奴が近づいてきてもすぐに発見できる。
逃げる必要があれば、それから動いても遅くない」
妻は震えながら頷いた。
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「ねえ、道子ちゃんたちはどこにいるの?競争負けちゃうよ?」
明が服の袖を引っ張りながら尋ねてくる。
「明、緊急事態で競争はなしだ。今は言うこと聞いてな」
息子の頭を撫でながら言い含める。
菅原氏はおそらく重体か死亡してしている。
一緒にいたはずの夫人と道子ちゃんも、非常に危険な状態のはずだ。
それとも、もうすでに――。
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shake
「いやああああああああああああ!ママーーーーーーーーーー!」
不意に足元から甲高い子供の声が響いた。
慌てて窓から身を乗り出し、迷路に視線を泳がす。
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道子ちゃんだった。
見晴らし台からそう遠くない地点に、ひとり立ち尽くしている。
服を紅く染めているが、本人が怪我をしているわけではなさそうだ。
彼女の脚元に倒れている何か、いや、誰かの血であるようだ。
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shake
「道子ちゃん!」
私と妻が止める間もなく、明が見晴らし台を駆け下りていく。
「待て!明!」
「待って!明!お願い!いやああああああああああああああああああああ!」
妻が悲痛な声を上げる。
制止の声も聞かずに、迷路の中に走りこんでいく息子の姿を、見晴らし台から確認する。
入って行った通路は分かった。
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「アナタ!」
「わかってる!お前はここに居ろ!上から何から見えたら大声で教えてくれ!」
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全速力で明を追う。
大人の足と子供の足だ。すぐに追いつける。道さえ誤らなければ。
道が二手に分かれる。
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「右よ!」
頭上から妻の声がする。
ややスリップしながら、できるだけスピードを落とさないまま角を曲がりきる。
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「次は左!」
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「次を右、突当りにいるわ!」
角を曲がると走る息子の後ろ姿が見えた。
そのさらに奥に、泣きじゃくる道子ちゃんの姿。
二人のそばに駆け寄ると、その肩を抱く。
「――無事でよかった」
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思わず、脚の力が抜けてその場に膝をつく。
まだ、二人を連れて見晴らし台に戻らなくては――。
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「いやああああああああああああああああああああああああああああ!」
妻の悲鳴が響いた。
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顔を上げる。
見晴らし台の窓からこちらを見る、青ざめた妻の顔が見えた。
パクパクと、金魚のように口を開いたり、閉じたりしている。
――何を言っているんだろう?
妻の声が聞こえない。
今、私の耳に届いているのは、低く荒い、緩慢な息遣いだった。
それは、まるで、獣のような――。
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後ろにいる。
黄色い木の塀を挟んで、すぐその向こうにナニカいる。
(つ……の……)
妻の口が動いている。
息遣いの音が大きくなった。
ぷんと辺りに血の匂いが漂った。
作者綿貫一
こんな噺を。