青く澄んだ空。磯の香りを含んだ空気は、忘れたと思っていた記憶を、一つ二つと思い出させてくれる。楽しかったこと、悲しかったこと、恐ろしかったこと・・・それら全てが、今では遠い昔の出来事のように思えてしまう。
噎せ返るような暑さの中で潮騒を聞いている。堤防の下、目の前に広がる大海原を見ていると、服を脱ぎ捨ててそのまま飛び込みたくなるようにも思える。だけど、海は怖い。そんなことを考えていると、僅かだが寒気がした。
ふと、隣に立つ少年を見やると、彼は水平線のどこか、果てしない海の向こうを身動ぎせず見つめていた。潮風に靡く彼の髪は美しく、整った顔立ちということも相俟って、まるで女性のようにも思えてしまう。神原零、日本呪術師連盟T支部支部長の長男であり幹部。俺よりも一つ年下だが、その才能は自他共に認めるものだ。周囲からはゼロの愛称で親しまれ、普段から穏やかな好かれやすい性格。しかし、彼の纏うオーラはどこか神秘的で、妖艶ささえ感じられる。そんな彼に呼び出されたのは、今から90分ほど前のことだった。
○
目が覚めると、いつもとは違う違和感があった。妙に身体が軽い。時刻は午前八時、隣で寝ていた鈴那の姿は無い。もう起きたのだろうか?
案の定、居間へ行くと鈴那と露の姿があった。城崎鈴那は俺の彼女で、昨日のデート後にそのまま家へ泊ったのだ。
「おはよう」
「おっはよーしぐ!」
元気にあいさつを返した鈴那だったが、彼女も寝起きなのだろう。その声はどこかふわふわとしており、なんだか新鮮だ。
「旦那さま・・・に、兄さん。おはようございます」
露は水色の着物を着てモジモジとしながらそう言った。
「お、おはよう・・・兄さん?」
俺が訊き返すと、鈴那が笑いながら言った。
「露ちゃん、これからはしぐのこと兄さんって呼ぶんだって~!兄妹って感じでいいじゃん!」
兄妹か。そもそも露は俺の義妹なのだから、兄さんと呼ぶ方が正しい。家に来て直ぐ、俺が「旦那様と呼べ」なんて言ったばっかりに、今までずっと俺のことを旦那様と呼んできたのだ。
「に、兄さん!兄さんでも、いいですよね・・・?」
「もちろんだ!」
俺は即答した。露・・・可愛過ぎるぞ、お前。
それにしても、今日は朝から変わったことの多い日だ。いや、普段気にしていないだけで、毎日何かが必ず変わっているのかもしれない。
事が起こったのは、朝食を食べ終えてから少し経った頃のことだ。不意に何かの気配が家の外に充満し、それらは屋内にも浸み込んできた。
「何だっ!?」
俺は咄嗟にそう叫んだ。鈴那と露も気配に気が付いたようで身構えている。まるで、黒色の蟲たちの大群が視界を覆ってゆくかのような空想が目に浮かぶ。それほど圧縮された悪意のようなものが一瞬で肥大し、数秒で風船が萎むように小さくなっていった。
「なんだったの・・・今の」
鈴那が震えた声で呟く。
「わからない」
俺がそう言った直後、手に持っていたスマートフォンが振動した。画面を見ると、ゼロからの着信だ。俺は通話ボタンを押して電話に出た。
「もしもし」
「しぐるさん、今すぐ事務所へ来てくれませんか?」
「おお、わかった。鈴那は?」
「しぐるさんだけでいいです。では、また後で」
そう言って電話は切られた。ゼロの声から察するに、やや焦っているようだ。やはり何かがあったのだろうか。
露と鈴那に事務所へ行く旨を伝え、俺は家を出た。
○
事務所にはゼロ一人だけだった。俺が到着すると、彼は「行きましょう」と一言だけ言って事務所の外へ出た。
「おい、どこに?」
「兎に角ついてきてください」
彼のいつもより真面目な口調に返す言葉が見つからず、黙ってついていくことにした。先程のこともあったので彼に訊きたいことは山ほどあるが、どうも訊ける状況ではなさそうだ。そんなことを考えていると、彼の方から声を掛けてきた。
「あれ、あんなことは初めてです」
“あれ”とは先程の気配のことだろう。俺は頷いた。
「俺も小さい頃からこの街に住んでるけど、あんなすごいのは初めてだ。なぁ、何があったんだ?」
「たぶん、あんなものじゃないですよ。除霊できないとかそういうレベルじゃないヤツがどこかにいる」
彼の顔には微笑が浮かんでいた。楽しんでいるのか?この状況を。そう思ったが、もれなく俺もそのようだ。得体の知れないモノへの恐怖で気が動転していた。だが、そのどこかでは凄まじい悪意を放つ何かの正体を知りたいという欲求が渦巻いていた。
「ゼロ、何が起きているんだ?この街で・・・」
「それを今から見に行くんですよ。いや、その一つを。この目で。」
そう言った彼の目は・・・。
○
潮風に混じり皮膚を刺激する冷たい空気は、ジリジリとその強さを増しているような気がする。
「怪異と相対する者、陰にて闇を斬る。尚、死して屍拾う者無し」
隣で海を見据える彼が独り言のように呟いた。
「まるで隠密同心だな」
俺がそう言うと彼はフッと笑った。
「同じようなものですよね。怪異が見え、能力を持つが故にそれらと戦う。そんな僕らでも、本当に恐ろしいものをまだ知らない」
その通りだ。よく、幽霊よりも人の方が恐ろしいと言うが、果たして本当にそうなのだろうか。幽霊や人よりも恐ろしいものが存在するのではないのだろうか。『絶対悪』という言葉が脳裏を過った。
「しぐるさん、あそこ」
不意にゼロがそう言ってある一点を指さした。そこに目をやると、テトラポットに何かがくっついている。よく見ると、それは子供の霊だった。
「あそこに、ずっといたのか?」
俺の問いにゼロは頭を振った。
「急に出てきましたね。龍臥島の時もそうでしたが、一時的に霊の気配が強くなったり弱くなったりと、変動が激しいんですよ。あれは黄昏時という条件付きでしたが、今は真昼。霊自身がそうしているのならいいのですが、これは違う」
彼がそう言った直後、俺達と程近い場所の海面を見たこともない小魚の群れが一斉に飛び跳ね出した。
「何かの異変を察知したんですね」
俺があっけにとられていると、ゼロがそう言った。彼は至って冷静だ。俺はふと子供の霊のことが気になり、そちらに目をやった。
「除霊、するか?」
俺がそう言うと、ゼロは頭を振った。
「浄霊してあげましょう。除霊は、痛いですから」
彼のその言葉に、俺は少しだけ胸が締め付けられた。あの子も、元は生きていた人の子なのだ。それなのに俺は除霊しようと思った。有無を言わさず消してしまおうと・・・。
「・・・そうだな」
俺がそう言い終えた瞬間、子供の霊が居た方向から水飛沫が上がった。そこには、もう子供の霊の姿は無かった。
「喰われたんですよ。他の霊に」
ゼロが言った。その顔は、少し憂いを帯びていた。
「見たのか?」
俺がそう訊くと、彼は頷いてからため息を吐いた。
「霊同士の共喰い・・・信じられませんよ。同種を食べるなんて」
「一体、何が起きているんだ?」
この街で・・・何度目かになるその質問を口にする。しかし彼は黙ったままだった。そして、ただひたすら海を見つめていた。
暫くすると、ゼロが口を開いた。
「3年前の7月10日、覚えていますか?」
覚えている。忘れることもない、妹のひなが殺された日だ。俺は黙って頷く。ゼロは話を続けた。
「しぐるさんは、妹さんの能力についてどこまで知ってるんですか?」
どうしてお前がそんなことを・・・と言いたいところだが、ゼロがそのことを知っていても何ら不思議なことではないだろう。
「エナジードレインとでも言うのだろうか。ひなは自分に憑依した霊の力を吸収してしまう能力を持っていた。まだ幼かったあの子は、力を上手く制御できないことがあって、色々と問題も起こしてたんだよ」
俺は話を続けた。
「だから、あの事件もそれが絡んでるんじゃないかと思ってさ」
「しぐるさんは、ひなちゃんを殺した犯人が悪霊だと思っているということですか?」
「うん。あと、サキが何か知ってるらしい。御影・・・長坂さんから聞いたよ」
俺の言葉にゼロは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、直ぐに何かを察して苦笑した。
「あはは、もう知ってたんですか。御影のこと」
「長坂さんを、信じればいいんだよな?」
俺の問いに、ゼロは無言で頷いてから話し始めた。
「あの人は、昔から禁術使いとして有名でした。要注意人物とされてるのは、呪術師連盟の本部がそうしたからです。この前T支部で父さんと話したんですけど、御影、長坂さんはそんなに悪い人ではないです」
そう言ってゼロは苦笑した。
「今度、親父さんと会うって言ってたな」
「はい。この街で起きている異常について話し合うそうです」
ひなのこと、長坂さんのこと・・・今起きている事態と、何か関連があるのだろうか?漠然とそんなことを考えていると、背後から聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
「しぐ~ゼロ~!こんなところで何してんの~?」
「鈴那、どうしてここに?」
駆け寄ってきた彼女に俺が問いかけると、ニッと笑ってからこう言った。
「しぐ、今日起きてから何か変わったことなかった?」
「突飛なことがありまくって思考が追いついてないよ。露も急に俺の呼び方変えるし、なんか街全体でも色々起こってるみたいだし・・・」
俺はそう言ってため息を吐いた。
「サキちゃんからの伝言あるよ~」
疲れて俯き加減の俺に鈴那が言った。
「サキちゃん?誰だそれ」
俺が訊き返すと彼女はクスッと笑った。
「やっぱり気付いてなかったんだ~。しぐの中にいた子だよっ、今朝抜け出したみたいで、しぐが起きてくるまで話してたの」
俺は唖然とした。俺の中にいたあの蛇が抜け出した・・・だから今朝起きたときに身体が軽く感じたのか。
「それで、サキは何て言ってたんだ?今は何処に?」
「サキちゃん、今は露ちゃんとお散歩に行ってるよ~。あ、伝言ね。明日の午後に事務所へ連中集めろーって言ってた。T支部の人で、しぐのこと知ってる人にはみんな集まってほしいみたいなこと言ってたよ」
サキのやつ、俺には何も言わないで勝手なことを・・・。それにしても明日、人を集めろだなんて、大事な話でもするのだろうか?恐らく、あの事を。
「では一応、来れそうな人に僕から連絡入れておきますね」
ゼロがそう言ってスマートフォンを手に持った。
「あぁ、なんか悪いな」
俺がそう言うと鈴那が首を横に振った。
「しぐが謝ることじゃないよ~。あ、露ちゃんにしぐの呼び方変えさせたのもサキちゃんだって~」
「なっ・・・!」
感謝すべきか、どうなのか・・・俺は微妙な気持ちのまま海を見た。さっきまで騒がしく水面を跳ねていた魚たちの姿はもう何処にも無く、ただひたすらに、静かな海が広がっている。僅かに吹く潮風だけが鼓膜を振動させ、ノイズがかかった音声のように心へと響いた。まるで、何かの答えを教えようとするかのように。
作者mahiru
新作です。
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